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テーベ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
世界遺産 古代こだい都市としテーベと
その墓地ぼち遺跡いせき
エジプト
ルクソール神殿
ルクソール神殿しんでん
英名えいめい Ancient Thebes with its Necropolis
ふつめい Thèbes antique et sa nécropole
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (1),(3),(6)
登録とうろくねん 1979ねん
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ

テーベ古代こだいギリシア: Θしーたβべーたαあるふぁιいおた, Thēbai)は古代こだいエジプト都市とし英語えいごばん古代こだいエジプトではワセト(Waset)ばれた。この都市とし地中海ちちゅうかいから800キロメートルみなみナイルがわひがし位置いちする。都市とし遺跡いせき現代げんだいエジプト都市とし英語えいごばんルクソールなかひろがっている。テーベはうえエジプトだい4しゅうけんつえのノモス Sceptre nome)の主要しゅよう都市としであり、しん王国おうこく時代じだいのエジプトの首都しゅとであった。テーベは貴重きちょう鉱物こうぶつ資源しげん交易こうえきルートがあるヌビア東部とうぶ砂漠さばく近接きんせつしていた。この都市とし信仰しんこう中心ちゅうしん英語えいごばんであり、その全盛期ぜんせいきにはエジプトでもっと富裕ふゆう都市としであった。テーベの市域しいきには、カルナックルクソール本来ほんらいっていたナイルがわ東岸とうがんと、上流じょうりゅう階級かいきゅう王家おうけ墓地ぼち葬祭そうさい殿どのぐんによるネクロポリス英語えいごばんがある西岸せいがん地区ちくふくまれる。


地名ちめいがく

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wꜣs.t
けんつえ都市としCity of the Scepter[1]
ヒエログリフ表示ひょうじ
R19
wꜣs.t
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R19t
niwt
niw.t rs.t
みなみ都市としSouthern City[2]
ヒエログリフ表示ひょうじ
niwt
t Z1
M24t
iwnw-sm’
みなみのヘリオポリス(Heliopolis of the South[3]
ヒエログリフ表示ひょうじ
O28nw
niwt
Sma

テーベを古代こだいエジプトでの元々もともと名前なまえウォ・セ(Wo'se)、またはワセ(Wase)である。 語根ごこんになっているワス(ウアス)とは、ファラオおうしゃくのことであり、上端じょうたん動物どうぶつあたまき、下端かたん二又ふたまたかれた形状けいじょうながつえである。

英語えいごめいのThebesはギリシアかたちテーバイ(Thebai)ラテン語らてんごされた名前なまえからている。そしてギリシア語形ごけい英語えいごばんのテーバイは、デモティック・エジプトタ・ペ(Ta-peからている。このタ・ペと名前なまえは、元々もともとテーベそれ自体じたいではなく、ナイル東岸とうがん地域ちいきにあるカルナック神殿しんでんぐん名前なまえであった(正式せいしきなエジプト表記ひょうきタ・オペト Ta-opet)。

はやくもホメロスの『イリアス[4]』では、ギリシアじんはエジプトのテーベをひゃくもんのテーベΘしーたῆβαι ἑκατόμπυλοι[注釈ちゅうしゃく 1])とび、ギリシアボイオティアにあるななもんのテーベΘしーたῆβαι ἑπτάπυλοι[注釈ちゅうしゃく 2])と区別くべつしていた[注釈ちゅうしゃく 3]

しん王国おうこく終焉しゅうえんごろから、テーベはエジプトじんからネウト・アメン(Niwt-Imn)(アメンのまち)とばれるようになった。アメンムトコンスとも構成こうせいされるテーベさんはしらしん英語えいごばん主神しゅしんである。ネウト・アメンの名前なまえ聖書せいしょの『ナホムしょ[6]では「ノ・アーモン」(Nōʼ ʼĀmôn נא אמון)とかたちあらわれ、おそらく『エゼキエルしょ[7]と『エレミヤしょ[8]で「ノ」(No נא)と名前なまえ言及げんきゅうされているもの同様どうようである。ギリシアじんはアメンしんゼウス(Zeus Ammon)であると解釈かいしゃくinterpretatio graeca)した。したがって、ネウト・アメンと名前なまえはギリシアではディオスポリス(ゼウスのまち)と翻訳ほんやくされた。ディオスポリスと名前なまえ都市としほかにも複数ふくすうあったため、とく区別くべつするため、メガレー・ディオスポリス(だいディオスポリス μεγάλη Διόσπολις)と名前なまえでもられた。ラテン語らてんごがたではディオスポリス・マグナ(ラテン語らてんご: Diospolis Magna)となる。ギリシア名前なまえアレクサンドロス大王だいおうによるエジプト征服せいふくによって、マケドニアじん[注釈ちゅうしゃく 4]支配しはいしゃプトレマイオスあさ)がエジプトを統治とうちするようになったのちひろ使つかわれるようになった。

