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蘇我馬子そがのうまこ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
蘇我そが 馬子まご
蘇我馬子そがのうまこぞう
斑鳩寺いかるがでらぞう聖徳太子しょうとくたいしかちかずらけいこうさん』より)
時代じだい 飛鳥あすか時代ときよ
生誕せいたん しょう[1]551ねん?)[2]
死没しぼつ 推古天皇すいこてんのう34ねん5がつ20日はつか626ねん6月19にち
別名べつめい しま大臣だいじん
墓所はかしょ 桃原とうばるいし舞台ぶたい古墳こふんか)
官位かんい 大臣だいじん
主君しゅくん さとしたち天皇てんのうよう明天めいてんすめらぎたかしたかし天皇てんのう推古天皇すいこてんのう
氏族しぞく 蘇我そが
父母ちちはは ちち蘇我稲目そがのいなめ
兄弟きょうだい けんしおひめ馬子まごしょうあねくんいしすんめい
さかいぜいしょう祚臣
つま 物部ものべむすめ
河上かわかみむすめ善徳ぜんとく蝦夷えぞ刀自とじ郎女いらつめ
ほうひさげ郎女いらつめくら麻呂まろ
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蘇我そがりゃく系図けいずかく人物じんぶつ記事きじへのリンク表示ひょうじ

蘇我そが 馬子まご(そが の うまこ[注釈ちゅうしゃく 1]欽明天皇てんのう12ねん?〈551ねん[2] - 推古天皇すいこてんのう34ねん5がつ20日はつか626ねん6月19にち〉)は、飛鳥あすか時代ときよ政治せいじ貴族きぞく邸宅ていたくしまかべたいけがあったことからしま大臣だいじんともばれた。

さとしたちあさ大臣だいじんき、 以降いこうよう明天めいてんすめらぎたかしたかし天皇てんのう推古天皇すいこてんのうの4だいつかえて、54ねんにわたり権勢けんせいるい、蘇我そが全盛ぜんせい時代じだいきずいた。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

以下いかは『日本書紀にほんしょき』『古事記こじき』の記述きじゅつによるものである。

さとしたち天皇てんのう元年がんねん572ねん)のさとたち天皇てんのう即位そくい大臣だいじんとなる。

さとしたち天皇てんのう13ねん584ねん百済くだらから鹿深ろくしんしん石像せきぞういちたい佐伯さえきれん仏像ぶつぞう一体いったいっていた。それを馬子まごうてもらいけ、司馬しばいたるとう池邊いけべこおり派遣はけんして修行しゅぎょうしゃさがさせたところ、播磨はりまこく一説いっせつによると赤穂あこうぐん矢野やのしょう)で高句麗こうくりめぐみ便びんという還俗げんぞくしゃつけした。馬子まごはこれをとして、司馬しばいたるとうむすめしま得度とくどさせてあまとし善信よしのぶあまとなし、さら善信よしのぶあま導師どうしとしてぜんぞうあまめぐみぜんあま得度とくどさせた。馬子まご仏法ぶっぽう帰依きえし、さんにんあまうやまった。馬子まご石川いしかわたく仏殿ぶつでんつくり、仏法ぶっぽうひろめた。

さとしたち天皇てんのう14ねん2がつ585ねん)、馬子まごやまいになり、卜者ぼくしゃうらなわせたところ「ちちいねのときに仏像ぶつぞう破棄はきされたたたりである」とわれた。馬子まごさとしたち天皇てんのう奏上そうじょうして仏法ぶっぽうまつ許可きょかた。ところがこのころ疫病えきびょうがはやりおおくの死者ししゃした。3月、はいふつ物部守屋もののべのもりやちゅうしん勝海かつみが「しげるかみ信奉しんぽうしたために疫病えきびょうきた」と奏上そうじょうし、さとしたち天皇てんのう仏法ぶっぽうめるようみことのりした。守屋もりやてらかい、仏殿ぶつでん破壊はかいし、仏像ぶつぞう難波なんば堀江ほりえませた。守屋もりや馬子まご仏教ぶっきょう信者しんじゃ罵倒ばとうし、さんにん尼僧にそうすようめいじた。馬子まご尼僧にそうし、守屋もりや全裸ぜんらにしてしばげ、しり鞭打むちうった。しかし、疫病えきびょうおさまらずさとたち天皇てんのう守屋もりや病気びょうきになった。人々ひとびとは「仏像ぶつぞういたつみである」とった。

