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即興そっきょう詩人しじん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

即興そっきょう詩人しじん』(そっきょうしじん、ちょう: Improvisatoren)は、デンマーク作家さっかハンス・クリスチャン・アンデルセン1835ねん発表はっぴょうした小説しょうせつ作者さくしゃはじめての長編ちょうへん小説しょうせつで、イタリア各地かくち舞台ぶたいとしたロマンティックな作品さくひんである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

童話どうわ作家さっかとなるまえのアンデルセンが、1833ねんから1834ねんにかけて、旅行りょこうおとずれたイタリアでの体験たいけんをもとにまとめげた自伝じでんてき小説しょうせつで、1835ねん刊行かんこうされた。イタリア各地かくち自然しぜん風俗ふうぞくうつくしくえがいたこの作品さくひんは、発表はっぴょう当時とうじかなりの反響はんきょうび、ヨーロッパ各国かっこく翻訳ほんやく出版しゅっぱんされることになり、作者さくしゃ童話どうわ出版しゅっぱんけての意識いしきたかめるものとなった。

日本にっぽんでは、もり鷗外ドイツはんからやく10ねん年月としつきをかけて翻訳ほんやく紹介しょうかいし、その雅俗がぞく文体ぶんたいおおくの作家さっか影響えいきょうあたえた。

あらすじ[編集へんしゅう]

ローマはピアツツア・バルベリイニ(バルベリーニ広場ひろば)のまずしいいえまれた少年しょうねんアントニオは、おもいつくままにつむ即興そっきょう詩人しじんになることを夢見ゆめみていた。アラチエリ教会きょうかいでのどもの説教せっきょうかみ使つかいのようなちいさなおんな出会であう。その、ジエンツアノの花祭はなまつりおさなくして母親ははおやくすという悲劇ひげきにあったものの、かれ才能さいのうってくれる名家めいかてきて、アントニオの運命うんめい順風じゅんぷうまんえた。ローマの謝肉祭しゃにくさい復活ふっかつさいなかでの歌姫うたひめアヌンチヤタとに再会さいかいし、アラチエリで出会であったちいさなおんなだとる。そして、悲恋ひれん親友しんゆうベルナルドオとの出会であいと三角さんかく関係かんけいによる決闘けっとうて、数奇すうき運命うんめいまれることとなる。アントニオはローマをのがれてナポリ、ヱネチア(ヴェネツィア)、ポンペイとイタリア各地かくち遍歴へんれきする。ペスツムでは盲目もうもく少女しょうじょララに出会であう。カプリでも再会さいかいする。そしてついにはアヌンチヤタと再会さいかいするが、すでにアヌンチヤタはからだしんもぼろぼろになっていた。わかれたのち瀕死ひんしのアヌンチヤタから手紙てがみて、ナポリまでいかけたけどいちにちちがいで出会であえなかった、ねんあいだ劇場げきじょうたくわえたおかねはすべて薬代くすりだい使つかったが、こえうしなったといてあり、はじめからアヌンチヤタは自分じぶんあいしてくれたことをる。マリアと教会きょうかいき、アヌンチヤタのおはかおとずれる。その、ララが成人せいじんしてなおったマリアだいうことがかり、二人ふたり結婚けっこんし、さんねんにアヌンチヤタというどもをれてカプリをおとずれる。

北欧ほくおうデンマーク出身しゅっしんのアンデルセンあこがれの南国なんごくイタリアを舞台ぶたいに、親友しんゆう貴族きぞくベルナルドオ、薄倖はっこう歌姫うたひめアヌンチヤタ、しょう尼公にこうフラミニア、盲目もうもく美少女びしょうじょララ、サンタ夫人ふじん、そしてヴェネツィアいち美女びじょマリアらの美男びなん美女びじょはいし、イタリア各地かくち名勝めいしょう旧跡きゅうせき風光ふうこう明媚めいび自然しぜんのたたずまいを情熱じょうねつをこめて描写びょうしゃしている。

刊行かんこう書籍しょせき[編集へんしゅう]

原典げんてんデンマークはんからの口語こうごやく

もり鷗外による日本語にほんごやく[編集へんしゅう]

