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はやし茂平もへい

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はやし 茂平もへい(はやし しげひら/もへい、1839ねん天保てんぽう10ねん6がつ[1] - 1875ねん明治めいじ8ねん7がつ5にち[2])は、幕末ばくまつ土佐とさ藩士はんし明治めいじ内務ないむ官僚かんりょうけんれい旧姓きゅうせい小笠原おがさわら本姓ほんせい奥平おくだいらは「亀吉かめきち」。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

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土佐とさ藩士はんし小笠原おがさわらしげるつねだいよんろう)のおとことしてまれ、無双むそう直伝じきでん英信えいしんりゅう居合いあい宗家そうけ家柄いえがらである林政りんせいまもるえきすすむ)のいもうとこんして林家はやしや養子ようしとなる[2]。(茂平もびらつま板垣いたがき退助たいすけはつつまで、退助たいすけ離縁りえん実家じっか林家はやしやもどりのち茂平もへいこんした[3])

土佐とさはんへい行動こうどうさかい事件じけん[編集へんしゅう]

箕浦みのうらもとあきら猪之吉いのきちひきいる土佐とさはんろくばんたいは、鳥羽とば伏見ふしみたたか直後ちょくご慶応けいおう4ねん1がつ9にちはち(1868ねん2がつ2にち午後ごご2)にきょう出立しゅったつよどみじょうかった。皇軍こうぐん総裁そうさい仁和寺にんなじみやあきらじん親王しんのう警護けいご土佐とさはんへい先鋒せんぽう交代こうたいするためであったが、同日どうじつよるよどみじょう到着とうちゃくしたときは、仁和寺にわじみや警護けいごへいすでしろ大坂おおさかかったのちだった。ぐんかんはやし茂平もへい亀吉かめきち)の判断はんだんろくばんたいよく10日とおか(太陽暦たいようれき2がつ3にち)夜明よあけによどみじょうち、淀川よどがわくだって、同日どうじつよる大坂おおさか仁和寺にわじみやたい合流ごうりゅうした。この時点じてん仁和寺にわじみや警護けいご薩摩さつまはんへいわっており、ろくばんたい当初とうしょ目的もくてき解消かいしょうしていた[4]

1がつ11にち(太陽暦たいようれき2がつ4にち)、ろくばんたいあらたな任務にんむさかい町内ちょうない警固けいごまった。当時とうじさかい大坂おおさか町奉行まちぶぎょう支配しはいにあったが、1がつ7にち大阪おおさか開城かいじょう大坂おおさか町奉行まちぶぎょう事実じじつじょう崩壊ほうかいし、きゅうさかい奉行ぶぎょうしょ駐在ちゅうざいしていた同心どうしんたちも逃亡とうぼうしてしまっていた。ろくばんたい即日そくじつ出発しゅっぱつし、そののうちにさかいはいった[4]

1がつ16にち(太陽暦たいようれき2がつ9にち)、箕浦みのうらした神戸こうべ事件じけん情報じょうほうはいった。事件じけん箕浦みのうらおこらせるに十分じゅうぶんであった。箕浦みのうらはもともと儒学じゅがくもので、そののうちに箕浦みのうらざい京阪けいはん土佐とさはん兵力へいりょく検討けんとうしている[5]

神戸こうべ事件じけん以外いがい箕浦みのうら苛立いらだたせていた出来事できごとがあった。1がつ17にち(太陽暦たいようれき2がつ10日とおか)、大坂おおさかにいたはやしは「中国ちゅうごく四国しこく征討せいとう総督そうとく四条しじょうたかし姫路ひめじ進発しんぱつのため、さかい土佐とさはんへい一部いちぶ大坂おおさか帰還きかんさせよ」と命令めいれいしたが、これでは任務にんむ遂行すいこうできないとみた箕浦みのうらは、はやし増援ぞうえんもとめる書状しょじょうおくり、さらにみずか大坂おおさかぐんかんおもむいた。はやし箕浦みのうら要望ようぼうけ、きょうから西村にしむら佐平次さへいじひきいるはちばんたいけた。はちばんたい到着とうちゃくしたのは2がつ8にち(太陽暦たいようれき3月1にち)である[4]

明治維新めいじいしん以降いこう[編集へんしゅう]