同年どうねん6がつ馬子まご病気びょうきなおらず、奏上そうじょうして仏法ぶっぽうまつ許可きょかもとめた。さとしたち天皇てんのう馬子まごたいしてのみ許可きょかし、さんにん尼僧にそうかえした。馬子まごさんにん尼僧にそうおがみ、あらたにてらつくり、仏像ぶつぞうむかえて供養くようした。

同年どうねん8がつさとしたち天皇てんのう崩御ほうぎょした。葬儀そうぎおこな殯宮ひんきゅう馬子まご守屋もりやたがいに罵倒ばとうした。

  • 守屋もりや「(ながかたなして弔辞ちょうじ小柄こがら馬子まごへ)まるでられたすずめのようだ」
  • 馬子まご「(緊張きんちょうからだふるわせながら弔辞ちょうじ守屋もりやへ)すずけたらさぞ面白おもしろかろう」

たちばなゆたかにち皇子おうじ(欽明天皇てんのう皇子おうじはは馬子まごあねけんしおひめ)が即位そくいし、よう明天めいてんすめらぎとなる。よう明天めいてんすめらぎ異母弟いぼていあな皇子おうじ皇位こういきたがっており、不満ふまんいた。あな皇子おうじ守屋もりやむすび、先帝せんていさとしたち天皇てんのう寵臣ちょうしんさんりんぎゃく殺害さつがいさせた。

よう明天めいてんすめらぎ2ねん4がつ587ねん)、よう明天めいてんすめらぎやまいになり、三宝さんぼう仏法ぶっぽう)を信仰しんこうすることを群臣ぐんしんはかった。守屋もりやちゅうしん勝海かつみ反対はんたいしたが、馬子まごみことのりほうずべきとして、あな皇子おうじそう豊国ほうこくをつれてきたさせた。守屋もりやおこったが、群臣ぐんしんおおくが馬子まご味方みかたであることをり、河内かわうちこく退しりぞいた。

ほどなくもちい明天めいてんすめらぎ崩御ほうぎょした。守屋もりやあな皇子おうじ皇位こういにつけようとしたが、同年どうねん6がつ馬子まご先手せんてち炊屋ひめさとしたち天皇てんのうきさき)をほうじてあな皇子おうじ殺害さつがいした。同年どうねん7がつ馬子まご群臣ぐんしんはか守屋もりやほろぼすことをめ、しょ皇子おうじしょ豪族ごうぞく大軍たいぐん挙兵きょへいした。馬子まごぐんかわ内国ないこく渋川しぶかわぐん守屋もりや居所きょしょめるが軍事ぐんじ氏族しぞく物部ものべへい精強せいきょう稲城いなぎきずいて頑強がんきょう抵抗ていこうし、馬子まごぐんさん撃退げきたいした。厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいし四天王してんのうぞう戦勝せんしょう祈願きがんし、馬子まごてらとう建立こんりゅうし、仏法ぶっぽうひろめることをちかった。馬子まごぐん奮起ふんきして攻勢こうせいをかけ、迹見赤檮いちい守屋もりや射殺しゃさつし、馬子まご勝利しょうりした。

