この項目 こうもく では、古代 こだい エジプトの都市 とし について説明 せつめい しています。
古代 こだい ギリシアの都市 とし 国家 こっか については「テーバイ 」をご覧 らん ください。
木星 もくせい の衛星 えいせい については「テーベ (衛星 えいせい ) 」をご覧 らん ください。
テーベ (古代 こだい ギリシア語 ご : Θ しーた ῆβ べーた α あるふぁ ι いおた , Thēbai )は古代 こだい エジプト の都市 とし (英語 えいご 版 ばん ) 。古代 こだい エジプト語 ご ではワセト(Waset) と呼 よ ばれた。この都市 とし は地中海 ちちゅうかい から800キロメートル南 みなみ 、ナイル川 がわ の東 ひがし に位置 いち する。都市 とし の遺跡 いせき は現代 げんだい のエジプト の都市 とし (英語 えいご 版 ばん ) ルクソール の中 なか に広 ひろ がっている。テーベは上 うえ エジプト第 だい 4州 しゅう (権 けん 杖 つえ のノモス Sceptre nome)の主要 しゅよう 都市 とし であり、新 しん 王国 おうこく 時代 じだい のエジプトの首都 しゅと であった。テーベは貴重 きちょう な鉱物 こうぶつ 資源 しげん と交易 こうえき ルートがあるヌビア と東部 とうぶ 砂漠 さばく に近接 きんせつ していた。この都市 とし は信仰 しんこう の中心 ちゅうしん (英語 えいご 版 ばん ) であり、その全盛期 ぜんせいき にはエジプトで最 もっと も富裕 ふゆう な都市 とし であった。テーベの市域 しいき には、カルナック とルクソール が本来 ほんらい 立 た っていたナイル川 がわ 東岸 とうがん と、上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう と王家 おうけ の墓地 ぼち と葬祭 そうさい 殿 どの 群 ぐん によるネクロポリス (英語 えいご 版 ばん ) がある西岸 せいがん 地区 ちく が含 ふく まれる。
wꜣs.t 権 けん 杖 つえ の都市 とし (City of the Scepter )[ 1] ヒエログリフ で表示 ひょうじ
niw.t rs.t 南 みなみ の都市 とし (Southern City )[ 2] ヒエログリフ で表示 ひょうじ
iwnw-sm’ 南 みなみ のヘリオポリス(Heliopolis of the South )[ 3] ヒエログリフ で表示 ひょうじ
テーベを指 さ す古代 こだい エジプト語 ご での元々 もともと の名前 なまえ はウォ・セ(Wo'se) 、またはワセ(Wase) である。 語根 ごこん になっているワス (ウアス)とは、ファラオ の王 おう 笏 しゃく のことであり、上端 じょうたん に動物 どうぶつ の頭 あたま が付 つ き、下端 かたん が二又 ふたまた に分 わ かれた形状 けいじょう の長 なが い杖 つえ である。
英語 えいご 名 めい のThebesはギリシア語 ご 形 かたち のテーバイ(Thebai) のラテン語 らてんご 化 か された名前 なまえ から来 き ている。そしてギリシア語形 ごけい (英語 えいご 版 ばん ) のテーバイは、デモティック・エジプト語 ご のタ・ペ(Ta-pe ) から来 き ている。このタ・ペと言 い う名前 なまえ は、元々 もともと テーベ市 し それ自体 じたい ではなく、ナイル東岸 とうがん 地域 ちいき にあるカルナック 神殿 しんでん 群 ぐん の名前 なまえ であった(正式 せいしき なエジプト語 ご の表記 ひょうき は タ・オペト Ta-opet )。
早 はや くもホメロス の『イリアス [ 4] 』では、ギリシア人 じん はエジプトのテーベを百 ひゃく 門 もん のテーベ (Θ しーた ῆβαι ἑκατόμπυλοι[ 注釈 ちゅうしゃく 1] )と呼 よ び、ギリシア のボイオティア にある七 なな 門 もん のテーベ (Θ しーた ῆβαι ἑπτάπυλοι[ 注釈 ちゅうしゃく 2] )と区別 くべつ していた[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。
新 しん 王国 おうこく の終焉 しゅうえん 頃 ごろ から、テーベはエジプト人 じん からネウト・アメン(Niwt-Imn) (アメンの街 まち )と呼 よ ばれるようになった。アメン はムト 、コンス と共 とも に構成 こうせい されるテーベ三 さん 柱 はしら 神 しん (英語 えいご 版 ばん ) の主神 しゅしん である。ネウト・アメンの名前 なまえ は聖書 せいしょ の『ナホム書 しょ 』[ 6] では「ノ・アーモン」(Nōʼ ʼĀmôn נא אמון )と言 い う形 かたち で現 あらわ れ、恐 おそ らく『エゼキエル書 しょ 』[ 7] と『エレミヤ書 しょ 』[ 8] で「ノ」(No נא )と言 い う名前 なまえ で言及 げんきゅう されている物 もの も同様 どうよう である。ギリシア人 じん はアメン神 しん をゼウス (Zeus Ammon)であると解釈 かいしゃく (interpretatio graeca )した。従 したが って、ネウト・アメンと言 い う名前 なまえ はギリシア語 ご ではディオスポリス(ゼウスの街 まち )と翻訳 ほんやく された。ディオスポリスと言 い う名前 なまえ を持 も つ都市 とし は他 ほか にも複数 ふくすう あったため、特 とく に区別 くべつ するため、メガレー・ディオスポリス(大 だい ディオスポリス μεγάλη Διόσπολις )と言 い う名前 なまえ でも知 し られた。ラテン語 らてんご 形 がた ではディオスポリス・マグナ(ラテン語 らてんご : Diospolis Magna )となる。ギリシア語 ご の名前 なまえ はアレクサンドロス大王 だいおう によるエジプト征服 せいふく によって、マケドニア人 じん [ 注釈 ちゅうしゃく 4] の支配 しはい 者 しゃ (プトレマイオス朝 あさ )がエジプトを統治 とうち するようになった後 のち 、広 ひろ く使 つか われるようになった。
