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島津久治 (垂水家) - Wikipedia コンテンツにスキップ

島津しまつ久治きゅうじ (垂水たるみ)

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島津しまつ久治きゅうじ
時代じだい 江戸えど時代じだい
生誕せいたん 正保まさやす2ねん11月2にち1645ねん12月19にち
死没しぼつ 元禄げんろく5ねん7がつ27にち1692ねん9月7にち
改名かいめい まん千代丸ちよまる幼名ようみょう)→忠紀ただのり
別名べつめい 久憲ひさのり玄蕃げんば美作みさく通称つうしょう
墓所はかしょ 鹿児島かごしまけん垂水たるみ田神たがみ垂水たるみとう津家つげ墓所はかしょこころおう寺跡てらあと
主君しゅくん 島津しまつ光久みつひさ
はん 薩摩さつまはん
氏族しぞく 垂水たるみとう津家つげ
父母ちちはは ちち島津しまつ忠紀ただのり
つま 正室せいしつ:おたつ島津しまつ光久みつひさ次女じじょ)。
養子ようし忠直ただなお
テンプレートを表示ひょうじ

島津しまつ 久治きゅうじ(しまづ ひさはる)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき薩摩さつまはん大隅おおすみぐん垂水たるみ[1]領主りょうしゅ垂水たるみとう津家つげ7だい当主とうしゅ

経歴けいれき

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正保しょうほう2ねん(1645ねん)11月2にち垂水たるみ領主りょうしゅ島津しまつ忠紀ただのりとしてまれる。幼名ようみょうまん千代丸ちよまる正保しょうほう4ねん1647ねん)8がつちち忠紀ただのり死去しきょしたさいには3さい幼児ようじだったが、藩主はんしゅ島津しまつ光久みつひさおいであることから家督かとくゆるされた。

うけたまわおう2ねん1653ねん)、藩主はんしゅ光久みつひさいのちで、垂水たるみとう津家つげ4だい久信ひさのぶ次男じなんひさしあきら遺児いじ忠清ただきよやしなえおとうととして分家ぶんけてさせた。

元禄げんろく年間ねんかん新田にった開発かいはつのため、領内りょうない嫁女よめじょがわ(よめじょがわ)疎水そすいだい規模きぼ工事こうじ開始かいし。また、先祖せんぞ島津しまつただししょう戦死せんしした福山ふくやま馬立うまたてざかちゅうてられた供養くようとう修繕しゅうぜんした。

元禄げんろく5ねん(1692ねん)7がつ27にち死去しきょ享年きょうねん48。

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 垂水たるみだい1かん 垂水たるみ編集へんしゅう委員いいんかい、1973ねん