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播磨はりまこく風土記ふどき

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播磨はりまこく風土記ふどき』(はりまのくにふどき)は、奈良なら時代じだい初期しょき編纂へんさんされた播磨はりまこく現在げんざい兵庫ひょうごけん付近ふきん)の風土記ふどきである。平安へいあん時代じだい末期まっき書写しょしゃされた写本しゃほん国宝こくほう指定していされている。

播磨はりまこく

成立せいりつ[編集へんしゅう]

ぞく日本にっぽん』の和銅わどう6ねん713ねん)5がつ2にちじょうにはれいせいこく下記かき事項じこうしるした報告ほうこくしょ提出ていしゅつせよとめいじたことがしるされている。

  • こう(よ)きもちいてぐんさとしる
  • ぎんどう染料せんりょうくさとりししむしなどの物産ぶっさん
  • 土地とち肥沃ひよく
  • やまかわはらなどの地名ちめい由来ゆらい
  • 古老ころう伝承でんしょうされている旧聞きゅうぶん異事ことごと

このような国情こくじょうしるした報告ほうこくしょかい)が「風土記ふどき」とばれるようになる。かいでは冒頭ぼうとうなどに特定とくてい書式しょしきがあるが、『播磨はりまこく風土記ふどき』には欠損けっそんがあり、それは確認かくにんされていない。ただし、「前述ぜんじゅつかい同様どうようである」といった意味いみ一文いちぶんがあり、かいとしてかれたものであることがわかる。

播磨はりまこく風土記ふどき』の成立せいりつ年代ねんだいかんする史料しりょうのこされていないが、れいかめ元年がんねん715ねん)あるいはれいかめ3ねん717ねん)に地方ちほう行政ぎょうせい組織そしきくにぐんさとからくにぐんさとさととなったこと(古代こだい日本にっぽん地方ちほう官制かんせい#きょうしょく)、『播磨はりまこく風土記ふどき』ではくにぐんさともちいられていることかられいかめ元年がんねん前後ぜんこう成立せいりつしたものとられている。あえてかつての表記ひょうき使つかわれたともかんがえられるが、名称めいしょう表記ひょうきにはらぎがあるなかで、さとさとのみ例外れいがいなくかつての表記ひょうき統一とういつされた可能かのうせいひくいとされる。編纂へんさんおこなわれた期間きかん和銅わどう6ねん(713ねん)かられいかめ元年がんねん(715ねんごろまでとなり、その当時とうじ国司こくしであった巨勢こせ邑治大石おおいしおう石川いしかわ君子きみこだいであったらくなみ河内かわちなどがたずさわったのではないかとかんがえられている。

つてほん[編集へんしゅう]

播磨はりまこく風土記ふどき』のつてほんは、三条西さんじょうにし所蔵しょぞうしていた平安へいあん時代じだい末期まっき写本しゃほん三条西さんじょうにしほん」のみである。この写本しゃほん国宝こくほう指定していされており、現在げんざい天理大学てんりだいがく附属ふぞく天理てんり図書館としょかん所蔵しょぞうしている。写本しゃほんはなく、また、三条西さんじょうにしほんつね存在そんざいられているものではなかったため、『播磨はりまこく風土記ふどき』は一部いちぶ逸文いつぶんとしてられているのみであった。寛政かんせい8ねん1796ねん)に柳原やなぎはら紀光のりみつによってつてほん書写しょしゃされたことをきっかけに、谷森たにもりよししん三条西さんじょうにし所蔵しょぞうであることを確認かくにんよしみひさし5ねん1852ねん)になって書写しょしゃしたことでられるようになった。明治めいじころから本格ほんかくてき研究けんきゅうはじめられるようになり、栗田くりたひろししめぎ註古風土記ふどき』、敷田しきだ年治としはるしめぎ註播すり風土記ふどき』、井上いのうえ通泰みちやす播磨はりま風土記ふどきしんこう』などが出版しゅっぱんされた。