テーベの位置 いち 。
テーベは上 うえ エジプト の中部 ちゅうぶ 、ナイル川 がわ デルタ から約 やく 800キロメートル南 みなみ に位置 いち し、ナイル川 がわ に沿 そ って広 ひろ がっていた。大 だい 部分 ぶぶん はナイル川 がわ の大 だい 湾曲 わんきょく 部 ぶ に沿 そ ったナイル渓谷 けいこく (英語 えいご 版 ばん ) の沖積 ちゅうせき 平野 へいや に建設 けんせつ された。そのため、自然 しぜん の成 な り行 ゆ きとしてテーベは北東 ほくとう から南西 なんせい に向 む けて当時 とうじ のナイル川 がわ の流 りゅう 路 ろ と並行 へいこう に広 ひろ がっていた[ 9] 。テーベは93平方 へいほう キロメートルの面積 めんせき を持 も ち、その中 なか には西部 せいぶ のテーベ丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい の一部 いちぶ が含 ふく まれていた。この丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい は標高 ひょうこう 420メートルの聖 せい なるアル・クルン を最高峰 さいこうほう とする。東側 ひがしがわ には、東部 とうぶ 砂漠 さばく の山岳 さんがく 地帯 ちたい がありワジ (涸 か れ川 かわ )が谷 たに に流 なが れ出 で ていた。このようなワジの中 なか でも重要 じゅうよう な物 もの はテーベ近郊 きんこう のワジ・ハンママト (英語 えいご 版 ばん ) で、紅海 こうかい 沿岸 えんがん へ向 む かう陸上 りくじょう 交易 こうえき 路 ろ として使用 しよう された。
上 うえ エジプト第 だい 4州 しゅう には、テーベの近隣 きんりん 都市 とし として、ペル・ハトホル (英語 えいご 版 ばん ) 、マドゥ (英語 えいご 版 ばん ) 、ジェルティ (英語 えいご 版 ばん ) 、イウニ (英語 えいご 版 ばん ) 、スメヌ(Sumenu)、イミオトル(Imiotru)のような街 まち があった[ 10] 。
テーベの人口 じんこう 、前 ぜん 2000-前 ぜん 900
ジョージ・モデルスキー によれば、テーベには紀元前 きげんぜん 2000年 ねん に40,000人 にん の住民 じゅうみん がいた(対 たい して、当時 とうじ 世界 せかい 最大 さいだい の都市 とし であったメンフィス は60,000人 にん とする)。紀元前 きげんぜん 1800年 ねん までに、メンフィスの人口 じんこう は約 やく 30,000人 にん に減少 げんしょう し、テーベはエジプトにおける当時 とうじ 最大 さいだい の都市 とし となった[ 11] 。歴史 れきし 学者 がくしゃ イアン・モリス (英語 えいご 版 ばん ) は紀元前 きげんぜん 1500年 ねん までに、テーベは世界 せかい 最大 さいだい の都市 とし に成長 せいちょう し、その人口 じんこう は75,000人 にん となったと推定 すいてい している。また、テーベは紀元前 きげんぜん 900年 ねん 頃 ごろ に(数 かず ある都市 とし の中 なか でも)ニムルド に凌駕 りょうが されるまでは、世界 せかい 最大 さいだい の都市 とし であり続 つづ けたとも推定 すいてい している[ 12] 。
テーベの考古 こうこ 遺跡 いせき は、エジプト文明 ぶんめい の昇 のぼ った高 たか みを印象 いんしょう 付 つ ける遺物 いぶつ を現代 げんだい に残 のこ している。ギリシアの詩人 しじん ホメロス は、イリアス の第 だい 9歌 うた (前 ぜん 8世紀 せいき 頃 ごろ )でテーバイの富 とみ を称 とな えた。「...エジプトのテーベ - ここでは家々 いえいえ に莫大 ばくだい な富 とみ が蓄 たくわ えられ、城門 じょうもん の数 かず は百 ひゃく 、それぞれの門 もん からは二 に 百 ひゃく の兵 へい が戦車 せんしゃ を列 つら ねて出撃 しゅつげき できるというが...」[ 注釈 ちゅうしゃく 5]
テーベでは毎年 まいとし 60以上 いじょう の祝祭 しゅくさい が催 もよお された。エドフのホルス神殿 しんでん の壁面 へきめん の浮彫 うきぼり と碑文 ひぶん (Edfu Geographical Text[ 注釈 ちゅうしゃく 6] )によれば、特 とく に重要 じゅうよう な祝祭 しゅくさい として、オペト祭 さい (英語 えいご 版 ばん ) 、コイアク(Khoiak)、シェム (英語 えいご 版 ばん ) 1月 がつ のフェスティバル、シェム2月 がつ のフェスティバルがあった。他 た に人気 にんき のある祝祭 しゅくさい としてハロウィーンのような谷 たに の美 うつく しき祭 まつ り(英語 えいご 版 ばん ) があった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
テーベのネクロポリス
テーベには紀元前 きげんぜん 3200年 ねん 頃 ころ から人 ひと が住 す んでいた[ 13] 。この都市 とし には上 うえ エジプト第 だい 4州 しゅう の名前 なまえ ワセトと同 おな じ名前 なまえ が与 あた えられ、第 だい 4州 しゅう の主 しゅ 都 と であった。メンフィス がファラオの王宮 おうきゅう の役割 やくわり を務 つと めていたこの時点 じてん では、テーベはまだ小 ちい さな交易 こうえき 拠点 きょてん であった。恐 おそ らく中 ちゅう 王国 おうこく 時代 じだい に作 つく られたカルナック神殿 しんでん 複 ふく 合体 がったい の一部 いちぶ よりも古 ふる い建造 けんぞう 物 ぶつ は何 なに も現存 げんそん していないが、第 だい 5王朝 おうちょう のファラオ、ニウセルラー 像 ぞう の下部 かぶ が、カルナックで発見 はっけん されている。第 だい 12王朝 おうちょう の王 おう センウセルトによって捧 ささ げられた別 べつ の彫像 ちょうぞう は、ベルトにニウセルラーのカルトゥーシュがあるため、再 さい 利用 りよう されセンウセルトに名前 なまえ を奪 うば われたものかもしれない。カルナック王 おう 名 めい 表 ひょう には第 だい 4 -第 だい 6王朝 おうちょう の7人 にん の王 おう が記載 きさい されているため、少 すく なくても古 こ 王国 おうこく 時代 じだい のテーベ地区 ちく には神殿 しんでん があった可能 かのう 性 せい がある[ 14] 。
