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はたかわしょう

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はた かわしょう
はたかわしょう前賢ぜんけん故実こじつ』より
時代じだい 古墳こふん時代じだい - 飛鳥あすか時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
墓所はかしょ 兵庫ひょうごけん赤穂あこう坂越さこしうらおき生島いくしま伝承でんしょう
官位かんい 大仁おおひとしょうとく?)
主君しゅくん よう明天めいてんすめらぎたかしたかし天皇てんのう推古天皇すいこてんのう
聖徳太子しょうとくたいし
氏族しぞく はたみやつこ
父母ちちはは ちちはた国勝くにかつ[1]
いししょうものぬし萬里ばんり?、こうくに?、みことりょう
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はた かわしょう(はた の かわかつ)は、はた族長ぞくちょうてき人物じんぶつであり、聖徳太子しょうとくたいしつよ影響えいきょうあたえた人物じんぶつとされる。せいみやつこはた国勝くにかつとする系図けいずがある(古墳こふん時代じだいから飛鳥あすか時代ときよ)。かんむり大仁おおひと(『上宮かみみや聖徳太子しょうとくたいしでん闕記』によるとしょうとく[1]。『朝野ちょうやぐんまきさんには「大花おおはなのぼる」とある。

上宮かみみや聖徳せいとく法王ほうおうみかどせつ』では「川勝かわかつはたこう」とかれる。この場合ばあいの「おおやけ」はせいではなく尊称そんしょうである。

出自しゅつじ

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日本書紀にほんしょき記述きじゅつでは、かわしょう先祖せんぞにあたるはた4世紀せいきころはたこくから百済くだら経由けいゆして日本にっぽん列島れっとう倭国わのくに帰化きかした有力ゆうりょく氏族しぞくである[2]弓月ゆづきくん直系ちょっけい子孫しそんにあたる。一方いっぽうで、安閑天皇あんかんてんのう落胤らくいんせつがある。

経歴けいれき

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かわしょう聖徳太子しょうとくたいし儕輩さいはい同志どうし)としてくにづくりにおおきく貢献こうけんしたとされており、当時とうじはた族長ぞくちょうてき人物じんぶつであったとされる。富裕ふゆう商人しょうにんでもあり、朝廷ちょうてい財政ざいせいかかわっていたといわれる。四天王寺してんのうじ建立こんりゅう運営うんえいについては、聖徳太子しょうとくたいしつよ影響えいきょうおよぼし、慈善じぜん事業じぎょう制度せいど四箇しかいん)の設置せっちかかわった。

上宮かみみや聖徳太子しょうとくたいしでん闕記』によると、 よう明天めいてんすめらぎ2ねん587ねん)の丁未ていみらんさいは「軍政ぐんせい(『聖徳太子しょうとくたいしつてれき』では「ぐんまこと(3とうかん)」)」の地位ちいにあり、ぐんひきいて聖徳太子しょうとくたいし守護しゅごしつつ、聖徳太子しょうとくたいしめいじられて仏像ぶつぞうとするための白膠木ぬるで(ぬるで)の用意よういしたという。聖徳太子しょうとくたいし日本書紀にほんしょきや『聖徳太子しょうとくたいしでんれき』では迹見赤檮いちい)がえのきからおとした[3]物部守屋もののべのもりやくびったのもはたかわかちとのせつもある。[よう出典しゅってん]そしてらんかんむりじゅうかい大仁おおひとじょされた。

また、聖徳太子しょうとくたいし諸国しょこくめぐったさいに、山城やましろこくの「かえで野村のむら(=現在げんざい葛野くずの)」の「はちおか」のみなみみやて、そのみやかわしょう一族いちぞくひきうやまうことをおこたらなかったのでしょうとくじょされ、またみやたまわったという。のちしん仏像ぶつぞうたまわったさいにはみやてらとし、水田すいでんすうじゅうまちならびに「山野さんやとうほどこせいれした。これが広隆寺こうりゅうじである。 一方いっぽう日本書紀にほんしょき』によれば、推古天皇すいこてんのう11ねん603ねん)、聖徳太子しょうとくたいしが「わたしのところにとうと仏像ぶつぞうがあるが、だれかこれをおがみたてまつるものはいるか」としょしんうたところ、かわしょうが、この仏像ぶつぞうゆずけ「はち岡寺おかでら」をてたという。

