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ヨゼフ・ピタウ

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ヨゼフ・ピタウ
Giuseppe Pittau
カトリック大司教だいしきょう
聖職せいしょく
司祭しさいじょかい 1959ねん
個人こじん情報じょうほう
本名ほんみょう ジュゼッペ・ピッタウ
出生しゅっしょう (1928-10-20) 1928ねん10がつ20日はつか
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく
サルデーニャ サルデーニャ
ヴィッラチードロ
死去しきょ (2014-12-26) 2014ねん12月26にち(86さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん
東京都 東京とうきょう
練馬ねりま
墓所はかしょ せいイグナチオ教会きょうかい
国籍こくせき イタリアの旗 イタリア
職業しょくぎょう 神父しんぷ
教育きょういくしゃだい7だい上智大学じょうちだいがく学長がくちょう
政治せいじ学者がくしゃ政治せいじ思想しそう
出身しゅっしんこう 上智大学じょうちだいがく
ハーバード大学だいがく
栄誉えいよ イタリア共和きょうわこく功労こうろう勲章くんしょうコメンダトーレあきら受章じゅしょう(1970ねん
くんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう受章じゅしょう(1984ねん
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ヨゼフ・ピタウ: Joseph Pittau1928ねん10がつ20日はつか - 2014ねん12月26にち[1])は、カトリック大司教だいしきょう教育きょういくしゃイタリアジュゼッペ・ピッタウ: Giuseppe Pittau)だが、日本にっぽんでは「ヨゼフ・ピタウ」と名乗なのった。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

理事りじちょう学長がくちょうとして上智大学じょうちだいがく発展はってん基礎きそきずいたが、1981ねんローマもどされ、ローマのグレゴリアン大学だいがく学長がくちょうバチカン教育きょういくしょう英語えいごばん局長きょくちょう大司教だいしきょうなどもつとめた。

上智大学じょうちだいがく学長がくちょう時代じだいは、学内がくないあるきながらいち学生がくせいにも流暢りゅうちょう日本語にほんご気軽きがるこえをかけるさくな性格せいかくで、学生がくせいならびに教職員きょうしょくいんからあつ信望しんぼうあつめると同時どうじに、「大学だいがく勉強べんきょうするところです」と大学だいがく原点げんてんきびしくき、上智大学じょうちだいがく発展はってんくした。

大司教だいしきょう教皇きょうこう代理だいり補佐ほさなどもつとめたことからかるように、ローマ・カトリック教会きょうかい重要じゅうよう人物じんぶつであり、イエズスかい総長そうちょう、さらにはローマ教皇きょうこうになるのではとりざたされたこともある。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

1928ねんイタリアサルデーニャしゅうヴィッラチードロまれ。1945ねんイエズスかい入会にゅうかいした。1952ねん来日らいにちし、上智大学じょうちだいがくおなじくイエズスかい運営うんえいする神奈川かながわ栄光えいこう学園中がくえんなか学校がっこう教鞭きょうべんをとった。当時とうじ栄光えいこう学園がくえん校長こうちょうは、グスタフ・フォス。1960ねん上智大学じょうちだいがく大学院だいがくいん神学しんがく研究けんきゅう修了しゅうりょう。1963ねんハーバード大学だいがく大学院だいがくいん政治せいじがく研究けんきゅう修了しゅうりょう日本にっぽん政治せいじ思想しそうかんする論文ろんぶん博士はかせごう取得しゅとくした。博士はかせ論文ろんぶん指導しどう教員きょういんエドウィン・O・ライシャワーであり、当時とうじおしはじめてあいだもないキッシンジャーブレジンスキーにもおしえをけた。

その上智じょうちまねかれ、大学だいがく教授きょうじゅ理事りじちょう学長がくちょう歴任れきにんしている。理事りじちょう就任しゅうにんした1968ねん大学だいがく闘争とうそうにあたり、機動きどうたいによる封鎖ふうさ解除かいじょ決断けつだんして紛争ふんそうこうなかでもいちはや学園がくえん正常せいじょうさせた。