同年どうねん8がつ馬子まごとまり瀬部せべ皇子おうじ即位そくいさせ、たかしたかし天皇てんのうとした。炊屋ひめ皇太后こうたいごうとなった。

たかしたかし天皇てんのう元年がんねん588ねん馬子まご善信よしのぶあまらを百済くだら留学りゅうがくさせた。

588ねん飛鳥寺あすかでら建立こんりゅうされた。このとき、福岡ふくおかにはすでせん如寺があったとされ、仏教ぶっきょうまった馴染なじまれていないものではなかった。

589ねんに、たかしたかし天皇てんのう東山ひがしやまみち東海道とうかいどう北陸ほくりくどう使者ししゃ派遣はけんして、蝦夷えぞ国境こっきょう海浜かいひん国境こっきょうえつ国境こっきょうさせた。中国ちゅうごくではずい中国ちゅうごく統一とういつしたため、難民なんみん発生はっせいしていた可能かのうせいがある。

たかしたかし天皇てんのう4ねん591ねんたかしたかし天皇てんのう群臣ぐんしんはかり、にん失地しっち回復かいふくのため2まんぐん筑紫つくし派遣はけんし、使者ししゃしんおくった。

たかしたかしは、欽明やさとしたちようあかりのように、磯城しきしまいわあまりといったやまと王権おうけん成立せいりつ以来いらい伝統でんとうてきではなく、倉梯くらはしという山間さんかんみや造営ぞうえいし、蘇我そがやマヘツキミそう距離きょりった。そして、たかしたかし蘇我馬子そがのうまこ蘇我そがやマヘツキミそうは、いくつかの問題もんだい分裂ぶんれつまねいてしまった[3]

1つ齟齬そごは、たかしたかし大伴おおともぬかしゅむすめ大伴おおとも小手こてとのあいだはち皇子おうじをもうけたことである。後日ごじつだんなかで、「蘇我そが嬪・河上かわかみむすめ」のえるが、彼女かのじょ后妃こうひ記事きじえないのは、たかしたかし皇子おうじおんなんでいないか、正式せいしきでなかったか、実在じつざい人物じんぶつでなかったという可能かのうせいがある。いずれにせよ、たかしたかし主要しゅよう后妃こうひ大伴おおとも小手こてであったのはたしかである。大王だいおうとのミウチてき結合けつごうだいいち権力けんりょく基盤きばんとしていた蘇我そがにとって、たかしたかし大伴おおともむすめ結婚けっこんしたことは危機ききであった。はち皇子おうじ皇位こうい継承けいしょうすれば、蘇我そが外戚がいせき地位ちい確保かくほできなくなり、大王だいおう嫡流ちゃくりゅうたかしたかしけいうつってしまう可能かのうせいがあった[3]

2つ齟齬そごは、588ねん飛鳥寺あすかでら建立こんりゅうされたことである。物部守屋もののべのもりやくなったとはいえ、いまだ仏教ぶっきょう全面ぜんめんてき受容じゅようされているとはがたいこの時期じき本格ほんかくてきだい伽藍がらん寺院じいん建立こんりゅうには、賛同さんどうしない勢力せいりょく当然とうぜんながら存在そんざいしたはずであり、その1人ひとりたかしたかしであった可能かのうせいがある。『日本書紀にほんしょき』には、たかしたかし仏教ぶっきょうとのかかわりをしめ記事きじ存在そんざいしない[3]

3つ齟齬そごは、589ねんたかしたかし東山ひがしやまみち東海道とうかいどう北陸ほくりくどう使者ししゃ派遣はけんして、蝦夷えぞ国境こっきょう海浜かいひん国境こっきょうえつ国境こっきょうさせたという政策せいさくである。これが国造くにのみやつここく境界きょうかい画定かくていともなうものであることから、国造くにのみやつこせい誕生たんじょう東国とうごくにもたらした契機けいきであり、地方ちほう支配しはいの1つのであったとかんがえられる。やまと王権おうけんによる地方ちほう支配しはい進展しんてんすれば、それをこころよおもわない勢力せいりょく存在そんざいしたことも推察すいさつできる[3]

