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幕府ばくふ

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幕府ばくふ(ともばくふ)は、備後びんごこくげん広島ひろしまけん福山ふくやま)に存在そんざいした室町むろまち幕府ばくふ亡命ぼうめい政権せいけん歴史れきし学者がくしゃ藤田ふじた達生たつおによって提唱ていしょうされたものである。

歴史れきし

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足利あしかが義昭よしあきぞういにしえ類聚るいじゅう

もとかめ4ねん1573ねん)7がつ室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき槙島まきしまじょうたたか織田おだ信長のぶながやぶれ、京都きょうとより追放ついほうされた。以後いご義昭よしあき河内かわうち和泉いずみ紀伊きいなど、各地かくち流浪るろうした。

天正てんしょう4ねん1576ねん)2がつ義昭よしあき紀伊由良きいゆら興国寺こうこくじて、西国さいこく毛利もうり輝元てるもとたより、その勢力せいりょくであった備後びんごこく動座どうざした[1][2]。このとき、義昭よしあき随行ずいこうしたのは、細川ほそかわあきらけい上野うえの秀政ひでまさ畠山はたけやまあきらけん木島きしま昭光あきみつ曽我そがはれすけしょう林家はやしやたかし柳沢やなぎさわもとせい武田たけだ信景さだかげらであった[3]

義昭よしあきが鞆をえらんだ理由りゆうとしては、このはかつて足利尊氏あしかがたかうじひかりげん上皇じょうこうより新田にった義貞よしさだ追討ついとう院宣いんぜんけたという、足利あしかが将軍家しょうぐんけにとっての由緒ゆいしょがある場所ばしょであったからである[4]。また、だい10代将軍しょうぐん足利あしかが義稙よしたね大内おおうち支援しえんのもと、京都きょうと復帰ふっきたしたという故事こじもある吉兆きっちょうでもあった[5]

義昭よしあきは2がつ8にちづけ御内おんうちしょ吉川よしかわ元春もとはるめいじ、輝元てるもと幕府ばくふ復興ふっこう依頼いらいした[1]。また、信長のぶなが輝元てるもとたいする「逆心ぎゃくしん」は明確めいかくであるとべ、そのために動座どうざしたともつたえた[2][6]

だが、鞆への動座どうざ毛利もうり何一なにひと連絡れんらくなくおこなわれたものであり、義昭よしあきはあえてつたえず、近臣きんしんらにも緘口かんこうれいいていた[2]信長のぶながとの同盟どうめい関係かんけいじょう義昭よしあき動座どうざけなければならない事態じたいであり、輝元てるもとはその対応たいおう苦慮くりょした[6][7]

だが、毛利もうり織田おだ同盟どうめい関係かんけいにあったものの、このころになると信長のぶなが西方せいほう進出しんしゅつしてきたため、不穏ふおん空気くうきただよっていた[8]。また、毛利もうり敵対てきたいしていた浦上うらかみ宗景むねかげ信長のぶなが支援しえんし、一方いっぽう宗景むねかげ対立たいりつする宇喜多うきた直家なおいえ毛利もうりたよるなど、毛利もうり織田おだ対立たいりつにも発展はってんしかねない状況じょうきょうができていた[8]。さらに、天正てんしょう3ねん以降いこう信長のぶなが毛利もうりへの包囲ほういもう構築こうちくするため、近衛このえぜんひさ九州きゅうしゅう下向げこうさせ、大友おおとも伊東いとう相良さがら島津しまつ和議わぎはかろうとしていた[9]

5月7にち輝元てるもと毛利もうりはん信長のぶながとしてがり、13にち領国りょうごくしょしょう義昭よしあき命令めいれいけることを通達つうたつし、西国さいこく東国とうごく大名だいみょうらにも支援しえんもとめた[10]。3ヶ月かげつあいだ毛利もうり検討けんとうしてした結論けつろんであった[11]。これにより、毛利もうり織田おだとの同盟どうめい破綻はたんした[12]

輝元てるもと毛利もうり庇護ひごされていたこの時期じき室町むろまち幕府ばくふは、「鞆幕府ばくふ」とも呼称こしょうされる[13]義昭よしあきはまた、輝元てるもと将軍しょうぐん地位ちいたるふく将軍しょうぐんにんじた[14][注釈ちゅうしゃく 1]

