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ルイス・デ・アルメイダ

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西洋せいよう医術いじゅつ発祥はっしょう記念きねんぞう大分おおいたけん大分おおいた)。中央ちゅうおうがルイス・デ・アルメイダ。

ルイス・デ・アルメイダLuís de Almeida [luˈiʃ dɨ ɐɫˈmɐjdɐ]1525ねん? - 1583ねん10月[1])は、戦国せんごく時代じだい末期まっき日本にっぽんおとずれたポルトガルひと商人しょうにんであったが、医師いし免許めんきょち、西洋せいよう医学いがく日本にっぽん導入どうにゅうして豊後ぶんご府内ふない日本にっぽんはつ病院びょういんつくったことでられる。のちイエズスかいいんとなった。ポルトガル貴族きぞく出身しゅっしん[2]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

アルメイダは、1525ねんごろリスボンユダヤきょうからカトリック改宗かいしゅうしたコンベルソ家庭かていまれた。1546ねんにポルトガルおうからあたえられる医師いし免許めんきょ取得しゅとくしたのちで、世界せかい雄飛ゆうひ夢見ゆめみゴアからマカオわたった。1552ねん貿易ぼうえき目的もくてき肥前ひぜんこく平戸ひらどはつ来日らいにち日本にっぽんとマカオをしておおくのとみにした。

アルメイダは山口やまぐちでイエズスかい宣教師せんきょうしコスメ・デ・トーレス神父しんぷう。かれフランシスコ・ザビエル事業じぎょう継承けいしょうして日本にっぽん布教ふきょうつづけていた。アルメイダは宣教師せんきょうしたちとの出会であいをとおしておもうところがあり、豊後ぶんご府内ふない大分おおいたけん大分おおいた)にとどまり、私財しざいとうじて乳児にゅうじいんてた[3]。これは当時とうじ日本にっぽんひろおこなわれていた赤子あかごころしやあいだ現実げんじつにショックをけたからであるとされている。さらに豊後ぶんご府内ふない領主りょうしゅであった大友おおとも宗麟そうりんねがって土地とちをもらいうけ、1557ねん外科げか内科ないかハンセンびょうそなえた総合そうごう病院びょういんてた [4] 。これが日本にっぽんはつ病院びょういんであり、西洋せいよう医学いがくはじめて導入どうにゅうされた場所ばしょである。

この病院びょういんにおいては、みずからが外科げか医療いりょう担当たんとうした一方いっぽうで、もと僧侶そうりょ日本人にっぽんじんキリシタンが内科ないか医療いりょうくすりのことにたずさわった[5]。そのほか、聖水せいすい十字架じゅうじか数珠じゅず祈祷きとうぶんなどをもちいた呪術じゅじゅつてき医療いりょうさかんにおこなわれた。実際じっさい、この病院びょういん主力しゅりょくだったのは、外科げか医療いりょうよりも呪術じゅじゅつてき医療いりょうであり、アルメイダ自身じしんは、実際じっさいのところ、外科げか医療いりょうよりも呪術じゅじゅつてき医療いりょう重視じゅうししており、病気びょうき治癒ちゆ効果こうかデウスちからあることを強調きょうちょうする発言はつげんのこしている。

また、大分おおいたにおいて「ミゼリコルディア」(ポルトガル(Santa Casa de )Misericórdia 、「あわれみ(のせいなるいえ)」)といわれるキリスト教徒きりすときょうと互助ごじょ組織そしき発足ほっそくさせた。

布教ふきょうにおいても活躍かつやくし、コスメ・デ・トーレス神父しんぷは、改宗かいしゅうむずかしそうな土地とちへたびたびアルメイダをかわせた。学識がくしきあるアルメイダは僧侶そうりょなど知識ちしきじん欲求よっきゅうによくこたえ、改宗かいしゅうへとみちびいた。医師いしとしてもまずしい人々ひとびとたすけたのでおおくの信者しんじゃ獲得かくとくした。

神父しんぷとしての活動かつどうはじめてからも、貿易ぼうえきへの投資とうしつづけ、病院びょういん資金しきん調達ちょうたつした。また、慢性まんせいてき財政難ざいせいなんくるしんでいた日本にっぽん教会きょうかいへもしみなく私財しざい寄進きしんした。