1981ねん、ローマで教皇きょうこう代理だいり補佐ほさ就任しゅうにんし、以後いご2004ねんまでローマにいた。イエズスかい総長そうちょう顧問こもん教皇きょうこうちょうだてグレゴリアン大学だいがく学長がくちょう教皇きょうこうちょう立科たてしなまなぶアカデミー・社会しゃかい科学かがくアカデミー事務じむ総長そうちょうとうつとめ、1998ねん大司教だいしきょうじょかいされた。75さいでバチカン教皇きょうこうちょうし、さい来日らいにちカトリック大船おおぶね教会きょうかい協力きょうりょく司祭しさいつとめた。2014ねん12月26にち(金)きん東京とうきょう高齢こうれい聖職せいしょくしゃ施設しせつロヨラ・ハウスにてかえりてん

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

  • 1928ねん イタリア、サルデーニャとうサルデーニャしゅうヴィッラチードロまれる
  • 1952ねん スペイン・バルセロナ大学だいがくにて哲学てつがくおさめる
  • 1954-1956ねん 栄光えいこう学園中がくえんなか学校がっこう教師きょうし[2]
  • 1959ねん 司祭しさいじょかい
  • 1960ねん 上智大学じょうちだいがくにて神学しんがく修士しゅうしごう
  • 1963ねん ハーバード大学だいがく大学院だいがくいん修了しゅうりょう政治せいじがく博士はかせごう取得しゅとく博士はかせ論文ろんぶんは、ハーバード大学だいがくしゅうれた社会しゃかい科学かがく論文ろんぶんおくられるトッパンしょう受賞じゅしょう
  • 1966ねん-1981ねん 上智大学じょうちだいがく法学部ほうがくぶ政治せいじがく教授きょうじゅ
  • 1968ねん-1975ねん 学校がっこう法人ほうじん上智学院じょうちがくいん理事りじちょう歴代れきだい最年少さいねんしょう[3]
  • 1970ねん イタリア政府せいふからコメンダトーレあきら
  • 1975ねん-1981ねん 上智大学じょうちだいがく学長がくちょうだい7だい[4]
  • 1980ねん-1981ねん イエズスかい日本にっぽん管区かんくちょう[5]
  • 同年どうねん10がつ 教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい要請ようせいによりイエズスかい本部ほんぶ
  • 1984ねん 日本にっぽん政府せいふからくんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう受章じゅしょう
  • 1992ねん-1998ねん 教皇きょうこうちょうりつグレゴリアン大学だいがく学長がくちょう
  • 1993ねん 上智大学じょうちだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ称号しょうごう授与じゅよ
  • 1997ねん-1998ねん 教皇きょうこうちょう立科たてしなまなぶアカデミー・ 社会しゃかい科学かがくアカデミー会長かいちょう
  • 1998ねん バチカン教育きょういくしょう局長きょくちょう教育きょういくしょう次官じかん)に就任しゅうにん、および大司教だいしきょうじょかい
  • 2004ねん 75さい定年ていねんによりバチカン教皇きょうこうちょうし、さい来日らいにち
  • 2004ねん-2005ねん4がつ カトリック大船おおぶね教会きょうかい協力きょうりょく司祭しさい
  • 2014ねん 12月26にち(金)きん 日本にっぽんにて、かえりてん

エピソード[編集へんしゅう]