6月11にち義昭よしあき甲斐かい武田たけだ勝頼かつより越後えちご上杉うえすぎ謙信けんしんたいして、たがいに講和こうわめいじる御内おんうちしょくだし、毛利もうり輝元てるもと協力きょうりょくして協力きょうりょくしたうえで信長のぶながつようにめいじた[15]

天正てんしょう15ねん1587ねん)3がつ豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅうかう途中とちゅう義昭よしあきむ鞆の御所ごしょちか赤坂あかさかり、ここで義昭よしあき対面たいめんした[16]義昭よしあき秀吉ひでよしおくもの交換こうかんし、したしくしゅわした[16]

このころ義昭よしあき毛利もうりねがい、御座所ござしょを鞆から山陽さんようどうちか沼隈ぬまくまぐん津之郷つのごう福山ふくやま津之郷つのごうまち)へとうつさせた[17][18]時期じき不明ふめいながら、鞆にちか山田やまだ常国つねくにてら御座所ござしょとしていた時期じきもあった[17]

10月、義昭よしあき毛利もうりへい護衛ごえいされながら、京都きょうと帰還きかんした[17]義昭よしあきにとっては、およそ15ねんぶりの京都きょうとであった[17]

天正てんしょう16ねん1588ねん)1がつ13にち義昭よしあき秀吉ひでよしとともに参内さんだいし、将軍しょうぐんしょく朝廷ちょうてい返上へんじょうした[17][19]。このとき、秀吉ひでよし奏請そうせいによって、義昭よしあき朝廷ちょうていからじゅんさんみや称号しょうごう待遇たいぐう)をけている[17]。これにより、室町むろまち幕府ばくふ名実めいじつともに滅亡めつぼうした。

考察こうさつ

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幕府ばくふ呼称こしょう構成こうせい

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義昭よしあき幕府ばくふ再興さいこうへのはたらきかけや、かれしたが奉公ほうこうしゅ奉行ぶぎょうしゅといった幕臣ばくしん存在そんざいから、藤田ふじた達生たつおはこの亡命ぼうめい政権せいけんを「鞆幕府ばくふ」とんでいる[13]

また、政権せいけんとしての実体じったいもあった。義昭よしあき筆頭ひっとうとする鞆幕府ばくふは、奉公ほうこうしゅ奉行ぶぎょうしゅ同朋どうほうしゅ猿楽さるがくしゅ侍医じい女房にょうぼうしゅなどがやく50にん以上いじょう伊勢いせ北畠きたばたけおや若狭わかさ武田たけだ信景さだかげ丹波たんば内藤ないとう如安じょあん近江おうみ六角ろっかく義治よしはるよし堯)らといった大名だいみょう子弟していからなる大名だいみょうしゅ集結しゅうけつし、その幕府ばくふ関係かんけいしゃ総勢そうぜいは100めいくだらなかった[13]大名だいみょうしゅらは信長のぶなが所領しょりょう没収ぼっしゅうされたり、あるいは追放ついほうされたきゅう国司こくし守護しゅご守護しゅごだいであり、義昭よしあき供奉ぐぶすることで自家じか再興さいこう運動うんどうおこなっていた[13]

この政権せいけんにおいて、奉公ほうこうしゅ義昭よしあき活動かつどうささえ、外交がいこうじょう交渉こうしょう従事じゅうじし、奉行ぶぎょうじん公式こうしき文書ぶんしょである奉行ぶぎょうじん奉書ほうしょ発給はっきゅうしている[20]義昭よしあきはん織田おだ勢力せいりょくりまとめて再起さいきはかるのみならず、京都きょうと五山ごさんなど禅宗ぜんしゅう寺院じいん住持じゅうじ任命にんめいしたり、しょ栄典えいてん授与じゅよしている[20]

幕府ばくふ毛利もうり権力けんりょく一体化いったいかしており、それによって機能きのうしていた[21]義昭よしあき毛利もうり当主とうしゅ毛利もうり輝元てるもとふく将軍しょうぐん任命にんめいすることにより、その庇護ひごけ、自身じしん政権せいけん維持いじした。輝元てるもともまた、義昭よしあき庇護ひごすることで公権力こうけんりょく推戴すいたいするかたちとなり、自身じしん正当せいとうせい大義名分たいぎめいぶん[22]