日本人にっぽんじん医師いし協力きょうりょくけて病院びょういん運営うんえいしていたアルメイダは1558ねんには医学いがく教育きょういく開始かいし医師いし養成ようせいおこなった。やがてアルメイダは九州きゅうしゅう全域ぜんいきをまわって医療いりょう活動かつどうおこなうようになり、1561ねん6がつ下旬げじゅんには平戸ひらど北部ほくぶ度島たくしまでも治療ちりょうたっていた。1563ねんには横瀬よこせうらから避難ひなんに『日本にっぽん』をいたルイス・フロイス度島たくしまで10かげつほど滞在たいざいした。宇久うくじゅんじょう治療ちりょう依頼いらいされるほどその名声めいせいたかまっていた[6]

1566ねん9がつ、トルレスに派遣はけんされ、天草てんぐさ豪族ごうぞく志岐しき麟泉のまねきではじめて志岐しき天草あまくさぐん苓北れいほくまち)をおとずれた。[7]アルメイダは天草てんぐさはじめて布教ふきょう開始かいしし、南蛮なんばん文化ぶんかつたえた。天草あまくさ殉教じゅんきょう公園こうえんにはかれぞうてられている。天草てんぐさ移住いじゅうしてからは、カステラふうのお菓子かしおしえるなどしょく文化ぶんかにも精通せいつうしており、玉名たまな銘菓めいかまつゆき」は、アルメイダが、貿易ぼうえきこう伊倉いくら菓子かし職人しょくにん製法せいほうつたえたとされる。

1580ねん、アルメイダはマカオにわたって司祭しさいじょかいされた。ふたた日本にっぽんもどって、宣教せんきょう活動かつどう医療いりょう活動かつどう専念せんねんするが、1583ねん10月に天草あまくさかわ内浦うちうら熊本くまもとけん天草あまくさ)でぼっした。冒険ぼうけん商人しょうにんから無償むしょう奉仕ほうし医師いしへと転身てんしんし、病人びょうにん乳児にゅうじくした波乱はらん生涯しょうがいであった。

アルメイダのかんした施設しせつとう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん解説かいせつ”. コトバンク. 2018ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  2. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 66ぺーじ
  3. ^ イエズスかい 日本にっぽん通信つうしん じょう (しん異国いこく叢書そうしょ 1)』(昭和しょうわ43ねん(1968ねん)12月10にち発行はっこう 訳者やくしゃ村上むらかみ直次郎なおじろう 編輯へんしゅうしゃ柳谷やなぎや武夫たけお 発行はっこうしょ雄松おまつどう出版しゅっぱん) 74ぺーじ、102-103ぺーじ、117ぺーじ
  4. ^ この病院びょういん現在げんざい住所じゅうしょ大分おおいたけん大分おおいた顕徳けんとくまち2丁目ちょうめにあったデウスどう隣地りんち開設かいせつされ、日本にっぽんはつ入院にゅういん施設しせつそなえていた。 『南蛮なんばんアルメイダ』(1993ねん9月24にち発行はっこう 著者ちょしゃ東野とうの利夫としお 発行はっこうしょ柏書房かしわしょぼう) 45-68ぺーじ (「4 府内ふない病院びょういん位置いち証明しょうめい」)
  5. ^ 『イエズスかい 日本にっぽん通信つうしん じょう (しん異国いこく叢書そうしょ 1)』(昭和しょうわ43ねん(1968ねん)12がつ10日とおか発行はっこう 訳者やくしゃ村上むらかみ直次郎なおじろう 編輯へんしゅうしゃ柳谷やなぎや武夫たけお 発行はっこうしょ雄松おまつどう出版しゅっぱん) 125-126ぺーじ、150-151ぺーじ、177-179ぺーじ、188-189ぺーじ、191-192ぺーじ、237ぺーじ
  6. ^ 『イエズスかい 日本にっぽん通信つうしん  (しん異国いこく叢書そうしょ 2)』(昭和しょうわ44ねん(1969ねん)2がつ10日とおか発行はっこう 訳者やくしゃ村上むらかみ直次郎なおじろう 編輯へんしゅうしゃ柳谷やなぎや武夫たけお 発行はっこうしょ雄松おまつどう出版しゅっぱん) 84ぺーじ-98ぺーじ
  7. ^ 松田まつだ毅一きいち川崎かわさきももたいやく『フロイス日本にっぽん』9かんだい17しょうだい172しょう)、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1979ねん。274ぺーじ。1567ねん10がつ13にちづけ志岐しき発信はっしん、アイレス・サンシェス修道しゅうどう書簡しょかん、CI.f.247v.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 若桑わかくわみどり『クアトロ・ラガッツィ 天正てんしょう少年しょうねん使節しせつ世界せかい帝国ていこく集英社しゅうえいしゃ、2003ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]