播磨はりまこく風土記ふどき』は写本しゃほんのこされているいつつの風土記ふどきのうちのひとつであるが、『出雲いずもこく風土記ふどき』のように完本かんぽんちかかたちのこされているわけではない。播磨はりまこく総説そうせつ明石あかしぐん全体ぜんたい加古かこぐん冒頭ぼうとう赤穂あこうぐん全体ぜんたい欠落けつらくしている。かくぐんをおおむね南東なんとうから南西なんせい北西ほくせいから北東ほくとうといったじゅん記載きさいしており、播磨はりまこく総説そうせつ明石あかしぐん全体ぜんたい加古かこぐん冒頭ぼうとう巻首かんしゅにあり、欠損けっそんしたものとかんがえられている。明石あかしぐんかんしては『しゃく日本にっぽん』に逸文いつぶんのこされていること(はやとり参照さんしょう)などから、記載きさいされていたことは確実視かくじつしされているが、赤穂あこうぐんかんしては手掛てがかりがのこされていない。欠損けっそん脱落だつらくがあった、あるいは現存げんそんする『播磨はりまこく風土記ふどき』の底本ていほん稿本こうほんであったために記載きさいされていなかった、など様々さまざまかんがえられている。このほか印南いなみぐんいき記事きじはあるもののぐんめい記載きさいがない。元々もともとぐんめいしるされていたが脱落だつらくしたとするかんがえと、印南いなみぐん成立せいりつ風土記ふどきよりも時代じだいで、賀古かこぐんいち地域ちいきとしての印南いなみうらとしてかれたとするかんがえがある。

赤穂あこうぐん記事きじいこと、飾磨しかまぐん記事きじなどの一部いちぶみだれがあることなどを根拠こんきょとして、現存げんそんする『播磨はりまこく風土記ふどき』の底本ていほんは、くにちょうでの最終さいしゅうてき手入ていれがされるぜん段階だんかいのものであったとられている。このせつされた当初とうしょ全体ぜんたい整理せいりであるというものであったが、現在げんざい追加ついか記事きじ整理せいり段階だんかいであろうという見方みかた主流しゅりゅうとなっている。これらへの異論いろんとしては、現在げんざい編纂へんさん当時とうじでは認識にんしきちがうとして、当時とうじひとつの完成かんせいされた記述きじゅつ方法ほうほう現在げんざい感覚かんかく完成かんせいとらえてしまっているのではないかというものがある。『播磨はりまこく風土記ふどき』では、意図いとてき改変かいへん形跡けいせき風土記ふどきくらべてすくないため、在地ざいち伝承でんしょう比較的ひかくてきそのままのこされているとかんがえられている。文体ぶんたいが『古事記こじき』のような和文わぶんてき漢文かんぶんであることや、稿本こうほんされる要因よういんなどから、この風土記ふどき特徴とくちょうとして素朴そぼくさがげられることがおおい。漢籍かんせきてき要素ようそられる『常陸ひたちこく風土記ふどき』とは対照たいしょうてきである。

播磨はりまこく風土記ふどき』には「大神おおがみ粮(みかれい)沾(ぬ)れて かびえき すなわちさけかもさしめて にわしゅ(にわき)をまつりてうたげ(うたげ)しき」との記載きさいがある。「かみそなえたかてれて、かびがえた。すなわちさけかもさしむ」ことがしるされているため、こめ原料げんりょうとした日本にっぽん最古さいこ日本酒にほんしゅかんする記述きじゅつとされている。

かんいのちとの対応たいおう[編集へんしゅう]