しょもと

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地理ちり

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テーベの位置いち

テーベはうえエジプト中部ちゅうぶナイルがわデルタからやく800キロメートルみなみ位置いちし、ナイルがわ沿ってひろがっていた。だい部分ぶぶんはナイルがわだい湾曲わんきょく沿ったナイル渓谷けいこく英語えいごばん沖積ちゅうせき平野へいや建設けんせつされた。そのため、自然しぜんきとしてテーベは北東ほくとうから南西なんせいけて当時とうじのナイルがわりゅう並行へいこうひろがっていた[9]。テーベは93平方へいほうキロメートルの面積めんせきち、そのなかには西部せいぶのテーベ丘陵きゅうりょう地帯ちたい一部いちぶふくまれていた。この丘陵きゅうりょう地帯ちたい標高ひょうこう420メートルのせいなるアル・クルン最高峰さいこうほうとする。東側ひがしがわには、東部とうぶ砂漠さばく山岳さんがく地帯ちたいがありワジかわ)がたにながていた。このようなワジのなかでも重要じゅうようものはテーベ近郊きんこうワジ・ハンママト英語えいごばんで、紅海こうかい沿岸えんがんかう陸上りくじょう交易こうえきとして使用しようされた。

うえエジプトだい4しゅうには、テーベの近隣きんりん都市としとして、ペル・ハトホル英語えいごばんマドゥ英語えいごばんジェルティ英語えいごばんイウニ英語えいごばん、スメヌ(Sumenu)、イミオトル(Imiotru)のようなまちがあった[10]

人口じんこう

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テーベの人口じんこうぜん2000-ぜん900

ジョージ・モデルスキーによれば、テーベには紀元前きげんぜん2000ねんに40,000にん住民じゅうみんがいた(たいして、当時とうじ世界せかい最大さいだい都市としであったメンフィスは60,000にんとする)。紀元前きげんぜん1800ねんまでに、メンフィスの人口じんこうやく30,000にん減少げんしょうし、テーベはエジプトにおける当時とうじ最大さいだい都市としとなった[11]歴史れきし学者がくしゃイアン・モリス英語えいごばん紀元前きげんぜん1500ねんまでに、テーベは世界せかい最大さいだい都市とし成長せいちょうし、その人口じんこうは75,000にんとなったと推定すいていしている。また、テーベは紀元前きげんぜん900ねんごろに(かずある都市としなかでも)ニムルド凌駕りょうがされるまでは、世界せかい最大さいだい都市としでありつづけたとも推定すいていしている[12]

経済けいざい

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テーベの考古こうこ遺跡いせきは、エジプト文明ぶんめいのぼったたかみを印象いんしょうける遺物いぶつ現代げんだいのこしている。ギリシアの詩人しじんホメロスは、イリアスだい9うたぜん8世紀せいきごろ)でテーバイのとみとなえた。「...エジプトのテーベ - ここでは家々いえいえ莫大ばくだいとみたくわえられ、城門じょうもんかずひゃく、それぞれのもんからはひゃくへい戦車せんしゃつらねて出撃しゅつげきできるというが...」[注釈ちゅうしゃく 5]

文化ぶんか

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テーベでは毎年まいとし60以上いじょう祝祭しゅくさいもよおされた。エドフのホルス神殿しんでん壁面へきめん浮彫うきぼり碑文ひぶん(Edfu Geographical Text[注釈ちゅうしゃく 6])によれば、とく重要じゅうよう祝祭しゅくさいとして、オペトさい英語えいごばん、コイアク(Khoiak)、シェム英語えいごばん1がつのフェスティバル、シェム2がつのフェスティバルがあった。人気にんきのある祝祭しゅくさいとしてハロウィーンのようなたにうつくしきまつ英語えいごばんがあった[よう出典しゅってん]

歴史れきし

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王国おうこく

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テーベのネクロポリス

テーベには紀元前きげんぜん3200ねんころからひとんでいた[13]。この都市としにはうえエジプトだい4しゅう名前なまえワセトとおな名前なまえあたえられ、だい4しゅうしゅであった。メンフィスがファラオの王宮おうきゅう役割やくわりつとめていたこの時点じてんでは、テーベはまだちいさな交易こうえき拠点きょてんであった。おそらくちゅう王国おうこく時代じだいつくられたカルナック神殿しんでんふく合体がったい一部いちぶよりもふる建造けんぞうぶつなに現存げんそんしていないが、だい5王朝おうちょうのファラオ、ニウセルラーぞう下部かぶが、カルナックで発見はっけんされている。だい12王朝おうちょうおうセンウセルトによってささげられたべつ彫像ちょうぞうは、ベルトにニウセルラーのカルトゥーシュがあるため、さい利用りようされセンウセルトに名前なまえうばわれたものかもしれない。カルナックおうめいひょうにはだい4-だい6王朝おうちょうの7にんおう記載きさいされているため、すくなくても王国おうこく時代じだいのテーベ地区ちくには神殿しんでんがあった可能かのうせいがある[14]

だい1ちゅうあいだ

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紀元前きげんぜん2160ねんまでに、あらたな王家おうけだい9王朝おうちょうだい10王朝おうちょう)がヘラクレオポリス・マグナ拠点きょてんしもエジプトうえエジプト北部ほくぶ統合とうごうした。これに対抗たいこうする王家おうけだい11王朝おうちょう)がテーベを拠点きょてんうえエジプトののこりの部分ぶぶん支配しはいした。

