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水谷みずたに

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水谷みずたに
家紋
みぎどもえみぎみつともえ
本姓ほんせい 藤原ふじわらきたしゅうきょうりゅう近藤こんどうぞく
種別しゅべつ 武家ぶけ
士族しぞく
出身しゅっしん 陸奥みちのくこく岩城いわきぐん水谷みずたに
著名ちょめい人物じんぶつ 水谷みずたに勝俊かつとし
支流しりゅう分家ぶんけ 水谷みずたに分家ぶんけ武家ぶけ士族しぞく
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

水谷みずたに(みずのやし)は、藤原ふじわらきたしゅうきょうりゅう近藤こんどう氏族しぞく日本にっぽん戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょき結城ゆうき重臣じゅうしんとく結城ゆうき四天王してんのうとしてかぞえられる水谷みずたに勝俊かつとし一族いちぞくがある。

江戸えど時代じだいには結城ゆうきから独立どくりつして大名だいみょうとなるが、嗣子ししがなく絶家ぜっけ庶子しょし旗本はたもととして家名かめいのこした。

歴史れきし

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結城ゆうき合戦かっせん

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えいとおる9ねん1437ねん)、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲実のりざねとの対立たいりつふかまった結果けっかえいとおるらんこる。憲実のりざね救援きゅうえんわれた室町むろまち幕府ばくふ6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり討伐とうばつぐん派遣はけん持氏もちうじ自害じがいした。らんえいとおる12ねん1440ねん)、義教よしのりがその実子じっしあらたな鎌倉かまくら公方くぼうとして下向げこうさせようとすると、これに反発はんぱつした持氏もちうじ残党ざんとうもち遺児いじである春王丸はるおうまる安王丸やすおうまるほうじて常陸ひたち中郡なかぐんしょじょうげん茨城いばらきけん桜川さくらかわ)で挙兵きょへい春王丸はるおうまるらは結城ゆうき氏朝うじともたより、小栗おぐり伊佐いさしょう(いずれも現在げんざい茨城いばらきけん筑西経由けいゆ結城ゆうきじょうげん茨城いばらきけん結城ゆうき)にはいる。突然とつぜん入城にゅうじょう動揺どうようした結城ゆうき家老がろうたちは春王丸はるおうまるらのれに反対はんたいたぶさとして出家しゅっけのうえしろた。

唯一ゆいいつ水谷みずたに伊勢いせまもる水谷みずたに)だけは「らんてるは弓矢ゆみやみちならず、ちからくともにするよりみちはあるまい」としてしろまり、主君しゅくんとともにするみちえらんだという。一方いっぽう義教よしのり春王丸はるおうまるらの挙兵きょへいたいして結城ゆうきじょう大軍たいぐん派遣はけん、いわゆる結城ゆうき合戦かっせん勃発ぼっぱつする。結城ゆうきじょうなが幕府ばくふかた攻撃こうげきちこたえたが、えいとおる13ねん1441ねん)4がつ落城らくじょう安王丸やすおうまる春王丸はるおうまるらえられたのちころされ、水谷みずたに伊勢いせまもる氏朝うじともやその持朝もちともとともに討死うちじにした。

なお、結城ゆうき合戦かっせん実験じっけんにかけられたくびのなかに、水谷みずたにせい水谷みずたに大炊おおいすけくびがみえる(『えいとおる』『えいとおる後記こうき』)。

戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい

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1478ねん文明ぶんめい10ねん結城ゆうき直光なおみつのころ、水谷みずたにまさる下館しもだてじょう築城ちくじょうし、水谷みずたに代々だいだい居城きょじょうとなった。

1545ねん天文てんもん14ねん)、下野げやこく宇都宮うつのみやそなえて6だいせいむらわだかまりゅうひとし常陸ひたち久下田くげたじょう築城ちくじょう宇都宮うつのみや攻撃こうげきけるが撃退げきたいする。

かつからかぞえて7だい勝俊かつとしのころの関ヶ原せきがはらたたか功績こうせきにより、結城ゆうきから独立どくりつして常陸ひたちこく下館しもだて3まん1せんせき安堵あんどされて城主じょうしゅ大名だいみょうれつした。寛永かんえいこうなおしによって石高いしたかは4まん7せんせきあらためられる。

1639ねん寛永かんえい16ねん)に備中びっちゅうこく川上かわかみぐん播磨はりまこく美嚢みのうぐんうち5まんせき備中びっちゅうこく川上かわかみぐん成羽なりわへ3せんせき加増かぞう国替くにがえ。1642ねん寛永かんえい19ねん)に備中びっちゅうこく松山まつやま5まんせきへとうつりふうされ、松山まつやま藩政はんせい基礎きそきずいた。ちなみに、備中びっちゅう松山まつやまじょう現存げんそん天守てんしゅ水谷みずたに改修かいしゅうによって現在げんざい姿すがたとなったものである。

