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よし騒動そうどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

よし騒動そうどう(おゆらそうどう)は、江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ)に薩摩さつまはん鹿児島かごしまはん)でこったいえ騒動そうどう別名べつめい高崎たかさきくずよしみなが朋党ほうとう事件じけん藩主はんしゅ島津しまつひとしきょう後継こうけいしゃとして側室そくしつ島津しまつ久光ひさみつ藩主はんしゅにしようとする一派いっぱ嫡子ちゃくし島津しまつ斉彬なりあきら藩主はんしゅかさねふうねが家臣かしん対立たいりつによってこされた。

背景はいけい

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事件じけん名前なまえになったよしほうは、江戸えどまちむすめ三田みた八百屋やおや舟宿ふなやど大工だいくなど多数たすうせつがある)から島津しまつひとしきょう側室そくしつとなった人物じんぶつである。彼女かのじょ息子むすこ久光ひさみつ藩主はんしゅかさねはかり、正室せいしつ出生しゅっしょう斉彬なりあきら廃嫡はいちゃく目論もくろんだことが事件じけん原因げんいんとされる。

しかし、これはおよしのぞんだだけのことではなく、祖父そふ重豪しげひで影響えいきょうつよ斉彬なりあきらきらっていたひとしきょう家老がろう調しらべしょ広郷ひろさとなど重臣じゅうしんたちのほうが、久光ひさみつ後継こうけいしゃにとのぞんでいたとされる。かれ久光ひさみつ擁立ようりつは、重豪しげひで同様どうようの「らんへき大名だいみょう」とられていた斉彬なりあきらが、このころようやく黒字くろじした薩摩さつまはん財政ざいせいをふたたび悪化あっかさせるのではとおそれていたのである。

それにたいし、斉彬なりあきら早期そうき家督かとく相続そうぞく希望きぼうしていた勢力せいりょくもある。壮年そうねん斉彬なりあきらにいつまでっても家督かとく相続そうぞくせず倹約けんやくばかりをいるひとしきょう反発はんぱつかんじる若手わかて下級かきゅう武士ぶしや、斉彬なりあきらたか評価ひょうかする老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろである。琉球りゅうきゅう実効じっこう支配しはいし、外洋がいようにもめんしていた薩摩さつまはんは、この当時とうじ多発たはつしていた外国がいこくせん漂着ひょうちゃく襲来しゅうらい事件じけんまれることが多々たたあった。このため、西洋せいよう事情じじょううとひとしきょうより、海外かいがい事情じじょうあかるい斉彬なりあきら藩主はんしゅかさねふうのぞまれたのである。

発端ほったん

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調しらべしょ失脚しっきゃく

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久光ひさみつ文化ぶんか14ねん1817ねんまれで、文政ぶんせい元年がんねん1818ねん)にちちひとしきょうのごりしで種子島たねがしま養子ようしとなった[注釈ちゅうしゃく 1]文政ぶんせい8ねん1825ねん)にひとしきょう心変こころがわり[注釈ちゅうしゃく 2]により種子島たねがしまとの養子ようし縁組えんぐみ解消かいしょうし、島津しまつ一門いちもん筆頭ひっとう重富しげとみとう津家つげ養子ようしはいることとなった。ぞくではあるが家老がろうどまりの種子島たねがしまたいし、重富しげとみ養子ようしともなれば次期じき藩主はんしゅ地位ちいねらえる立場たちばとなる[注釈ちゅうしゃく 3]一方いっぽうひとしきょう嫡子ちゃくしである斉彬なりあきらたいして家督かとくゆずらなかった。これは斉彬なりあきらがすでに将軍家しょうぐんけへの目見まみ終了しゅうりょうし、将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりおとうとさんきょういちきょう当主とうしゅ一橋ひとつばしひとしあつしむすめであるえいひめ正室せいしつとしていたこともあり廃嫡はいちゃく不可能ふかのうとわかり、どうしても斉彬なりあきらあとがせたくないため、藩主はんしゅ居座いすわつづけたものとおもわれる。

