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久保くぼ清太郎せいたろう

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久保くぼ 清太郎せいたろう(くぼ せいたろう、1832ねん12月29にち天保てんぽう3ねんうるう11月8にち)- 1878ねん明治めいじ11ねん10月2にち)は、幕末ばくまつ長州ちょうしゅう藩士はんし明治めいじ官僚かんりょうひさきよし通称つうしょう清太郎せいたろう松太郎まつたろう明治めいじ2ねん1869ねん)にだんさんあらためる。ごう・淞東。

経歴けいれき

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長州ちょうしゅう藩士はんし久保くぼ五郎左衛門ごろうざえもん長男ちょうなんとして、はぎじょう下松本しもまつもとむらげん山口やまぐちけんはぎ)でまれる。松下まつした村塾そんじゅく玉木たまきぶんすすむ吉田よしだ松陰しょういんまなぶ。13さい家督かとく相続そうぞく安政あんせい2ねん1855ねん)、江戸えど藩邸はんていだい番手ばんてとしてやく2年間ねんかんつとめる。このあいだ古賀こがちゃけい羽倉はねくら簡堂東条とうじょうえいあん塩谷しおや宕陰まなんだ。

安政あんせい4ねん4がつ29にち1857ねん5月22にち)にはんし、富永とみなが有隣うりん出獄しゅつごく尽力じんりょくして、かれ松陰まつかげの3にん協力きょうりょくして松下まつした村塾そんじゅく独立どくりつさせる。

安政あんせい5ねん7がつ1858ねん8-9がつ)にはんつとむ復帰ふっきし、明倫めいりんかん出勤しゅっきん三田尻みたじり講習こうしゅうどう出勤しゅっきん政事せいじどう出勤しゅっきん舟木ふなき代官だいかん上関かみのせき代官だいかん筑前ちくぜん伊崎いざき代官だいかん山口やまぐちはん会計かいけい主事しゅじなどを歴任れきにん

明治めいじ3ねん1870ねん)、山口やまぐちはんけんだい参事さんじとなる。廃藩置県はいはんちけん山口やまぐちけんしょう参事さんじ就任しゅうにん明治めいじ5ねん1872ねん)、名東めいとうけんげん徳島とくしまけん参事さんじとなり、のちけんれい就任しゅうにん1874ねん明治めいじ7ねん)11月、度会わたらいけんげん三重みえけんけんれい転任てんにん1876ねん明治めいじ9ねん)7がつ20日はつか退官たいかんし、東京とうきょう転居てんきょした。墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん(1イ3-2)

参考さんこう文献ぶんけん

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