テーベの支配しはいしゃあきらかにテーベおおやけ英語えいごばんだいアンテフ英語えいごばん(アンテフA)の子孫しそんである。かれまごであるとかんがえられるアンテフ1せいは、テーベ周辺しゅうへん以外いがい地域ちいき支配しはいひろげてはいなかったが、この家系かけいはじめてファラオ部分ぶぶんてき主張しゅちょうした。

ちゅう王国おうこく

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アンテフ1せいセレクかれ死後しごメンチュヘテプ2せいによってきざまれた

つい紀元前きげんぜん2050ねんごろアンテフ3せい息子むすこメンチュヘテプ2せい(「メンチュしん歓喜かんきせり」の)は軍事ぐんじりょくでヘラクレオポリスをうばい、エジプトをふたたいちにん支配しはいしゃしたいた。これによって、現在げんざいちゅう王国おうこくとしてられる時代じだいはじまった。メンチュヘテプ2せいは51年間ねんかん統治とうちし、デイル・エル=バハリ最初さいしょ葬祭そうさい殿どの建設けんせつした。この葬祭そうさい殿どのはまず間違まちがいなく、だい18王朝おうちょう時代じだいハトシェプストによって隣接りんせつしててられた葬祭そうさい殿どの影響えいきょうあたえている。これらの出来事できごとのち、メンチュヘテプ2せいからメンチュヘテプ4せいまでの20ねんじゃくという短期間たんきかん滅亡めつぼうした。その経緯けいいなぞである。

だい12王朝おうちょう時代じだいアメンエムハト1せい玉座ぎょくざきたイチ・タウィうつした。だがテーベは、その地方ちほうしんアメンがエジプト全土ぜんど崇拝すうはいされるようになったため、宗教しゅうきょう的中てきちゅう心地ごこちとして繁栄はんえいつづけた。もっとふるいアメン神殿しんでん遺跡いせきは、センウセルト1せい時代じだいのものである[14]。テーベはすでちゅう王国おうこく時代じだいにはかなりのおおきさの都市としであった。カルナック神殿しんでん周辺しゅうへん発掘はっくつで、ちゅう王国おうこく時代じだいのテーベは格子こうしじょうのレイアウトをっていたことがわかっている。テーベはすくなくても1キロメートルのながさと、50ヘクタールの面積めんせきっていた。ふたつの豪華ごうか建物たてもの遺跡いせき発見はっけんされている[15]

だい12王朝おうちょう後半こうはんはいると、カナンじん集団しゅうだんがナイルデルタ東部とうぶ居住きょじゅうはじめた。かれらはそのだい14王朝おうちょうアヴァリスてた(ぜん1805ねんごろ、またはぜん1710ねんごろ)。こうして、アジアじんたちはデルタ地域ちいきだい部分ぶぶん覇権はけん確立かくりつし、どう時期じきだい12王朝おうちょういだだい13王朝おうちょう影響えいきょうからこれらの地域ちいきはなした。[16]

ヒクソス時代じだい

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アジアけい人々ひとびとひだり)とエジプトじんみぎ)。アジアじんのリーダーは「異国いこく支配しはいしゃ」とラベルされている。(イブシャ)

アジアじんだいなみヒクソスばれている。この名前なまえ彼等かれら統治とうちしゃすエジプトヘカ・カスウトHeqa-khasut 異国いこく支配しはいしゃたち)からている。かれらはエジプトない移住いじゅうし、アヴァリスのカナンじん権力けんりょく中枢ちゅうすう制覇せいはしてだい15王朝おうちょうはじまった。ヒクソスのおうたちだい2ちゅうあいだぜん1657ねん - ぜん1549ねん)のはや段階だんかいしもエジプトの支配しはいけん[17] 。ヒクソスがメンフィスを奪取だっしゅしただい13王朝おうちょうメンネフェルラー・アイ治世ちせいちゅうぜん1700ねんごろ)かそのすぐだい13王朝おうちょう支配しはいしゃたちはテーベへとき、テーベを首都しゅととして再興さいこうした[18]

ヒクソスがデルタ南方なんぽうからエジプト中部ちゅうぶへとすすむと、テーベおおやけたち(現在げんざいだい16王朝おうちょうとしてられている)は、頑強がんきょうちふさがった。テーベじんたちは平和へいわてき共存きょうぞんするめをすることで、ヒクソスのさらなる前進ぜんしんふせいだ。このめのした、ヒクソスはヌビアじん交易こうえきするために、テーベとナイルがわ急湍きゅうたん英語えいごばんえて上流じょうりゅうへと航海こうかいすることができ、テーベじんてき出会であことなくかれらの家畜かちくをデルタへとはこんだ。

その状態じょうたいはヒクソスの支配しはいしゃアポフィスだい15王朝おうちょう)が、テーベのセケンエンラー・タア侮辱ぶじょくするまでつづいた。まもなく、テーベの軍隊ぐんたいがヒクソスの支配しはい進軍しんぐんした。このたたかいでタアは戦死せんしし、かれ息子むすこカーメスぐんいだ。さらにカーメスの死後しご、その兄弟きょうだいイアフメス1せいはヒクソスの首都しゅとアヴァリス占領せんりょうするまで攻撃こうげきつづけた。イアフメス1せいはエジプトとレヴァントからヒクソスをし、かつて彼等かれら支配しはいしていた土地とちもどした[19]

