(Translated by https://www.hiragana.jp/)
伊作久義 - Wikipedia コンテンツにスキップ

伊作いさく久義ひさよし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊作いさく 久義ひさよし
時代じだい 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ おうひさし29ねん1がつ29にち1422ねん2がつ20日はつか
改名かいめい 犬若いぬわかまる幼名ようみょう)→久義ひさよし
官位かんい 大隅おおすみもり
氏族しぞく 伊作いさく
父母ちちはは ちち伊作いさく親忠ちかただ
兄弟きょうだい 久義ひさよしひさおや西にしおやひさし久幸ひさゆき久次きゅうじじゅうちゅう
ひさしゅう
つま 島津しまつ元久もとひさむすめ
勝久かつひさ
テンプレートを表示ひょうじ

伊作いさく 久義ひさよし(いざく ひさよし)は、室町むろまち時代ときよ武将ぶしょう薩摩さつまこく島津しまつ分家ぶんけ伊作いさく4だい当主とうしゅ

建徳けんとく2ねん1371ねん)、ちち伊作いさく親忠ちかただより所領しょりょうぐ。おうひさし2ねん1395ねん)、今川いまがわ了俊りょうしゅん九州きゅうしゅう探題たんだいとしての任務にんむ駿河するがこく守護しゅごとなり任地にんちおもむくが、そのさい島津しまつ討伐とうばつ書状しょじょうはっす。これにおうじた薩摩さつま北部ほくぶ渋谷しぶや決起けっきすると、島津しまつはじめとも征伐せいばつ参加さんか渋谷しぶや撃退げきたいしたが、島津しまつ宗家そうけ内部ないぶでは7だい当主とうしゅ島津伊久しまづこれひさと、奥州おうしゅう2だいで、当時とうじひさから家督かとくゆずられていたかたち島津しまつ元久もとひさ対立たいりつまれていた。

おうなが4ねん1397ねん)、久義ひさよし宿怨しゅくえんのあった加世田かせだ別府べっぷじょうおも別府べっぷちゅうしゅ攻撃こうげきするも、島津しまつ宗家そうけ仲裁ちゅうさいにより撤兵てっぺいおうなが6ねん1399ねん)、もとひさから別府べっぷ所領しょりょうあたえるという書状しょじょうり、翌年よくねんひさからはおもねおお田布施たぶせ支配しはいする二階堂にかいどう所領しょりょうあたえるという書状しょじょうった。おうなが11ねん1404ねん)、久義ひさよし二階堂にかいどう攻撃こうげきするが、ひさ攻撃こうげき非難ひなん二階堂にかいどう援軍えんぐんおくる。おうなが13ねん1406ねん)、これにたい元久もとひさ久義ひさよし援護えんご二階堂にかいどうしろ敗走はいそう田布施たぶせ久義ひさよし領地りょうちとなった。

おうなが18ねん1411ねん)、もとひさ死去しきょもとひさおとうとひさしゆたかもとひさ寵臣ちょうしん島津しまつ庶流の伊集院いじゅういんよりゆきひさあいだあらそいがこると、久義ひさよし伊集院いじゅういん加担かたんひさゆたかやぶ鹿児島かごしまから逃亡とうぼうする(伊集院いじゅういんよりゆきひさらん)。おうなが21ねん1414ねん)、よりゆきひさ鹿児島かごしま侵攻しんこうするも敗退はいたいぎゃくひさゆたか伊集院いじゅういん一族いちぞく支配しはいするきゅうはじむ侵攻しんこう久義ひさよしそうしゅう島津しまつ久世くぜとも援護えんごかいひさしゆたかやぶるものの、相良さがら援軍えんぐんひさしゆたかにより敗退はいたいする。

その久義ひさよしあといだ勝久かつひさひさゆたか面会めんかい非礼ひれいびたため、島津しまつ宗家そうけ伊作いさく和解わかいいたる。しかしひさゆたか伊作いさくのことを完全かんぜんゆるしたわけではなく、久義ひさよしおとうとじゅうちゅう伊作いさく家督かとくねらっていることをるとこれを黙認もくにんおうなが29ねん(1422ねん)、家督かとくねら挙兵きょへいしたじゅうちゅうによって久義ひさよし殺害さつがいされた。