寺島てらしま 忠三郎ちゅうざぶろう(てらしま ちゅうざぶろう)は、幕末ばくまつの長州ちょうしゅう藩士はんし、尊皇そんのう攘夷じょうい派はの志士ししである。 作間さくま忠三郎ちゅうざぶろうなどの変名へんめいを名乗なのる。家格かかくは無給むきゅう通どおり組ぐみ。
周防すおう国こく(山口やまぐち県けん)に生うまれる。藩校はんこう明倫めいりん館かん、私塾しじゅく松下まつした村塾そんじゅくで吉田よしだ松陰しょういんに師事しじした。文久ぶんきゅう2年ねん(1862年ねん)、高杉たかすぎ晋作しんさく、久坂くさか玄げん瑞みず、大和やまと弥わたる八郎はちろう、長嶺ながみね内蔵ないぞう太ふと、志こころざし道どう聞多、松島まつしま剛つよし蔵ぞう、有吉ありよし熊次郎くまじろう、赤あか禰幹之の丞すすむ、山尾やまお庸三ようぞう、品川しながわ弥二郎やじろうらと御ご楯だて組ぐみ結成けっせいに参加さんか、長州ちょうしゅう藩はん家老がろうの長井ながい雅楽ががく暗殺あんさつ計画けいかくにも参加さんかする。
元もと治ち元年がんねん(1864年ねん)、八はち月がつ十じゅう八はち日にちの政変せいへんで長州ちょうしゅう藩はんが失脚しっきゃくした後のちに、久坂くさか玄げん瑞みずと共ともに禁門きんもんの変へんで互たがいに刺さし違ちがえて自害じがいして果はてた。享年きょうねん21。
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