4つ齟齬そごは、591ねんにん復興ふっこうぐん派遣はけんである。『日本書紀にほんしょき』によれば、たかしたかしみずからが発議はつぎし、マヘツキミそうがそれに同意どういして、「まんあまり」のへい筑紫つくし出陣しゅつじんし、しん問責もんせきする使者ししゃはつつかわされた。たかしたかしとしてみれば、欽明以来いらい悲願ひがん自分じぶんだい一気いっき解決かいけつしようとしたのであろうが、ずい中国ちゅうごく統一とういつという国際こくさい情勢じょうせいなかでは時代じだいにそぐわない政策せいさくであり、これに反対はんたいする勢力せいりょく存在そんざいしたとかんがえられる[3]

たかしたかし天皇てんのう5ねん10がつ592ねん)、天皇てんのういのしし献上けんじょうされたさいに、たかしたかしいのししして「いつかいのししくびるように、ちんにくいとおもものりたいものだ」と発言はつげんし、多数たすうへい召集しょうしゅうした。馬子まごたかしたかし天皇てんのう発言はつげんり、天皇てんのう自分じぶんきらっているとかんがえ、天皇てんのう殺害さつがいすること決意けついする。同年どうねん11がつ馬子まご東国とうごくから調しらべがあるといつわって、ひがしかんこまたかしたかし天皇てんのう殺害さつがいさせた。そのひがしかんこま馬子まごむすめ河上かわかみむすめうばってつまとした。おこった馬子まごひがしかんこま殺害さつがいさせた。

たかしたかし天皇てんのう支配しはいしゃそう全体ぜんたい利害りがい体現たいげんできず、大臣だいじん蘇我馬子そがのうまこぜんだいきさきゆたかしょく炊屋ひめたかしとの対立たいりつ顕在けんざいしたとき、権力けんりょく基盤きばんよわ天皇てんのう支配しはいしゃそう同意どういした殺害さつがいされるというのは、十分じゅうぶんこりうる事態じたいであった。しかもその要因よういんは、后妃こうひ問題もんだい宗教しゅうきょう政策せいさく地方ちほう支配しはい対外たいがい戦争せんそうふくめた外交がいこう問題もんだいのいずれか、もしくはすべてであり、王権おうけん存立そんりつ根幹こんかんかかわる問題もんだいであった可能かのうせいたか[3]

馬子まご皇太后こうたいごうであった炊屋ひめ即位そくいさせ、はつ女帝にょていである推古天皇すいこてんのうとした。厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいし)が皇太子こうたいしてられ、摂政せっしょうとなった。馬子まご聖徳太子しょうとくたいし合議ごうぎして政治せいじ運営うんえいし、仏教ぶっきょう奨励しょうれいし、かんむりじゅうかいじゅうななじょう憲法けんぽうさだめて中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめ、ずい使派遣はけんしてずい社会しゃかい制度せいど学問がくもん輸入ゆにゅうした。

推古天皇すいこてんのう4ねん596ねん馬子まご蘇我そがてらである飛鳥寺あすかでら建立こんりゅうした。

推古天皇すいこてんのう18ねん610ねん)にしん使つかいしょう墾田こんでんみや拝謁はいえつおこなったさいには、にわちゅうにおいて大伴おおとも蘇我蝦夷そがのえみし坂本さかもとぬかしゅ阿倍あべとりという「よん大夫たいふ」が使つかいむねいて馬子まご啓上けいじょうしており、有力ゆうりょく氏族しぞくから代表だいひょうを1にんすというマヘツキミせい原則げんそくやぶり、蘇我そが大臣だいじん大夫たいふかく1にんすという、氏族しぞくとはことなる地位ちい獲得かくとくしたことになる[3]。なお、馬子まごはこのとき政庁せいちょうまえ啓上けいじょうき、しん使つかいもの下賜かししており、馬子まご外交がいこう掌握しょうあくしている様子ようすうかがえる事例じれいである[3]