かんいのちまれた5つの課題かだいのうち、『播磨はりまこく風土記ふどき』が忠実ちゅうじつこたえているとされるのは、土地とち肥沃ひよくさと地名ちめい由来ゆらい土地とち伝承でんしょうしるすことである。おおまかな構成こうせいぐんめいぐんめい由来ゆらい里名さとみょうさと土地とち肥沃ひよくさ、里名さとみょう由来ゆらいさとにあるむらやまかわなどの名称めいしょう、その名称めいしょう由来ゆらいつぎ里名さとみょう、…となっている。いくつかのさとでは特筆とくひつすべき産物さんぶつなどが記載きさいされ、地名ちめい変更へんこうなんれいかれている。産物さんぶつ改名かいめいかんしては『出雲いずもこく風土記ふどき』とくらべると記述きじゅつりょうすくない。

朝廷ちょうてい税制ぜいせい参考さんこうにするために土地とち肥沃ひよくさを課題かだいんだとかんがえられている。おさめるがわとしては慎重しんちょう対応たいおうせざるをず、他国たこく風土記ふどきでは詳細しょうさい報告ほうこくけている。一方いっぽう、『播磨はりまこく風土記ふどき』ではかなり詳細しょうさいしるしており、上中かみなかもちいてうえうえからしたしたまでの9段階だんかいでほとんどのさと評価ひょうかしている。ただし、うえうえ該当がいとうするさとはなく、他国たこく風土記ふどきでは詳細しょうさい報告ほうこくけられたのにたいして、とう風土記ふどきでは詳細しょうさいしるすものの1段階だんかいげてかれた可能かのうせいがある。

この評価ひょうかかんして、1885ねん明治めいじ18ねん)のぐん単位たんいべいはんとう収量しゅうりょう比較ひかくすると、一部いちぶのぞいて対応たいおう関係かんけいがあるという研究けんきゅうがある。例外れいがいとなったのは加古かこぐん佐用さようぐんで、風土記ふどきでは加古かこぐんひく評価ひょうか佐用さようぐんたか評価ひょうかとなっていた。加古かこぐんためいけおおつくられ明治めいじには収量しゅうりょう大幅おおはば増加ぞうかし、評価ひょうかひらきがたとかんがえられている。収量しゅうりょうによる評価ひょうかであったとすると佐用さようぐんについては説明せつめいがつかない。

上記じょうきまえ、その土地とちつくられるべい美味うまいかどうかというような総合そうごうてき評価ひょうかではないかとの研究けんきゅうもある。具体ぐたいてきには美味うまこめつくすための地形ちけいてき水利すいりてき条件じょうけんさとごと考察こうさつしたものである。この研究けんきゅうでは、評価ひょうかたか場所ばしょ粘性ねんせいでかつ水利すいり土地とちかんがえ、ひくいものとして水害すいがいみずはけのわる土地とちなどをかんがえている。この評価ひょうか一致いっちられ、収量しゅうりょうでは説明せつめいのつかなかった佐用さようぐんさとたか評価ひょうかになるとされる。ただし、播磨はりまこくさい西部せいぶ位置いちしている佐用さようぐんでは地域ちいきとの隔絶かくぜつせい評価ひょうかたかくさせた部分ぶぶんもあるとかんがえられている。

地名ちめい由来ゆらい土地とち伝承でんしょう本文ほんぶん中心ちゅうしんとなっていることは、他国たこく風土記ふどきとも共通きょうつうする特徴とくちょうで、かんいのちうところの、やまかわはらなどの地名ちめい由来ゆらい古老ころう伝承でんしょうされている旧聞きゅうぶん異事ことごとの2つの項目こうもくにあたる。両者りょうしゃ厳密げんみつ区別くべつく、神話しんわなどの土地とち伝承でんしょうなにがしかの地名ちめい関連付かんれんづけられている。

地名ちめい記事きじについて[編集へんしゅう]