  • 司祭しさいじょかいされるまえ段階だんかい栄光えいこう学園中がくえんなか学校がっこうおしえていた当時とうじ校内こうないあるわかきピタウをていた校長こうちょうグスタフ・フォスから、ちかくにあるゴミにづかずひろわなかったことをしかられ、学校がっこう責任せきにんはすべて背負せおうつもりでいなさいとわれたことをいつまでもおぼえているとしるはなしている。栄光えいこう学園中がくえんなか学校がっこう高等こうとう学校がっこう初代しょだい校長こうちょうのフォスのこのようなつよおもいが栄光えいこう学園がくえんをその発展はってんみちびき、このつよおもいの継承けいしょうがピタウの上智大学じょうちだいがくでの姿勢しせい影響えいきょうあたえたことは間違まちがいない。
  • どんな田舎いなかってもどものための学校がっこうがあり、挨拶あいさつをしておや尊敬そんけいする日本にっぽんどもたちの姿すがたをみて、日本にっぽん永住えいじゅうすることをめた[6]
  • ハーバード大学だいがく博士はかせごう取得しゅとくしたピタウだが、ハーバードの学生がくせいたちのやや鼻持はなもちならないエリート意識いしき若干じゃっかん批判ひはんしながらも、その使命しめいかんおおあたえられたものはかえさなければならないという意識いしき絶賛ぜっさんしている。また、上智大学じょうちだいがく学長がくちょうになり、日本にっぽん学生がくせいとりわけ上智じょうち学生がくせいだけではなく休講きゅうこう遅刻ちこくたりまえ教師きょうし姿勢しせい失望しつぼうかんじたことをしばしばしるはなしている[7]。ピタウが上智じょうち日本にっぽん学生がくせいそして教師きょうしってほしかったのは、たか使命しめいかん責任せきにんかん倫理りんりかんだった。ハーバードでの経験けいけん上智じょうち世界せかい世界せかい貢献こうけん奉仕ほうしする大学だいがくにしたいというあつおもいへとピタウをみちびいた一因いちいんであることは間違まちがいない。
  • 上智大学じょうちだいがく理事りじちょう就任しゅうにんした直後ちょくごの1968ねんなつに、構内こうない発生はっせいした盗難とうなん事件じけん捜査そうさのために警察官けいさつかん敷地しきちったのを口実こうじつ全学ぜんがく共闘きょうとう会議かいぎ全共闘ぜんきょうとう)が大学だいがく施設しせつ占拠せんきょ、さらに同年どうねんあき学長がくちょう大泉おおいずみたかし健康けんこうじょう問題もんだい理由りゆうとして辞任じにんするという難局なんきょく直面ちょくめんする。ピタウは守屋もりや美賀みかゆうにそのにんとなることを要請ようせいし、ともに事態じたいへの対処たいしょにあたった。日大にちだい紛争ふんそう警官けいかん殉職じゅんしょくした直後ちょくごであったが、全共闘ぜんきょうとう守屋もりや学長がくちょう最後さいご通牒つうちょう拒絶きょぜつし、すでに学生がくせいあいだ傷害しょうがい事件じけん発生はっせいしていたことから、全国ぜんこく大学だいがく先駆さきがけて機動きどうたい導入どうにゅうした学園がくえん正常せいじょう決断けつだん一方いっぽうでピタウは「学生がくせい機動きどう隊員たいいんみなさんに死傷ししょうしゃ一人ひとりないようにしてください」とつよ要望ようぼうし、当時とうじ警視庁けいしちょう警備けいび警備けいびだいいち課長かちょうであった佐々淳行さっさあつゆきは、隊員たいいんらを封鎖ふうさ解除かいじょてる配慮はいりょをした。直後ちょくご上智大学じょうちだいがく半年はんとしあいだ全面ぜんめん封鎖ふうさして事態じたい沈静ちんせいさせ、この手法しゅほうは「上智じょうち方式ほうしき」とばれ全国ぜんこく参考さんこうにされた[3][8]のち佐々ささはピタウを「学園がくえん紛争ふんそう解決かいけつ功労こうろうしゃ」と評価ひょうかしている[9]
  • 2006ねん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうの「諸君しょくん!」9がつごうにジャーナリスト細川ほそかわ珠生たまおとの対談たいだん記事きじ「カトリック大司教だいしきょう、『靖国やすくに』と『中国ちゅうごく』をかたる」が掲載けいさいされる。聖職せいしょくしゃとして「死者ししゃ政治せいじてき利用りよう」に反対はんたいし、厳密げんみつ政教せいきょう分離ぶんり条件じょうけんをつけながらも、戦没せんぼつしゃ慰霊いれい施設しせつとしての靖国神社やすくにじんじゃまた公人こうじん参拝さんぱい容認ようにんする見解けんかいしめしている。これは、他者たしゃ宗教しゅうきょう信仰しんこう信条しんじょう尊重そんちょうする、カトリック教会きょうかい現在げんざい一般いっぱんてき姿勢しせいともどう一線いっせんじょうにあるとえよう。
  • 読売新聞よみうりしんぶんの「時代じだい証言しょうげんしゃ」に連載れんさいされただい1かい記事きじで「日本にっぽんは、わたし司祭しさいじょかいされた特別とくべつおもれのあるくにです。司祭しさいとしてのいしずえきずいてくれたくにでもあります。わたし日本にっぽんはじめてやってきたのは24さいとき、1952ねんのことです。当時とうじ日本にっぽんは、まだ敗戦はいせん痛手いたでのこり、困窮こんきゅうした状態じょうたいでした。最初さいしょクリスマスイエズスかい協会きょうかいがある山口やまぐちけんうちまわり、にした光景こうけいわすれません。ばくげき崩壊ほうかいした建物たてもの残存ざんそんするなか、どこのまちでも一番いちばん立派りっぱあたらしい建物たてもの学校がっこうでした。運動うんどうじょうプールもありました。おやたちはべるものが十分じゅうぶんでなくとも、子供こどもにより教育きょういく環境かんきょうあたえたいと頑張がんばっていました。くになおすのに、まず教育きょういくちかられる日本にっぽんおどろくと同時どうじに、ふか関心かんしん尊敬そんけい、そしてあいかんじました。日本にっぽんはすごいくにになるのでは、とはださっしました。」とかたっている