推古天皇すいこてんのう20ねん612ねんけんしおひめを欽明天皇陵てんのうりょうごうそうする儀式ぎしきおこなった。安閑あんかんせん欽明勢力せいりょく統一とういつしたいしひめ皇女おうじょではなく、けんしおひめが欽明りょうごうそうされたのは、やまと王権おうけん正統せいとうせいを、蘇我そがと欽明との結合けつごうもとめるという、推古およ馬子まご認識にんしきを、象徴しょうちょうてきかつ可視かしてきに、しかもだい規模きぼにしめしたものであった。けんしおひめは「すめらぎ太夫たゆうじん」と尊称そんしょうされ、しょ皇子おうじ群臣ぐんしんしたが、その順番じゅんばんは推古→しょ皇子おうじ馬子まご蘇我そがけい諸氏しょしぞくであり、現時点げんじてん王権おうけん序列じょれつ可視かしてきしめし、欽明いねはじまる王権おうけんさい確認かくにんおこなった[3]

推古天皇すいこてんのう28ねん620ねん聖徳太子しょうとくたいしともに「天皇てんのう」「くに」「しんれんともづくり国造くにのみやつこひゃく八十部并公民等本記」をしるす。

推古天皇すいこてんのう30ねん622ねん聖徳太子しょうとくたいし死去しきょした。馬子まご聖徳太子しょうとくたいし協調きょうちょうした一方いっぽう聖徳太子しょうとくたいしすすめた天皇てんのう権力けんりょく強化きょうか警戒けいかいしていた。

推古天皇すいこてんのう31ねん623ねんしん調ちょう催促さいそくするため馬子まごさかいゆう大将軍だいしょうぐんとするすうまんぐん派遣はけんした。しんたたかわずに朝貢ちょうこうした。

推古天皇すいこてんのう32ねん624ねん馬子まごもと蘇我そがほんきょ皇室こうしつ領地りょうちとなっていた葛城かつらぎけんえん大臣だいじん雄略天皇ゆうりゃくてんのうほろぼされたさい献上けんじょうした「葛城かつらぎむら」「葛城かつらぎたくなな」のことであるとかんがえられるが、蘇我稲目そがのいなめだいにはその経営けいえいけん管理かんりけん蘇我そが掌握しょうあくしていたとかんがえられる[3])の割譲かつじょう推古天皇すいこてんのう要求ようきゅうしたが、推古天皇すいこてんのうに「自分じぶん蘇我そがだしで、大臣だいじん叔父おじだから大臣だいじん要求ようきゅうなにでもいたが、これだけはききいれられない」と拒否きょひされた。

推古天皇すいこてんのう34ねん(626ねん馬子まご死去しきょした。

馬子まごほうむられた桃原とうばるは、奈良ならけん明日香あすかむらしましょういし舞台ぶたい古墳こふんだとするせつ有力ゆうりょくである[4]。 また、どう古墳こふん西にしすうひゃくmの位置いちにある島庄しまのしょう遺跡いせきについて、邸宅ていたく一部いちぶだったとするせつがある。その北側きたがわ水田すいでんでは、一辺いっぺん42mの方形ほうけい発見はっけんされているが、それが「にわちゅう小池こいけ」と関連かんれんするというせつがある[3]

近年きんねん定説ていせつ

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馬子まご人物じんぶつについては『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつうところがおおきいが、いずれも後年こうねん藤原ふじわら権力けんりょくにぎってから編纂へんさんされたもので、のちに藤原ふじわらとなるちゅうしん栄達えいたつする契機けいきとなったおつへん蘇我そがほろぼした正当せいとうせいたかめる目的もくてきで、記紀きき登場とうじょうする蘇我そが皇室こうしつりを目論もくろ横暴おうぼう豪族ごうぞくとして悪事あくじばかりが強調きょうちょうされているのではないかというせつがある。馬子まごはか比定ひていされているいし舞台ぶたい古墳こふん封土ほうどがされ、はかあばかれたのは、蘇我そがたいする懲罰ちょうばつではなかったかとするせつ有力ゆうりょくであったが、反論はんろんもある。