しん王国おうこくとテーベの最盛さいせい

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洪水こうずいなかメムノンのきょぞう、デイヴィッド・ロバーツ(David Roberts)さく

イアフメス1せい統一とういつされたエジプトのあらたな時代じだいきずき、テーベはその首都しゅととなった。首都しゅととしてのテーベの遺跡いせきだい部分ぶぶんだい18王朝おうちょうしん王国おうこく時代じだいのものである。

テーベはまた、あらたに設立せつりつされたせんもん役人やくにんいたる中枢ちゅうすうとなった。王室おうしつ書庫しょこ会計かいけい報告ほうこく報告ほうこくしょ記入きにゅうされるようになったため、このようなせんもん書記しょき学者がくしゃのようなせんもん役人やくにんにはおおきな需要じゅようがあった[20]。この都市としではヌビアにおける植民しょくみん統治とうち管理かんりしゃとするため、とくえらばれた少数しょうすうヌビアひとがエジプト文化ぶんかによってさい教育きょういくされた[21]

カルナック神殿しんでん見取みと

エジプトはふたた安定あんていし、宗教しゅうきょうとその中心ちゅうしんさかえ、テーベ以上いじょう存在そんざいはなかった。たとえばアメンヘテプ3せいは、外国がいこくからの貢物みつぎものによって莫大ばくだいとみをのおおくをアメン神殿しんでんにつぎんだ[22]。テーベのかみアメンは国家こっか主神しゅしんとなり、すべての建築けんちくプロジェクトが、アメンとファラオ自身じしん栄光えいこう称揚しょうようし、最後さいごてられたもの凌駕りょうがすることを意図いとされた[23]トトメス1せい在位ざいいぜん1506ねん - ぜん1493ねん)は、崇拝すうはいあつめたカルナック神殿しんでんはじめてのだい規模きぼ拡張かくちょうはじめた。そののち、カルナック神殿しんでんだい規模きぼ拡張かくちょうしん王国おうこく時代じだいとおして継続けいぞくされた。

女王じょおうハトシェプスト在位ざいいぜん1479ねん - ぜん1458ねん)は交易こうえきもうさい整備せいびおもにテーベの紅海こうかいみなとアル・クサイル英語えいごばんおよエイラトプントこくとのあいだ紅海こうかい交易こうえき)し、テーベを経済けいざいてき繁栄はんえいさせた。彼女かのじょ後継こうけいしゃトトメス3せいは、ミタンニまでのからられた膨大ぼうだい戦利せんりひんテーベにもたらした。だい18王朝おうちょうかれ曾孫そうそんアメンヘテプ3せい治世ちせいぜん1388ねん - ぜん1350ねん)に最盛さいせいむかえた。かれはアメン神殿しんでんをさらに壮麗そうれい装飾そうしょくするとともに、テーベにおける建築けんちく活動かつどう空前くうぜん規模きぼおこなった。アメンヘテプ3せいはテーベの西岸せいがんで、巨大きょだい葬祭そうさい殿どの英語えいごばんと、364ヘクタールの面積めんせき人造湖じんぞうこめんしたマルカタ王宮おうきゅう建設けんせつした。かれによってテーベにてられた建物たてものには、ルクソール神殿しんでんとカルナックにつながるスフィンクスの街道かいどうがある。

アメンヘテプ3せい息子むすこアクエンアテンぜん1351ねん - ぜん1334ねん)のつか治世ちせいあいだ、テーベは受難じゅなんときむかえた。テーベの王宮おうきゅう放棄ほうきされ、アメンしんたいする信仰しんこう禁止きんしされた。首都しゅとはテーベとメンフィスのあいだつくられたあらたな都市としアマルナ(アケトアテン)に遷った。アクエンアテンの死後しごかれ息子むすこツタンカーメン(トゥトアンクアメン)はメンフィスにもどった[24]。しかし、テーベでの建築けんちく活動かつどうへの関心かんしんあらたにし、栄光えいこうある神殿しんでんしゃさらつくされた[22]

テーベのラメセウム(The Ramesseum at Thebes)。ジョン・フレデリック・ルイス(John Frederick Lewis)さく

だい19王朝おうちょうでは、政府せいふデルタ地帯ちたいに遷ったが、テーベはセティ1せいぜん1290ねん - ぜん1279ねん)とラムセス2せいぜん1279ねん - ぜん1213ねん)の治世ちせいとおして、その財力ざいりょく威信いしん維持いじした。彼等かれらはまだいちねんのうちの一部いちぶ期間きかん毎年まいとしテーベにんでいた[22]。ラムセス2せいはテーベで広範こうはん建築けんちくプロジェクトを実施じっしした。そのなかには巨大きょだいぞうとオベリスク、カルナック神殿しんでんさん番目ばんめ周壁しゅうへきルクソール神殿しんでん増築ぞうちくおよかれ巨大きょだい葬祭そうさい殿どのラメセウム建設けんせつふくまれる。これらの建設けんせつ資金しきんは、うえエジプトからあつめたぜい集中しゅうちゅうさせた巨大きょだい穀倉こくそうぐん[25](ラメセウムの周囲しゅういつくられた)および、ヌビアと東部とうぶ砂漠さばくへのかね採掘さいくつ遠征えんせい[26]によってまかなわれた。ラムセスの66ねんながきにわたる統治とうちもとで、エジプトとテーベはかつての最盛さいせい同等どうとうかそれ以上いじょう圧倒的あっとうてき繁栄はんえいむかえた[27]