明治めいじ4ねん6がつ(1871ねん7がつ下旬げじゅん~8がつ上旬じょうじゅん)、丸亀まるがめけんだい参事さんじ就任しゅうにん[1]同年どうねん10月(太陽暦たいようれき11がつ下旬げじゅん~12がつ上旬じょうじゅん)、だいいち香川かがわけん設置せっちされ、同年どうねん11月15にち(太陽暦たいようれき12月26にち)、どうけん参事さんじとなる[6]明治めいじ5ねん10月17にち(1872ねん11月17にち[6])、豊岡とよおかけんけんれい転任てんにん[1]同年どうねん11月28にち(太陽暦たいようれき12月28にち)、ふたた香川かがわけんけんれいとして赴任ふにんした。

明治めいじ6ねん(1873ねん)2がつ20日はつか[6]香川かがわけん名東めいとうけん吸収きゅうしゅう合併がっぺいとなり、どうけんけんれい就任しゅうにん[1]もと徳島とくしまけんだい参事さんじ井上いのうえこうかくらが自助じじょしゃ結成けっせいして自由じゆう民権みんけん運動うんどう推進すいしんしたが、徴兵ちょうへい反対はんたい西にしさん竹槍たけやり騒動そうどうこるなど困難こんなん県政けんせい運営うんえいいられ、同年どうねん10月13にちけんれい罷免ひめん[1]。その内務省ないむしょうろくとう出仕しゅっしとして奉職ほうしょくした[1][2]

先祖せんぞ[編集へんしゅう]

先祖せんぞ奥平おくだいらさだせい左門さもん三郎兵衛さぶろべえ)は、三河みかわこく出身しゅっしん奥平おくだいら嫡流ちゃくりゅう奥平おくだいらじょうのうていのう逝去せいきょ奥平おくだいらしんあきら)につかえ、さらに慶長けいちょう7ねん1602ねん本家ほんけはなれて松平まつだいら定勝さだかつつかえた。土佐とさはんはんによれば、さだせいは「松平まつだいらせい使用しようゆるされ「若狭わかさまもる」を名乗なのったという。さだせい次男じなん奥平おくだいら義政よしまさ図書としょ)は、慶長けいちょう10ねん(1605ねん)、山内やまうち忠義ただよし正室せいしつおもねひめにゅう輿こしとき松平まつだいら定勝さだかつ隠岐おきもり)に召抱めしかかえられ、おく家老がろうおおせづけられにゅう輿こしきょうして土佐とさ来住きし[3]客将かくしょうとして一旦いったん土佐とさはん附属ふぞくされ400せき知行ちぎょうたまわった[3]。このときせいを「奥平おくだいら」より「小笠原おがさわら」にあらためる。のちおもねひめあきらがつさま)の逝去せいきょとき松平まつだいら定勝さだかつ旗下きかもどると功労こうろうにより徳川とくがわ幕府ばくふより知行ちぎょう1000せき松平まつだいら定勝さだかつより知行ちぎょう400せきたまわった[3]寛永かんえい6ねん4がつ6にち(1629ねん5月28にち)病死びょうし[3]。その義政よしまさ嫡子ちゃくしけん左衛門さえもん松平まつだいら隠岐おきもり家中いえじゅう家督かとく相続そうぞく次男じなん重政しげまさ土佐とさはん召抱めしかかえられた。三男さんなん五郎ごろう兵衛ひょうえ長兄ちょうけいおなじく松平まつだいら隠岐おきもりかかえられ、四男よつお重次しげつぐ土佐とさはん召抱めしかかえられる[3]土佐とさはんかかえられた重政しげまさは「小笠原おがさわら」をしょうし、重次しげつぐは「牧野まきの」をしょうした。はやし茂平もへい養子ようしとなって林家はやしや継承けいしょうしたが血統けっとうじょう重政しげまさ子孫しそんで、戊辰戦争ぼしんせんそう討死うちじにした小笠原おがさわらゆいはち(まき野茂のもたかし)や小笠原おがさわらしげるれん親族しんぞくにあたる[3]

補註ほちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f 徳島とくしまけん人名じんめい事典じてん 別冊べっさつ』258ぺーじ
  2. ^ a b c 明治めいじ過去かこちょう』58ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g さむらいちゅう先祖せんぞしょ系圖けいず牒』きゅう山内やまうち侯爵こうしゃくぞう
  4. ^ a b c 土佐とさ史談しだん復刻ふっこく叢書そうしょ(3)泉州せんしゅうさかい藩士はんし列挙れっきょ実紀みきみょうこくてら切腹せっぷく)』土佐とさ史談しだんかい1979ねん、19ぺーじ
  5. ^ 大岡おおおかさかいこう攘夷じょうい始末しまつ』、74-75ぺーじ
  6. ^ a b c 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん:1868 - 2000』98ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]