推古天皇すいこてんのう時代じだいけるかんむりじゅうかい制度せいどじゅうななじょう憲法けんぽう創設そうせつずい使派遣はけんといった国内こくない政治せいじおよび政治せいじ外交がいこうなどのおおきな事績じせき無視むしするわけにいかず、これらを中心ちゅうしんとなって主導しゅどうした馬子まご功績こうせき皇族こうぞくである厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいし)がおこなったものとしるし、馬子まご太子たいし政敵せいてき位置いちづけたとするせつがあり、このせつから、「聖徳太子しょうとくたいしはいなかった」せつ、「聖徳太子しょうとくたいし蘇我馬子そがのうまこせつ提唱ていしょうされている。

また、専横せんおういちじるしい蘇我そが排除はいじょしたとされる大化たいか改新かいしんについても、近年きんねん事実じじつ関係かんけいことなるのではないかというせつ提唱ていしょうされており、馬子まごまごである蘇我蝦夷そがのえみし蘇我入鹿そがのいるか親子おやこのち実現じつげんする律令りつりょう体制たいせいへの移行いこうすすめ、外交がいこうめんでは朝鮮半島ちょうせんはんとうへの派兵はへい計画けいかく反対はんたいしていたが、天皇てんのう即位そくい目論もくろんでいたけい皇子おうじおつへんにゅう鹿しか殺害さつがいし、蝦夷えぞ自殺じさつみ、直後ちょくご孝徳天皇こうとくてんのうとして即位そくいした。その百済くだら支援しえん名目めいもくとした朝鮮半島ちょうせんはんとうへの武力ぶりょく介入かいにゅう強行きょうこうしたものの白村はくそんこうたたか大敗たいはいし、とうしんとの対立たいりつふかまる結果けっかとなった(おつへん#反動はんどうクーデターせつ)。その天智天皇てんぢてんのうとして即位そくいした中大兄皇子なかのおおえのおうじによりとうとの外交がいこう関係かんけい修復しゅうふく太宰府だざいふ強化きょうかによる国防こくぼう計画けいかく近江おうみ大津おおつみやへの遷都せんとこころみられたものの国内こくない不満ふまんおさまらず、その死後しごみずのえさるらんまね結果けっかとなっている。

奈良ならけん明日香あすかむらにおいて、蘇我入鹿そがのいるかていあととみられる遺構いこう発掘はっくつされているが、日本書紀にほんしょきしるされているようににゅう鹿しかが「うえ宮門きゅうもん(みかど)」「たに宮門きゅうもん」と呼称こしょうしてあたかも天皇てんのうのごとくった根拠こんきょとされる遺跡いせきからは武器ぶき武器ぶき発見はっけんされており、さながら軍事ぐんじ要塞ようさいからだしていたことが確認かくにんされている。

このことからにゅう鹿しかとう侵略しんりゃく警戒けいかいし、外交がいこうによる解決かいけつはかるとともに有事ゆうじさい皇室こうしつまもそなえをしていたのではないかとする、日本書紀にほんしょき記述きじゅつとはおおきなへだたりがある仮説かせつてられている。また、改新かいしんみことのり内容ないようについては藤原ふじわらきょうから出土しゅつどした木簡もっかんにより文書ぶんしょ奈良なら時代じだいえられたものと決着けっちゃくした。このように遺跡いせき発掘はっくつによる科学かがく調査ちょうさすすむにつれて、日本書紀にほんしょき記述きじゅつうたがいがしょうじ、蘇我そが専横せんおうについても信憑しんぴょうせいうたがいがしょうじている。

伝説でんせつ

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兵庫ひょうごけん相生あいおい小河おがわには宇麻こころざし神社じんじゃ(うましじんじゃ)という神社じんじゃがあり、いま祭神さいじん宇摩うまこころざしおもね斯訶備比ふるおそかみであるが、明治維新めいじいしん以前いぜんは「うま子宮しきゅう」とばれ蘇我馬子そがのうまこまつっていたとされる。

