大和やまと 弥わたる八郎はちろう(やまと やはちろう、天保てんぽう6年ねん11月3日にち(1835年ねん12月22日にち) - 元治もとはる元年がんねん12月19日にち(1865年ねん1月がつ16日にち))は、江戸えど時代じだい末期まっき(幕末ばくまつ期き)の長州ちょうしゅう藩士はんし。大和やまと国之くにゆき助すけとも。甲子きのえね殉難じゅんなん十じゅう一いち烈士れっしの一人ひとり。
1862年ねん、久坂くさか玄げん瑞みず、寺島てらしま忠三郎ちゅうざぶろうらと横浜よこはま居留きょりゅう地ち焼討やきうちを計はかったが、藩主はんしゅ・毛利もうり定広さだひろに伝つたわり実行じっこうには到いたらなかった。その後ご、御ご楯だて組ぐみ結成けっせいに参加さんか。1865年ねん、山田やまだ亦また介かい・前田まえだ孫右衛門まごえもん・毛利もうり登のぼる人じん・松島まつしま剛つよし蔵ぞう・渡辺わたなべ内蔵ないぞう太ふと・楢崎ならさき弥わたる八郎はちろうらと共ともに斬罪ざんざいに処しょされた。
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