風土記ふどきしるされた播磨はりま国内こくない地名ちめいは360れい以上いじょうおよぶ。しるされているのはぐんさとむらやまかわはらほかはかしゃなどである。このうちさとは81れいあり、さとかずもっとおおいのは揖保いぼぐんの18である。1さと人口じんこうやく1,000にん推定すいていされており、揖保いぼぐん人口じんこうやく18,000にんであったことになる。明石あかしぐん赤穂あこうぐん記載きさいいため、風土記ふどき編纂へんさん当時とうじ播磨はりまこく全体ぜんたい里数りすう不明ふめいであるが、『倭名わみょう類聚るいじゅうしょう』から仮定かていすると95里程りていになり、人口じんこうやく100,000にんとなる。

地名ちめい由来ゆらいしるした記事きじには、○○なため□□とばれるようになったというような簡潔かんけつなものから、時代じだい指定していされ、主人公しゅじんこう登場とうじょうし、主格しゅかくてきなにかをなすというような説話せつわてきなもの、それらがつらなってひとつの説話せつわ形成けいせいしているものまで様々さまざまである。

記事きじにおいて人名じんめいなどがしるされるのは、主格しゅかくとなる場合ばあい年代ねんだい指定していするための場合ばあいがあり、とう風土記ふどきにおいては、かみ天皇てんのう皇族こうぞくふくむ)、ひと説話せつわ主格しゅかくとしてしるされている。このうち、かみ天皇てんのう主格しゅかくてきかかわった地名ちめい由来ゆらい記事きじは、この土地とち由緒ゆいしょのある土地とちだと主張しゅちょうする意図いとをもって収録しゅうろくされたとかんがえられている。風土記ふどきでは『出雲いずもこく風土記ふどき』はかみかんする説話せつわ、『常陸ひたちこく風土記ふどき』・『肥前ひぜんこく風土記ふどき』・『豊後ぶんごこく風土記ふどき』では天皇てんのうなどの人間にんげんかんする説話せつわおお収録しゅうろくしており、播磨はりまこく風土記ふどき両者りょうしゃ折衷せっちゅうといえる。

かみかかわる地名ちめい記事きじでは、かみがその土地とちにいること自体じたい由来ゆらいになったもの、かみがその土地とちなにかをなす、たとえば、なにかをう、ものとす、かみ土地とち占有せんゆうあらそう、こうぶるかみとしてひといのちうばうというようなものが収録しゅうろくされ、それらにちなんだ地名ちめいであると説明せつめいしている。登場とうじょうするかみ伊和いわ大神だいじんなど在地ざいちかみおおられる。天皇てんのう権威けんいある存在そんざいとしてかみおなじようなえがかれかたをするが、天皇てんのう基本きほんてき播磨はりまおとずれた巡行じゅんこうからだである。巡行じゅんこうさいなにかをう、ものとす、国見くにみをする、りをする、といった内容ないようである。かみ説話せつわ天皇てんのう説話せつわには共通きょうつうてんがあり、天皇てんのうかんする説話せつわなかには巡行じゅんこうするかみ伝承でんしょうから変化へんかしたものもあるとかんがえられている。

説話せつわ内容ないようには地域ちいきてきかたよりがられ、おおまかに播磨はりま南東なんとうでは天皇てんのうしるされている記事きじ割合わりあいたかく、北西ほくせいではかみしるされている記事きじ割合わりあいたか傾向けいこうがある。畿内きないちか南東なんとうではヤマト王権おうけんたいする関心かんしんたかかったであろうこと、つよ影響えいきょう発展はってんしたことなどが背景はいけいとしてかんがえられており、北西ほくせいにおいては朝廷ちょうてい権威けんいよりも播磨はりま独自どくじせいおもきを意識いしきがあったのであろうとかんがえられている。

