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伊東いとうマンショ

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伊東いとう マンショ
イエズスかい司祭しさい
伊東いとうマンショ(右上みぎうえ人物じんぶつ
教会きょうかい カトリック教会きょうかい
個人こじん情報じょうほう
本名ほんみょう 伊東いとう 祐益すけます(いとう すけます)
出生しゅっしょう えいろく12ねん1569ねん〉?
死去しきょ 慶長けいちょう17ねん10月21にち1612ねん11月13にち
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伊東いとうマンショとグレゴリウス13せい謁見えっけん場面ばめん

伊東いとう マンショ(いとう マンショ、Mancio、伊東いとう 満所まんしょえいろく12ねん1569ねん〉? - 慶長けいちょう17ねん10月21にち1612ねん11月13にち〉)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきキリシタン天正てんしょうおう少年しょうねん使節しせつ主席しゅせき正使せいしイエズスかいいんカトリック教会きょうかい司祭しさい。マンショは洗礼せんれいめい本名ほんみょう伊東いとう 祐益すけます(いとう すけます)。[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

えいろく12ねん(1569ねん)ごろ、日向ひなたこく児湯こゆぐんいま宮崎みやざきけん西都さいと)の都於郡とのごおりじょうにて、伊東いとうゆうあおははである伊東いとうよしゆうむすめ通称つうしょうまちうえ」)のあいだまれた。

伊東いとう島津しまつ侵略しんりゃくい、伊東いとうささえじょうあやじょう落城らくじょうしたさい当時とうじ8さいだったマンショは家臣かしん田中たなか金太郎きんたろう(のちの刀工とうこう堀川ほりかわ国広くにひろ)に背負しょわれ無事ぶじ豊後ぶんごこく退去たいきょする。同地どうちキリスト教きりすときょう出会であい、そのえん司祭しさいこころざして有馬ありまセミナリヨはいった。

そのころ、巡察じゅんさつとして日本にっぽんおとずれたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名だいみょう大村おおむら純忠すみただい、財政難ざいせいなんおちいっていた日本にっぽん布教ふきょう事業じぎょうなおしと、次代じだいにな邦人ほうじん司祭しさい育成いくせいのため、キリシタン大名だいみょう名代なだいとなる使節しせつローマ派遣はけんしようとかんがえた。そこでセミナリヨでまなんでいたマンショをふくむ4にん少年しょうねんたちに白羽しらはてられ、マンショは大友おおとも宗麟そうりん名代なだいとしてえらばれた。これはマンショが宗麟そうりんめい一条いちじょうぼうもと子女しじょ)のおっとである伊東いとうよしえきいもうとという遠縁とおえん関係かんけいにあったためで、本来ほんらいえき宗麟そうりん血縁けつえん関係かんけいにある伊東いとうゆうかち派遣はけんされる予定よていであったが、当時とうじゆうしょう近江おうみ国安くにやすげん近江八幡おうみはちまん安土あづちまち)にいて出発しゅっぱつにあわず、マンショが代役だいやくとなったという。

天正てんしょう18ねん1590ねん)、日本にっぽんもどってきたマンショらはよく天正てんしょう19ねん1591ねん)、聚楽第じゅらくだい豊臣とよとみ秀吉ひでよし謁見えっけんした。秀吉ひでよしかれらをり、マンショにはとくつよ仕官しかんすすめたが、司祭しさいになることをめていたためそれをことわった。その司祭しさいになる勉強べんきょうつづけるべく天草あまくさにあった修練しゅうれんいんはいり、コレジオすすんで勉学べんがくつづけた。ぶんろく2ねん1593ねん7がつ25にちの3にんともにイエズスかい入会にゅうかいした。慶長けいちょう6ねん1601ねん)には神学しんがく高等こうとう課程かていまなぶため、マカオのコレジオにうつった(この時点じてん千々石ちぢわミゲル退会たいかい)。慶長けいちょう13ねん1608ねん)にははらマルティノ中浦なかうらジュリアン司祭しさいじょかいされた。

マンショは豊前ぶぜん小倉おぐら拠点きょてん活動かつどうしていたが、慶長けいちょう16ねん1611ねん)に領主りょうしゅ細川ほそかわ忠興ただおきによって追放ついほうされ、中津なかつうつり、さらにわれて長崎ながさきうつった。長崎ながさきのコレジオでおしえていたが、慶長けいちょう17ねん10月21にち1612ねん11月13にち)に病死びょうしした。

なお、「大友おおとも宗麟そうりん名代なだいとしてえらばれた」と一般いっぱんられているが、ローマ教皇きょうこうなどにてられた宗麟そうりん書状しょじょう花押かおうが、ふる時代じだい(1564ねん - 1572ねんごろ)に使用しようされていたものであったり、署名しょめい当時とうじ宗麟そうりん洗礼せんれいめい(フランシスコ)を漢音かんおんあらわした「ひろしらん怙」や、それをりゃくした「らん」をもちいていたのにたいし、書状しょじょうにはられない「りゅう獅子じしとら」という署名しょめいもちいており、かれらが携帯けいたいしていた大友おおとも宗麟そうりん書状しょじょう偽作ぎさくである可能かのうせいたかく、実際じっさいには宗麟そうりん少年しょうねんだん派遣はけん関知かんちしておらず、有馬ありま大村おおむら・ヴァリニャーノが主導しゅどうとなってったものであり、「大友おおとも宗麟そうりん名代なだい」としてかれ任命にんめいしたのは、宗麟そうりん本人ほんにんでは可能かのうせいたかいことが松田まつだ毅一きいち論文ろんぶんなどで指摘してきされている。

肖像しょうぞう[編集へんしゅう]

伊東いとうマンショの肖像しょうぞう

2014ねんイタリア北部ほくぶ在住ざいじゅう個人こじん所蔵しょぞうとなっていたそれまで確認かくにん伊東いとうマンショぞうがトリブルツィオ財団ざいだんによって発見はっけんされた[2]。そのどう財団ざいだん所蔵しょぞううつり、2016ねん5月17にち-7がつ10日とおか東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん日本にっぽんはつ公開こうかいされた[3]。なおこのはドメニコ・ティントレット(ティントレット子息しそく推測すいそくされている。

挿話そうわ[編集へんしゅう]

おう使節しせつたび途中とちゅうったトスカーナ大公たいこうこく舞踏ぶとうかい使節しせつたちがまねかれたとき、マンショはトスカーナ大公たいこうビアンカおどったという記録きろくもある。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 伊藤いとう満所まんしょ(マンショ)”. 西都さいと観光かんこう協会きょうかい. 2024ねん3がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ 読売新聞よみうりしんぶん2014ねん3がつ17にち
  3. ^ 朝日新聞あさひしんぶんデジタル 2016ねん5がつ25にち閲覧えつらん

関連かんれん著書ちょしょ[編集へんしゅう]