その結果けっか斉彬なりあきら島津しまつ本家ほんけ世子せいしという立場たちばのまま40さいとなったが、このころには嫡子ちゃくし元服げんぷくすれば早々そうそう藩主はんしゅゆずって隠居いんきょするのが慣習かんしゅうであり、この事態じたい異常いじょうであった。当時とうじ藩政はんせい下級かきゅう藩士はんし出身しゅっしんでありながらひとしきょう重用じゅうようされ、家老がろうにまでのぼりつめた調しらべしょ強引ごういん改革かいかくすすめ、破滅はめつてきだった財政ざいせい改善かいぜんしていたが、調しらべしょ久光ひさみつ支持しじしていた。これにたいし、国元くにもと若手わかて藩士はんし中心ちゅうしんとしてひとしきょう調しらべしょたいする不満ふまんたかまっていた。

斉彬なりあきら若手わかて藩士はんしは「ひとしきょう隠居いんきょ調しらべしょ失脚しっきゃく」で結束けっそくし、よしみひさし元年がんねん1848ねん)、ついに琉球りゅうきゅうにおけるみつ貿易ぼうえき老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろ密告みっこくするという、いち間違まちがえば改易かいえきりかねない紙一重かみひとえ手段しゅだんってた。琉球りゅうきゅうでのみつ貿易ぼうえき慶長けいちょう14ねん1609ねん)にはん島津しまつただしつね家久いえひさ)の琉球りゅうきゅう出兵しゅっぺい琉球りゅうきゅう薩摩さつま勢力せいりょくけんはいって以来いらいおこなわれてきた公然こうぜん秘密ひみつで、薩摩さつまはん主要しゅよう収入しゅうにゅうげんひとつであった。調しらべしょみつ貿易ぼうえき商人しょうにんかかわらせ、利益りえきげさせることではん借金しゃっきん棒引ぼうびきにさせていた。調しらべしょ阿部あべから直接ちょくせつ事情じじょう聴取ちょうしゅけた直後ちょくごよしみひさし元年がんねん12月19にち1849ねん1がつ13にち)、薩摩さつまはん江戸えどしば藩邸はんてい急死きゅうしする。これはみつ貿易ぼうえき関与かんよによりひとしきょう隠居いんきょまれないよう、一人ひとりつみをかぶり服毒ふくどく自殺じさつしたものとされる。

これにより調しらべしょ排斥はいせきには成功せいこうしたものの、肝心かんじんひとしきょう隠居いんきょしなかったため、「斉彬なりあきらかさねふう」の実現じつげんには失敗しっぱいした。一方いっぽう補佐ほさやくうしなったひとしきょうはさらに斉彬なりあきらうらみ、でも久光ひさみつあとつぎがそうとおもうようになった。

よしほうの「呪詛じゅそ疑惑ぎわく

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よしほう久光ひさみつ擁立ようりつはかった調しらべしょ同情どうじょうしていたらしく、調しらべしょ遺児いじひそかに側用人そばようにんとして召抱めしかかえるなどして支援しえんしていた。一方いっぽうそのころ、斉彬なりあきら多数たすう子女しじょもうけていたものの、そのおおくが幼少ようしょうのうちに死亡しぼうしており、のこっていたのは女子じょし3にんだけで、久光ひさみつ子女しじょ無事ぶじ成長せいちょうしていたのとはまったく対照たいしょうてきであった。また、斉彬なりあきら実弟じってい池田いけだひとしさとし早世そうせいしている。斉彬なりあきら家臣かしんはこれを「およしほう斉彬なりあきらとその子女しじょのろったものである」とかんがえ、およしほうおよび久光ひさみつ擁立ようりつする家臣かしんを、これを理由りゆうとして排除はいじょしようとはかった

