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桶川おけがわ宿やど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
『岐阻街道かいどう 桶川おけがわ宿やど 曠原けい[1]
天保てんぽう6- 8ねん1835-1837ねん)、けいときえいいずみ
簡素かんそいえ庭先にわさきむぎをこぐのうに、旅人たびびと氷川ひかわ天満てんま神社じんじゃ加納天神かのうてんじん)へのみちたずねている。桶川おけがわ宿やどきたひろがる湿潤しつじゅんはら(こうげん)にらす庶民しょみんえがいたいちである。

桶川おけがわ宿やど(おけがわじゅく[2]、おけがわしゅく[3])は、日本にっぽん近世きんせいにあたる江戸えど時代じだい整備せいびされ、さかえていた宿場しゅくばまち中山道なかせんどうろくじゅうきゅう木曽きそ街道かいどうろくじゅうきゅう)のうち江戸えど日本橋にほんばしからかぞえて6番目ばんめ宿場しゅくば武蔵むさしこくのうち、だい6の宿やど[4])。

所在地しょざいちは、江戸えどには東海道とうかいどう武蔵むさしこく足立あだちぐん桶川おけがわさと桶川おけがわ宿やど[5]現在げんざい埼玉さいたまけん桶川おけがわにあたる。

そこそこの荷物にもつかかえて江戸えど日本橋にほんばし出立しゅったつした旅人たびびとがおよそ1にちあるとおして日暮ひぐれどきをむかえ、宿やどもとめるのがここ桶川おけがわあたりであったとされる。

特徴とくちょう

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地名ちめい由来ゆらい

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桶川おけがわ」の地名ちめい由来ゆらいについては諸説しょせつある。もっと有力ゆうりょくなのは「おきがわ(オキガワ)」せつで、「オキ」を「広々ひろびろとした田畑たはた」のとし、その「方向ほうこう(ガワ)」である「おきがわ(オキ-ガワ)」が転訛てんか[6]したとするもの。ほかにも、湿地しっちおお土地とちがらで、ひがし芝川しばかわみなみ鴨川かもがわ水源すいげんがあることから、「かわこる」で「かわ(オキガワ)」とするせつなどがある。この地名ちめい「オケガワ」がはじめて文献ぶんけんあらわれるのはかんおう3ねん1352ねん)、足利尊氏あしかがたかうじ家臣かしんにあてたしもぶん(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏むさしこく足立あだちぐんおけがわ郷内ごうない菅谷すがたにむら(むさし-の-くに あだち-ごおり おけがわ-の-ごう-ない すがや-むら)」とある[7]

江戸えどから10大名だいみょう定宿じょうやど

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日本橋にほんばしから距離きょりにして10さと14まちやく40.8 km)と、ちょうどそれは江戸えど出立しゅったつした旅人たびびとが1にちある道程どうていくわしくは「#中山道なかせんどう行程こうてい」を参照さんしょう)とおおよそひとしく、江戸えどかたひと手前てまえ上尾宿あげおしゅく(9さと16まちやく37.1 km)とともに、宿場しゅくばまちとして絶好ぜっこう位置いちにあったとえる。また、この距離きょりフルマラソンともほぼおなじである。

桶川おけがわ宿やど寛永かんえい12ねん1635ねん)に設置せっちされた。当初とうしょわずか58けんぎなかった宿やどない家数やかずは、「中山道なかせんどうもの」といわれた紅花べにばなひとし染料せんりょう食用しょくよう農作物のうさくもつ集散しゅうさんくわしくは後述こうじゅつ)となっていた天保てんぽう14ねん1843ねんごろには347けんたっし、経済けいざいてきにも文化ぶんかてきにも繁栄はんえいせている。