メディネト・ハブ英語えいごばん

テーベは20世紀せいきはじめまで良好りょうこう状態じょうたい保存ほぞんされていた。だいハリス・パピルス英語えいごばんラムセス3せい在位ざいいぜん1187ねん - ぜん1156ねん)が86,486にん奴隷どれい広大こうだい土地とちをアメン神殿しんでん寄進きしんしたとしるしている。ラムセス3せいうみみんリビアじん部族ぶぞくメシュウェシュ英語えいごばんふくすべての臣民しんみんから貢物みつぎものけた。しかしエジプトは全体ぜんたいとしては財政ざいせいてき問題もんだいかかえており、この問題もんだいはテーベの村落そんらくデイル・エル=メディナ英語えいごばんにもおよんでいた。ラムセス3せい治世ちせいだい25ねんには、デイル・エル=メディナの労働ろうどうしゃ給与きゅうよ不払ふばらいにたいしてストライキをはじめ、すべての社会しゃかい階級かいきゅう不安ふあんひろがった。ラムセス3せい後宮こうきゅうでは大逆だいぎゃく事件じけん発生はっせいしたが、結果けっかとしてこの反逆はんぎゃく行為こういはテーベの官吏かんり女性じょせいふくおおくの人々ひとびとにつながった[28]

ラムセス王朝おうちょうだい20王朝おうちょう)の後半こうはん、テーベは衰退すいたいはじめた。政府せいふ重大じゅうだい財政ざいせい不安ふあんおちいったようにえる。ラムセス9せい治世ちせいぜん1129ねん - ぜん1111ねんちゅう紀元前きげんぜん1114ねんごろに、テーベ東岸とうがん市長しちょうによるテーベ西岸せいがん同僚どうりょう告発こくはつおこなわれ、そのおこなわれた西岸せいがんのネクロポリスにあるおうはかぐんおこなわれた略奪りゃくだつかんする一連いちれん調査ちょうさによって、権力けんりょく腐敗ふはい証拠しょうこあきらかにされた。

ぬすされたおうたちのミイラは、点々てんてん場所ばしょうつされ、最後さいごはアメン神官しんかんによってデイル・エル=バハリ墓穴ぼけつと、アメンヘテプ2せいはか保管ほかんされた(1881ねんと1898ねんに、このふたつのかく場所ばしょがそれぞれ発見はっけんされたことは、現代げんだい考古学こうこがくにおける大発見だいはっけんであった。)。このようなテーベにおける不手際ふてぎわは、社会しゃかい不安ふあんつながった[22]

だい3ちゅうあいだ

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だい3ちゅうあいだあいだ地方ちほう支配しはいけんアメンだい司祭しさいなかにどんどんおさまっていった。アメンだい司祭しさいはデルタ地帯ちたい支配しはいしていただい21王朝おうちょうだい22王朝おうちょうおうたちひとしい位置いちとなり、エジプトの南部なんぶ絶対ぜったいてき権力けんりょくおよぼした。相互そうご婚姻こんいんと、養子ようし縁組えんぐみによってアメンだい司祭しさいとタニスに拠点きょてんくデルタ地帯ちたいおうたちむすびつきはつよまり、タニスの王女おうじょたちはテーベでアメンのかみつま就任しゅうにんし、おおきな権力けんりょくるった。だい3ちゅうあいだ後期こうきにはテーベの政治せいじてき影響えいきょうりょく後退こうたいした[14]

タハルカおうはしらもとたかさに復元ふくげんされた。

紀元前きげんぜん750ねんころクシュじん(ヌビアじんたちはテーベとうえエジプトにたいする影響えいきょうりょく増大ぞうだいさせていた。かつてのエジプトの植民しょくみんクシュは、帝国ていこくへと成長せいちょうしていた。紀元前きげんぜん721ねん、クシュじんおうシャバカは、オソルコン4せい英語えいごばんだい22王朝おうちょうペフチャウアバステトだい23王朝おうちょう)、バクエンレネフエジプトだい24王朝おうちょう)の連合れんごうぐんやぶり、ふたたびエジプトを統一とういつした。かれ治世ちせいではぜんエジプト、とくかれ王国おうこく首都しゅととしたテーベ相当そうとうりょう建築けんちく活動かつどうられた。

カルナックでは、シャバカはプスケント上下じょうげエジプト王冠おうかん)をけた自分じぶんおうぞうをピンクの花崗岩かこうがんつくらせた。タハルカ英語えいごばんおうは、アッシリアじんがエジプトにたいしてたたかいを仕掛しかけるまえに、テーベとヌビアにおけるおおくの有名ゆうめい建設けんせつ事業じぎょう完了かんりょうさせた(たとえば、カルナックのキオスク)。