藤田ふじたは「将軍しょうぐん義昭よしあきとその関係かんけいしゃいちぎょう逗留とうりゅうによって、あたかも鞆のうら周辺しゅうへんには幕府ばくふ成立せいりつしたかの様相ようそうていしていた」とひょうしている[13]。だが、義昭よしあきとその周辺しゅうへんは鞆に下向げこうし、依然いぜんとして政治せいじてき勢力せいりょくであったものの、鞆にいた義昭よしあきには朝廷ちょうていとのかかわりがなかった[20]。このとき義昭よしあきは「天下てんかじん」として天下てんか掌握しょうあくできておらず、また朝廷ちょうてい庇護ひごする存在そんざいでもなかった[20]。そのため、鞆幕府ばくふ呼称こしょうもちいない研究けんきゅうしゃもいる[20]

財政ざいせい

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幕府ばくふ財政ざいせいは、備中びっちゅうこく御料ごりょうしょからの年貢ねんぐほか足利あしかが将軍しょうぐん専権せんけん事項じこうであった五山ごさん住持じゅうじ任免にんめんけん行使こうししてれいぜに獲得かくとくできたこと、日明ひあがり貿易ぼうえきとおして足利あしかが将軍家しょうぐんけ関係かんけいふかかったそう島津しまつからの支援しえんもあり、困難こんなん状態じょうたいではなかったといわれている。

一方いっぽうで、征夷大将軍せいいたいしょうぐんとして一定いってい格式かくしき維持いじし、さらたい信長のぶなが外交がいこう工作こうさくおこなっていく以上いじょう、その費用ひようけっしてすくなくはなく、また恒常こうじょうてき保証ほしょうされた収入しゅうにゅうすくない以上いじょう、その財政ざいせいはかなり困難こんなんであったとする見方みかたもあり、天正てんしょう年間ねんかん後期こうきには木島きしま昭光あきみつ一色いっしきあきらこう唐橋からはしざいつう)クラスの重臣じゅうしんですら吉見よしみ山内やまうち首藤しゅどうなど毛利もうり麾下きかくにしゅへの「あずかおけ」(一時いちじてき客将かくしょうとしてあたえて面倒めんどうをみさせる)の措置そちっている[23]

毛利もうりとの関係かんけい

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幕府ばくふ毛利もうり輝元てるもと毛利もうりおおきく依存いぞんした政権せいけんでもあった。毛利もうり一門いちもん吉川よしかわけいやすのこした天正てんしょう10ねん1582ねん)2がつ13にちづけおけぶん冒頭ぼうとうでは、「義昭よしあき織田おだ信長のぶながつため、備後びんごこくの鞆に動座どうざした。毛利もうり輝元てるもとふく将軍しょうぐんとなり、小早川こばやかわ隆景たかかげ吉川よしかわ元春もとはる元長もとなが父子ふしは、その権威けんいによってたたかいをつづけている」としるされており、義昭よしあき毛利もうりをはじめはん信長のぶなが勢力せいりょく精神せいしんてき支柱しちゅうであったことがうかがえる[24]

毛利もうり将軍しょうぐんである義昭よしあき擁立ようりつしたことで、信長のぶなが対決たいけつするじょうでの大義名分たいぎめいぶんて、各地かくち大名だいみょう糾合きゅうごうすることができた[25]毛利もうり単独たんどくでは、信長のぶながとのたたかいで勝機しょうきいだせず、おおくの大名だいみょう味方みかたれる必要ひつようがあったが、「毛利もうりのために合力ごうりょくしてほしい」とたのんでも応諾おうだくしてくれる可能かのうせいひくかった[25]。だが、義昭よしあき擁立ようりつした結果けっか毛利もうり信長のぶながとのたたかいを「将軍家しょうぐんけ忠義ちゅうぎくすためのたたかい」とすることができ、これを内外ないがいせんあかし、大名だいみょうらの共感きょうかんられるようになった[25]実際じっさい武田たけだ勝頼かつより輝元てるもと義昭よしあき庇護ひごし、帰洛きらく助力じょりょくをしたことを、「稀代きたい忠節ちゅうせつ」であるとしょうしている[26]

義昭よしあきは「天下てんかしょさむらいあるじ」であり、主君しゅくん忠義ちゅうぎくすことは、武家ぶけ社会しゃかい根幹こんかん基本きほん原理げんりでもあった[25]。そして、この「将軍家しょうぐんけのために」というスローガンは毛利もうりのみならず、はん信長のぶなが陣営じんえい共通きょうつうのスローガンとなった[27]