事実じじつとして、呪詛じゅそおこなわれていたともいう。ただし、当時とうじ高貴こうきいえでもまれた子女しじょそだたないことはめずらしくなく、とうのおよしも3にんちゅう久光ひさみつ以外いがい2人ふたり夭折ようせつしている。斉彬なりあきら久光ひさみつなんらかの環境かんきょう育児いくじほうちがいがあったこともかんがえられるが、それは当時とうじ医学いがく知識ちしきではよしもないことであった。

事件じけん経過けいか

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ここにおよんで斉彬なりあきら江戸えど家老がろう島津しまつ壱岐いき二階堂にかいどう主計かずえといった改革かいかくくわえ、はんない若手わかて期待きたいたのにたいし、久光ひさみつ島津しまつ久宝くぼう久徳きゅうとく伊集院いじゅういんたいら吉利よしとしなか[注釈ちゅうしゃく 4]といったひとしおき側近そっきん家老がろうかため、調しらべしょきずいた安定あんてい堅守けんしゅしようとするど対立たいりつした。よしみなが2ねん1849ねん)に斉彬なりあきらよんなんあつしこれすけが2さい夭逝ようせいすると、斉彬なりあきら久光ひさみつ両派りょうは対立たいりつはまさに一触即発いっしょくそくはつ状態じょうたいとなり、とく血気けっきさかんな若手わかておお斉彬なりあきらによる久光ひさみつ重臣じゅうしん襲撃しゅうげきうわさえなかった。その機先きせんせいするかのように同年どうねん12月3にち1850ねん1がつ15にち)、斉彬なりあきら重鎮じゅうちん町奉行まちぶぎょうけんぶつあたま近藤こんどうたかし左衛門さえもん同役どうやく山田やまだきよしやすふね奉行ぶぎょう高崎たかさき五郎右衛門ごろうえもん久光ひさみつ、およしおよびそのきの重臣じゅうしんらの暗殺あんさつ謀議ぼうぎしたとのとがめ捕縛ほばくされ、もなく切腹せっぷくをいいわたされた(そく切腹せっぷくとなったため謀議ぼうぎ真偽しんぎについては不明ふめい[注釈ちゅうしゃく 5]どう罪状ざいじょうでその3めい切腹せっぷくめいぜられ、つづ斉彬なりあきらやく50めい蟄居ちっきょ遠島えんとうなどの処分しょぶんくだされた。そのさいに、これをじて自殺じさつしたものおおい。また、騒動そうどうまえ病没びょうぼつしていた二階堂にかいどうせき剥奪はくだつされるなど、斉彬なりあきら徹底てっていした弾圧だんあつおこなわれた。このわざわい薩摩さつま本国ほんごく国元くにもとのみならず江戸えど屋敷やしきまでおよび、よしみなが3ねん4がつ26にち(1850ねん6月6にち)、島津しまつ壱岐いき更迭こうてつされ隠居いんきょ謹慎きんしんめいぜられた(下命かめいの2にち28にち8にち)に切腹せっぷく)。ここにいたってのこるは斉彬なりあきら本人ほんにんのみとなり、かさねふう絶望ぜつぼうてきであるかにえた。

このとき西郷さいごう吉之助よしのすけりゅうひさし、のちの隆盛りゅうせい)は、ちち吉兵衛きちべえからよし兵衛ひょうえ用人ようにんをしており介錯かいしゃくつとめた赤山あかやま靭負ゆきえ切腹せっぷく様子ようすき、ころもせられ、斉彬なりあきらかさねふうつよねがうようになる。また、大久保おおくぼ利通としみちにとってはさらに影響えいきょうおおきく、琉球りゅうきゅうかんかけつとめていたちち罷免ひめんのうえ、おにさかいとう遠島えんとうになり、みずからも記録きろくしょ書役かきやくすけ免職めんしょく謹慎きんしんとなるなど非常ひじょう困窮こんきゅうした。これを西郷さいごうが援けたという。