紀元前 きげんぜん 2160年 ねん までに、新 あら たな王家 おうけ (第 だい 9王朝 おうちょう と第 だい 10王朝 おうちょう )がヘラクレオポリス・マグナ を拠点 きょてん に下 しも エジプト と上 うえ エジプト の北部 ほくぶ を統合 とうごう した。これに対抗 たいこう する王家 おうけ (第 だい 11王朝 おうちょう )がテーベを拠点 きょてん に上 うえ エジプトの残 のこ りの部分 ぶぶん を支配 しはい した。
テーベの支配 しはい 者 しゃ は明 あき らかにテーベ公 おおやけ (英語 えいご 版 ばん ) 大 だい アンテフ(英語 えいご 版 ばん ) (アンテフA)の子孫 しそん である。彼 かれ の孫 まご であると考 かんが えられるアンテフ1世 せい は、テーベ周辺 しゅうへん 以外 いがい の地域 ちいき へ支配 しはい を広 ひろ げてはいなかったが、この家系 かけい で初 はじ めてファラオ位 い を部分 ぶぶん 的 てき に主張 しゅちょう した。
アンテフ1世 せい のセレク 。彼 かれ の死後 しご メンチュヘテプ2世 せい によって刻 きざ まれた
遂 つい に紀元前 きげんぜん 2050年 ねん 頃 ごろ 、アンテフ3世 せい の息子 むすこ メンチュヘテプ2世 せい (「メンチュ神 しん は歓喜 かんき せり」の意 い )は軍事 ぐんじ 力 りょく でヘラクレオポリスを奪 うば い、エジプトを再 ふたた び一 いち 人 にん の支配 しはい 者 しゃ の下 した に置 お いた。これによって、現在 げんざい 中 ちゅう 王国 おうこく として知 し られる時代 じだい が始 はじ まった。メンチュヘテプ2世 せい は51年間 ねんかん 統治 とうち し、デイル・エル=バハリ に最初 さいしょ の葬祭 そうさい 殿 どの を建設 けんせつ した。この葬祭 そうさい 殿 どの はまず間違 まちが いなく、第 だい 18王朝 おうちょう 時代 じだい にハトシェプスト によって隣接 りんせつ して建 た てられた葬祭 そうさい 殿 どの に影響 えいきょう を与 あた えている。これらの出来事 できごと の後 のち 、メンチュヘテプ2世 せい の死 し からメンチュヘテプ4世 せい までの20年 ねん 弱 じゃく という短期間 たんきかん で滅亡 めつぼう した。その経緯 けいい は謎 なぞ である。
第 だい 12王朝 おうちょう の時代 じだい 、アメンエムハト1世 せい は玉座 ぎょくざ を北 きた のイチ・タウィ へ遷 うつ した。だがテーベは、その地方 ちほう 神 しん アメン がエジプト全土 ぜんど で崇拝 すうはい されるようになったため、宗教 しゅうきょう 的中 てきちゅう 心地 ごこち として繁栄 はんえい を続 つづ けた。最 もっと も古 ふる いアメン神殿 しんでん の遺跡 いせき は、センウセルト1世 せい の時代 じだい のものである[ 14] 。テーベは既 すで に中 ちゅう 王国 おうこく 時代 じだい にはかなりの大 おお きさの都市 とし であった。カルナック神殿 しんでん 周辺 しゅうへん の発掘 はっくつ で、中 ちゅう 王国 おうこく 時代 じだい のテーベは格子 こうし 状 じょう のレイアウトを持 も っていた事 こと がわかっている。テーベは少 すく なくても1キロメートルの長 なが さと、50ヘクタールの面積 めんせき を持 も っていた。二 ふた つの豪華 ごうか な建物 たてもの の遺跡 いせき も発見 はっけん されている[ 15] 。
第 だい 12王朝 おうちょう の後半 こうはん に入 はい ると、カナン人 じん の集団 しゅうだん がナイルデルタ東部 とうぶ に居住 きょじゅう し始 はじ めた。彼 かれ らはその後 ご 、第 だい 14王朝 おうちょう をアヴァリス で打 う ち立 た てた(前 ぜん 1805年 ねん 頃 ごろ 、または前 ぜん 1710年 ねん 頃 ごろ )。こうして、アジア人 じん 達 たち はデルタ地域 ちいき の大 だい 部分 ぶぶん に覇権 はけん を確立 かくりつ し、同 どう 時期 じき に第 だい 12王朝 おうちょう を引 ひ き継 つ いだ第 だい 13王朝 おうちょう の影響 えいきょう 下 か からこれらの地域 ちいき を切 き り離 はな した。[ 16]
アジア系 けい の人々 ひとびと (左 ひだり )とエジプト人 じん (右 みぎ )。アジア人 じん のリーダーは「異国 いこく の支配 しはい 者 しゃ 」とラベルされている。(イブシャ)
アジア人 じん の第 だい 二 に の波 なみ はヒクソス と呼 よ ばれている。この名前 なまえ は彼等 かれら の統治 とうち 者 しゃ を指 さ すエジプト語 ご 、ヘカ・カスウト (Heqa-khasut 異国 いこく の支配 しはい 者 しゃ 達 たち )から来 き ている。彼 かれ らはエジプト内 ない に移住 いじゅう し、アヴァリスのカナン人 じん の権力 けんりょく 中枢 ちゅうすう を制覇 せいは して第 だい 15王朝 おうちょう が始 はじ まった。ヒクソスの王 おう 達 たち は第 だい 2中 ちゅう 間 あいだ 期 き (前 ぜん 1657年 ねん - 前 ぜん 1549年 ねん )の速 はや い段階 だんかい で下 しも エジプトの支配 しはい 権 けん を得 え た[ 17] 。ヒクソスがメンフィスを奪取 だっしゅ した第 だい 13王朝 おうちょう のメンネフェルラー・アイ の治世 ちせい 中 ちゅう (前 ぜん 1700年 ねん 頃 ごろ )かそのすぐ後 ご 、第 だい 13王朝 おうちょう の支配 しはい 者 しゃ 達 たち はテーベへと引 ひ き、テーベを首都 しゅと として再興 さいこう した[ 18] 。