一方いっぽううけたまわ5ねん838ねん成立せいりつの『広隆寺こうりゅうじ縁起えんぎ』(うけたまわ縁起えんぎ)や寛平かんぺい2ねん(890ねんごろ成立せいりつの『広隆寺こうりゅうじ資財しざい交替こうたい実録じつろくちょう冒頭ぼうとう縁起えんぎには、広隆寺こうりゅうじ推古天皇すいこてんのう30ねん622ねん)、同年どうねん崩御ほうぎょした聖徳太子しょうとくたいし供養くようのために建立こんりゅうされたとある。

推古天皇すいこてんのう18ねん610ねんしん使節しせつむかえるしるべしゃにんうさぎともあた[4]すめらぎごく天皇てんのう3ねん644ねん駿河するがこく富士川ふじかわ周辺しゅうへんで、だい生部いけぶ中心ちゅうしんとした常世とこよしんあがめる集団しゅうだん宗教しゅうきょう)を追討ついとうしている[5]

広隆寺こうりゅうじ来由らいゆ』には「大花おおはなのぼるはたづくり川勝かわかつ」とかれている。

かんむり 

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後世こうせい書物しょもつにおいてかわしょうさづけられたとされるしょうとく大花おおはなのぼる)は、大夫たいふかく代表だいひょうしゃさづけられたかんむりであって、そのかくではないかわしょうしょうとくになったというのは後世こうせいはた誇張こちょうである[6]

かわしょう丁未ていみらん参戦さんせん 

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かわしょうは、おおくの書物しょもつにおいて丁未ていみらん参戦さんせんしたことになっているが、『日本書紀にほんしょき』にそのような記述きじゅつられないため、実際じっさいには参戦さんせんしていないとかんがえられる。そのような伝承でんしょう発生はっせいしたのは『日本書紀にほんしょき』によって原始げんしてき聖徳太子しょうとくたいし伝説でんせつ形成けいせいされ、四天王寺してんのうじが『日本書紀にほんしょき』をれて聖徳太子しょうとくたいし縁起えんぎこしらえ、はた人間にんげんが『日本書紀にほんしょき』での太子たいしかわしょう関係かんけいまえ、あらたに「かわしょう丁未ていみらん参戦さんせんした」と『上宮かみみや聖徳太子しょうとくたいしでん闕記』にしるしたからであるとの見解けんかいもある。

逸話いつわ

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初瀬川はせがわ氾濫はんらんにより三輪みわ大神おおがみ社前やしろまえながいた童子どうじ欽明天皇てんのうは、以前いぜんゆめで「われはた始皇帝しこうていさい誕なり[ちゅう 1]えんりてこのくにまれたり」と神童しんどうあらわれていたことから、「ゆめにみた童子どうじは此のならん」として殿上てんじょうした[7][8]のちみかど始皇帝しこうていゆめちなんで童子どうじに「はた」のせい(かばね)をくだし、また初瀬川はせがわ氾濫はんらんよりたすかったことから「かわかち」としょうしたとされる[9][10]

すめらぎごく天皇てんのう3ねん644ねん)7がつ富士川ふじかわのあたりで、だい生部いけぶながさ4すんほどのむしして、「これは常世とこよかみである。このかみまつひとは、とみ長寿ちょうじゅられる」といい、むしまつりをすることをすすめた。巫女ふじょたちもかみのおげといつわり、「常世とこよかみまつると、まずしいひととみ老人ろうじん若返わかがえる」といった。このために信仰しんこうひろまり、でも田舎いなかでも常世とこよむしをとって安置あんちし、財宝ざいほうしたが、なん利益りえきもなく、損失そんしつおおかった。はたかわしょう民衆みんしゅうだまされるのをにくみ、だい生部いけぶとららしめたところ、巫女ふじょおそれてまつりをすすめることをやめた。ときひと以下いかのようなうたんだ[5]

太秦うずまさかみともかみこえくる 常世とこよかみち懲ますも(ウヅマサハ カミトモカミト キコエクル トコヨノカミヲ ウチキタマスモ)

