(Translated by https://www.hiragana.jp/)
立花種次 - Wikipedia コンテンツにスキップ

立花たちばな種次たなつぎ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
立花たちばな種次たなつぎ
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 慶長けいちょう9ねん1604ねん)8がつ
死没しぼつ 寛永かんえい7ねん3月29にち1630ねん5月11にち
別名べつめい 弥七やしちろう通称つうしょう
戒名かいみょう 金剛こんごういん殿どのいち叟全こころだい居士こじ
墓所はかしょ 福岡ふくおかけん大牟田おおむた今山いまやまの紹運てら
官位かんい したがえ主膳しゅぜんただし
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ旗本はたもと
主君しゅくん 徳川とくがわ秀忠ひでただ家光いえみつ
はん 筑後ちくご三池みいけはんあるじ
氏族しぞく 立花たちばな
父母ちちはは ちち立花たちばな直次なおじはは筑紫つくしひろもんむすめやしなえぶくいん
兄弟きょうだい 種次たなつぎたねきち政俊まさとしちゅうしげるとらたねもと
つま 正室せいしつ佐久間さくま勝之かつゆきむすめあおくすのきいん
たねちょうたね立花たちばな宗茂むねしげ養女ようじょ
テンプレートを表示ひょうじ

立花たちばな 種次たなつぎ(たちばな たねつぐ)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき旗本はたもと大名だいみょう筑後ちくごこく三池みいけはん初代しょだい藩主はんしゅ

略歴りゃくれき

[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふ旗本はたもと立花たちばな直次なおじ長男ちょうなんとして、慶長けいちょう9ねん1604ねん)8がつまれた。高橋たかはし紹運祖父そふ立花たちばな宗茂むねしげ伯父おじで、そうしげる養嗣子ようししちゅうしげる異母弟いぼていにあたる。

元和がんわ3ねん1617ねん)、ちち死去しきょにより家督かとくいで、5月3にち将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただはじめて拝謁はいえつし、11月に常陸ひたちこく柿岡かきおかりょう5,000せきのこりょう継承けいしょうゆるされた。

元和がんわ7ねん1621ねん)1がつ10日とおか、5,000せき加増かぞうされて合計ごうけい1まんせきとされたうえに、ちち旧領きゅうりょうである筑後ちくごこく三池みいけぐんのうち1まんせきうつりふうされた。これが三池みいけはんとなる。

元和がんわ8ねん1622ねん)8がつ6にちちちおなしたがえじょされた。

寛永かんえい3ねん1626ねん)、後水尾天皇ごみずのおてんのう二条城にじょうじょう行幸ぎょうこうのために徳川とくがわ家光いえみつ上洛じょうらくしたのにしたがい、参内さんだい供奉ぐぶつとめた。

うつりふう当初とうしょそうしげる居城きょじょうである柳川やながわじょうした屋敷やしきかまえていたが、寛永かんえい4ねん1627ねん)、三池みいけぐんない陣屋じんやきずき、これにうつった。

寛永かんえい7ねん(1630ねん)3がつ29にち死去しきょした。享年きょうねん27。直次なおじ種次たなつぎだいつかえた平塚ひらつか増次ますじ追腹おいばらおこなった。

あと長男ちょうなんたねちょういだ。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]