宿場しゅくば比較ひかくする意味いみでも重要じゅうようなのは天保てんぽう14ねん記録きろく[8] であるが、それによると当時とうじ桶川おけがわ宿やど規模きぼは、宿やどない人口じんこう1,444にん町並まちなみ9まちはんやく1.0 km)、宿やどない家数やかず347けんであった。本陣ほんじんは1けん脇本わきもとじんは2けん府川ふかわ世襲せしゅうした敷地しきち面積めんせき1,000つぼ建坪たてつぼ200つぼおよ本陣ほんじんは、当時とうじ建物たてもの一部いちぶ個人こじんたくとして現存げんそんしている。旅籠はたごは36けんあり、当時とうじ建物たてもののこして今日きょうある「武村たけむら旅館りょかん」はそのなかいちけんであった(「#名所めいしょ旧跡きゅうせき文化財ぶんかざい観光かんこう施設しせつ」に詳細しょうさい写真しゃしんあり)。[note 1]

加賀かが前田まえだはじめとする参勤交代さんきんこうたい大名だいみょうおおくが、桶川おけがわ宿やど府川ふかわ本陣ほんじん定宿じょうやどとしていた。水戸みとはんだい9だい藩主はんしゅ徳川とくがわ斉昭なりあき足跡あしあとのこしていることもられている。また、文久ぶんきゅう元年がんねん11がつ13にち西暦せいれき1861ねん1がつ2にち)には、皇女おうじょ和宮かずのみや親子おやこ内親王ないしんのう)が公武こうぶ合体がったい政策せいさく一環いっかん徳川とくがわ将軍しょうぐん家茂いえもち台所だいどころとして降嫁こうかすべく江戸えど下向げこうさい宿泊しゅくはくしている。

農作物のうさくもつ集散しゅうさん紅花べにばな

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立花たちばなまち現在げんざい南町みなみまち)の中山道なかせんどう町並まちなみ(1907ねんごろ

桶川おけがわ宿やど近隣きんりんむら々で生産せいさんされた農作物のうさくもつ集散しゅうさんでもあった。大麦おおむぎ甘藷さつまいも(かんしょ。さつまいも)など食用しょくよう農作物のうさくもつのほか、「たけしゅうあい(ぶしゅう-あい)」とばれた染料せんりょうあい、「桶川おけがわ臙脂えんじ(おけがわ-えんじ)」とばれた紅花べにばななども取引とりひきされた。

なかでも紅花べにばな桶川おけがわ宿やど中心ちゅうしんとした桶川おけがわさと一帯いったいさかんに栽培さいばいされ、最上もがみ紅花べにばないで全国ぜんこくだい2生産せいさんりょうほこっていた。桶川おけがわきょうでの紅花べにばな栽培さいばいは、桶川おけがわ郷内ごうない上村うえむら桶川おけがわ上村うえむらげん上尾あげおうえ地区ちく〉)の農家のうかななろうが、江戸えど小間物こまもの問屋とんや柳屋やなぎや」から紅花べにばなたねゆずけて栽培さいばいしたのがはじまりであると、江戸えど勘定かんじょう奉行ぶぎょう記録きろくしるされている。

出羽でわこく最上もがみぐんこと村山むらやま地方ちほうくらべて気候きこう温暖おんだん桶川おけがわ周辺しゅうへん紅花べにばなはや収穫しゅうかくできたため、紅花べにばな商人しょうにんたちからは「早場はやばもの」としてよろこばれた。

当時とうじ隆盛りゅうせい稲荷いなり神社じんじゃいし灯籠どうろう在地ざいち問屋とんや須田すだ古文書こもんじょ紅花べにばな仕入しいちょうなどの記録きろくのこされている。宿場しゅくば開設かいせつ当初とうしょ寛永かんえい15ねん1638ねん)に58けんであった宿やどない家数やかずは、天保てんぽう14ねん(1843ねん)には347けん人口じんこうも1,444にんたっし、その発展はってんぶりがえる。