太秦うずまさ(うづまさ)はかみなかかみという評判ひょうばんこえてくる。常世とこよかみを、ちこらしたのだから。〉

風姿ふうしはなでんだいよんべられている伝説でんせつによれば、摂津せっつこく難波なんばうらから出航しゅっこうし、播磨はりまこく赤穂あこうぐん坂越さこしうら現在げんざい兵庫ひょうごけん赤穂あこう坂越さこし)へ漂着ひょうちゃくしたのちだい避大明神みょうじん大荒おおあら大明神だいみょうじん)となったとされている。そのため、兵庫ひょうごけん赤穂あこう坂越さこしぼっしたとするせつがある。坂越さこしだい避神しゃはこのだい避大明神みょうじん主祭しゅさいしんとし、神社じんじゃ神域しんいきである生島いくしまにははたかわしょうのものとつたえられるはかがある。おなじく赤穂あこう市有しゆうねん(うね)にもだい避神しゃがあるがこれは坂越さこし分家ぶんけである。

宇治うじ放生ほうじょういん伝説でんせつによると、推古天皇すいこてんのう11ねん(603ねん)、聖徳太子しょうとくたいしいのちけたはたかわしょう宇治橋うじばしけ、放生ほうじょういんをもひらけそうしたという。ただし宇治橋うじばし断碑だんぴ碑文ひぶんによれば宇治橋うじばし大化たいか2ねん(646ねん)にけられた元興寺がんごうじそうであるみちとうによってとされている。

宿やどしん

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後世こうせいにおいては神格しんかくがされており、おうめん北斗七星ほくとしちせいかみである宿やどしん同一どういつされていた。服部はっとり幸雄ゆきおは「宿やどしんであるはたかわしょう実体じったいかみであり、かみはたかわしょうどういちできる」、川村かわむらみなとは「「宿やどしん」は具体ぐたいてきには「おうめん」としてあらわされ、歴史れきし神話しんわてきにははたかわしょうであり、それはかみでもありうるということになるのである。」と主張しゅちょうしている[11][12]

芸能げいのうかみ

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かわしょう芸能げいのうかみとしても信仰しんこうされている。『風姿ふうしはなでんだいよんによれば、上宮かみみや太子たいし聖徳太子しょうとくたいし)がはたかわしょうに「ろくじゅうろくばんものまね」をつくらせ、紫宸殿ししんでんわせたものが「申楽さるがく」のはじまりとつたえている。そのため、かわしょう申楽さるがく猿楽さるがく)・能楽のうがく始祖しそとされている。

系譜けいふ

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はた後裔こうえいしょうするものははなはおおく、以下いかのものがげられる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ そうほん

出典しゅってん

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  1. ^ a b c はた系図けいず[1]」『山城やましろしゅう葛野かずらのぐんかえで大堰おおせぎきょう広隆寺こうりゅうじ来由らいゆ所収しょしゅう
  2. ^ 新撰しんせん姓氏せいしろく左京さきょうしょしげる
  3. ^ 上宮かみみや聖徳太子しょうとくたいしでん闕記』「太子たいしまたちかい四天王してんのうそくちゅうぞくくび大連たいれんむねたおせ而墜じゅ
  4. ^ 日本書紀にほんしょき推古天皇すいこてんのう18ねん10がつ9にちじょう
  5. ^ a b 日本書紀にほんしょきすめらぎごく天皇てんのう3ねん7がつじょう
  6. ^ 加藤かとう謙吉けんきちはたとそのみん 渡来とらい氏族しぞく実像じつぞう』(白水しろみずしゃ、 1998ねん
  7. ^ 世阿弥ぜあみ風姿ふうしはなでんだい4、かみただしうん (ぬま (1979), p. 50)
  8. ^ はやし羅山らざん本朝ほんちょう神社じんじゃこう』5; 『和漢わかんさんさい図会ずえ』72 (青木あおき (1985), p. 5)
  9. ^ 松本まつもと正造しょうぞう聖徳太子しょうとくたいしでん図会ずえぶんもりどう、1887ねんはたかわしょう出生しゅっしょう、106ぺーじ
  10. ^ 高木たかぎ敏雄としお日本にっぽん神話しんわ物語ものがたり服部はっとり書店しょてん、1911ねんはたかわしょう、191ぺーじ
  11. ^ 服部はっとり幸雄ゆきお宿やどかみろん日本にっぽん芸能げいのうみん信仰しんこう研究けんきゅう』(岩波書店いわなみしょてん、2009ねん)p.47,58 ISBN 978-4-000-23459-7
  12. ^ 川村かわむらみなとやみかみ変幻へんげんするかみなぞう』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2008ねん
  13. ^ 太田おおたあきら姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん
  14. ^ 駿しゅんこくざつこころざし』。みことりょうかわしょう次男じなんとした書物しょもつのこされているが詳細しょうさい不明ふめい
  15. ^ 地下ちか家伝かでん

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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