毛利もうり義昭よしあき擁立ようりつしたことによって、毛利もうりひろ大名だいみょうらにらしめるにいたり、その名声めいせい一気いっきたかめ、これは信長のぶながたたかううえでおおきな利点りてんとなった[28]毛利もうり信長のぶながたたかうにあたっては、各地かくちはん信長のぶなが勢力せいりょくとともにたたかわねばならず、そのために毛利もうり知名度ちめいどげる必要ひつようがあり、義昭よしあき存在そんざいおおきな役割やくわりたした[29]事実じじつ小早川こばやかわ隆景たかかげ後年こうねん、「公方くぼうさま義昭よしあき)が下向げこうしたことにより、毛利もうりらなかった遠国おんごく大名だいみょうたちまでが、毛利もうり挨拶あいさつるようになった」、と述懐じゅっかいしている[30]

毛利もうりはまた、義昭よしあき各地かくち大名だいみょうとのあいだ仲介ちゅうかいしてもらえるようになった[29]毛利もうり信長のぶながたたかうにあたり、大名だいみょうとのあいだ十分じゅうぶん人脈じんみゃくっていなかったが、義昭よしあきがその仲介ちゅうかいになった[29]毛利もうり天正てんしょう4ねん以前いぜん安芸あきからとおはなれた越後えちご上杉うえすぎとほとんど接触せっしょくしたことがなかった一方いっぽう義昭よしあき将軍しょうぐん就任しゅうにんまえから接触せっしょくがあり、幕臣ばくしんにはしばしば使者ししゃとして上杉うえすぎのもとにおとずれたものもいた[29]義昭よしあきはそうした人脈じんみゃく駆使くしし、毛利もうり同盟どうめいする大名だいみょうとの仲介ちゅうかいおこない、双方そうほう意思いし疎通そつう円滑えんかつすすむようにはからった[29]。これにより、毛利もうり天正てんしょう4ねん以降いこう上杉うえすぎをはじめおおくの大名だいみょう連携れんけいし、信長のぶながたたかうことになった[29]

毛利もうり同盟どうめいする大名だいみょうとの外交がいこうでもおおきなメリットを[31]大名だいみょう同士どうしでの外交がいこうは、どちらがかくじょうでどちら格下かくしたか、がきわめて重要じゅうようであり、自分じぶんかくかんしてはとても敏感びんかんであった[31]。それゆえ、毛利もうりうえから目線めせん態度たいどれば、外交がいこう問題もんだい発展はってんする可能かのうせいもあったが、義昭よしあき存在そんざいがそれを解決かいけつした[31]毛利もうり信長のぶながたたかうにあたり、対等たいとうりょうけいにあった大名だいみょうへの協力きょうりょく必要ひつようとしたが、かれらになにかを要求ようきゅうするとき、その代弁だいべんしゃとして義昭よしあき利用りようした[31]義昭よしあき将軍しょうぐんであり、毛利もうり同盟どうめいする大名だいみょうみな義昭よしあき主君しゅくんとしてあおいでいたため、義昭よしあきから大名だいみょうらに伝達でんたつするかたちられた[31]。また、義昭よしあき各地かくちした御内おんうちしょには、輝元てるもとふくじょうえられていた。

輝元てるもとふく将軍しょうぐんとして義昭よしあき庇護ひごすることにより、毛利もうりぐん公儀こうぎ軍隊ぐんたい中核ちゅうかくとして位置いちづけ、西国さいこくしょ大名だいみょう上位じょうい君臨くんりんする正統せいとうせい確保かくほした[22]。 これにより、毛利もうり支配しはい領域りょういきである中国ちゅうごく地方ちほうきた四国しこく北九州きたきゅうしゅう、さらには丹波たんば摂津せっつ一部いちぶおよ広大こうだい領域りょういき影響えいきょうりょく行使こうしした[32]

とはいえ、輝元てるもと自身じしんふく将軍しょうぐん認識にんしきしていたことにかんしては、あくまで毛利もうりがわ自己じこ認識にんしきもとづくものであったとする見方みかたもある[33]毛利もうり上杉うえすぎ武田たけだ石山いしやま本願寺ほんがんじ同盟どうめいしていた勢力せいりょくよりも上位じょういにあったわけではなく、各地かくち大名だいみょうらに上位じょうい存在そんざい認識にんしきされていたわけでもない[34]。また、主君しゅくんじゅんずる立場たちばにあったわけでもない[34]。それゆえ、毛利もうり同盟どうめいする大名だいみょう直接ちょくせつ命令めいれいくだせたわけでもない[34]