ヒクソスがデルタ の南方 なんぽう からエジプト中部 ちゅうぶ へと進 すす むと、テーベ公 おおやけ たち(現在 げんざい 第 だい 16王朝 おうちょう として知 し られている)は、頑強 がんきょう に立 た ちふさがった。テーベ人 じん たちは平和 へいわ 的 てき に共存 きょうぞん する取 と り決 き めをすることで、ヒクソスの更 さら なる前進 ぜんしん を防 ふせ いだ。この取 と り決 き めの下 した 、ヒクソスはヌビア人 じん と交易 こうえき するために、テーベとナイル川 がわ 急湍 きゅうたん (英語 えいご 版 ばん ) を越 こ えて上流 じょうりゅう へと航海 こうかい することができ、テーベ人 じん は敵 てき に出会 であ う事 こと なく彼 かれ らの家畜 かちく をデルタへと運 はこ んだ。
その状態 じょうたい はヒクソスの支配 しはい 者 しゃ アポフィス (第 だい 15王朝 おうちょう )が、テーベのセケンエンラー・タア を侮辱 ぶじょく するまで続 つづ いた。まもなく、テーベの軍隊 ぐんたい がヒクソスの支配 しはい 地 ち へ進軍 しんぐん した。この戦 たたか いでタアは戦死 せんし し、彼 かれ の息子 むすこ カーメス が軍 ぐん を引 ひ き継 つ いだ。更 さら にカーメスの死後 しご 、その兄弟 きょうだい イアフメス1世 せい はヒクソスの首都 しゅと アヴァリス を占領 せんりょう するまで攻撃 こうげき を続 つづ けた。イアフメス1世 せい はエジプトとレヴァントからヒクソスを追 お い出 だ し、かつて彼等 かれら が支配 しはい していた土地 とち を取 と り戻 もど した[ 19] 。
洪水 こうずい の中 なか のメムノンの巨 きょ 像 ぞう 、デイヴィッド・ロバーツ(David Roberts)作 さく
イアフメス1世 せい は統一 とういつ されたエジプトの新 あら たな時代 じだい を築 きず き、テーベはその首都 しゅと となった。首都 しゅと としてのテーベの遺跡 いせき は大 だい 部分 ぶぶん 第 だい 18王朝 おうちょう (新 しん 王国 おうこく )時代 じだい のものである。
テーベはまた、新 あら たに設立 せつりつ された専 せん 門 もん の役人 やくにん 達 いたる の中枢 ちゅうすう となった。王室 おうしつ の書庫 しょこ で会計 かいけい 報告 ほうこく と報告 ほうこく 書 しょ が記入 きにゅう されるようになったため、このような専 せん 門 もん の書記 しょき と学者 がくしゃ のような専 せん 門 もん の役人 やくにん には大 おお きな需要 じゅよう があった[ 20] 。この都市 とし ではヌビアにおける植民 しょくみん 地 ち 統治 とうち の管理 かんり 者 しゃ とするため、特 とく に選 えら ばれた少数 しょうすう のヌビア 人 ひと がエジプト文化 ぶんか によって再 さい 教育 きょういく された[ 21] 。
カルナック 神殿 しんでん の見取 みと り図 ず
エジプトは再 ふたた び安定 あんてい し、宗教 しゅうきょう とその中心 ちゅうしん 地 ち は栄 さか え、テーベ以上 いじょう の存在 そんざい はなかった。例 たと えばアメンヘテプ3世 せい は、外国 がいこく からの貢物 みつぎもの によって得 え た莫大 ばくだい な富 とみ をの多 おお くをアメン神殿 しんでん につぎ込 こ んだ[ 22] 。テーベの神 かみ アメンは国家 こっか の主神 しゅしん となり、全 すべ ての建築 けんちく プロジェクトが、アメンとファラオ自身 じしん の栄光 えいこう を称揚 しょうよう し、最後 さいご に建 た てられた物 もの を凌駕 りょうが することを意図 いと された[ 23] 。トトメス1世 せい (在位 ざいい :前 ぜん 1506年 ねん - 前 ぜん 1493年 ねん )は、崇拝 すうはい を集 あつ めたカルナック 神殿 しんでん の初 はじ めての大 だい 規模 きぼ 拡張 かくちょう を始 はじ めた。そののち、カルナック神殿 しんでん の大 だい 規模 きぼ 拡張 かくちょう は新 しん 王国 おうこく 時代 じだい を通 とお して継続 けいぞく された。
女王 じょおう ハトシェプスト (在位 ざいい :前 ぜん 1479年 ねん - 前 ぜん 1458年 ねん )は交易 こうえき 網 もう を再 さい 整備 せいび (主 おも にテーベの紅海 こうかい の港 みなと アル・クサイル (英語 えいご 版 ばん ) 及 およ びエイラト とプント国 こく との間 あいだ の紅海 こうかい 交易 こうえき )し、テーベを経済 けいざい 的 てき に繁栄 はんえい させた。彼女 かのじょ の後継 こうけい 者 しゃ トトメス3世 せい は、ミタンニ までの地 ち から得 え られた膨大 ぼうだい な戦利 せんり 品 ひん テーベにもたらした。第 だい 18王朝 おうちょう は彼 かれ の曾孫 そうそん アメンヘテプ3世 せい の治世 ちせい (前 ぜん 1388年 ねん - 前 ぜん 1350年 ねん )に最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた。彼 かれ はアメン神殿 しんでん をさらに壮麗 そうれい に装飾 そうしょく するとともに、テーベにおける建築 けんちく 活動 かつどう を空前 くうぜん の規模 きぼ で行 おこな った。アメンヘテプ3世 せい はテーベの西岸 せいがん で、巨大 きょだい な葬祭 そうさい 殿 どの (英語 えいご 版 ばん ) と、364ヘクタールの面積 めんせき を持 も つ人造湖 じんぞうこ に面 めん したマルカタ 王宮 おうきゅう を建設 けんせつ した。他 た に彼 かれ によってテーベに建 た てられた建物 たてもの には、ルクソール神殿 しんでん とカルナックに繋 つな がるスフィンクスの街道 かいどう がある。