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • Pittau, Joseph. Political Thought in Early Meiji Japan 1868-1889ハーバード大学だいがく出版しゅっぱんきょく、1967ねんNCID BA10675266
  • ヨゼフ・ピタウ『日本にっぽん立憲りっけん国家こっか成立せいりつ――明治めいじ初期しょき政治せいじ思想しそうかんするいち考察こうさつ』、内田うちだ文昭ふみあきわけ時事通信社じじつうしんしゃ、1967ねんASIN B000JA6XAW - ハーバード大学だいがくでの博士はかせ論文ろんぶん所収しょしゅうした前掲ぜんけい書籍しょせき翻訳ほんやくしたもの
  • ヨゼフ・ピタウ『井上いのうえあつし近代きんだい日本にっぽん形成けいせい』、時事通信社じじつうしんしゃ、1967ねんNCID BN10441347
  • ヨゼフ・ピタウ『ニッポンと日本人にっぽんじん――見失みうしなわれたしんさい発見はっけん』、かんき出版しゅっぱん、1978ねんNCID BN04195610
  • ヨゼフ・ピタウ『日本にっぽん近代きんだい』、富山とやまけん教育きょういく委員いいんかい、1978ねんNCID BN13817835
  • ヨゼフ・ピタウ『カトリックにおける人間にんげん』、現代げんだい研究けんきゅうかい、1979ねんNCID BN06753324
  • ヨゼフ・ピタウ『大学だいがく教育きょういく』、上智大学じょうちだいがく入試にゅうしセンター、1980ねんNCID BA8182243X
  • ヨゼフ・ピタウ『ニッポンじんへのあつ手紙てがみ――若者わかもの教育きょういくをみつめて』、日本にっぽんリクルートセンター、1982ねんISBN 978-4889910155
  • ヨゼフ・ピタウ『時代じだい証言しょうげんしゃ――ラテン語らてんご: IN OMNIBUS AMARE ET INSERVIRE(すべてにおいて、あいし、つかえる)』、ピタウ大司教だいしきょうかい、2010ねんNCID BB06343463
  • ヨゼフ・ピタウ『あいあるかた』、海竜かいりゅうしゃ、2010ねんISBN 978-4759311259
  • ヨゼフ・ピタウ ちょ南條なんじょう俊二しゅんじ へん『ヨゼフ・ピタウ大司教だいしきょう自伝じでん イタリアのしまから日本にっぽんへ、そして世界せかいへ――A Life Journey』上智大学じょうちだいがく出版しゅっぱん、2012ねんISBN 978-4324095829 

共著きょうちょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ヨゼフ・ピタウ上智大じょうちだいもと学長がくちょう死去しきょ カトリック大司教だいしきょう朝日新聞あさひしんぶん 2014ねん12月28にち - ウェイバックマシン(2014ねん12月28にちアーカイブぶん
  2. ^ ヨゼフ・ピタウ 2012, pp. 28–29.
  3. ^ a b ヨゼフ・ピタウ 2012, pp. 43–51.
  4. ^ 1968ねんから1992ねんまで”. www.sophia.ac.jp. 上智大学じょうちだいがく. 2020ねん10がつ31にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2020ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  5. ^ 枝川えだがわ葉子ようこ, p. 13.
  6. ^ パネルディスカッション はは芸術げいじゅつ 7 | ははがく -ぼがく ははがく”. 東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく社会しゃかい連携れんけいセンター. 2020ねん8がつ9にち閲覧えつらん
  7. ^ ヨゼフ・ピタウ 2012, p. 53.
  8. ^ 朝日新聞あさひしんぶんデジタル:SOPHIA.com「上智大学じょうちだいがくいまる」”. www.asahi.com. 2020ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  9. ^ 軍師ぐんし佐々淳行さっさあつゆき. 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう. (2007-10-10). pp. 195-200 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]


先代せんだい
ジーノ・ビオヴェザナ
学校がっこう法人ほうじん上智学院じょうちがくいん理事りじちょう
だい4だい
次代じだい
柳瀬やなせ睦男むつお