上記じょうきのような内容ないようくわえ、記述きじゅつ形式けいしきにも若干じゃっかん地域ちいきてきられる。これらの差異さいから、風土記ふどきにおけるかくぐんは、賀古かこ印南いなみ美嚢みのう飾磨しかま神前しんぜんたく揖保いぼさんよう・宍禾のみっつのグループに分類ぶんるいされる。このさん地域ちいきまれた要因よういんとしてふたつのせつがある。ひとつはれいせいこくとしての播磨はりまこく成立せいりつする以前いぜんの、明石あかしこくはり間鴨あいがもこくはりあいだこくかく国造くにのみやつこ勢力せいりょくけん関係かんけいしているのではないかというもので、その勢力せいりょくけん影響えいきょう風土記ふどき編纂へんさんさいあつめられた伝承でんしょう資料しりょうのこっていたのではないかとかんがえている。もうひとつのせつは、採集さいしゅうされた伝承でんしょう資料しりょう原因げんいんがあるのではなく、編纂へんさんするがわ事情じじょうであろうというものである。加古川かこがわ市川いちかわ揖保川いぼがわ千種川ちくさがわかく水系すいけい街道かいどうなどでつながった関連かんれんせいつよ地域ちいきごと編集へんしゅうしゃ分担ぶんたんし、りまとめた結果けっかまれたであるとかんがえるものである。

一般いっぱんてき人物じんぶつ登場とうじょうするものとしては、役人やくにんかかわった記事きじひと集団しゅうだん移住いじゅうかんする記事きじ収録しゅうろくされている。移住いじゅう交流こうりゅう記事きじ比較的ひかくてきおおいことも『播磨はりまこく風土記ふどき』の特徴とくちょうひとつとされ、播磨はりま国内こくない地域ちいき周辺しゅうへん諸国しょこくからの移住いじゅうかんする記事きじ朝鮮半島ちょうせんはんとうからの記事きじもある。渡来とらいかんする記述きじゅつのほとんどは揖保いぼぐん飾磨しかまぐん記事きじであり、播磨はりまこくでの渡来とらいけい遺跡いせき出土しゅつどぶつおおくがこのぐん中心ちゅうしんとした瀬戸内海せとないかい沿岸えんがん地域ちいきられることと傾向けいこうとして一致いっちしている。ただし、具体ぐたいてきさと単位たんいでの一致いっちはあまりられていない。朝鮮半島ちょうせんはんとう関連かんれんえば、渡来とらいしんとしてえがかれる天日てんじつぼこいのちかんする説話せつわ渡来とらいじん象徴しょうちょうてきかたるものとされる。事実じじつとしてではなく神話しんわとしてかたっているのは、年月としつきてその集団しゅうだん播磨はりまへの土着どちゃくせいまれたためであるとかんがえられている。

おも説話せつわ[編集へんしゅう]

