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エジプトだい10王朝おうちょう

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エジプトだい10王朝おうちょう(エジプトだい10おうちょう、紀元前きげんぜん2130ねんごろ - 紀元前きげんぜん2040ねんごろ?)は、エジプトだい1ちゅうあいだ古代こだいエジプト王朝おうちょうヘラクレオポリス古代こだいエジプト:ヘウト・ネンネス Hwt-nen-nesu[注釈ちゅうしゃく 1])を拠点きょてんにエジプト全域ぜんいき勢力せいりょく拡大かくだいしただい9王朝おうちょう地位ちい継承けいしょうしたが、南部なんぶではテーベ[注釈ちゅうしゃく 2]古代こだいエジプト:ネウト)ほうだい11王朝おうちょうてており、エジプトの支配しはいけんめぐってこれとあらそった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

エジプトだい9王朝おうちょうつづいてうえエジプト北部ほくぶ地方ちほう支配しはいしたが、だい9王朝おうちょうからの交代こうたい具体ぐたいてき経緯けいいなどまったくかっていない。現代げんだいのエジプト学者がくしゃおおくの場合ばあいだい9、だい10王朝おうちょういちまとめにあつかっている。マネトがこれをふたつの王朝おうちょうけた理由りゆう不明ふめいである[1]

当時とうじテーベを拠点きょてんとしただい11王朝おうちょう強大きょうだいいちじるしく、だい10王朝おうちょうとの対立たいりつふかまっていた。だい10王朝おうちょうだい11王朝おうちょう国境こっきょう当初とうしょじょうエジプトだい8けんアビュドスきたにあったが、だい11王朝おうちょうとの国境こっきょう紛争ふんそう頻繁ひんぱん発生はっせいしていた。こうした状況じょうきょうのため、うえエジプトのしゅうこうたいしても広範こうはん自治じちみとめてその協力きょうりょくあおがなくてはならなかった[2]

だい10王朝おうちょう比較的ひかくてき安定あんていした時代じだいむかえるのはケティ3せい治世ちせいである。かれ時代じだいに、だい11王朝おうちょうおうアンテフ2せいによる攻撃こうげきがあり、一時いちじうえエジプトだい10けんまでがだい11王朝おうちょう支配しはいちた。しかしケティ3せいアシュート古代こだいエジプト:サウティ[注釈ちゅうしゃく 3]ほうテフィーブ協力きょうりょくしたでこの攻撃こうげき退しりぞけ、ぎゃく南下なんかしてアビュドスを占領せんりょうすることに成功せいこうした。この成功せいこう背景はいけいに、だい11王朝おうちょうとのあいだもとのアビュドスきた国境こっきょうせん停戦ていせんするという合意ごういむすぶことに成功せいこうし、その友好ゆうこう関係かんけい構築こうちく尽力じんりょくした。こうして南方なんぽう国境こっきょう安定あんていさせると、しもエジプト地方ちほう統制とうせい回復かいふくちからそそぐべくぐんきたけた[3]

ケティ3せいおう太子たいしメリカラーたいしてあたえた教訓きょうくんであるとつたえられる文書ぶんしょがある。これは現在げんざいメリカラーおうへの教訓きょうくん』とばれており、かなりの部分ぶぶん現存げんそんしている[注釈ちゅうしゃく 4]。この文書ぶんしょ当時とうじおう責務せきむなど、王権おうけんかんかんする記述きじゅつや、倫理りんり政治せいじてき問題もんだいかんする記述きじゅつおおくあるほかだい10王朝おうちょうかれた状況じょうきょうるべき政策せいさくについてろんずる記述きじゅつふくまれており、当時とうじ歴史れきしるためのだいいちきゅう史料しりょうである。文書ぶんしょ形式けいしきとしては『カゲムニの教訓きょうくん』などの文書ぶんしょおな形式けいしきしたがっている[4]