一方いっぽう輝元てるもとみずからをふく将軍しょうぐんとして位置いちづけたことを、輝元てるもと自身じしん当時とうじ人々ひとびと時代遅じだいおくれの行動こうどうをしているという意識いしきまったくなかったとする見方みかたもある[4]。かつて、毛利もうり主家しゅかであった大内おおうち足利あしかが義稙よしたねようして上洛じょうらくし、復位ふくいさせたことにより、海外かいがい貿易ぼうえき利権りけんにぎることに成功せいこうしていたこともあって、その先例せんれいならおうとしたとされる[4]

毛利もうり義昭よしあきほうじたことにより、一定いっていのデメリットを享受きょうじゅしなければならなくなった[35]毛利もうり義昭よしあき侍臣じしんらをやしなわなければならず、鞆にいる義昭よしあき侍臣じしんおもなものだけでも50にん以上いじょうおよんだ[35]毛利もうり義昭よしあき要望ようぼうしたがい、毛利もうりしょしょう分担ぶんたんしてかれらをやしなっている[35]

また、毛利もうり義昭よしあき上意じょういをそれなりに尊重そんちょうしなければならなくなった[35]義昭よしあき毛利もうりにさまざま上意じょういくだしたが、その内容ないよう軍事ぐんじ作戦さくせんにまでおよんでいた[35]義昭よしあき上意じょうい強制きょうせいりょくはなかったが、毛利もうり義昭よしあきから便宜べんぎけている以上いじょう、その意向いこう完全かんぜん無視むしできなかった[35]。そのため、輝元てるもと配下はいかしょしょう義昭よしあき上意じょういによる軍事ぐんじ作戦さくせんつたえており、義昭よしあき意向いこう一定いってい割合わりあい受容じゅようされていた[35]

さらに、毛利もうり義昭よしあきようしたことによって、毛利もうり家中かちゅうにおいて、義昭よしあき輝元てるもとという「二人ふたり君主くんしゅ」を危険きけんせいもあった[35]。それは、義昭よしあき輝元てるもとあたましに、毛利もうりしょしょうむすびつき、毛利もうり家中かちゅう二分にぶんするということである[36]。だが、義昭よしあき輝元てるもと配慮はいりょし、毛利もうりしょしょう栄典えいてん褒詞ほうしあたえるさいには、輝元てるもとかいしてたまものくみしている[37]。とはいえ、毛利もうり義昭よしあき擁立ようりつするかぎり、この危険きけんせいから完全かんぜん開放かいほうされることはなかった[37]

義昭よしあき最前線さいぜんせんたたか毛利もうりしょしょうたいして、しばしば侍臣じしん派遣はけんし、激励げきれいさせている[38]。たとえば、義昭よしあき上月こうづきじょうたたかさいしろ包囲ほういする毛利もうりじん木島きしま昭光あきみつ派遣はけんし、その将兵しょうへいをねぎらうとともに、小林こばやしこう駐留ちゅうりゅう督戦とくせんさせた[39]吉川よしかわ元長もとながはこれに感激かんげきし、したしい僧侶そうりょ義昭よしあきへの感謝かんしゃ言葉ことばしるした手紙てがみおくっている[38]。このように、義昭よしあき激励げきれい毛利もうりしょしょう奮起ふんきし、戦意せんいたもつことができた[38]