末期まっき王朝おうちょう時代じだい

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紀元前きげんぜん667ねんアッシリアおうアッシュールバニパル軍隊ぐんたいがエジプトを攻撃こうげきした。タハルカはしもエジプトを放棄ほうきし、テーベへと逃亡とうぼうした。かれの3ねんおいタヌトアメンはテーベをさえ、しもエジプトに侵攻しんこうしてメンフィスを包囲ほういした。しかし紀元前きげんぜん663ねんにエジプトをさい征服せいふくするこころみを放棄ほうきし、南方なんぽうへといた[29]。アッシリアじんはタヌトアメンを追撃ついげきし、テーベを占領せんりょうした。テーベはアッシリアが占領せんりょう破壊はかいしたなが都市としのリストにくわえられた。アッシュールバニパルは以下いかのようにいている。

この都市としすべてを、アッシュールしんとイシュタルしん加護かごによって征服せいふくした。ぎんきむ貴石たかいし宮殿きゅうでん財宝ざいほうすべて、高価こうかぬの貴重きちょうなリネン、素晴すばらしいうま男女だんじょ監督かんとくしゃ、エレクトラムでできたふたつの素晴すばらしいオベリスク、2,500タラントのおもさの神殿しんでんとびら数々かずかずはこの品々しなじな彼等かれら拠点きょてんからり、アッシリアへとかえった。エジプトとクシュにたいし、やりあまりちからしめした。両手りょうてたして、は恙なくニネヴェへと帰還きかんした[よう出典しゅってん]

こののちテーベはかつての政治せいじてき意義いぎもどすことはなかったが、重要じゅうよう宗教しゅうきょうてき中心ちゅうしんとしてはのこっていた。アッシリアはエジプトのおうプサムテク1せい(プサメティコス1せい)をえ、かれ紀元前きげんぜん656ねんにテーベをおさめた。そしてかれむすめニトクリス1せい英語えいごばん(ネイトイケルティ1せい)をアメンのかみつま後継こうけいしゃとしてれてきた。紀元前きげんぜん525ねん、ペルシアのカンビュセス2せいがエジプトに侵攻しんこうしファラオとなった。エジプトはアケメネスあさサトラペイアしゅう)として、その従属じゅうぞく王国おうこくとなった。

グレコ・ローマ時代じだい

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ハトホル神殿しんでんのレリーフ。デイル・エル=メディナ(プトレマイオスあさ時代じだい建設けんせつ

テーベと北部ほくぶ中央ちゅうおう権力けんりょく良好りょうこう関係かんけいは、エジプトのファラオがアレクサンドロス大王だいおう征服せいふくによって現地げんちじんからギリシアじんわったときわった。アレクサンドロス大王だいおうオペトさい英語えいごばん最中さいちゅうにテーベをおとずれた。この訪問ほうもん歓迎かんげいされたにもかかわらず、テーベは反対はんたい勢力せいりょく中心ちゅうしんとなった。紀元前きげんぜん3世紀せいきわりに、ヌビアに出自しゅつじ可能かのうせいがあるハロンノフリス英語えいごばん(ホルウェンネフェル)はうえエジプトでプトレマイオスあさたいする反乱はんらんこした。ハロンノフリスの後継こうけいしゃアンクマキス英語えいごばん(カオンノフリス、アンクウェンネフェルとも)は紀元前きげんぜん185ねんまでうえエジプトのだい部分ぶぶん支配しはい維持いじしていた。この反乱はんらんはテーベの神官しんかんだんによってささえられていた。紀元前きげんぜん185ねん反乱はんらん鎮圧ちんあつしたのちプトレマイオス5せい反乱はんらん加担かたんした神官しんかんたちゆるした。プトレマイオス5せいはテーベの神官しんかんたち支持しじ必要ひつようとしていたからである。

はん世紀せいき、テーベでふたた反乱はんらんがおこり、紀元前きげんぜん132ねんにハルシエセが王位おういのぼった。ハルシエセは資金しきん調達ちょうたつのためテーベのおう金庫きんこさえたが、翌年よくねんには逃走とうそうした。紀元前きげんぜん91ねんにはべつ反乱はんらん発生はっせいした。翌年よくねんにはテーベは制圧せいあつされ、都市とし瓦礫がれきやまとなった[30]

ローマによる支配しはいぜん30ねん - 349ねん)のあいだ、テーベに残存ざんそんした住民じゅうみんたちのコミュニティはルクソール神殿しんでんのピュロン[注釈ちゅうしゃく 7]まわりにあつまった。テーベはローマのテバイス(テーバイス)ぞくしゅう一部いちぶとなった。のちにこのぞくしゅうはテーベ中心ちゅうしんとするテバイス・スペリオルと、プトレマイス・ヘルミオウ英語えいごばん中心ちゅうしんとするテバイス・インフェリオル分割ぶんかつされた。ローマがヌビアへの軍事ぐんじ遠征えんせいをしているあいだローマ軍団ぐんだんはルクソール神殿しんでん本営ほんえいいた[31]。テーベでの建設けんせつ活動かつどう突然とつぜんわることはなかったが、そののテーベは衰退すいたいつづけた。西暦せいれき1世紀せいきストラボンはテーベがたんなるいち村落そんらく転落てんらくしたとべている[22]

主要しゅよう遺跡いせき

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ひがしテーベ:

ラムヘッドのスフィンクスが配置はいちされたカルナック神殿しんでんのメインエントランス
ルクソール神殿しんでんのオベリスクとピュロン。わずかにオレンジが生育せいいくしている。
  • 古代こだい建設けんせつされた地区ちく
  • アメンだい神殿しんでん(カルナック神殿しんでん (古代こだいエジプト:タ・オペト Ta-opet)。この神殿しんでんはそれまでに建設けんせつされた2番目ばんめおおきな宗教しゅうきょう建造けんぞうぶつであり、テーベの守護神しゅごじんアメン信仰しんこう根拠地こんきょちであった。また、強大きょうだいアメンだい司祭しさい居館きょかんでもあった。エジプトのおおくの神殿しんでんとのちがいは、それが建設けんせつされた期間きかんである。この神殿しんでんちゅう王国おうこく建設けんせつはじまってから2000ねん以上いじょうぞう改築かいちくつづけられた。この神殿しんでんおも特徴とくちょうは10ある巨大きょだいなピュロン(とうもん)と、だいれつばしらしつせいなるみずうみ付属ふぞく神殿しんでんすうおおくのしゃ複数ふくすうオベリスクである。この神殿しんでん古代こだいエジプトの歴史れきしだい部分ぶぶんにおいてもっと重要じゅうよう神殿しんでんであった。
  • ルクソール神殿しんでんイペト・レスィト)は、テーベにあるほか神殿しんでんことなり、かみおう葬祭そうさいささげられていない。そうではなく、王権おうけん再生さいせいささげられていた。この神殿しんでんではおおくのエジプトのファラオいたる戴冠たいかんであったかもしれない。この神殿しんでんはオペトさい中心ちゅうしんとなる場所ばしょであり、テーベさんはしらしん英語えいごばんせいなるバークがカルナックからルクソール神殿しんでんまでたびをして、ファラオの戴冠たいかんしき神聖しんせいさを強調きょうちょうした。
  • コンス神殿しんでん
  • ムト神殿しんでん
  • メンチュの聖域せいいき
  • スフィンクスの街道かいどう

西にしテーベ:

陽光ようこうらされたハトシェプストそう祭殿さいでん
王家おうけたににあるはか入口いりくち

世界せかい文化ぶんか遺産いさん

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遺跡いせきぐんは「古代こだい都市としテーベとその墓地ぼち遺跡いせき」として1979ねんユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされた。古代こだいエジプトの偉大いだい成果せいかであるふたつの神殿しんでん英語えいごばんルクソール神殿しんでんカルナック神殿しんでんおよび、王家おうけたに王妃おうひたにがそのなかふくまれる。

登録とうろく基準きじゅん

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この世界せかい遺産いさん世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅんのうち、以下いか条件じょうけんたし、登録とうろくされた(以下いか基準きじゅん世界せかい遺産いさんセンター公表こうひょう登録とうろく基準きじゅんからの翻訳ほんやく引用いんようである)。

  • (1) 人類じんるい創造そうぞうてき才能さいのう表現ひょうげんする傑作けっさく
  • (3) 現存げんそんするまたは消滅しょうめつした文化ぶんかてき伝統でんとうまたは文明ぶんめいの、唯一ゆいいつのまたはすくなくともまれ証拠しょうこ
  • (6) 顕著けんちょ普遍ふへんてき意義いぎゆうする出来事できごと現存げんそんする伝統でんとう思想しそう信仰しんこうまたは芸術げいじゅつてき文学ぶんがくてき作品さくひん直接ちょくせつにまたは明白めいはく関連かんれんするもの(この基準きじゅん基準きじゅんわせてもちいるのがのぞましいと世界せかい遺産いさん委員いいんかいかんがえている)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ テーバイ・ヘカトンピュロイ。英語えいごではHundred-Gated ThebesまたはHundred-Gated Thebesともやくされる.
  2. ^ テーバイ・ヘプタピュロイ
  3. ^ パウサニアスはエジプトの都市としとの「つながり」によって、ボイオティアのテーベにも紀元前きげんぜん5世紀せいきからアメン神殿しんでん偶像ぐうぞうがあったと記録きろくしている[5]
  4. ^ マケドニアじんはギリシアはな古代こだいギリシアじん一派いっぱ
  5. ^ 訳注やくちゅう訳文やくぶんイリアスイリアス うえ松平まつだいら千秋ちあきわけ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1992ねん9がつISBN 978-4-00-321021-5 , p. 283 にった。ただし松平まつだいらやくにある「テバイ」は記事きじわせてテーベと変更へんこうしてある。
  6. ^ 訳注やくちゅう適切てきせつ訳語やくご見当みあたらないためこの訳語やくごくが、学術がくじゅつてき確立かくりつした訳語やくごえるべきである。「神殿しんでん壁面へきめん浮彫うきぼり碑文ひぶん」と訳語やくごは、同様どうようものすとられるイアン・ショー、ポール・ニコルソン『だいえい博物館はくぶつかん 古代こだいエジプト百科ひゃっか事典じてん内田うちだすぎ彦訳、はら書房しょぼう、1997ねん5がつISBN 978-4-562-02922-8 , p. 80 「エドフ」の項目こうもくった。
  7. ^ 訳注やくちゅう原文げんぶん pylon この場合ばあいはエジプトの神殿しんでんられる特別とくべつ巨大きょだいとうもんこと詳細しょうさいについては http://www.kamit.jp/01_introdctn/5_mattan/mattan.htm参照さんしょう

