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児玉こだまはるしゅ

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児玉こだまはるしゅ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 天正てんしょう20ねん9月8にち1592ねん10月13にち
別名べつめい 児玉こだまもとぬき
通称つうしょう市之助いちのすけかいあずま市助いちすけひがしかい
主君しゅくん 吉川よしかわ元春もとはる元長もとながこういえ
氏族しぞく 児玉こだま
父母ちちはは ちち児玉こだま就忠はは久芳くばけんただしむすめ
兄弟きょうだい 元良もとら小方おがた元信もとのぶはるしゅ内藤ないとうもとおんな粟屋あわや元信もとのぶしつ
もとつう元信もとのぶおんな三浦みうらもとせいしつ
テンプレートを表示ひょうじ

児玉こだま はるしゅ(こだま はるたね)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう吉川よしかわ家臣かしんちち毛利もうり奉行ぶぎょうじんつとめた児玉こだま就忠

生涯しょうがい

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毛利もうり譜代ふだい家臣かしんである児玉こだま就忠三男さんなんとしてまれる。吉川よしかわ元春もとはる奉行ぶぎょうじんとしてつかえ、「はる」のへんいみなあたえられて「児玉こだまはるしゅ」と名乗なのった。

はるしゅ奉行ぶぎょうじんとして、ざいばんしろ普請ふしんなどの軍事ぐんじ指令しれい伝達でんたつ知行ちぎょうあてぎょう伝達でんたつわたりつぼづけ発給はっきゅう権益けんえき安堵あんど伝達でんたつそうろん調停ちょうてい指令しれい伝達でんたつ納税のうぜい証明しょうめい発給はっきゅうといった活動かつどうおこなっている。

天正てんしょう5ねん1577ねん2がつ26にち朝枝あさえだ高明こうめい二宮にのみやはるきよし市川いちかわはるしゅん賀田よしたはるほうとも井上いのうえかみ兵衛ひょうえ備中びっちゅうこく新見にいみうち所領しょりょうわたりつぼづけ発給はっきゅうした。天正てんしょう6ねん1578ねん9月14にち二宮にのみやはるきよしとも今田いまだけいだかゆずりはじょうさそえ指令しれい伝達でんたつした。

天正てんしょう8ねん1580ねん7がつ24にちにはかつらはるぼう井上いのうえはるけいとも吉川よしかわけいやすへ、9月23にちには井上いのうえはるけい二宮にのみや春次はるじかつらはるぼうとも山県やまがたよしみぎ衛門えもんじょう知行ちぎょうあてぎょう伝達でんたつおこなう。また、同年どうねん12月8にちにはかつらはるぼう二宮にのみやはるきよしとも肥塚こいづか与四郎よしろう伯耆ほうきこく打吹うつぶきじょうざいばんと20せき知行ちぎょうあてぎょうだんぜに免除めんじょ約束やくそく伝達でんたつし、12月16にちには賀田よしたはるほうさかいはるりん井上いのうえはるけい森脇もりわきはるおや朝枝あさえだ高明こうめい森脇もりわきはるただし二宮にのみやはるきよしかつらはるぼう市川いちかわはるしゅんとも岡本おかもとはる美作みさくこく小田おだ草城そうじょうざいばんまけぶつ免許めんきょ伝達でんたつした。

天正てんしょう9ねん1581ねん6月24にち吉川よしかわけいごとこういえ石見いわみ小笠原おがさわらとの養子ようし縁組えんぐみ騒動そうどうかんして毛利もうり輝元てるもとから書状しょじょうる。

天正てんしょう13ねん1585ねん5月26にち千家せんげ義広よしひろ町屋敷まちやしき7ヶ所かしょすすむおけ毛利もうり検使けんし通知つうち吉川よしかわ検使けんし派遣はけんなどを伝達でんたつ

