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島津しまつ忠之ただゆき

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島津しまつ忠之ただゆき
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ えいろく12ねん1569ねん)?
主君しゅくん 赤松あかまつ
氏族しぞく 島津しまつ播磨はりま
父母ちちはは ちち島津しまつ忠長ただなが
つま 山本やまもと大次郎だいじろう村岡むらおかいもうと
義弘よしひろ忠之ただゆき
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島津しまつ 忠之ただゆき(しまづ ただゆき)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう赤松あかまつ家臣かしん播磨はりま島津しまつ16だい当主とうしゅ

生涯しょうがい

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島津しまつ忠長ただなが長男ちょうなん天文てんもん3ねん1534ねん)、ちち忠長ただなが朝日山あさひやま合戦かっせん戦死せんしすると、播磨はりま島津しまつ本領ほんりょうである播磨はりまこく布施ふせきょうした揖保いぼしょうは、一時いちじかけしょとなっていたとかんがえられるが、天文てんもん23ねん1554ねん)12月27にち忠之ただゆき赤松あかまつはれまさし奉行ぶぎょう難波なんば泰興たいこうによって、布施ふせきょうした揖保いぼ地頭じとうしょく返付へんぷされている(『和泉屋いずみやよんろう左衛門さえもん所持しょじ文書ぶんしょ』)。

忠之ただゆきえいろく12ねん1569ねん)に赤松あかまつ政秀まさひで小寺こでらまさししょくとがたたかった青山あおやま合戦かっせん参戦さんせんして討死うちじにしたとつたえられる。また天正てんしょう3ねん1575ねん)に小寺こでらまさししょくたたかって戦死せんしした島津しまつ新九郎しんくろう忠之ただゆきどう一人物いちじんぶつとするせつ存在そんざいするが、そのことを裏付うらづける史料しりょうはない。いずれにせよ、赤松あかまつがわであった新九郎しんくろう小寺こでらぜいたたかい、はいしたものであろう。

稲岡いなおか神社じんじゃ

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青山あおやま合戦かっせんでの戦死せんししゃ相当そうとうかずであったようで、青山あおやま人々ひとびと戦死せんししゃいね岡山おかやまみなみふもと稲岡いなおか神社じんじゃ現在げんざい兵庫ひょうごけん姫路ひめじ)にて、稲岡いなおかだい明神みょうじんとしてまつったという。播磨はりま島津しまつ21だい当主とうしゅ島津しまつ良久よしひさによれば、青山あおやま人々ひとびとは9月15にちまつりを毎年まいとしもよおして、れいなぐさめたという。いね岡山おかやま標高ひょうこう68.3m)は、『播磨はりまこく風土記ふどき』でいうじゅうよんおかのひとつ「いね牟礼むれおか」(いなむれおか)で、古墳こふん時代じだい中期ちゅうき前方後円墳ぜんぽうこうえんふんでもある。稲岡いなおか神社じんじゃは、柿本人麻呂かきのもとのひとまろ滞在たいざいしたことがられている神社じんじゃで、摂社せっしゃ人丸ひとまる神社じんじゃ祭神さいじん柿本人麻呂かきのもとのひとまろこう)がある。