「真木 まき 和泉 いずみ 」はこの項目 こうもく へ転送 てんそう されています。声優 せいゆう の「まきいづみ 」あるいは陸上 りくじょう 競技 きょうぎ 選手 せんしゅ の「真木 まき 和 かず 」とは別人 べつじん です。
真木 まき 保 たもつ 臣 しん (まき やすおみ、文化 ぶんか 10年 ねん 3月7日 にち (1813年 ねん 4月 がつ 7日 にち )[1] - 元治 もとはる 元年 がんねん 7月 がつ 21日 にち (1864年 ねん 8月 がつ 22日 にち )[2] )は、江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき の久留 くる 米 べい 水 すい 天宮 てんぐう 祠官 しかん 、久留 くる 米 よね 藩士 はんし 、尊皇 そんのう 攘夷 じょうい 派 は の活動 かつどう 家 か [1] 。父 ちち は真木 まき 旋臣、母 はは は中村 なかむら 柳子 りゅうこ 。神官 しんかん として従 したがえ 五 ご 位 い 下 か ・和泉 いずみ 守 まもる の官位 かんい を持 も ち、真木 まき 和泉 いずみ 守 もり もしくは真木 まき 和泉 いずみ 、真木 まき 和泉 いずみ 守 もり 保 ほ 臣 しん として知 し られる。雅号 がごう は紫 むらさき 灘 なだ (したん)。贈 おく 正 せい 四 よん 位 い 。
筑後 ちくご 国 こく 久留米 くるめ (現在 げんざい の福岡 ふくおか 県 けん 久留米 くるめ 市 し )の、水天 すいてん 宮 みや の神職 しんしょく の家 いえ に生 う まれる[1] 。
文政 ぶんせい 6年 ねん (1823年 ねん )に神職 しんしょく を継 つ ぎ天保 てんぽう 3年 ねん (1832年 ねん )に和泉 いずみ 守 まもる に任 にん じられる。国学 こくがく や和歌 わか などを学 まな ぶが水戸 みと 学 まなぶ に傾倒 けいとう し、弘 ひろし 化 か 元年 がんねん (1844年 ねん )、水戸 みと 藩 はん へ赴 おもむ き会沢 あいざわ 正志斎 せいしさい の門下 もんか となり、その影響 えいきょう を強 つよ く受 う け水戸 みと 学 まなぶ の継承 けいしょう 者 しゃ として位置 いち づけられる。[1] 。この関東 かんとう 遊歴 ゆうれき により水戸 みと では鹿島 かしま 神社 じんじゃ の小川 おがわ 修理 しゅうり 、日下部 くさかべ 伊 い 三治 さんじ と国事 こくじ を論 ろん じ、江戸 えど では安井 やすい 息軒 そくけん 、塩谷 しおや 宕陰 、橘 たちばな 守部 もるべ といった名士 めいし と交 まじ わった。弘 ひろし 化 か 4年 ねん (1847年 ねん )9月 がつ 23日 にち 、野宮 のみや 定 じょう 祥 さち ・定 てい 功 こう 父子 ふし により孝明天皇 こうめいてんのう の即位 そくい の大礼 たいれい を拝観 はいかん したことで尊王 そんのう の志 こころざし を更 さら に強 つよ くするに至 いた った。
天保 てんぽう 学 がく と呼 よ ばれる学派 がくは を立 た てるだけでなく、嘉 よしみ 永 ひさし 5年 ねん (1852年 ねん )2月 がつ 、同志 どうし と計 はか らい藩政 はんせい 改革 かいかく の建白 けんぱく を久留米 くるめ 藩主 はんしゅ であった有馬 ありま 慶頼 よしより (後 ご の頼 よりゆき 咸)に上 のぼ らせたが、却 かえ って罪 つみ を得 え て久留米 くるめ より離 はな れた下妻 しもづま 郡 ぐん 水田 すいた 村 むら の大鳥居 おおとりい 理 さとし 兵衛 ひょうえ のもとに蟄居 ちっきょ を命 めい じられた。理 り 兵衛 ひょうえ は真木 まき の弟 おとうと で水田 すいでん 天満宮 てんまんぐう へ養子 ようし に出 で ていた。
幽囚 ゆうしゅう 生活 せいかつ は、文久 ぶんきゅう 2年 ねん (1862年 ねん )2月 がつ までおよそ10年 ねん に渡 わた ったが尊王 そんのう の志 こころざし はより強 つよ くなった。その著作 ちょさく 『何 なに 傷 きず 録 ろく 』には以下 いか の言葉 ことば があり、新渡戸 にとべ 稲造 いなぞう は『武士 ぶし 道 どう 』の中 なか で引用 いんよう した[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
士 し の重 おも んずることは節義 せつぎ なり。節義 せつぎ はたとへていはば人 じん の体 からだ に骨 ほね ある如 ごと し。骨 ほね なければ首 くび も正 まさ しく上 うえ に在 あ ること得 え ず。手 て も物 もの を取 と ることを得 え ず。足 あし も立 た つことを得 え ず。されば人 ひと は才能 さいのう ありても学問 がくもん ありても、節義 せつぎ なければ世 よ に立 た つことを得 え ず。節義 せつぎ あれば不 ふ 骨 ほね 不調法 ぶちょうほう にても士 し たるだけのことには事 こと かかぬなり
その寓居 ぐうきょ ・山 やま 梔 くちなし 窩 (さんしか)には筑前 ちくぜん 福岡 ふくおか 藩 はん 士 し 平野 ひらの 国臣 くにおみ 、清河 きよかわ 八郎 はちろう などが訪 たず ねてきている。
大久保 おおくぼ 利通 としみち (一 いち 蔵 ぞう )らと、薩摩 さつま 藩 はん の最高 さいこう 権力 けんりょく 者 しゃ である国父 こくふ ・島津 しまつ 久光 ひさみつ を擁立 ようりつ しての上洛 じょうらく を計画 けいかく し[2] 、文久 ぶんきゅう 2年 ねん に久光 ひさみつ が上京 じょうきょう すると京 きょう で活動 かつどう する。寺田 てらだ 屋 や 騒動 そうどう で幽閉 ゆうへい され[2] 、その後 ご は長州 ちょうしゅう 藩 はん に接近 せっきん する。
久留 くる 米 べい 水 すい 天宮 てんぐう にある真木 まき 和泉 いずみ 守 もり の像 ぞう
長州 ちょうしゅう 藩主 はんしゅ に「長州 ちょうしゅう 一 いち 藩 はん のみが列強 れっきょう を相手 あいて に攘夷 じょうい をしても勝 か ち目 め はない。全国 ぜんこく 一丸 いちがん となって事 こと に当 あ たる必要 ひつよう がある。そのためには天皇 てんのう が攘夷 じょうい 親政 しんせい を進 すす められること以外 いがい には道 みち はない。」という意見 いけん 具申 ぐしん をし採用 さいよう された。しかし、この奥 おく には「夷狄 いてき 御 ご 親 おや 征 せい 名目 めいもく で進発 しんぱつ あそばし、直 ただ ちに都 と を大阪 おおさか に移 うつ し、皇 すめらぎ 政 せい 復古 ふっこ の大 だい 号令 ごうれい を天下 てんか に布告 ふこく し、大艦 だいかん を造 つく り、武備 ぶび を整 ととの え、対外 たいがい 的 てき 武力 ぶりょく の充実 じゅうじつ を図 はか る」という考 かんが えがあった。そしてこの考 かんが えのもとに御 ご 親 おや 征 せい 促進 そくしん 運動 うんどう を推 お し進 すす めた偽 にせ 勅 みことのり の乱発 らんぱつ に対 たい し、孝明天皇 こうめいてんのう の怒 いか りを買 か い、八 はち 月 がつ 十 じゅう 八 はち 日 にち の政変 せいへん が起 お きた[3] 。
文久 ぶんきゅう 3年 ねん (1863年 ねん )8月 がつ 18日 にち 、会津 あいづ 藩 はん と薩摩 さつま が結託 けったく して長州 ちょうしゅう 藩 はん を追放 ついほう した八 はち 月 がつ 十 じゅう 八 はち 日 にち の政変 せいへん が起 お こると、七 なな 卿 きょう と共 とも に長州 ちょうしゅう へ逃 のが れる。翌 よく 元治 もとはる 元年 がんねん (1864年 ねん )7月 がつ 19日 にち に長州 ちょうしゅう 藩 はん の福原 ふくはら 元 もと 僴 ・益田 ますだ 親 ちかし 施 ほどこせ ・国司 こくし 親 おや 相 しょう ・来島 くるしま 又兵衛 またべえ ・久坂 くさか 玄 げん 瑞 みず ら同志 どうし と共 とも に禁門 きんもん の変 へん (蛤 はまぐり 御門 みかど の変 へん )に主戦 しゅせん 派 は として参加 さんか し、破 やぶ れた後 のち 敗走 はいそう するも天王山 てんのうざん に17名 めい で立 た て籠 こ もり、会津 あいづ 藩 はん と新選 しんせん 組 ぐみ の追撃 ついげき を受 う け爆死 ばくし 自害 じがい した(天王山 てんのうざん 籠城 ろうじょう 戦 せん )[4] 。享年 きょうねん 52。
墓所 はかしょ は京都 きょうと 府 ふ 乙訓 おとくに 郡 ぐん 大山崎 おおやまざき 町 まち 。十 じゅう 七 なな 烈士 れっし の墓 はか が建立 こんりゅう されている。また、久留 くる 米 べい の水天 すいてん 宮内 くない に真木 まき 神社 じんじゃ が建立 こんりゅう されて祀 まつ られている。
作家 さっか ・脚本 きゃくほん 家 か の光 ひかり 益 えき 公 おおやけ 映 うつ はその子孫 しそん の血統 けっとう にあたる。
大山 おおやま の 峯 みね の岩根 いわね に 埋 うめ にけり わが年月 としつき の 大和魂 やまとだましい
人物 じんぶつ ・評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
楠木 くすのき 正成 まさしげ の崇拝 すうはい 者 しゃ として知 し られ、今 こん 楠公 なんこう と呼 よ ばれた。毎年 まいとし 、楠木 くすのき 正成 まさしげ の命日 めいにち には楠公 なんこう 祭 さい をおこない、その思想 しそう と実践 じっせん は、後 ご の湊川 みなとがわ 神社 じんじゃ を始 はじ めとする人物 じんぶつ 顕彰 けんしょう 神社 じんじゃ の創建 そうけん や、靖国神社 やすくにじんじゃ を始 はじ めとする招魂 しょうこん 社 しゃ の成立 せいりつ に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
真木 まき は、開明 かいめい 派 は の橋本 はしもと 左 ひだり 内 ない や横井 よこい 小楠 しょうなん 、近代 きんだい 国家 こっか への展望 てんぼう を持 も った倒幕 とうばく 派 は の大久保 おおくぼ 利通 としみち 、坂本 さかもと 龍馬 りょうま などと比 くら べ、西洋 せいよう 事情 じじょう に対 たい する洞察 どうさつ も知見 ちけん も乏 とぼ しかった。その思想 しそう は観念 かんねん 的 てき な攘夷 じょうい 論 ろん で「我 わ が国 くに は神州 しんしゅう であり、たとえ国土 こくど ・民族 みんぞく が滅亡 めつぼう することがあろうともあくまでも攘夷 じょうい を断行 だんこう すべきである」という偏狭 へんきょう な国粋 こくすい 主義 しゅぎ に留 とど まった。膨大 ぼうだい な政治 せいじ 改革 かいかく 建 けん 策 さく も名分 めいぶん を正 ただ すための施策 しさく が大 だい 多数 たすう を占 し め、具体 ぐたい 的 てき 内容 ないよう に至 いた っていなかった[7] 。真木 まき の掲 かか げた「倒幕 とうばく 、そして王政 おうせい 復古 ふっこ 」は封建 ほうけん 国家 こっか から近代 きんだい 国民 こくみん 国家 こっか をめざしたものではなく、庶民 しょみん から見 み れば支配 しはい 者 しゃ が将軍 しょうぐん から天皇 てんのう に入 い れ替 か わるだけの事 こと であったが、明治維新 めいじいしん の大義名分 たいぎめいぶん として大 おお いに活用 かつよう された。真木 まき は死後 しご 、皇国 こうこく 史観 しかん によって改 あらた めて評価 ひょうか された[8] 。
久留 くる 米 べい 藩 はん で真木 まき の思想 しそう を引 ひ き継 つ いだ攘夷 じょうい 派 は 藩士 はんし は、明治維新 めいじいしん 後 ご の久留 くる 米 べい 藩 はん 難事件 なんじけん で薩長 さっちょう による新 しん 政府 せいふ への反乱 はんらん に加担 かたん して処刑 しょけい ・投獄 とうごく されている。
十 じゅう 七 なな 烈士 れっし の墓 はか (大山崎 おおやまざき 町 まち 天王山 てんのうざん )
十 じゅう 七 なな 烈士 れっし の碑 いしぶみ ・近影 きんえい
十 じゅう 七 なな 烈士 れっし の墓 はか ・真木 まき 和泉 いずみ の墓碑 ぼひ
^ "Rectitude is the bone that gives firmness and stature. As without bones the head cannot rest on the top of the spine, nor hands move nor feet stand, so without rectitude neither talent nor learning can make of a human frame a samurai. With it the lack of accomplishments is as nothing."