アメンヘテプ3世 せい の息子 むすこ アクエンアテン (前 ぜん 1351年 ねん - 前 ぜん 1334年 ねん )の束 つか の間 ま の治世 ちせい の間 あいだ 、テーベは受難 じゅなん の時 とき を迎 むか えた。テーベの王宮 おうきゅう は放棄 ほうき され、アメン神 しん に対 たい する信仰 しんこう は禁止 きんし された。首都 しゅと はテーベとメンフィスの間 あいだ に作 つく られた新 あら たな都市 とし アマルナ (アケトアテン)に遷った。アクエンアテンの死後 しご 、彼 かれ の息子 むすこ ツタンカーメン (トゥトアンクアメン)はメンフィスに戻 もど った[ 24] 。しかし、テーベでの建築 けんちく 活動 かつどう への関心 かんしん を新 あら たにし、栄光 えいこう ある神殿 しんでん や社 しゃ が更 さら に作 つく り出 だ された[ 22] 。
テーベのラメセウム(The Ramesseum at Thebes )。ジョン・フレデリック・ルイス(John Frederick Lewis)作 さく
第 だい 19王朝 おうちょう では、政府 せいふ はデルタ地帯 ちたい に遷ったが、テーベはセティ1世 せい (前 ぜん 1290年 ねん - 前 ぜん 1279年 ねん )とラムセス2世 せい (前 ぜん 1279年 ねん - 前 ぜん 1213年 ねん )の治世 ちせい を通 とお して、その財力 ざいりょく と威信 いしん を維持 いじ した。彼等 かれら はまだ一 いち 年 ねん のうちの一部 いちぶ の期間 きかん は毎年 まいとし テーベに住 す んでいた[ 22] 。ラムセス2世 せい はテーベで広範 こうはん な建築 けんちく プロジェクトを実施 じっし した。その中 なか には巨大 きょだい な像 ぞう とオベリスク、カルナック 神殿 しんでん の三 さん 番目 ばんめ の周壁 しゅうへき 、ルクソール神殿 しんでん の増築 ぞうちく 、及 およ び彼 かれ の巨大 きょだい な葬祭 そうさい 殿 どの ラメセウム の建設 けんせつ が含 ふく まれる。これらの建設 けんせつ 資金 しきん は、上 うえ エジプトから集 あつ めた税 ぜい を集中 しゅうちゅう させた巨大 きょだい な穀倉 こくそう 群 ぐん [ 25] (ラメセウムの周囲 しゅうい に作 つく られた)及 およ び、ヌビアと東部 とうぶ 砂漠 さばく への金 かね 採掘 さいくつ の遠征 えんせい [ 26] によって賄 まかな われた。ラムセスの66年 ねん の長 なが きにわたる統治 とうち の下 もと で、エジプトとテーベはかつての最盛 さいせい 期 き と同等 どうとう かそれ以上 いじょう の圧倒的 あっとうてき な繁栄 はんえい を迎 むか えた[ 27] 。
メディネト・ハブ (英語 えいご 版 ばん )
テーベは20世紀 せいき 初 はじ めまで良好 りょうこう な状態 じょうたい で保存 ほぞん されていた。大 だい ハリス・パピルス(英語 えいご 版 ばん ) はラムセス3世 せい (在位 ざいい :前 ぜん 1187年 ねん - 前 ぜん 1156年 ねん )が86,486人 にん の奴隷 どれい と広大 こうだい な土地 とち をアメン神殿 しんでん に寄進 きしん したと記 しる している。ラムセス3世 せい は海 うみ の民 みん とリビア人 じん の部族 ぶぞく メシュウェシュ (英語 えいご 版 ばん ) を含 ふく む全 すべ ての臣民 しんみん から貢物 みつぎもの を受 う けた。しかしエジプトは全体 ぜんたい としては財政 ざいせい 的 てき な問題 もんだい を抱 かか えており、この問題 もんだい はテーベの村落 そんらく デイル・エル=メディナ (英語 えいご 版 ばん ) にも及 およ んでいた。ラムセス3世 せい の治世 ちせい 第 だい 25年 ねん には、デイル・エル=メディナの労働 ろうどう 者 しゃ は給与 きゅうよ 不払 ふばら いに対 たい してストライキをはじめ、全 すべ ての社会 しゃかい 階級 かいきゅう に不安 ふあん が広 ひろ がった。ラムセス3世 せい の後宮 こうきゅう では大逆 だいぎゃく の事件 じけん が発生 はっせい したが、結果 けっか としてこの反逆 はんぎゃく 行為 こうい はテーベの官吏 かんり と女性 じょせい を含 ふく む多 おお くの人々 ひとびと の死 し につながった[ 28] 。
ラムセス王朝 おうちょう (第 だい 20王朝 おうちょう )の後半 こうはん 、テーベは衰退 すいたい を始 はじ めた。政府 せいふ は重大 じゅうだい な財政 ざいせい 不安 ふあん に陥 おちい ったように見 み える。ラムセス9世 せい の治世 ちせい (前 ぜん 1129年 ねん - 前 ぜん 1111年 ねん )中 ちゅう 、紀元前 きげんぜん 1114年 ねん 頃 ごろ に、テーベ東岸 とうがん の市長 しちょう によるテーベ西岸 せいがん の同僚 どうりょう の告発 こくはつ が行 おこな われ、その後 ご 行 おこな われた西岸 せいがん のネクロポリスにある王 おう 墓 はか 群 ぐん で行 おこな われた略奪 りゃくだつ に関 かん する一連 いちれん の調査 ちょうさ によって、権力 けんりょく の腐敗 ふはい の証拠 しょうこ が明 あき らかにされた。
盗 ぬす み出 だ された王 おう たちのミイラは、点々 てんてん と場所 ばしょ を移 うつ され、最後 さいご はアメン神官 しんかん によってデイル・エル=バハリ の墓穴 ぼけつ と、アメンヘテプ2世 せい の墓 はか に保管 ほかん された(1881年 ねん と1898年 ねん に、この二 ふた つの隠 かく し場所 ばしょ がそれぞれ発見 はっけん されたことは、現代 げんだい の考古学 こうこがく における大発見 だいはっけん であった。)。このようなテーベにおける不手際 ふてぎわ は、社会 しゃかい 不安 ふあん に繋 つな がった[ 22] 。