1693ねん元禄げんろく6ねん備中びっちゅう松山まつやま水谷みずたにの3だい勝美かつみ嗣子ししなく[注釈ちゅうしゃく 1]おとうとかち後継こうけいしゃとしてたてたが、家督かとく相続そうぞくゆるされずじょふうじ大名だいみょう水谷みずたに絶家ぜっけとなった。

かちはのちに、3せんせきあたえられて旗本はたもととして家督かとく相続そうぞくし、旗本はたもと水谷みずたに明治維新めいじいしんむかえるまで存続そんぞくした。

1536ねん(天文てんもん5ねん)弁才天べんざいてん信仰しんこうあつかった水谷みずたに伊勢いせまもる勝隆かつたかは、寛永寺かんえいじ創建そうけんした天海あまみ大僧正だいそうじょうはかり、上野うえのにん弁財天べざいてんしゃ(げんにんべん天堂てんどう)を建立こんりゅうする。

上野うえのにん弁財天べざいてんしゃ(げんにんべん天堂てんどう)を建立こんりゅうすると同時どうじ水谷みずたに下屋敷しもやしき(げん台東たいとう竜泉りゅうせん)ない屋敷やしきしんとして弁財天べざいてんまつったのが、朝日あさひ弁財天べざいてん(みず乃谷弁天べんてんいん)としてまつられ、現在げんざい下谷しもたに七福神しちふくじん弁財天べざいてんとなっている。

出自しゅつじ

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水谷みずたに出自しゅつじには諸説しょせつがある。一説いっせつには鎌倉かまくら時代ときよ藤原ふじわらしげるきょうななせいまごである島田しまだけいよりゆき親実ちかざねが、陸奥みちのくこく岩城いわきぐん水谷みずたに地頭じとうとなり、水谷みずたにしょうしたのがはじまりという。おやじつ田村たむらなかきょう清和せいわはじめよりゆきおやりゅう田村たむら)のなかのう養子ようしとし、なかのう関東かんとう評定ひょうじょうしゅにんぜられて鎌倉かまくら亀ケ谷かめがや屋敷やしきかまえた。なかのうじゅうと、じゅう輔のせいゆう岩城いわきぐん石川いしかわ有光ありみつで、じゅう輔の養子ようしとなる)はろく評定ひょうじょうしゅとなる。のちせいゆう陸奥みちのくこく行方ゆくえぐん猿田さるたななさとりょうして猿田さるたじゅうし、そのかん猿田さるた御所ごしょばれたという。のちにその一流いちりゅう常陸ひたちこくうつって結城ゆうきあさひろつかえたとされている[1]

小山こやまらん再興さいこうされた小山こやま当主とうしゅとして結城ゆうきから小山こやまやすしあさおくられたさい水谷みずたにもこれにしたがい、このため水谷みずたに時期じきによって小山こやま結城ゆうき両方りょうほう被官ひかん時代じだい存在そんざいするとされている[2]水谷みずたに軍記ぐんきとして、『水谷みずたに』があるが江戸えど時代じだい成立せいりつした同書どうしょにはまった内容ないようことなる2しゅ東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ架蔵かぞうほんせいよしみどう文庫本ぶんこぼん)がある。これは結城ゆうきとの関係かんけいつよかった時期じき独立どくりつした大名だいみょうとして確立かくりつした時期じきにそれぞれ編纂へんさんされたものとみられ、当時とうじ水谷みずたに立場たちばしめすものとかんがえられている[注釈ちゅうしゃく 2]

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 水谷みずたにまさるはれ勝美かつみ末期まっき養子ようしとなっていたが、家督かとく相続そうぞくまえ早世そうせいしたため継承けいしょうされなかった。
  2. ^ たとえば、前者ぜんしゃ東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ架蔵かぞうほんせいむらちちを「正吉まさきち」として江戸えど幕府ばくふ成立せいりつ水谷みずたに結城ゆうき秀康ひでやす越前えちぜんこくうたてふうしたがったとしるされているのにたいして、後者こうしゃ静嘉堂文庫せいかどうぶんこほんせいむらちちを「」として徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただによって水谷みずたに大名だいみょうてられる過程かていえがかれている[3]

出典しゅってん

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  1. ^ 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ架蔵かぞうほん水谷みずたに
  2. ^ 高橋たかはし 2010, pp. 169–170.
  3. ^ 高橋たかはし 2010, §. だい3 だい2しょう水谷みずたにと『家伝かでん』」.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高橋たかはし恵美子えみこ中世ちゅうせい結城ゆうき家伝かでん軍記ぐんきつとむまこと出版しゅっぱん、2010ねん10がつISBN 9784585031710 
系譜けいふ参考さんこう

関連かんれん項目こうもく

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