騒動そうどう

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ひとしきょう処分しょぶんのがれて脱藩だっぱん成功せいこうした一部いちぶ斉彬なりあきら藩士はんしは、福岡ふくおかはんんだ。藩主はんしゅ黒田くろだちょう斉彬なりあきら年下としした大叔父おおおじであり、実家じっか騒動そうどう見過みすごせず、ひとしきょう脱藩だっぱんわたすよう強要きょうようするもこれを拒絶きょぜつ実弟じってい八戸はちのへはんおも南部なんぶしんじゅんはかって老中ろうじゅう阿部あべ事態じたい収拾しゅうしゅううったえた。以前いぜんより斉彬なりあきらっていた正弘まさひろは、将軍しょうぐん徳川とくがわ家慶いえよしひとしきょう隠居いんきょめいずるよう要請ようせいする。家慶いえよしひとしきょう茶器ちゃきくだし、あん隠居いんきょうながしたのである(「隠居いんきょしてちゃなどたしなむがよい」という意向いこうによるものとみなされ、茶器ちゃき十徳じっとくくだすのは隠退いんたい勧告かんこくとされた)。将軍しょうぐん命令めいれいとあってはひとしきょう拒絶きょぜつできず、よしみなが4ねん2がつ2にち1851ねん3月4にち)、ついにひとしきょうは42ねんつとめた藩主はんしゅこころならずも隠居いんきょし、家督かとく斉彬なりあきらゆずった。

ちなみに、騒動そうどう首謀しゅぼうしゃとされるおよしほうにはそのとくおおきな処分しょぶんはなく、慶応けいおう2ねん1866ねん)に鹿児島かごしま死去しきょした。

なお、小説しょうせつ海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろうによると、この問題もんだい斉彬なりあきらかさねふうき、斉彬なりあきら急死きゅうしは「『斉彬なりあきららんへきはんつぶす』という懸念けねん現実げんじつになる」とひとしきょうによる毒殺どくさつであり、久光ひさみつ毒殺どくさつ関与かんよしていると西郷さいごうかんがえたのが久光ひさみつ西郷さいごう確執かくしつ原因げんいんであるという。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 島津しまつかぎったことではないが、藩主はんしゅにおいて次期じき家督かとく相続そうぞく可能かのうせいうす三男さんなん以下いかについてははん重臣じゅうしん養子ようしにすることがあった。しかしこの養子ようし縁組えんぐみたいして、種子島たねがしまがわからはかなりの反発はんぱつがあったのは事実じじつである。詳細しょうさい種子島たねがしま久道ひさみち参照さんしょう
  2. ^ この時点じてんで、島津しまつのこっていた斉彬なりあきら次男じなんひさやすしのぞく、周子かねこやおよし出生しゅっしょう男子だんし次々つぎつぎ死去しきょし、藩主はんしゅ後継こうけいしゃのストックに問題もんだいていたという藩政はんせいじょう理由りゆうであった可能かのうせいもある。実際じっさい文政ぶんせい9ねんにはひさしやすし池田いけだひとしさとし)が岡山おかやまはん主家しゅかき、島津しまつ本家ほんけのこひとしきょう息子むすこ斉彬なりあきら1人ひとりになっている。
  3. ^ ただし、それまで重富しげとみから藩主はんしゅ継承けいしょうしゃした実績じっせきはなかった。
  4. ^ せい吉利よしとし[1]
  5. ^ 漫画まんがみなもと太郎たろうは『風雲児ふううんじたち』で「本人ほんにん容疑ようぎはもとより背後はいご関係かんけい調査ちょうさすらきにしての切腹せっぷくはいくらなんでも異常いじょうひとしきょう憎悪ぞうおつよさがうかがえる」とべている。

出典しゅってん

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  1. ^ 海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろう西郷さいごう隆盛たかもり」1かんP194、朝日あさひ文庫ぶんこ

外部がいぶリンク

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