当時とうじ取引とりひき価格かかくは、1はんあたりのべい収穫しゅうかくりょうおよそ2りょうたいし、紅花べにばなばいの4りょう取引とりひきされ、幕末ばくまつには最上さいじょう紅花べにばな上回うわまわ相場そうば取引とりひきされていて、桶川おけがわ紅花べにばながもたらすとみによっておおいにうるおった。遠方えんぽう商人しょうにんあつまるようになると、とみとともに文化ぶんかももたらされた。いまのこ桶川おけがわ祇園祭ぎおんまつり山車だしまわしはきょうから、まつり囃子ばやし江戸えどかられ、桶川おけがわ独自どくじ発展はってんした行事ぎょうじである。しかし、明治維新めいじいしんこう化学かがくてき合成ごうせい染料せんりょう導入どうにゅうなどから衰退すいたいし、消滅しょうめつした。

現在げんざい自治体じちたいである桶川おけがわでは平成へいせい6ねん1994ねん以来いらい発展はってんをもたらした紅花べにばなよみがえらせ、まちづくりのシンボルとする「べにばなさとづくり事業じぎょう」を展開てんかいしている[9]

なお、鉄道てつどうえき桶川おけがわえき)は、明治めいじ18ねん1885ねん)3がつ1にち日本にっぽん鉄道てつどう品川しながわ - 赤羽あかはね支線しせん開業かいぎょうはじまる。

女郎買じょろか地蔵じぞう

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戦国せんごくただなかの弘治こうじ3ねん1557ねん)の開基かいきつたえる曹洞宗そうとうしゅう大雲寺だいうんじは、宿場しゅくばまち西にしはずれに位置いちしている。その境内けいだいには、「女郎買じょろか地蔵じぞう」とばれる1たい地蔵じぞう菩薩ぼさつ鎮座ちんざする。

にぎわいのある宿場しゅくばならおおくがそうであるが、ここ桶川おけがわ宿やどにも飯盛めしもりおんな(めしもりおんな)が大勢おおぜいいて、女色じょしょくおぼれるおとこたちを飯盛めしもり旅籠はたごれていた。そのようなまちで、土地とちのお地蔵じぞうさまがおんないに出掛でかけているらしいとのうわさった。それをみみにしたてら住職じゅうしょくこまてたが一計いっけいあんじ、けん(くだん)の地蔵じぞう(かすがい)をけ、くさりしばってうごけなくしてしまったとのことである。さても不思議ふしぎはなしではあるが、のところは、一人ひとり飯盛めしもりおんなねつげ、かよめたわかそうにまつわるちいさな事件じけん顛末てんまつ(てんまつ)であったらしい。坊主ぼうずあたまぬのかくして人目ひとめしの様子ようすのこの若者わかものあやしんでいたあるひとが、そのをつけてみたところ、最後さいご大雲寺だいうんじなかかえっていったというのである。このことをらされた住職じゅうしょくは、かならつけして仕置しおきすると約束やくそくをした。すると、つぎになって、鎹とくさりうごきをふうじられたお地蔵じぞうさまがっていたのである。住職じゅうしょく煩悩ぼんのうおおわかそうに、そのつみ地蔵じぞう菩薩ぼさつこうむっていただくゆえ、以後いごしんえて精進しょうじんするようさとし、いちけん落着らくちゃくさせたのにちがいない。地蔵じぞうには、いまも鎹がのこっている。

名所めいしょ旧跡きゅうせき文化財ぶんかざい観光かんこう施設しせつ

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おきがわ学校がっこう明治めいじ

現在げんざい宿場しゅくば当時とうじぞうづくりの建物たてもの町並まちなみがのこり、文化財ぶんかざい指定していされている建物たてものもある。

また、桶川おけがわではふるくから冠婚葬祭かんこんそうさいおり手打てうちうどん振舞ふるま風習ふうしゅうがあった。今日きょう手打てうちうどんのかいなどの活動かつどうがあり、中山道なかせんどう沿いにすうけんのうどんがある。