第 だい 3中 ちゅう 間 あいだ 期 き の間 あいだ 、地方 ちほう の支配 しはい 権 けん はアメン大 だい 司祭 しさい の手 て の中 なか にどんどん収 おさ まっていった。アメン大 だい 司祭 しさい はデルタ地帯 ちたい を支配 しはい していた第 だい 21王朝 おうちょう 、第 だい 22王朝 おうちょう の王 おう 達 たち と等 ひと しい立 た ち位置 いち となり、エジプトの南部 なんぶ で絶対 ぜったい 的 てき な権力 けんりょく を及 およ ぼした。相互 そうご の婚姻 こんいん と、養子 ようし 縁組 えんぐみ によってアメン大 だい 司祭 しさい とタニスに拠点 きょてん を置 お くデルタ地帯 ちたい の王 おう 達 たち の結 むす びつきは強 つよ まり、タニスの王女 おうじょ 達 たち はテーベでアメンの神 かみ 妻 つま に就任 しゅうにん し、大 おお きな権力 けんりょく を振 ふ るった。第 だい 3中 ちゅう 間 あいだ 期 き の後期 こうき にはテーベの政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく は後退 こうたい した[ 14] 。
タハルカ 王 おう の柱 はしら 。元 もと の高 たか さに復元 ふくげん された。
紀元前 きげんぜん 750年 ねん 頃 ころ 、クシュ人 じん (ヌビア人 じん )達 たち はテーベと上 うえ エジプトに対 たい する影響 えいきょう 力 りょく を増大 ぞうだい させていた。かつてのエジプトの植民 しょくみん 地 ち クシュ は、帝国 ていこく へと成長 せいちょう していた。紀元前 きげんぜん 721年 ねん 、クシュ人 じん の王 おう シャバカ は、オソルコン4世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (第 だい 22王朝 おうちょう 、ペフチャウアバステト (第 だい 23王朝 おうちょう )、バクエンレネフ (エジプト第 だい 24王朝 おうちょう )の連合 れんごう 軍 ぐん を打 う ち破 やぶ り、再 ふたた びエジプトを統一 とういつ した。彼 かれ の治世 ちせい では全 ぜん エジプト、特 とく に彼 かれ が王国 おうこく の首都 しゅと としたテーベ市 し で相当 そうとう な量 りょう の建築 けんちく 活動 かつどう が見 み られた。
カルナック では、シャバカはプスケント (上下 じょうげ エジプト王冠 おうかん )を身 み に着 つ けた自分 じぶん の王 おう 像 ぞう をピンクの花崗岩 かこうがん で造 つく らせた。タハルカ (英語 えいご 版 ばん ) 王 おう は、アッシリア人 じん がエジプトに対 たい して戦 たたか いを仕掛 しか ける前 まえ に、テーベとヌビアにおける多 おお くの有名 ゆうめい な建設 けんせつ 事業 じぎょう を完了 かんりょう させた(例 たと えば、カルナックのキオスク)。
紀元前 きげんぜん 667年 ねん 、アッシリア 王 おう アッシュールバニパル の軍隊 ぐんたい がエジプトを攻撃 こうげき した。タハルカは下 しも エジプトを放棄 ほうき し、テーベへと逃亡 とうぼう した。彼 かれ の死 し の3年 ねん 後 ご 、甥 おい のタヌトアメン はテーベを押 お さえ、下 しも エジプトに侵攻 しんこう してメンフィスを包囲 ほうい した。しかし紀元前 きげんぜん 663年 ねん にエジプトを再 さい 征服 せいふく する試 こころ みを放棄 ほうき し、南方 なんぽう へと引 ひ いた[ 29] 。アッシリア人 じん はタヌトアメンを追撃 ついげき し、テーベを占領 せんりょう した。テーベ市 し の名 な はアッシリアが占領 せんりょう し破壊 はかい した長 なが い都市 とし のリストに加 くわ えられた。アッシュールバニパルは以下 いか のように書 か いている。
この都市 とし の全 すべ てを、アッシュール神 しん とイシュタル神 しん の加護 かご によって余 よ は征服 せいふく した。銀 ぎん 、金 きむ 、貴石 たかいし 、宮殿 きゅうでん の財宝 ざいほう の全 すべ て、高価 こうか な布 ぬの 、貴重 きちょう なリネン、素晴 すば らしい馬 うま 、男女 だんじょ の監督 かんとく 者 しゃ 、エレクトラムでできた二 ふた つの素晴 すば らしいオベリスク、2,500タラントの重 おも さの神殿 しんでん の扉 とびら の数々 かずかず 、余 よ はこの品々 しなじな を彼等 かれら の拠点 きょてん から剥 は ぎ取 と り、アッシリアへと持 も ち帰 かえ った。エジプトとクシュに対 たい し、余 よ は槍 やり を取 と り余 あまり の力 ちから を示 しめ した。両手 りょうて を満 み たして、余 よ は恙なくニネヴェへと帰還 きかん した[要 よう 出典 しゅってん ] 。
この後 のち テーベはかつての政治 せいじ 的 てき 意義 いぎ を取 と り戻 もど すことはなかったが、重要 じゅうよう な宗教 しゅうきょう 的 てき 中心 ちゅうしん としては残 のこ っていた。アッシリアはエジプトの王 おう にプサムテク1世 せい (プサメティコス1世 せい )を据 す え、彼 かれ は紀元前 きげんぜん 656年 ねん にテーベを手 て に収 おさ めた。そして彼 かれ の娘 むすめ ニトクリス1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (ネイトイケルティ1世 せい )をアメンの神 かみ 妻 つま の後継 こうけい 者 しゃ として連 つ れてきた。紀元前 きげんぜん 525年 ねん 、ペルシアのカンビュセス2世 せい がエジプトに侵攻 しんこう しファラオとなった。エジプトはアケメネス朝 あさ のサトラペイア (州 しゅう )として、その従属 じゅうぞく 王国 おうこく となった。
ハトホル 神殿 しんでん のレリーフ。デイル・エル=メディナ(プトレマイオス朝 あさ 時代 じだい の建設 けんせつ )