伝説でんせつによれば、蘇我馬子そがのうまこ相生あいおいんでしまい、その従者じゅうしゃ将監しょうげんこうあんはその地名ちめいにより小河おがわ姓名せいめいとし、馬子まごため菩提ぼだいとむらい、剃髪ていはつしてあんむすび、ひかりあん禅師ぜんじ名乗なのり、子孫しそんだいひかりあん名乗なのったという。

系譜けいふ

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ちち蘇我稲目そがのいなめ姉妹しまい蘇我そがけんしおひめ欽明天皇てんのう)、蘇我そがしょうあねくん(欽明天皇てんのう。『古事記こじき』では「しょうあにうり」はけんしおひめのおばとされる)。

つまは『日本書紀にほんしょき』では物部ものべ弓削ゆげ大連たいれん物部守屋もののべのもりや)のいもうと、『きの牒』・『石上いしがみ神宮じんぐうりゃくしょう神主かんぬし布留ふる宿禰すくね系譜けいふりょうでは物部守屋もののべのもりやいもうとの「ふとしひめ」、『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ天孫てんそん本紀ほんぎでは物部もののべがまあしひめだい刀自とじちち物部守屋もののべのもりや異母弟いぼてい石上いしがみにえ大連たいれんはは物部守屋もののべのもりや同母どうぼいもうとぬのひめ)とある。「物部もののべがまあしひめだい刀自とじ」はたかしたかし天皇てんのう殺害さつがいされたのちまれているため、蘇我馬子そがのうまこつまとなることは世代せだいてき無理むりであることから、ふとしひめつまとするのがただしいとかんがえられる[5]

蘇我そが善徳ぜんとく蘇我そがくら麻呂まろ蘇我蝦夷そがのえみし蘇我入鹿そがのいるか蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわのまろまご。また、むすめ河上かわかみむすめたかしたかし天皇てんのう)、ほうひさげ郎女いらつめ田村たむら皇子おうじ)、刀自とじ郎女いらつめ聖徳太子しょうとくたいし)など、外戚がいせきとなって権力けんりょくをふるった。

時代じだい背景はいけい

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ に「」のくが男性だんせいである(当時とうじは「」が男女だんじょわずもちいられた)。 (人名じんめい)参照さんしょうのこと。
出典しゅってん
  1. ^ 日野ひのあきら蘇我馬子そがのうまこ」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  2. ^ a b 扶桑ふそう略記りゃっき』の享年きょうねん76から逆算ぎゃくさんすると欽明天皇てんのう12ねん551ねん)にあたる。名前なまえの「馬子まご」はうまとしまれであることにちな可能かのうせいもあり、『公卿くぎょう補任ほにん』に「在官ざいかんじゅうねん」とあることから、550ねん庚午こうごとし前後ぜんこうであろうと推定すいていするひともいる[よう出典しゅってん]
  3. ^ a b c d e f g h i j k 倉本くらもと一宏かずひろ蘇我そが 古代こだい豪族ごうぞく興亡こうぼう』(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2015ねん
  4. ^ 上野うえの利三としみつ 「『別冊べっさつ太陽たいよう 飛鳥ひちょう所載しょさいせき舞台ぶたい古墳こふんぐみせき写真しゃしんえる「馬子まご」( 『三重みえ中京大学ちゅうきょうだいがく地域ちいき社会しゃかい研究所けんきゅうじょほう』23ごう、2011ねん3がつ )305-310.
  5. ^ 平林ひらばやしあきらひとし蘇我そが研究けんきゅう』(雄山閣ゆうざんかく、2016ねん
公職こうしょく
先代せんだい
蘇我稲目そがのいなめ
大臣だいじん
572 - 626
次代じだい
蘇我蝦夷そがのえみし