  • 桶川おけがわ宿やど本陣ほんじん埼玉さいたまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい。8代目だいめ府川ふかわこころざしふう、9代目だいめ府川ふかわ俳人はいじんであった。平成へいせい17(2005)ねんから平成へいせい25(2013)ねんあきには、京都きょうと茂山しげやまのご協力きょうりょくで、本陣ほんじん遺構いこうの「上段じょうだんあいだ」を舞台ぶたいにした「かがり狂言きょうげん」を開催かいさいした。参照さんしょう一般いっぱん公開こうかいされている現存げんそん本陣ほんじん一覧いちらんあり(「本陣ほんじん」)。また明治めいじには学制がくせい頒布はんぷによって開校かいこうしたおきがわ学校がっこう設置せっちされた。
  • 旅籠はたごなどの関連かんれん数字すうじした画像がぞう対応たいおう
    • 1. 武村たけむら旅館りょかん江戸えど末期まっき創業そうぎょう旅籠はたごで、現在げんざいはビジネス旅館りょかんとして営業えいぎょうちゅう当時とうじ間取まどをほぼいでおり、くに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい登録とうろくされている。
    • 2. きゅう旅籠はたご小林こばやし):江戸えどには紙屋かみや半次郎はんじろうなるひといとなんでいたという旅籠はたご外部がいぶ旅籠はたご面影おもかげのこす。現在げんざい材木ざいもくしょう喫茶店きっさてん営業えいぎょう
    • 3. 穀物こくもつ問屋とんや矢部やべ):紅花べにばなあつかっていたという穀物こくもつ問屋とんや明治めいじ中頃なかごろぞうづくりの建物たてものいまのこす。きゅう旅籠はたご小林こばやし)のかいがわにあり。
    • 4. 中山道なかせんどう宿場しゅくばかん桶川おけがわ観光かんこう協会きょうかい事務じむきょくで、1かい中山道なかせんどう桶川おけがわ宿やど観光かんこう案内あんないしょおよ休憩きゅうけいしょ設置せっちしている。公共こうきょうトイレも併設へいせつ。 なお、中山道なかせんどう宿場しゅくばかんから北本きたもと方向ほうこうに60mの中山道なかせんどうパーキングにも公共こうきょうトイレがある。
  • 宿場しゅくば出入でいぐち
    • うえ木戸きどうえ木戸きど宿場しゅくば上方かみがたきょうがわ)の出入でいぐちにあたり、朝夕ちょうせき定時ていじ開閉かいへいされた。
    • した木戸きどおなじく、江戸えどかた出入でいぐち(あと)。
  • 稲荷いなり神社じんじゃふし#稲荷いなり神社じんじゃ力石りきいし」を参照さんしょう
  • 雷電らいでん神社じんじゃ
  • 氷川ひかわ天満てんま神社じんじゃ加納天神かのうてんじん
  • きよしねんてら
  • 大雲寺だいうんじ戦国せんごくただなかの弘治こうじ3ねん1557ねん)に開基かいき
  • きゅう桶川おけがわまち道路どうろもとしるべ桶川おけがわ駅前えきまえ交差点こうさてんにある。

稲荷いなり神社じんじゃ力石りきいし

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中山道なかせんどうよりおくはいったところにある。2いし灯籠どうろうがあり、これは紅花べにばな商人しょうにん24めい寄進きしんしたものである。また、拝殿はいでんかって右側みぎがわには、おも日本一にっぽんいちといわれる力石りきいし(ちから-いし)である、ながさ1.25m、はば0.76m、おもさ610kgの大盤石だいばんじゃく[10] がある。いしには「よしみながねんがつ 岩槻いわつき 三ノ宮さんのみや卯之助うのすけ」とのめいがあり、これは、江戸えど力持ちからもち・三ノ宮さんのみや卯之助うのすけ地元じもと岩槻いわつきまれ。力持ちからもげいせた)が、よしみひさし5ねん1852ねん)にげたことを記念きねんし、つたえるものである。

鳥居とりいから境内けいだい
拝殿はいでんのぞ
拝殿はいでん 近景きんけい
おも日本一にっぽんいち力石りきいし
八雲神社やくもじんじゃ

八雲神社やくもじんじゃ桶川おけがわ祇園祭ぎおんまつり

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上述じょうじゅつした稲荷いなり神社じんじゃ境内けいだいにある八雲神社やくもじんじゃ(やくも-じんじゃ)の例祭れいさい。このしゃは、中山道なかせんどう沿いにあった神社じんじゃ(いち-じんじゃ)が位置いちてきさい開発かいはつさまたげになるとの事情じじょうから、明治めいじ9ねん1876ねん)、稲荷いなり神社じんじゃ境内けいだい移転いてんされたものである。「#農作物のうさくもつ集散しゅうさん紅花べにばな」のふし、および、べつ項目こうもく桶川おけがわ祇園祭ぎおんまつり」も参照さんしょうのこと。

小字こあざ

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  • 相生あいおいあいおい
  • 稲荷前いなりまえいなりまえ
  • 牛久保うしくぼうしくぼ
  • 大久保おおくぼおおくぼ
  • かけおりかけおり
  • 北原きたはらきたはら
  • 西にしぬしうらにししうら
  • ひがしぬしうらひがししうら
  • 神明しんめいしんめい
  • 西原にしはらにしはら
  • 白山はくさんはくさん
  • 浜井はまいじょうはまいば
  • 細谷ほそやほそや
  • 若宮わかみやわかみや
  • 若宮わかみやみなみわかみやみなみ

周辺しゅうへんむらの、近代きんだいにともなう変遷へんせん

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  • 大谷おおやりょう町谷まちやむら大谷おおやりょうぞくしていたことからの名前なまえ
  • 上日出谷かみひでやむら
  • 下日出谷しもひでやむら
  • 井戸木いどきむら大石おおいしむら合併がっぺいされたのち一部いちぶ桶川おけがわまち編入へんにゅうされた(大石おおいしむらのそれ以外いがい地域ちいき上尾あげおまち合併がっぺいした)。井戸木いどき参照さんしょう
  • 上村うえむら現在げんざい上尾あげおうえ地区ちく
  • 南村なんそん現在げんざい上尾あげおみなみ地区ちく
  • 菅谷すがたにむら :かつては桶川おけがわきょうぞくしていたが現在げんざい上尾あげおはいっている)。菅谷すがや参照さんしょう

その明治めいじ22ねん1889ねん)4がつ1にち大谷おおやりょう町谷まちやむら上日出谷かみひでやむら下日出谷しもひでやむら合併がっぺいし、北足立きたあだちぐん桶川おけがわまちとなった。

交通こうつう基本きほん情報じょうほう

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中山道なかせんどう行程こうてい

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  • 江戸えど日本橋にほんばしからきょう三条さんじょう大橋おおはしまでのぜん行程こうてい 135さと24まち8あいだやく532.8 km[11]ちゅう
    • 江戸えど日本橋にほんばし - 桶川おけがわ宿やど 10さと14まちやく40.8 km[12]
    • 上尾宿あげおしゅく - 桶川おけがわ宿やど 34まちやく3.7 km[13]
    • 桶川おけがわ宿やど - 鴻巣こうのす宿やど 1さと30まちやく7.2 km[14]
    • 桶川おけがわ宿やど - きょう三条さんじょう大橋おおはし *115さと14まちやく453.2 km[15]
  • 江戸えど成人せいじん男性だんせい通常つうじょうたびの1にちにおよそ10平地ひらちを8- 10あいだやく40km、時速じそくやく4- 5 km)をある[16]
  • 中山道なかせんどう一里塚いちりづか一覧いちらん

となり宿やど

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上尾宿あげおしゅく - 桶川おけがわ宿やど - 鴻巣こうのす宿やど