天正てんしょう14ねん1586ねん)からはじまる九州きゅうしゅう平定へいていでは吉川よしかわ元春もとはる元長もとながらがさんじんしたが、はるしゅ九州きゅうしゅうざい陣中じんちゅう元長もとながから天正てんしょう15ねん1587ねん5月27にちづけ山中やまなか家信いえのぶ元長もとながちょくしんである佐々木ささきたいら兵衛ひょうえじょうともに、人数にんずう催促さいそく普請ふしん道具どうぐ調達ちょうたつへい粮の調達ちょうたつなどの指令しれいけた。この指令しれいただちにしたがわない吉川よしかわ家臣かしん所領しょりょう没収ぼっしゅうするようべられていることから、はるしゅ九州きゅうしゅう平定へいてい従軍じゅうぐんせず、吉川よしかわ居城きょじょうである日野ひの山城やましろ近辺きんぺんにいたと推測すいそくされている。

天正てんしょう15ねん(1587ねん6月5にち元長もとなが急死きゅうししたことにより、吉川よしかわひろ吉川よしかわ家督かとく相続そうぞくする。そのさい吉川よしかわ親類しんるいしゅ奉行ぶぎょうじんらが奉公ほうこうちかった連署れんしょ起請文きしょうもんが3つう作成さくせいされ、はるしゅ同年どうねん8がつ24にちけの24にん連署れんしょ起請文きしょうもんにおいて7番目ばんめに「児玉こだま介春かいしゅんしゅ」と署名しょめいしている[注釈ちゅうしゃく 1][1]

天正てんしょう16ねん1588ねん6月23にち鰐淵わにぶちてら知行ちぎょうあてぎょう上申じょうしんおこなう。

天正てんしょう20ねん1592ねん9月8にち死去しきょもとつういだ。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ この起請文きしょうもん署名しょめいしたのは署名しょめいじゅんに、かつらはるぼう江田えだ常陸ひたちかい平佐ひらさ源右衛門げんえもんじょう福原ふくはら備後びんごもりかつらはるただしかつら雅楽ががくまこと児玉こだまはるしゅ香川かがわ彦右衛門えもんじょう森脇もりわきはるおや山県やまがた就次森脇もりわきはるただし山中やまなか家信いえのぶ朝枝あさえだまごよんろう森脇もりわき飛騨ひだもり森脇もりわき一郎いちろうみぎ衛門えもんじょううちべつさくみぎ衛門えもんじょう森脇もりわき内蔵ないぞう大夫たいふ二宮にのみや筑後ちくごまもる二宮にのみやたすく渡守わたしもり朝枝あさえだ周防すおうまもるさかい左衛門尉さえもんのじょう粟屋あわやふじ兵衛ひょうえじょう井上いのうえ次郎じろうみぎ衛門えもんじょう今田いまだ内蔵ないぞうすすむ

出典しゅってん

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  1. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい684ごう天正てんしょう15ねん8がつ24にちづけ 山県やまがた就慶宇都宮うつのみやはるかつらはるぼう23めい連署れんしょ起請文きしょうもん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 木村きむら信幸のぶゆき戦国せんごく後期こうきにおける吉川よしかわ権力けんりょく構成こうせい親類しんるいしゅ奉行ぶぎょうじん中心ちゅうしんにして―」(光成みつなりじゅんへん『シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいよんかん 吉川よしかわひろ戒光さち出版しゅっぱん2016ねん
  • 岡部おかべ忠夫ただおへんはぎはん諸家しょか系譜けいふ』(マツノ書店しょてん1999ねん復刻ふっこく
  • はぎ藩閥はんばつ閲録まき125「児玉こだま吉兵衛きちべえ
  • 防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ山口やまぐち支社ししゃへん へん近世きんせいぼうちょう諸家しょか系図けいず綜覧そうらん三坂みさかけい監修かんしゅう防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ、1966ねん3がつNCID BN07835639OCLC 703821998全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73004060 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション