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だい兵隊へいたい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

だい兵隊へいたい(だいにきへいたい)は、幕末ばくまつ長州ちょうしゅうはん結成けっせいされた長州ちょうしゅうはんしょたいひとつ。総督そうとく山内やまうちうめ三郎さぶろう清水しみず美作みさくおやはる)など。ぐんかん白井しらいしょうすけ世良せら修蔵しゅうぞうはやしはんなな大洲おおずてつしかなど。

概要がいよう

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文久ぶんきゅう3ねん6がつ1863ねん7がつ)、高杉たかすぎ晋作しんさく兵隊へいたい創設そうせつすると、それに触発しょくはつされて元治もとはる元年がんねん5がつ1864ねん6がつ)、秋良あきら雄太郎ゆうたろうらが大島おおしまぐんたい結成けっせいしたが、軍資金ぐんしきん不足ふそくなどで活動かつどう不能ふのうおちいっていた。

慶応けいおう元年がんねん1がつ1865ねん2がつ)に、白井しらいしょうすけ世良せら修蔵しゅうぞうらが中心ちゅうしんとなってこのたい再興さいこうかずたい合流ごうりゅうするかたち部隊ぶたい編成へんせいされた。結成けっせいである周防すおう地方ちほう長州ちょうしゅうはんりょう南東なんとう位置いちするため、北西ほくせい長門ながと地方ちほう結成けっせいされた兵隊へいたいとの対称たいしょうで、みなみ兵隊へいたいしょうされた。初代しょだい総督そうとく白井しらいしょうすけぐんかんには世良せら修蔵しゅうぞういた。室積むろづみむら普賢寺ふげんじ屯所とんしょとし、農民のうみん神官しんかん僧侶そうりょ下級かきゅう藩士はんしなどがおお参加さんかたい吸収きゅうしゅうするなどして隊員たいいんは300めいえた。

石城山いししろやまだい兵隊へいたい本陣ほんじんあと神護かんご寺跡てらあと

同年どうねん3がつ(1865ねん4がつ)、しょたい長州ちょうしゅうはん正規せいきぐんとして公認こうにんすることにともなって整理せいり統合とうごうされ、だい兵隊へいたい改称かいしょう兵隊へいたい総督そうとく山内やまうちうめ三郎さぶろうだい兵隊へいたい総督そうとく兼務けんむした。白井しらい世良せらぐんかんとなり、隊員たいいんすうは100にん削減さくげんのちに125にん)、本営ほんえい石城山いししろやま神護かんごてら移動いどうした[1]

よく慶応けいおう2ねん4がつ1866ねん5がつ)、幹部かんぶ立石たていし孫一まごいちろうが、隊員たいいんだい部分ぶぶんやく100めい)をひきいて脱走だっそうし、幕府ばくふ倉敷くらしき代官だいかんしょおよび、京都きょうとみるまわりやく蒔田まきたひろこう浅尾あさおはん陣屋じんや襲撃しゅうげきする(倉敷くらしき浅尾あそお騒動そうどう)。そのこう梁川りょうせん河口かこうにおいて幕府ばくふぐん銃撃じゅうげきけて潰走かいそう長州ちょうしゅうはんりょうかえるが、立石たていし以下いか脱走だっそうたいおおくがはん政府せいふにより処刑しょけいされた。

同年どうねん6がつだい長州ちょうしゅう征伐せいばつにおいて大島おおしま幕府ばくふぐん占領せんりょうされると、高杉たかすぎ晋作しんさくひきいる艦隊かんたい夜間やかん奇襲きしゅうにより幕府ばくふ海軍かいぐん駆逐くちく世良せら修蔵しゅうぞう指揮しきだい兵隊へいたいらが上陸じょうりく大島おおしま奪還だっかんたした。

慶応けいおう3ねんはんぐん再編さいへんにより膺懲ようちょうたい合併がっぺいして健武たけぶたいとなり、よく慶応けいおう4ねん1がつ1868ねん1がつ)の鳥羽とば伏見ふしみたたか参加さんかしている。

参考さんこう

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  • 山口やまぐちけんひかり石城山いししろやまだい兵隊へいたい本陣ほんじんあとにはだい兵隊へいたい顕彰けんしょうがある。
  • 山口やまぐちけん大島おおしまぐん周防すおう大島おおしままち明治めいじひゃくねん記念きねん公園こうえんにはだい兵隊へいたい事績じせきしるした倉敷くらしき騒動そうどうがある。
  • 岡山おかやまけん倉敷くらしきかんりゅうてら山門さんもんにはだい兵隊へいたいによるやりこんのこる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ただし、神護かんご寺跡てらあとてられた説明せつめいばん平成へいせい24ねん3がつ ひかり教育きょういく委員いいんかい)では「やく400めいたい」が石城山いししろやまはいったとしている。

外部がいぶリンク

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