義昭よしあき信長のぶながかた武将ぶしょう荒木あらき村重むらしげ調しらべりゃくにも一役ひとやくっている[37]義昭よしあき配下はいか小林こばやしこう毛利もうり武将ぶしょうとともに、村重むらしげのもとをおとずれ、毛利もうり帰順きじゅんするように説得せっとくした[37]。これにより、村重むらしげ毛利もうり寝返ねがえった[37]輝元てるもと村重むらしげ帰順きじゅんよろこび、いえこう褒詞ほうしあたえ、その功績こうせきとなえたという[37]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 天正てんしょう10ねん1582ねん)2がつ13にち吉川よしかわけいやす子孫しそんのこしたおけぶん石見いわみ吉川よしかわ文書ぶんしょ」では、「義昭よしあき将軍しょうぐん織田おだ上総かずさかい信長のぶなが退治たいじのために、備後びんご鞆のうら動座どうざされ、毛利もうりみぎ馬頭めず大江おおえ輝元てるもと朝臣あそんふく将軍しょうぐんきゅうり、び(ならび)に小早川こばやかわ左衛門さえもん隆景たかかげ吉川よしかわ駿しゅん河守こうもり元春もとはる父子ふし、その権威けんいをとって都鄙とひぼこだて(とひむじゅん)にをよふ(およぶ)」としるされている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b 奥野おくの 1996, p. 241.
  2. ^ a b c 山田やまだ 2019, p. 263.
  3. ^ 久野くの雅司まさし 2017, p. 186.
  4. ^ a b c 天野あまの 2016, p. 143.
  5. ^ 山田やまだ 2019, p. 262.
  6. ^ a b 光成みつなりじゅん 2016, p. 126.
  7. ^ 奥野おくの 1996, p. 243.
  8. ^ a b 山田やまだ 2019, p. 264.
  9. ^ 池上いけがみ 2002, p. 152.
  10. ^ 奥野おくの 1996, p. 247.
  11. ^ 山田やまだ 2019, p. 265.
  12. ^ 光成みつなりじゅん 2016, p. 128.
  13. ^ a b c d e 久野くの雅司まさし 2017, p. 187.
  14. ^ 久野くの雅司まさし 2017, p. 185.
  15. ^ 奥野おくの 1996, p. 248.
  16. ^ a b 山田やまだ 2019, p. 335.
  17. ^ a b c d e f 山田やまだ 2019, p. 338.
  18. ^ 小林こばやしじょう足利あしかが義昭よしあきうえこくについて」『山城やましろこころざし』19しゅう、2008ねん 
  19. ^ 奥野おくの 1996, p. 291.
  20. ^ a b c d e しば 2020, p. 191.
  21. ^ 光成みつなりじゅん 2016, p. 135.
  22. ^ a b 久野くの雅司まさし 2017, pp. 189–190.
  23. ^ 木下きのした 2014, 「鞆動座どうざ将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあきとその周辺しゅうへんをめぐって」
  24. ^ 奥野おくの 1996, p. 266.
  25. ^ a b c d 山田やまだ 2019, p. 278.
  26. ^ 平山ひらやま 2017, p. 145.
  27. ^ 山田やまだ 2019, pp. 278–279.
  28. ^ 山田やまだ 2019, pp. 279–280.
  29. ^ a b c d e f 山田やまだ 2019, p. 280.
  30. ^ 山田やまだ 2019, pp. 280–281.
  31. ^ a b c d e 山田やまだ 2019, p. 281.
  32. ^ 久野くの雅司まさし 2017, p. 190.
  33. ^ 山田やまだ 2019, pp. 307–308.
  34. ^ a b c 山田やまだ 2019, p. 380.
  35. ^ a b c d e f g h 山田やまだ 2019, p. 283.
  36. ^ 山田やまだ 2019, pp. 283–284.
  37. ^ a b c d e f 山田やまだ 2019, p. 284.
  38. ^ a b c 山田やまだ 2019, p. 282.
  39. ^ 奥野おくの 1996, p. 258.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 奥野おくの高広たかひろ足利あしかが義昭よしあき』(新装しんそうばん吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1996ねんISBN 4-642-05182-1 
  • 山田やまだ康弘やすひろ足利あしかが義輝よしてる義昭よしあき 天下でんかしょさむらいおもこうミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2019ねん12月。ISBN 4623087913 
  • 光成みつなりじゅん毛利もうり輝元てるもと 西国さいこくまかかるのよしこう』〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉2016ねん5がつISBN 462307689X 
  • 久野くの雅司まさし足利あしかが義昭よしあき織田おだ信長のぶなが 傀儡かいらい政権せいけん虚像きょぞう』戒光さち出版しゅっぱん中世ちゅうせい武士ぶし選書せんしょ40〉、2017ねんISBN 978-4864032599 
  • 天野あまの忠幸ただゆき三好みよし一族いちぞく織田おだ信長のぶなが天下てんか」をめぐる覇権はけん戦争せんそう』戒光さち出版しゅっぱん中世ちゅうせい武士ぶし選書せんしょ31〉、2016ねんISBN 978-4864031851 
  • しば裕之ひろゆき織田おだ信長のぶなが: 戦国せんごく時代じだいの「正義まさよし」をつらぬく』平凡社へいぼんしゃ中世ちゅうせいから近世きんせいへ〉、2020ねん12月。 
  • 光成みつなりじゅん毛利もうり輝元てるもと 西国さいこくまかかるのよしこうミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2016ねん5がつISBN 462307689X 
  • 平山ひらやまゆう武田たけだ滅亡めつぼう角川かどかわ選書せんしょ、2017ねん2がつ 

関連かんれん項目こうもく

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