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エジプト第23王朝 - Wikipedia コンテンツにスキップ

エジプトだい23王朝おうちょう

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エジプトだい23王朝おうちょう(エジプトだい23おうちょう、紀元前きげんぜん818ねん - 紀元前きげんぜん715ねんころ)は、だい3ちゅうあいだ古代こだいエジプト王朝おうちょうだい22王朝おうちょう王位おうい継承けいしょう反対はんたいし、うえエジプトや中部ちゅうぶエジプトでおう名乗なのった傍系ぼうけいおうたちの総称そうしょうだい22王朝おうちょうおなじく古代こだいリビュアけい血統けっとう王朝おうちょうであり、リビュアじん王朝おうちょうともばれる。

歴史れきし

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だい22王朝おうちょうではシェションク3せい時代じだい以降いこう中央ちゅうおう政府せいふ求心力きゅうしんりょくおとろ各地かくち分離ぶんりうごきが相次あいついだ。だい23王朝おうちょうはそうしたしょ勢力せいりょく先駆さきがけとなるもので、シェションク3せい王位おうい継承けいしょうこととなえたタケロト2せいうえエジプトのテーベ王位おうい主張しゅちょうしてだい22王朝おうちょうとはべつ王家おうけひらいたことで成立せいりつした。この年代ねんだいカルナック神殿しんでんにある碑文ひぶん記録きろくなどからたしかめられている。

だい23王朝おうちょう歴史れきしについては詳細しょうさいいたるまでつたわっていないことがおおいが、おなじテーベないでもタケロト2せい即位そくいこころよおもわない勢力せいりょく存在そんざいしたようで、タケロト2せい治世ちせい11ねんごろからペディバステトという人物じんぶつあらたにファラオを名乗なのり、タケロト2せいあらそ姿勢しせいせた。二人ふたりおうあらそいは10ねん以上いじょうわたってつづき、テーベを混乱こんらんおとしいれたが、タケロト2せいぼっしたことによりペディバステトが単独たんどく支配しはいしゃとなった。紛争ふんそう長引ながびいた理由りゆうとしては、ペディバステトがシェションク3せい支持しじし、だい22王朝おうちょう勢力せいりょく後押あとおしをけていた可能かのうせい指摘してきされている。

ペディバステトがぬと、後継こうけいしゃシェションク6せい統治とうちした。しかし、そのはタケロト2せい息子むすこオソルコン3せいいきおいをかえし、おそらくシェションク6せいたおして王位おういもどした。オソルコン3せい中部ちゅうぶエジプトのヘラクレオポリス古代こだいエジプト:ネンネス)周辺しゅうへんにまで勢力せいりょくひろげ、オソルコン3せい王子おうじタケロト3せいをヘラクレオポリスの長官ちょうかんにんじている。

カルナック神殿しんでん碑文ひぶん記録きろくでは、だい22王朝おうちょうおうかんする記録きろくはシェションク3せい最後さいご途切とぎれており、だい23王朝おうちょううえエジプトでもつよ権威けんい発揮はっきしていたものとかんがえられる。しかしだい22王朝おうちょうだい23王朝おうちょう複雑ふくざつ関係かんけいそうじてよくわかっていない。

しかしオソルコン3せいあといで、ヘラクレオポリスの長官ちょうかんであったタケロト3せい王位おうい継承けいしょうすると、そののヘラクレオポリスの統治とうちまかされたペフチャウアバステトはタケロト3せいめい[1]つまとしておう名乗なのだい23王朝おうちょう本家ほんけ支配しはいからだっしてしまった。

タケロト3せい死後しごおうおとうとルドアメン王位おうい継承けいしょうしたが短命たんめいわり、つづいてイウプト2せい王位おうい継承けいしょうした。イウプト2せい治世ちせいころには、さらにエジプトの王権おうけん分裂ぶんれつすすみ、テーベではイニが、ヘルモポリスではニムロトが、サイスだい24王朝おうちょう)ではテフナクト1せい成立せいりつして相互そうごあらそった。