だいおび日子にっしいのちけいぎょう天皇てんのう)と印南いなみべつじょう播磨はりまいね日大にちだいろうひめ
はち咫剣・はち咫勾・麻布あざぶきょう正装せいそうしただいおび日子にっしいのち印南いなみべつじょうつまいに明石あかしぐんまでやってきたが、それをいた印南いなみべつじょうおどろいてみなみ毘都麻島あさじまかくれてしまった。賀古かこ松原まつばらべつじょうさがしていると、うみかってえているいぬつけた。そのいぬべつじょういぬであることをり、天皇てんのううみわたった。つまがなびた(かくれた)しまであるのでみなみ毘都麻島あさじま(なびつまのしま)とばれるようになった。べつじょううことができた天皇てんのう求婚きゅうこんし、夫婦ふうふとなった。
年月としつきぎ、べつじょうくなって日岡ひおかほうむられることになった。遺骸いがいふね印南いなみがわ加古川かこがわ)をわたらせていると突風とっぷう遺骸いがいかわなかながされてしまった。遺骸いがいさがしたがつからず、つかった遺品いひんくしげ・褶を埋葬まいそうはかとしたため、比礼ひれい日岡ひおかりょう)とばれるようになった。天皇てんのうかなしみ、「このかわものべない」とった。これにより、このかわあゆにえとしてされなくなった。
  • 求婚きゅうこんされた女性じょせいかくれる風習ふうしゅう習俗しゅうぞくがあった。『出雲いずもこく風土記ふどき出雲いずもぐん宇賀うがきょう神話しんわ同様どうようとされる。
だいなんじいのちだい国主こくしゅ)とあかりいのち天火てんかあかりいのち
だいなんじいのちであるあかりいのち乱暴らんぼうしゃであった。そのことをうれいただいなんじいのちりにすることをかんがえた。いんたち神山かみやままでたところで、あかりいのちみずみにかせ、そのあいだふねしてだいなんじいのちげてしまった。りにされたことがわかったあかりいのちいかくるって波風なみかぜたせ、だいなんじいのちふね転覆てんぷくさせてしまった。ふねなみふねからちた積荷つみににちなみじゅうよんおか名前なまえけられた。
葦原よしわらこころざしもと乎命(だい国主こくしゅ)・伊和いわ大神だいじん大神おおがみ天日てんじつやりいのちアメノヒボコ
渡来とらいしんである天日てんじつやりいのち宇頭うとうがわ揖保川いぼがわ)にやってきた。土着どちゃくかみである葦原よしわらこころざしもと乎命に「宿やどるところはないか」とたずねたところ、こころざしもと海中かいちゅう許可きょかした。するとにちやりけん海水かいすいをかきぜていきおいをせ、そこに宿やどった。にちやりいきおいに危機ききかんじたこころざしもとは、さきくにめをしようとかわをさかのぼっていった。このときおかうえ食事しょくじをしたが、このときべいつぶとしたため、つぶおかばれるようになった。…
葦原よしわらこころざしもと乎命と天日てんじつやりいのちやまからおたがい3ほんかずらげた。こころざしもとの1ほん宍粟しさわぐん御方おかたち、のこり2ほん但馬たじまおおぐん養父やぶぐんちた。にちやりは3ほんとも但馬たじまちたため、但馬たじま出石いずしむことになった。
  • 播磨はりまくにめするかみ天日てんじつやりいのちあらそ土着どちゃくかみとして葦原よしわらこころざしもと乎命・伊和いわ大神だいじん大神おおがみしるされているが、どうかみべつしんかについて諸説しょせつある。
  • かみ天皇てんのうものとす(上記じょうきのように意識いしきてきとすれいすくない)記事きじは、としたところがそのかみ天皇てんのう)にかんする勢力せいりょく土地とちであることをあらわす。この説話せつわにはうけいめんもある。
だいなんじいのちだい国主こくしゅ)としょうあまいのちスクナビコナ
だいなんじいのちしょうあまいのちとのあいだで「粘土ねんどかついでくのとくそ我慢がまんしてく、どちらがさきけるか」というはなしになった。だいなんじいのちくそ我慢がまんしてき、しょうあまいのち粘土ねんどかついでいくこととなった。数日すうじつだいなんじいのちは「わたし我慢がまんできない」とそのようしてしまった。しょうあまいのちわらいながら「つかれた」と粘土ねんど(ハニ)をおかほうした。このためハニおかばれるようになった。また、だいなんじいのちようしたときに、ささくそげてふくについてしまった。このためなみむら(はじかのむら)とばれるようになった。この粘土ねんどくそいしとなっていまもあるという。
大人おとな
むかし大人おとながいて、つねにかがんであるいていた。色々いろいろなところをめぐってこの土地とち多可たかぐん)にき、「土地とちひくいからずっとかがんであるいていたけど、ここは土地とちたかいから背筋せすじばしてける。たかいなぁ。」とった。このため多可たかぐんわれる。大人おとな足跡あしあとおおくのぬまになった。