現代げんだい交通こうつう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 「きそ-かいどう おけがわ-しゅく ひろはら-の-けい」とむ。当時とうじ木曽きそ街道かいどうばれた中山道なかせんどう名所めいしょえがいた名所めいしょ浮世絵うきよえ風景ふうけい)『木曽きそ海道かいどうろくじゅうきゅうの1まい
  2. ^ 埼玉新聞社さいたましんぶんしゃ埼玉大さいたまだい百科ひゃっか事典じてん』 〈1〉あ-か、埼玉新聞社さいたましんぶんしゃ、1974ねん、309ぺーじASIN B000J9ECS8 
  3. ^ 平凡社へいぼんしゃ地方ちほう資料しりょうセンター へん日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 11 埼玉さいたまけん地名ちめい平凡社へいぼんしゃ、1993ねん、281ぺーじISBN 4-582-49011-5 
  4. ^ 現在げんざいでは、埼玉さいたまけんぞくするだい5の宿やど
  5. ^ たからひさし2ねん西暦せいれき771ねん10月27にち以前いぜん東山ひがしやまみち武蔵むさしこく足立あだちぐん
  6. ^ てんか。言語げんごにおいて、本来ほんらいおとがなまって変化へんかすること、および、そのかたり
  7. ^ 桶川おけがわ公式こうしきホームページにもとづく(※「#外部がいぶリンク」)。
  8. ^ 中山道なかせんどう宿やどむら大概たいがいちょう(なかせんどう しゅくそん-だいがいちょう)』にもとづく。『宿やどむら大概たいがいちょう』とは、幕府ばくふ道中どうちゅう奉行ぶぎょうしょ調査ちょうさした街道かいどうとそのわき街道かいどう宿場しゅくば記録きろくで、53さつ収蔵しゅうぞうされている。かく宿場しゅくば人口じんこう家数やかず本陣ほんじん旅籠はたごかず高札こうさつ内容ないよう道路どうろひろさ、はし寺社じしゃ地域ちいき産業さんぎょう特産とくさんひんなど、宿場しゅくば街道かいどうすじ村落そんらく状況じょうきょうくわしく記載きさいされており、街道かいどうぶんあいだのべ絵図えずとともに道中どうちゅう奉行ぶぎょうしょもちいたものらしい。成立せいりつ年代ねんだい不明ふめいながら、天保てんぽうから安政あんせい1840- 1850ねんだい)にかけての調査ちょうさかんがえられている。
  9. ^ 紅花べにばなまんじゅう」を名物めいぶつとする。
  10. ^ だい-ばんじゃく。日本にっぽんに4つしかないという、とくおおきな力石りきいし呼称こしょう
  11. ^ 1さと=3.9272727km1まち=0.1090909kmあいだ=0.0018181818km。 135=530.181814km、24まち=2.6181816km、8あいだ=0.0145454544km。135+24まち+8あいだ=532.814541km
  12. ^ 10=39.272727km、14まち=1.5272726km。10+14まち=40.7999996km。
  13. ^ 34まち=3.7090906km。
  14. ^ 1+30まち=7.1999997km。
  15. ^ 115=451.636361km、14まち=1.5272726km。115+14まち=453.163634km。
  16. ^ 徒歩とほについては「ある」「徒歩とほ旅行りょこう」を参照さんしょうみじか距離きょり想定そうていした現代げんだい不動産ふどうさんぎょう基準きじゅんは、時速じそく4.8km(「徒歩とほ所要しょよう時間じかん参照さんしょう)。

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ a b 亀井かめいせんほか 『中山道なかせんどうあるく』改訂かいていばん やま溪谷社けいこくしゃあるみちシリーズ 街道かいどう古道ふるみち〉、2006ねん、19- 21ぺーじISBN 4-635-60037-8 :一部いちぶのぞく。

外部がいぶリンク

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中山道なかせんどうろくじゅうきゅううち 桶川おけがわ宿やど

桶川おけがわおよび名所めいしょ旧跡きゅうせき