出典しゅってん

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  1. ^ Adolf Erman, Hermann Grapow: Wörterbuch der ägyptischer Sprache. akademie Verlag, Berlin, 1971. p.259
  2. ^ Wörterbuch, p.211
  3. ^ Wörterbuch, pp.54,479
  4. ^ 『イリアス』だい4うた406ぎょうだい9うた383ぎょう
  5. ^ Description of Greece, IX.16 §1.
  6. ^ 『ナホムしょ』3しょう8せつ
  7. ^ 『エゼキエルしょ』30しょう14せつ–16せつ
  8. ^ 『エレミヤしょ』46しょう25せつ
  9. ^ イアン・ショー、ポール・ニコルソン『だいえい博物館はくぶつかん 古代こだいエジプト百科ひゃっか事典じてん内田うちだすぎ彦訳、はら書房しょぼう、1997ねん5がつISBN 978-4-562-02922-8 , p. 344 「テーベ」の項目こうもく地図ちず記載きさいされている。
  10. ^ Wilkinson, T. (2013). "The Rise and Fall of Ancient Egypt". Erenow. Retrieved 2016-02-25, from http://www.erenow.com/ancient/theriseandfallofancientegypt/8.html
  11. ^ George Modelski, "Cities of the Ancient World: An Inventory (−3500 to −1200) Archived 2014ねん5がつ19にち, at the Wayback Machine."; see also list of largest cities throughout history.
  12. ^ Ian Morris, "Social Development"; see also list of largest cities throughout history.
  13. ^ Karnak (Thebes), Egypt. Ancient-wisdom.co.uk. Retrieved on 2013-07-29.
  14. ^ a b c Egypt: Thebes, A Feature Tour Egypt Story. http://www.touregypt.net/. Retrieved on 2016-02-06.
  15. ^ Barry J. Kemp: Ancient Egypt, Anatomy of a Civilization, Second Edition, New York 2006, ISBN 9780415235501, pp. 225-229
  16. ^ Wilkinson, Toby (2011). The Rise and Fall of Ancient Egypt. New York: Random House. p. 560. ISBN 9780747599494. https://books.google.it/books?hl=it&id=P07rgiJjsk4C&q=nehesy#v=snippet&q=nehesy&f=false , pp. 183-187
  17. ^ Wilkinson (2011), pp. 188 ff.
  18. ^ Daphna Ben Tor: Sequences and chronology of Second Intermediate Period royal-name scarabs, based on excavated series from Egypt and the Levant, in: The Second Intermediate Period (Thirteenth-Seventeenth Dynasties), Current Research, Future Prospects edited by Marcel Maree, Orientalia Lovaniensia Analecta, 192, 2010, p. 91
  19. ^ Margaret Bunson, "Encyclopedia of Ancient Egypt"
  20. ^ Tyldesley, Joyce. Egypt's Golden Empire: The Age of the New Kingdom, pp. 18–19. Headline Book Publishing Ltd., 2001.
  21. ^ Draper, R. (2008). "The Black Pharaohs". National Geographic Magazine. Retrieved 2016-02-24, from http://ngm.nationalgeographic.com/
  22. ^ a b c d e Dorman, P. (2015). "Thebes|Ancient city, Egypt". Encyclopædia Britannica. Retrieved 2016-02-07, from http://www.britannica.com/place/Thebes-ancient-Egypt
  23. ^ Mark, J. (2009). "Thebes". Ancient History Encyclopedia. Retrieved 2016-02-06, from http://www.ancient.eu/Thebes_(Egypt)/
  24. ^ J. van Dijk: ''The Amarna Period and the later New Kingdom, in: I. Shaw: The Oxford History of Ancient Egypt, Oxford 2000, ISBN 0-19-815034-2, p. 290
  25. ^ Wilkinson, T. (2013). "The Rise and Fall of Ancient Egypt". Erenow. Retrieved 2016-02-25, from http://www.erenow.com/ancient/theriseandfallofancientegypt/18.html
  26. ^ Wilkinson, T. (2013). "The Rise and Fall of Ancient Egypt". Erenow. Retrieved 2016-02-25, from http://www.erenow.com/ancient/theriseandfallofancientegypt/20.html
  27. ^ Egypt: Ramses the Great, The Pharaoh Who Made Peace with his Enemies And the First Peace Treaty in History. http://www.touregypt.net/. Retrieved on 2016-02-06.
  28. ^ RAMESSES III: THE LAST GREAT PHARAOH. http://www.greatdreams.com/. Retrieved on 2016-02-06.
  29. ^ ジャック・フィネガン考古学こうこがくから古代こだいオリエント三笠みかさみやたかしじんやく岩波書店いわなみしょてん、1983ねん12月。ISBN 978-4-00-000787-0  pp. 379-380
  30. ^ The fall of Thebes to the Assyrians and its decline thereafter. http://www.reshafim.org.il/. Retrieved on 2016-02-06.
  31. ^ Dorman, P. (2015). "Luxor". Encyclopædia Britannica. Retrieved 2016-02-27, from http://www.britannica.com/place/Luxor

外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい2543ふん14びょう 東経とうけい3236ふん37びょう / 北緯ほくい25.72056 東経とうけい32.61028 / 25.72056; 32.61028