もり鷗外による典雅てんが擬古ぎこぶんわけで「原作げんさく以上いじょう翻訳ほんやく」とひょうされ、近代きんだい日本にっぽん文学ぶんがく史上しじょう名著めいちょである。鷗外はほんさくドイツわけみ、「わが座右ざゆうはなれざるしょ」として愛惜あいせきしていた。
ドイツ留学りゅうがくより帰国きこく舞姫まいひめ』を発表はっぴょう軍務ぐんむかたわ丹精たんせいめ、明治めいじ25ねんから34ねん(1892~1901ねん)のやく10ねんがかりでドイツ語どいつごばんから重訳じゅうやく断続だんぞくてき雑誌ざっししがらみ草紙ぞうし』などに発表はっぴょうした。
初刊しょかんばん即興そっきょう詩人しじん」は、明治めいじ35ねん(1902ねん)に春陽しゅんようどううえした)。後年こうねん日本にっぽん近代文学館きんだいぶんがくかん名著めいちょふくこく全集ぜんしゅう」が出版しゅっぱん

当時とうじ言文げんぶん一致いっちながれから日本語にほんご口語体こうごたい完成かんせいしつつある時期じきであったが、鷗外はえて雅俗がぞく折衷せっちゅう流麗りゅうれい文語ぶんごたいつづっている。ただし、それはかならずしも直訳ちょくやくではなく、西洋せいよう故事こじ由来ゆらいする表現ひょうげん中国ちゅうごく古典こてん表現ひょうげんえるなどの技巧ぎこうらしている[1]

なお、ダンテかみきょく』の題名だいめい原題げんだい直訳ちょくやくでは「神聖しんせい喜劇きげき」)は、鷗外が『即興そっきょう詩人しじん』の一章いっしょうで「かみきょくわれともなる貴公子きこうし」とやくしたものが定着ていちゃくしたものである。

鷗外やく即興そっきょう詩人しじん

うまロオマきしことあるひとはピアツツア・バルベリイニをりたるべし。こは貝殻かいがらてるトリイトンのかみぞうつくり做したる、うつくしき噴井ある、だいなるひろこうぢのなり。貝殻かいがらよりはみずでてそのたかすうしゃくおよべり。

作品さくひんろん[編集へんしゅう]

鷗外やく影響えいきょう

鷗外やく流麗りゅうれい文語ぶんごたい雅文がぶん魅了みりょうされ、木下きのした杢太郎もくたろう斎藤さいとう茂吉しげよし阿部あべ次郎じろう小泉こいずみ信三しんぞうなど、明治めいじ末期まっきから昭和しょうわ戦前せんぜん)にかけて『即興そっきょう詩人しじん』を持参じさんしてイタリア各地かくち巡礼じゅんれい遍歴へんれきする文学ぶんがくしゃ学者がくしゃ続出ぞくしゅつした[2]。そのなかには上田うえださとし正宗まさむね白鳥しらとりひとしもいた[3]

現在げんざいでも、イタリア旅行りょこうたって『即興そっきょう詩人しじん』をたずさえるものおおく、とく画家がか装幀そうてい安野やすのひかりみやびは、鷗外やく即興そっきょう詩人しじん』にみ、まわりに『即興そっきょう詩人しじん』の魅力みりょく布教ふきょう宣伝せんでんしてまわり、作品さくひん舞台ぶたいとなったイタリア各地かくちめぐりスケッチした上記じょうき文集ぶんしゅう口語こうごやく出版しゅっぱんしている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ かくふし題目だいもくで、わが最初さいしょ境界きょうかい(きょうがい) 、隧道すいどうよししょう鬟(びしょうかん)、花祭はなまつりあしなえ丐(けんかい)など
  2. ^ 佐藤さとう義隆よしたかアンデルセンの世界せかい(1) -21世紀せいきつたえたいゆたかな世界せかい」(pdf)『岐阜女子大学ぎふじょしだいがく紀要きようだい29ごう岐阜女子大学ぎふじょしだいがく、2000ねん、97-109ぺーじISSN 02868644NAID 110000146212国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:5374867 
  3. ^ 当時とうじ情況じょうきょうは『世界せかい紀行きこう文学ぶんがく全集ぜんしゅう5 イタリアへん』(修道しゅうどうしゃ初版しょはん1959ねん)にしるされている。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]