めいしゅ
荒田あらだむらみちぬしおんないのちというかみがいたが、父親ちちおやのいないんだ。めいしゅうけい)をすることになり、7まちつくり、7にち7いねそだった。すぐに醸造じょうぞうしてさけつくり、しょかみあつめた。そのかみ々のなかから天目てんもく一命いちめいさけそそいだため、ちちであることがわかった。いねつくったのちれ、荒田あらたばれるようになった。
  • さけによるうけいの説話せつわ、『山城やましろこく風土記ふどき逸文いつぶんにもちちのわからない賀茂かもべつかみなりいのち)にさけそそがせようとする説話せつわがある。
奚(仁賢天皇にんけんてんのう)と袁奚(顕宗けんそう天皇てんのう
奚と袁奚のちちである市辺いちのべ天皇てんのう市辺いちのべ押磐皇子おうじ)が近江おうみこくの摧綿ころされた。このとき、2人ふたり日下くさか部連ぶれんれて美嚢みのうぐんこころざしふかさとにある岩室いわむろかくれた。のち日下くさか部連ぶれんつみおもさから、うまはなし、荷物にもつはらって自殺じさつしてしまった。奚と袁奚はあちこち転々てんてんとしたが、志染しじみむらくびとういえつかえることになった。とうもよおしたうたげおとうとの袁奚がうたうたい、歌詞かしでその正体しょうたいかした。このことが播磨はりまこく山門やまかどりょう山部やまべれんしょうだてらされた。しょうだて2人ふたりははである白髪はくはついのち心配しんぱいしていることをつたえた。のぼったしょうだてがこれを報告ほうこくし、2人ふたり皇子おうじむかれられた。奚と袁奚はふたたびこのおとずれたおり、みやたむろくら造営ぞうえいした。
このみやにいるころ2人ふたり皇子おうじ国造くにのみやつこもとあさはり間鴨あいがも国造くにのみやつこ)のむすめおんないのち求婚きゅうこんした。おんないのちはこれにおうじたが、奚と袁奚はゆずったためはなしがまとまらなかった。しばらくしておんないのちくなった。2人ふたり皇子おうじおおいにかなしみ、「朝夕ちょうせきにちひかりがさすに、はかつく埋葬まいそうしよう。たまはかかざるように。」としょうだて指示しじした。はか玉丘たまおか玉丘たまおか古墳こふんぐん)、むら玉野たまのばれるようになった。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • おきもり卓也たくや佐藤さとうしん矢嶋やじまいずみ編著へんちょ播磨はりまこく風土記ふどき山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ
  • 八木やぎあつし風土記ふどき上代じょうだい説話せつわ研究けんきゅう和泉いずみ書院しょいん
  • 秋本あきもと吉郎よしろう日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけい2 風土記ふどき岩波書店いわなみしょてん
  • うえかき節也せつや新編しんぺん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう5 風土記ふどき小学館しょうがくかん
  • ひつほんまこといちへん風土記ふどき考古学こうこがく2 播磨はりまこく風土記ふどきまきどうなりしゃ
    • 塚口つかぐち義信よしのぶ 「『播磨はりまこく風土記ふどき』の成立せいりつ」「文献ぶんけん解題かいだい
    • 田中たなか信吾しんご松下まつしたまり風土記ふどき時代じだい自然しぜん環境かんきょう
    • 岸本きしもと一宏かずひろ 「『播磨はりまこく風土記ふどき』と渡来とらい文化ぶんか
  • うえかき節也せつや橋本はしもと雅之まさゆきへん風土記ふどきまなひとのために』 世界せかい思想しそうしゃ
  • 福島ふくしま好和よしかず 「『播磨はりまこく風土記ふどき』の世界せかい古代こだい交通こうつう」『街道かいどう日本にっぽん39 播州ばんしゅう山陽さんようどう吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  • さかこうわたる編著へんちょ風土記ふどきからみる古代こだい播磨はりま神戸こうべ新聞しんぶん総合そうごう出版しゅっぱんセンター
    • 今津いまづ勝紀かつのりさと人口じんこう
    • さかこうわたる播磨はりまこく風土記ふどきのあらまし」

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]