テーベと北部 ほくぶ の中央 ちゅうおう 権力 けんりょく の良好 りょうこう な関係 かんけい は、エジプトのファラオがアレクサンドロス大王 だいおう の征服 せいふく によって現地 げんち 人 じん からギリシア人 じん に置 お き換 か わった時 とき に終 お わった。アレクサンドロス大王 だいおう はオペト祭 さい (英語 えいご 版 ばん ) の最中 さいちゅう にテーベを訪 おとず れた。この訪問 ほうもん は歓迎 かんげい されたにもかかわらず、テーベは反対 はんたい 勢力 せいりょく の中心 ちゅうしん 地 ち となった。紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき の終 お わりに、ヌビアに出自 しゅつじ を持 も つ可能 かのう 性 せい があるハロンノフリス (英語 えいご 版 ばん ) (ホルウェンネフェル)は上 うえ エジプトでプトレマイオス朝 あさ に対 たい する反乱 はんらん を起 お こした。ハロンノフリスの後継 こうけい 者 しゃ アンクマキス (英語 えいご 版 ばん ) (カオンノフリス、アンクウェンネフェルとも)は紀元前 きげんぜん 185年 ねん まで上 うえ エジプトの大 だい 部分 ぶぶん の支配 しはい を維持 いじ していた。この反乱 はんらん はテーベの神官 しんかん 団 だん によって支 ささ えられていた。紀元前 きげんぜん 185年 ねん に反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ した後 のち 、プトレマイオス5世 せい は反乱 はんらん に加担 かたん した神官 しんかん 達 たち を許 ゆる した。プトレマイオス5世 せい はテーベの神官 しんかん 達 たち の支持 しじ を必要 ひつよう としていたからである。
半 はん 世紀 せいき 後 ご 、テーベで再 ふたた び反乱 はんらん がおこり、紀元前 きげんぜん 132年 ねん にハルシエセが王位 おうい に昇 のぼ った。ハルシエセは資金 しきん 調達 ちょうたつ のためテーベの王 おう の金庫 きんこ を押 お さえたが、翌年 よくねん には逃走 とうそう した。紀元前 きげんぜん 91年 ねん には別 べつ の反乱 はんらん が発生 はっせい した。翌年 よくねん にはテーベは制圧 せいあつ され、都市 とし は瓦礫 がれき の山 やま となった[ 30] 。
ローマ による支配 しはい (前 ぜん 30年 ねん - 349年 ねん )の間 あいだ 、テーベに残存 ざんそん した住民 じゅうみん 達 たち のコミュニティはルクソール神殿 しんでん のピュロン[ 注釈 ちゅうしゃく 7] の周 まわ りに集 あつ まった。テーベはローマのテバイス (テーバイス)属 ぞく 州 しゅう の一部 いちぶ となった。後 のち にこの属 ぞく 州 しゅう はテーベ市 し を中心 ちゅうしん とするテバイス・スペリオル と、プトレマイス・ヘルミオウ (英語 えいご 版 ばん ) 市 し を中心 ちゅうしん とするテバイス・インフェリオル に分割 ぶんかつ された。ローマがヌビアへの軍事 ぐんじ 遠征 えんせい をしている間 あいだ 、ローマ軍団 ぐんだん はルクソール神殿 しんでん に本営 ほんえい を置 お いた[ 31] 。テーベでの建設 けんせつ 活動 かつどう が突然 とつぜん 終 お わることはなかったが、その後 ご のテーベは衰退 すいたい を続 つづ けた。西暦 せいれき 1世紀 せいき 、ストラボン はテーベが単 たん なる一 いち 村落 そんらく に転落 てんらく したと述 の べている[ 22] 。
東 ひがし テーベ:
ラムヘッドのスフィンクスが配置 はいち されたカルナック神殿 しんでん のメインエントランス ルクソール神殿 しんでん のオベリスクとピュロン。わずかにオレンジが生育 せいいく している。
古代 こだい に建設 けんせつ された地区 ちく
アメン大 だい 神殿 しんでん (カルナック神殿 しんでん ) (古代 こだい エジプト語 ご :タ・オペト Ta-opet)。この神殿 しんでん はそれまでに建設 けんせつ された2番目 ばんめ に大 おお きな宗教 しゅうきょう 建造 けんぞう 物 ぶつ であり、テーベの守護神 しゅごじん アメン の信仰 しんこう の根拠地 こんきょち であった。また、強大 きょうだい なアメン大 だい 司祭 しさい の居館 きょかん でもあった。エジプトの多 おお くの神殿 しんでん との違 ちが いは、それが建設 けんせつ された期間 きかん である。この神殿 しんでん は中 ちゅう 王国 おうこく に建設 けんせつ が始 はじ まってから2000年 ねん 以上 いじょう 増 ぞう 改築 かいちく が続 つづ けられた。この神殿 しんでん の主 おも な特徴 とくちょう は10ある巨大 きょだい なピュロン(塔 とう 門 もん )と、大 だい 列 れつ 柱 ばしら 室 しつ 、聖 せい なる湖 みずうみ 、付属 ふぞく 神殿 しんでん 、数 すう 多 おお くの社 しゃ と複数 ふくすう のオベリスク である。この神殿 しんでん は古代 こだい エジプトの歴史 れきし の大 だい 部分 ぶぶん において最 もっと も重要 じゅうよう な神殿 しんでん であった。
ルクソール神殿 しんでん (イペト・レスィト )は、テーベにある他 ほか の神殿 しんでん と異 こと なり、神 かみ や王 おう の葬祭 そうさい に捧 ささ げられていない。そうではなく、王権 おうけん の再生 さいせい に捧 ささ げられていた。この神殿 しんでん では多 おお くのエジプトのファラオ 達 いたる の戴冠 たいかん の場 ば であったかもしれない。この神殿 しんでん はオペト祭 さい の中心 ちゅうしん となる場所 ばしょ であり、テーベ三 さん 柱 はしら 神 しん (英語 えいご 版 ばん ) の聖 せい なるバーク がカルナックからルクソール神殿 しんでん まで旅 たび をして、ファラオの戴冠 たいかん 式 しき の神聖 しんせい さを強調 きょうちょう した。
コンス神殿 しんでん
ムト神殿 しんでん
メンチュの聖域 せいいき
