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島津久健 (日置家) - Wikipedia コンテンツにスキップ

島津しまつひさけん (日置ひおき)

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島津しまつひさけん
時代じだい 江戸えど時代じだい
生誕せいたん 寛文ひろふみ12ねん10月2にち1672ねん11月21にち
死没しぼつ とおる12ねん6月23にち1727ねん8がつ10日とおか
改名かいめい ちょう千代ちよ幼名ようみょう)→ひさけん
別名べつめい 左衛門さえもん通称つうしょう
かみごう 神気しんき吹根別命べつめい
墓所はかしょ 鹿児島かごしまけん日置ひおき日吉ひよしまち日置ひおき日置ひおきとう津家つげ菩提寺ぼだいじ(吉富よしとみさん大乗寺だいじょうじあと)
主君しゅくん 島津しまつ光久みつひさつなとうとよしたか
はん 薩摩さつまこく薩摩さつまはん
氏族しぞく 島津しまつ
父母ちちはは ちち島津しまつただしちくはは:於虎(島津しまつ光久みつひさむすめ
兄弟きょうだい ひさしけんとしせい赤山あかやまひさたつ山岡やまおかひさえい
ひさりんひさしょ
テンプレートを表示ひょうじ

島津しまつ ひさけん(しまづ ひさたけ)は、薩摩さつまこく薩摩さつまはん家老がろう日置ひおきとう津家つげだい7だい

家系かけい

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日置ひおき島津しまつは、島津しまつ宗家そうけ15だい当主とうしゅ島津しまつ貴久たかひさ三男さんなん島津しまつとしひさしはじまり、2だい常久つねひさ以降いこう薩摩さつまこく日置ひおきげん鹿児島かごしまけん日置ひおき日吉ひよしまち日置ひおき)をりょうした。明治めいじ33ねん1900ねん)に島津しまつ久明ひさあき男爵だんしゃくじょされ華族かぞくとなった。

略歴りゃくれき

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寛文ひろふみ12ねん(1672ねん)10がつ2にち薩摩さつまはん日置ひおき領主りょうしゅ島津しまつ忠興ただおきちゅうちく長男ちょうなんとしてまれる。[1]はは藩主はんしゅ島津しまつ光久みつひさむすめ於虎。幼名ようみょうちょう千代ちよ

のべたから8ねん1680ねん)2がつ1にち鹿児島かごしまじょう登城とじょうして元服げんぷく藩主はんしゅ島津しまつ光久みつひさわって世子せいしつなとうと烏帽子えぼしおやとなり、理髪りはつやく国老こくろう島津しまつ久輝ひさてるつとめた。[1]

宝永ほうえい元年がんねん1704ねん)2がつ参勤交代さんきんこうたい江戸えど出府しゅっぷする藩主はんしゅよしたかだい身分みぶんかくとして随行ずいこうし、藩主はんしゅかさねふう御礼おれいのために江戸城えどじょう登城とじょうするよしたかきょうをして、将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし拝謁はいえつした。

正徳まさのり元年がんねん1711ねん)10がつ宮之城みやのじょう島津しまつ久方ひさかた都城みやこのじょう島津しまつひさりゅうともに「大身たいしんぶん」と呼称こしょうされとく年頭ねんとう八朔はっさくしきれいどくれいゆるされた。[2]

正徳しょうとく2ねん1712ねん)3がつ将軍家しょうぐんけより薩摩さつまこく印章いんしょうたまわったことへのしゃ使めいじられて江戸えど出府しゅっぷした。

正徳しょうとく2ねん(1712ねん)6がつ9にちちちちゅうちく隠居いんきょにより家督かとく相続そうぞくした。正徳しょうとく3ねん1713ねんはんより日置ひおき次男じなんにはいみなに「ひさ」の使用しようゆるされ、三男さんなん以下いかは「ただし」や「ひさ」のけ「とし」の使用しようするようめいじられた。[1]

とおる9ねん1724ねん)8がつ5にち知行ちぎょうらん郷西ごうにし別府べっぷむらとおいので、伊集院いじゅういんさと飯牟礼いいむれむら公田くでんとの領地りょうちがえはんねがゆるされた。[3]

とおる12ねん(1727ねん)6がつ23にち死去しきょ家督かとく嫡男ちゃくなんひさりん相続そうぞくした。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 島津しまつ系譜けいふ
  2. ^ 鹿児島かごしまけん だい2かん
  3. ^ 松元まつもとまち郷土きょうど

参考さんこう文献ぶんけん

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