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浦戸うらと一揆いっき

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浦戸うらとじょういしぶみ

浦戸うらと一揆いっき(うらどいっき)は、慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたか結果けっか改易かいえき処分しょぶんとなった長宗我部ちょうそかべ家臣かしん本拠地ほんきょち浦戸うらとしろわたしに反対はんたいしてこした一揆いっき

概要がいよう[編集へんしゅう]

関ヶ原せきがはらたたかいにやぶれた土佐とさこく長宗我部ちょうそかべ盛親もりちか帰国きこくゆるされないまま改易かいえきされ、追放ついほう処分しょぶんけた。同年どうねん徳川とくがわ家康いえやす井伊いい直政なおまさ家臣かしん上使じょうしとして土佐とさこく派遣はけんして当時とうじ本拠地ほんきょちであった浦戸うらとしろ接収せっしゅうさせようとした。だが、これに反発はんぱつした長宗我部ちょうそかべ家臣かしん開城かいじょうこばんで一揆いっきこし、かえって宿所しゅくしょであったゆき蹊寺を1まん7せんにん包囲ほういした。これに激怒げきどした徳川とくがわ家康いえやす四国しこくしょ大名だいみょう土佐とさへの派兵はへいめいじた。一方いっぽう長宗我部ちょうそかべ家臣かしんあいだでは重臣じゅうしんきゅうの「年寄としよりかた」といちりょう具足ぐそくきゅうの「家中かちゅうかた」のあいだ意見いけん対立たいりつしょうじ、これをきっかけに一部いちぶ重臣じゅうしん策謀さくぼうをもって浦戸うらとじょう一揆いっきぐんしろがいし、12月1にち動揺どうようした一揆いっきぐん浦戸うらとしろがいやぶった。その結果けっか、12月5にち浦戸うらとじょう接収せっしゅう作業さぎょう完了かんりょうし、よく慶長けいちょう6ねん1がつ8にち1601ねん2がつ10日とおかしん領主りょうしゅ山内やまうち一豊かずとよ浦戸うらとじょう入城にゅうじょうした。だい坂城さかき家康いえやすもとおくられた一揆いっきかた首級しゅきゅうは173とつたえられ、その残党ざんとうりがおこなわれた。

一揆いっき背景はいけいとして、主戦しゅせんではない長宗我部ちょうそかべたいする過酷かこく処分しょぶんたいする反発はんぱつうものもあるが、長宗我部ちょうそかべ独特どくとくいちりょう具足ぐそく軍制ぐんせいとの関係かんけいわれている。この制度せいど当時とうじ中央ちゅうおう織田おだ豊臣とよとみ徳川とくがわ政権せいけん)ですすめられていたへいのう分離ぶんり逆行ぎゃっこうする性格せいかくゆうしており、土佐とさ支配しはいしゃ現地げんちとは無関係むかんけい織田おだ豊臣とよとみ家臣かしん出身しゅっしん山内やまうちわることでいちりょう具足ぐそく身分みぶん剥奪はくだつにつながることはあきらかであった。このことは、武士ぶし身分みぶんとして内外ないがいみとめられる存在そんざいであった重臣じゅうしん最終さいしゅうてき接収せっしゅうおうじて一揆いっき鎮圧ちんあつ協力きょうりょくした姿勢しせい武士ぶし身分みぶん剥奪はくだつおそれたいちりょう具足ぐそく抵抗ていこう姿勢しせいという温度おんどになってあらわれたとえる。

しん領主りょうしゅ山内やまうち一豊かずとよ長宗我部ちょうそかべ時代じだい政策せいさく尊重そんちょうかかげ、「年寄としよりかた」の一部いちぶ土佐とさはん上士じょうしとしてむかえた一方いっぽうへいのう分離ぶんり不完全ふかんぜんとなり、いちりょう具足ぐそく郷士ごうしとしてかかえることになる。

備考びこう[編集へんしゅう]

  • 土佐とさ物語ものがたりまきだいじゅうにおいて、一揆いっきかたられたくびは273としるされている(大将たいしょう8めいふくむ)。一揆いっきものあたま竹ノ内たけのうちそう左衛門さえもん大将たいしょうられたのち討死うちじに)。いちりょう具足ぐそく大将たいしょうは、吉川よしかわ善助ぜんすけ徳井とくいたすく亀之助かめのすけ池田いけだ又兵衛またべえ野村のむら孫右衛門まごえもん福良ふくら助兵衛すけべえさいおか彦兵衛ひこべえしたもと十兵衛じゅうべえ近藤こんどう兵衛ひょうえ記述きじゅつされている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 広谷ひろたにじゅうろう浦戸うらと一揆いっき」『日本にっぽん歴史れきしだい事典じてん 1』小学館しょうがくかん、2000ねんISBN 978-4-09-523001-6 
  • 秋沢あきさわしげる土佐とさこく高知こうちはんりょう慶長けいちょうねん浦戸うらと一揆いっき」『国史こくしだい辞典じてん 15』吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1996ねんISBN 978-4-642-00515-9