スフィンクスの街道 かいどう
西 にし テーベ:
陽光 ようこう に照 て らされたハトシェプスト葬 そう 祭殿 さいでん 王家 おうけ の谷 たに にある墓 はか の入口 いりくち
遺跡 いせき 群 ぐん は「古代 こだい 都市 とし テーベとその墓地 ぼち 遺跡 いせき 」として1979年 ねん 、ユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく された。古代 こだい エジプトの偉大 いだい な成果 せいか である二 ふた つの神殿 しんでん (英語 えいご 版 ばん ) (ルクソール神殿 しんでん とカルナック神殿 しんでん )及 およ び、王家 おうけ の谷 たに と王妃 おうひ の谷 たに がその中 なか に含 ふく まれる。
この世界 せかい 遺産 いさん は世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく 基準 きじゅん のうち、以下 いか の条件 じょうけん を満 み たし、登録 とうろく された(以下 いか の基準 きじゅん は世界 せかい 遺産 いさん センター公表 こうひょう の登録 とうろく 基準 きじゅん からの翻訳 ほんやく 、引用 いんよう である)。
(1) 人類 じんるい の創造 そうぞう 的 てき 才能 さいのう を表現 ひょうげん する傑作 けっさく 。
(3) 現存 げんそん するまたは消滅 しょうめつ した文化 ぶんか 的 てき 伝統 でんとう または文明 ぶんめい の、唯一 ゆいいつ のまたは少 すく なくとも稀 まれ な証拠 しょうこ 。
(6) 顕著 けんちょ で普遍 ふへん 的 てき な意義 いぎ を有 ゆう する出来事 できごと 、現存 げんそん する伝統 でんとう 、思想 しそう 、信仰 しんこう または芸術 げいじゅつ 的 てき 、文学 ぶんがく 的 てき 作品 さくひん と直接 ちょくせつ にまたは明白 めいはく に関連 かんれん するもの(この基準 きじゅん は他 た の基準 きじゅん と組 く み合 あ わせて用 もち いるのが望 のぞ ましいと世界 せかい 遺産 いさん 委員 いいん 会 かい は考 かんが えている)。
^ テーバイ・ヘカトンピュロイ。英語 えいご ではHundred-Gated Thebes またはHundred-Gated Thebes とも訳 やく される.
^ テーバイ・ヘプタピュロイ
^ パウサニアス はエジプトの都市 とし との「繋 つな がり」によって、ボイオティアのテーベにも紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき からアメン 神殿 しんでん と偶像 ぐうぞう があったと記録 きろく している[ 5] 。
^ マケドニア人 じん はギリシア語 ご を話 はな す古代 こだい ギリシア人 じん の一派 いっぱ 。
^ 訳注 やくちゅう :訳文 やくぶん はイリアス 『イリアス 上 うえ 』松平 まつだいら 千秋 ちあき 訳 わけ 、岩波書店 いわなみしょてん 〈岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 〉、1992年 ねん 9月 がつ 。ISBN 978-4-00-321021-5 。 , p. 283 に依 よ った。ただし松平 まつだいら 訳 やく にある「テバイ」は記事 きじ に合 あ わせてテーベと変更 へんこう してある。
^ 訳注 やくちゅう :適切 てきせつ な訳語 やくご が見当 みあ たらないためこの訳語 やくご を置 お くが、学術 がくじゅつ 的 てき に確立 かくりつ した訳語 やくご に置 お き換 か えるべきである。「神殿 しんでん の壁面 へきめん の浮彫 うきぼり と碑文 ひぶん 」と言 い う訳語 やくご は、同様 どうよう の物 もの を指 さ すと見 み られるイアン・ショー、ポール・ニコルソン『大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん 古代 こだい エジプト百科 ひゃっか 事典 じてん 』内田 うちだ 杉 すぎ 彦訳、原 はら 書房 しょぼう 、1997年 ねん 5月 がつ 。ISBN 978-4-562-02922-8 。 , p. 80 「エドフ」の項目 こうもく に依 よ った。
^ 訳注 やくちゅう :原文 げんぶん pylon この場合 ばあい はエジプトの神殿 しんでん に見 み られる特別 とくべつ 巨大 きょだい な塔 とう 門 もん の事 こと 。詳細 しょうさい については http://www.kamit.jp/01_introdctn/5_mattan/mattan.htm を参照 さんしょう
^ Adolf Erman, Hermann Grapow: Wörterbuch der ägyptischer Sprache. akademie Verlag, Berlin, 1971. p.259
^ Wörterbuch, p.211
^ Wörterbuch, pp.54,479
^ 『イリアス』第 だい 4歌 うた 406行 ぎょう 、第 だい 9歌 うた 383行 ぎょう
^ Description of Greece , IX.16 §1.
^ 『ナホム書 しょ 』3章 しょう 8節 せつ
^ 『エゼキエル書 しょ 』30章 しょう 14節 せつ –16節 せつ
^ 『エレミヤ書 しょ 』46章 しょう 25節 せつ
^ イアン・ショー、ポール・ニコルソン『大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん 古代 こだい エジプト百科 ひゃっか 事典 じてん 』内田 うちだ 杉 すぎ 彦訳、原 はら 書房 しょぼう 、1997年 ねん 5月 がつ 。ISBN 978-4-562-02922-8 。 , p. 344 「テーベ」の項目 こうもく に地図 ちず が記載 きさい されている。
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