ヨゼフ・ピタウ
ヨゼフ・ピタウ Giuseppe Pittau | |
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カトリック | |
1959 | |
ジュゼッペ・ピッタウ | |
1928 イタリア サルデーニャ ヴィッラチードロ | |
2014 | |
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イタリア | |
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ハーバード | |
イタリア |
ヨゼフ・ピタウ(
人物 [編集 ]
略歴 [編集 ]
1928
その
1981
年譜 [編集 ]
- 1928
年 イタリア、サルデーニャ島 、サルデーニャ州 ヴィッラチードロに生 まれる - 1952
年 スペイン・バルセロナ大学 にて哲学 を修 める - 1954-1956
年 栄光 学園中 学校 教師 [2] - 1959
年 司祭 叙 階 - 1960
年 上智大学 にて神学 修士 号 - 1963
年 ハーバード大学 大学院 修了 、政治 学 博士 号 を取得 (博士 論文 は、ハーバード大学 の秀 れた社会 科学 論文 に贈 られるトッパン賞 を受賞 ) - 1966
年 -1981年 上智大学 法学部 政治 学 教授 - 1968
年 -1975年 学校 法人 上智学院 理事 長 (歴代 最年少 [3]) - 1970
年 イタリア政府 からコメンダトーレ章 - 1975
年 -1981年 上智大学 学長 (第 7代 )[4] - 1980
年 -1981年 イエズス会 日本 管区 長 [5] 同年 10月 教皇 ヨハネ・パウロ2世 の要請 によりイエズス会 本部 へ- 1984
年 日本 政府 から勲 二 等 旭日重光章 を受章 - 1992
年 -1998年 教皇 庁 立 グレゴリアン大学 学長 - 1993
年 上智大学 名誉 教授 の称号 授与 - 1997
年 -1998年 教皇 庁 立科 学 アカデミー・社会 科学 アカデミー会長 - 1998
年 バチカン教育 省 局長 (教育 省 次官 )に就任 、および大司教 に叙 階 - 2004
年 75歳 の定年 によりバチカン教皇 庁 を辞 し、再 来日 - 2004
年 -2005年 4月 カトリック大船 教会 協力 司祭 - 2014
年 12月26日 (金) 日本 にて、帰 天
エピソード[編集 ]
司祭 に叙 階 される前 の段階 に栄光 学園中 学校 で教 えていた当時 、校内 を歩 く若 きピタウを見 ていた校長 のグスタフ・フォスから、近 くにあるゴミに気 づかず拾 わなかったことを叱 られ、学校 の責任 はすべて背負 うつもりでいなさいと言 われたことをいつまでも憶 えていると記 し話 している。栄光 学園中 学校 ・高等 学校 の初代 校長 のフォスのこのような強 い思 いが栄光 学園 をその後 の発展 に導 き、この強 い思 いの継承 がピタウの上智大学 での姿勢 に影響 を与 えたことは間違 いない。- どんな
田舎 に行 っても子 どものための学校 があり、挨拶 をして親 を尊敬 する日本 の子 どもたちの姿 をみて、日本 に永住 することを決 めた[6]。 - ハーバード
大学 で博士 号 を取得 したピタウだが、ハーバードの学生 たちのやや鼻持 ちならないエリート意識 を若干 批判 しながらも、その使命 感 、多 く与 えられたものは返 さなければならないという意識 を絶賛 している。また、上智大学 学長 になり、日本 の学生 とりわけ上智 の学生 だけではなく休講 や遅刻 は当 たり前 の教師 の姿勢 に失望 を感 じたことをしばしば記 し話 している[7]。ピタウが上智 、日本 の学生 そして教師 に持 ってほしかったのは、高 い使命 感 と責任 感 と倫理 観 だった。ハーバードでの経験 が上智 を世界 に伍 し世界 に貢献 し奉仕 する大学 にしたいという熱 い思 いへとピタウを導 いた一因 であることは間違 いない。 上智大学 理事 長 に就任 した直後 の1968年 夏 に、構内 で発生 した盗難 事件 の捜査 のために警察官 が敷地 に立 ち入 ったのを口実 に全学 共闘 会議 (全共闘 )が大学 施設 を占拠 、さらに同年 秋 に学長 の大泉 孝 が健康 上 の問題 を理由 として辞任 するという難局 に直面 する。ピタウは守屋 美賀 雄 にその後 任 となることを要請 し、ともに事態 への対処 にあたった。日大 紛争 で警官 が殉職 した直後 であったが、全共闘 が守屋 学長 の最後 通牒 を拒絶 し、すでに学生 間 の傷害 事件 も発生 していたことから、全国 の大学 に先駆 けて機動 隊 を導入 した学園 正常 化 を決断 。一方 でピタウは「学生 と機動 隊員 の皆 さんに死傷 者 が一人 も出 ないようにして下 さい」と強 く要望 し、当時 警視庁 警備 部 警備 第 一 課長 であった佐々淳行 は、子 を持 つ隊員 らを封鎖 解除 に充 てる配慮 をした。直後 に上智大学 を半年 間 全面 封鎖 して事態 を沈静 化 させ、この手法 は「上智 方式 」と呼 ばれ全国 で参考 にされた[3][8]。後 に佐々 はピタウを「学園 紛争 解決 の功労 者 」と評価 している[9]。- 2006