こうしたエジプトの分裂ぶんれつにし、南方なんぽう強固きょうこ王国おうこくをきずきあげていたヌビアじん英語えいごばんだい25王朝おうちょう)のおうピアンキはエジプトへの遠征えんせい決意けついした。ヌビアではしん王国おうこく時代じだいのエジプト統治とうちて、エジプト文化ぶんかひろ浸透しんとうしそのおうはエジプトふうファラオ称号しょうごうってばれ、カルトゥーシュなかおうめいしるし、国家こっかしんとしてアメンかみ信奉しんぽうするようになっていた。ピアンキの主張しゅちょうでは、かれのエジプト遠征えんせいは「きゅう宗主そうしゅこく秩序ちつじょなおし、アメンしん権威けんい回復かいふくする」ものであった。ぜん750ねんごろから、ヌビアの王国おうこくはナイル渓谷けいこく沿いに北上ほくじょうしつつ領土りょうど拡大かくだいし、すうねんうちにテーベを占領せんりょうした。ルドアメンの後継こうけいしゃとしてテーベをおさめていたイニは諸王しょおう先駆さきがけてピアンキに降伏ごうぶくした。

イウプト2せい分立ぶんりつしていた諸王しょおうすなわタニスだい22王朝おうちょう)のオソルコン4せい英語えいごばんヘラクレオポリスのペフチャウアバステト、ヘルモポリスのニムロト、そしてサイスのテフナクト1せいらと同盟どうめいむすんでこのヌビアじん侵攻しんこうたったが、敗北はいぼくしてその軍門ぐんもんくだった。イウプト2せいはピアンキおう忠誠ちゅうせいしめすという条件じょうけんもとで、名目めいもくてきおうごう領地りょうち安堵あんどされたが、独立どくりつ勢力せいりょくとしてのだい23王朝おうちょう歴史れきし終焉しゅうえんむかえた。

歴代れきだいおう

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以下いか歴代れきだいおう一覧いちらんしるす。まずマネト[2]記録きろくではだい23王朝おうちょう歴代れきだいおうは、タニスの4にんおうからなるとある。タニスのおうとされているのは、マネトがこの王朝おうちょうだい22王朝おうちょう分家ぶんけとみなしていたからである可能かのうせいもある。マネトによる一覧いちらん以下いかとおりである。

このうちペディバテスはペディバステト、オソルコはオソルコンに対応たいおうする名前なまえであるが、どう時代じだい史料しりょうにあるおうめい一覧いちらんとマネトの記録きろくには異動いどうおおい。つぎどう時代じだい史料しりょうそのから復元ふくげんされているおう一覧いちらんしるす。おうめい原則げんそくとして「即位そくいめい上下じょうげエジプトおうめい)・誕生たんじょうめい(ラーのめい)」の順番じゅんばんしるす。イコールでむすばれた名前なまえすべ即位そくいめいである。在位ざいい年代ねんだい参考さんこう文献ぶんけん『ファラオ歴代れきだい』および『ぜん系図けいずづけエジプト歴代れきだい王朝おうちょう』 の記述きじゅつによるが、年代ねんだい決定けっていほうその問題もんだいから異説いせつがあることに注意ちゅういされたい。たとえばペディバステトやイウプト2せいとう末期まっき並立へいりつしていたおうたちをだい23王朝おうちょうふくめず、べつ勢力せいりょくとしてあつか場合ばあいもある。

ちゅう

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  1. ^ タケロト3せいおとうと後継こうけいしゃとなったルドアメンのむすめ
  2. ^ 紀元前きげんぜん3世紀せいきのエジプトの歴史れきしかれはエジプトじんであったが、ギリシアけい王朝おうちょうプトレマイオスあさつかえたためギリシア著作ちょさくおこなった。

参考さんこう文献ぶんけん

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