年 、文藝春秋 の「諸君 !」9月 号 にジャーナリスト細川 珠生 との対談 記事 「カトリック大司教 、『靖国 』と『中国 』を語 る」が掲載 される。聖職 者 として「死者 の政治 的 利用 」に反対 し、厳密 な政教 分離 の条件 をつけながらも、戦没 者 慰霊 施設 としての靖国神社 また公人 の参拝 を容認 する見解 を示 している。これは、他者 や他 宗教 の信仰 や信条 を尊重 する、カトリック教会 の現在 の一般 的 な姿勢 とも同 一線 上 にあると言 えよう。 読売新聞 の「時代 の証言 者 」に連載 された第 1回 目 の記事 で「日本 は、私 が司祭 に叙 階 された特別 の思 い入 れのある国 です。司祭 としての礎 を築 いてくれた国 でもあります。私 が日本 へ始 めてやってきたのは24歳 の時 、1952年 のことです。当時 の日本 は、まだ敗戦 の痛手 が残 り、困窮 した状態 でした。最初 のクリスマスにイエズス会 の協会 がある山口 県 内 を回 り、目 にした光景 は忘 れません。爆 撃 で崩壊 した建物 が残存 する中 、どこの町 でも一番 立派 で新 しい建物 は学校 でした。運動 場 やプールもありました。親 たちは食 べるものが十分 でなくとも、子供 により良 い教育 環境 を与 えたいと頑張 っていました。国 を立 て直 すのに、まず教育 に力 を入 れる日本 に驚 くと同時 に、深 い関心 、尊敬 、そして愛 を感 じました。日本 はすごい国 になるのでは、と肌 で察 しました。」と語 っている
著書 [編集 ]
- Pittau, Joseph. Political Thought in Early Meiji Japan 1868-1889、ハーバード
大学 出版 局 、1967年 。NCID BA10675266 - ヨゼフ・ピタウ『
日本 立憲 国家 の成立 ――明治 初期 政治 思想 に関 する一 考察 』、内田 文昭 訳 、時事通信社 、1967年 。ASIN B000JA6XAW - ハーバード大学 での博士 論文 を所収 した前掲 書籍 を翻訳 したもの - ヨゼフ・ピタウ『
井上 毅 と近代 日本 の形成 』、時事通信社 、1967年 。NCID BN10441347 - ヨゼフ・ピタウ『ニッポンと
日本人 ――見失 われた心 の再 発見 』、かんき出版 、1978年 。NCID BN04195610 - ヨゼフ・ピタウ『
日本 の近代 化 』、富山 県 教育 委員 会 、1978年 。NCID BN13817835 - ヨゼフ・ピタウ『カトリックにおける
人間 』、現代 研究 会 、1979年 。NCID BN06753324 - ヨゼフ・ピタウ『
大学 の教育 』、上智大学 入試 センター、1980年 。NCID BA8182243X - ヨゼフ・ピタウ『ニッポン
人 への熱 い手紙 ――若者 と教育 をみつめて』、日本 リクルートセンター、1982年 。ISBN 978-4889910155 - ヨゼフ・ピタウ『
時代 の証言 者 ――ラテン語 : IN OMNIBUS AMARE ET INSERVIRE(すべてにおいて、愛 し、仕 える)』、ピタウ大司教 の会 、2010年 。NCID BB06343463 - ヨゼフ・ピタウ『
愛 ある生 き方 』、海竜 社 、2010年 。ISBN 978-4759311259 - ヨゼフ・ピタウ
著 、南條 俊二 編 『ヨゼフ・ピタウ大司教 自伝 イタリアの島 から日本 へ、そして世界 へ――A Life Journey』上智大学 出版 、2012年 。ISBN 978-4324095829。
共著 [編集 ]
脚注 [編集 ]
- ^ ヨゼフ・ピタウ
上智大 元 学長 が死去 カトリック大司教 (朝日新聞 2014年 12月28日 ) - ウェイバックマシン(2014年 12月28日 アーカイブ分 ) - ^ ヨゼフ・ピタウ 2012, pp. 28–29.
- ^ a b ヨゼフ・ピタウ 2012, pp. 43–51.
- ^ “1968
年 から1992年 まで”. www.sophia.ac.jp.上智大学 . 2020年 10月 31日 時点 のオリジナルよりアーカイブ。2020年 10月 1日 閲覧 。 - ^
枝川 葉子 , p. 13. - ^ “パネルディスカッション
母 と子 の芸術 7 |母 学 -ぼがく ははがく”.東京藝術大学 社会 連携 センター. 2020年 8月 9日 閲覧 。 - ^ ヨゼフ・ピタウ 2012, p. 53.
- ^ “
朝日新聞 デジタル:SOPHIA.com「上智大学 の今 を知 る」”. www.asahi.com. 2020年 10月 1日 閲覧 。 - ^
軍師 ・佐々淳行 .文藝春秋 . (2007-10-10). pp. 195-200
参考 文献 [編集 ]
枝川 葉子 「ヨゼフ・ピタウ師 の愛 ある生 き方 」『ソフィアのダイバーシティ――先哲 に学 ぶ多様 性 との向 き合 い方 』(PDF)学校 法人 上智学院 ダイバーシティ推進 室 、2021年 3月 、13-15頁 。
外部 リンク[編集 ]
- ヨゼフ・ピタウ
大司教 (元 上智学院 理事 長 ・上智大 学長 ・名誉 教授 )の訃報 について - ウェイバックマシン(2014年 12月31日 アーカイブ分 ) -上智学院 による訃報 - ピタウ
先生 を語 る会 - 「ピタウ先生 が語 る会 」から改称 (上智大学 ソフィア会 Webサイト)【2022年 ソフィア会 退会 】 - ピタウ、
私 の人生 を語 る(和敬塾 講演 会 ライブラリー)
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