この文書ぶんしょで、ケティ3せいしもエジプトにおいて海岸かいがんいたるまでアジアじん撃退げきたいし、かれらによって破壊はかいされた土地とち行政ぎょうせいけ、都市としきずいてアジアじん撃退げきたいするための兵士へいしたしたと宣言せんげんする。そのうえでメリカラーにたいし、「自分じぶんのやったこと以上いじょうのことをやれるものたいものだ。」とかたり、アジアじんたいする対策たいさくほうをかなり具体ぐたいてきおしえている。また、それとはべつ南方なんぽう通常つうじょうだい11王朝おうちょうかいされる)とのあいだ友好ゆうこうたもつようにべ、それによって南部なんぶ建材けんざいは「妨害ぼうがいされることなく」メリカラーのしたとどけられるだろうとべている[5]

ケティ3せい没後ぼつごにメリカラーが王位おういについた。かれしもエジプト侵入しんにゅうしていたアジアじん対抗たいこうするためにメンフィスいちまんにん兵士へいし役人やくにん駐留ちゅうりゅうさせた。さらにメリカラーみずからがしもエジプトの防備ぼうび強化きょうかするために建築けんちく事業じぎょう強力きょうりょく推進すいしんした。まただい10王朝おうちょうおうたちは、ヘラクレオポリスから統治とうちしていたとしても、王国おうこくからの伝統でんとうある聖域せいいきであるサッカラをはじめとしたメンフィスの近郊きんこうみずからのはか構築こうちくしたようである[6]

最終さいしゅうてきだい10王朝おうちょうだい11王朝おうちょうあいだにはふたた戦端せんたんひらかれた。だい11王朝おうちょうおうメンチュヘテプ2せい治世ちせいだい14ねん発生はっせいしたティニス反乱はんらんけとして想定そうていされている[3]が、その経緯けいい不明ふめいである。メリカラーはメンチュヘテプ2せい攻勢こうせいまえ劣勢れっせいまわり、これをヘルモポリス古代こだいエジプト:ウヌー[注釈ちゅうしゃく 5]こうなどだい10王朝おうちょう有力ゆうりょくしゅうこうだい11王朝おうちょうがわについたことで、メリカラー死去しきょまでにだい10王朝おうちょう国境こっきょうせん大幅おおはば後退こうたいした。メリカラーおう死後しご名前なまえしょうおうあといだが、もなくだい11王朝おうちょうによってネンネス(ヘラクレオポリス)が陥落かんらくさせられ、だい10王朝おうちょう瓦解がかいふたたぜんエジプトが統一とういつ王朝おうちょうしたかれることになった。

歴代れきだいおう[編集へんしゅう]

だい10王朝おうちょうおうみつる不明ふめいである。以下いかげるのはトリノおうめいひょう記載きさいされた判読はんどく可能かのうおう一覧いちらんである。このうち考古学こうこがくてき資料しりょうによって存在そんざい可能かのうせいたかい、または確定かくていしているおうはケティ3せいとメリカラーだけである。存在そんざい確定かくてい判断はんだんはフィネガンのものった[4]

だい10王朝おうちょうのファラオの一覧いちらん
即位そくいめい 誕生たんじょうめい 備考びこう
メリハトホル
ネフェルカラー8せい
ワハカラー ケティ3せい(アクトイ3せい 『メリカラーおうへの教訓きょうくん』の作者さくしゃかんがえられることがおおい。
メリカラー
名前なまえ不明ふめいおう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ のヘラクレオポリスというは、この都市としまつられていた地方ちほうしんヘリシェフギリシアじんハルサフェスび、名前なまえ類似るいじとうからヘラクレス同一どういつしたことによってけられたギリシアである。
  2. ^ 紀元前きげんぜん3世紀せいきのエジプトの歴史れきしマネト記録きろくではディオスポリスマグナばれている。これはゼウス大都市だいとしであり、この都市としネウト・アメンアメン都市とし)とばれたことに対応たいおうしたものである。この都市としふるくはヌエばれ、旧約きゅうやく聖書せいしょではばれている。ヌエとは大都市だいとしである。しん王国おうこく時代じだいにはワス、ワセト、ウェセ(けんつえ)ともばれた。
  3. ^ アシュートはアラビア。ギリシアではリュコポリスとばれた。この都市としうえエジプトだい13けん首都しゅとであった。
  4. ^ 『メリカラーおうへの教訓きょうくん』のうちもっともまとまって現存げんそんするのはだい18王朝おうちょう時代じだいのものとられる写本しゃほんである。末尾まつびに、書記しょきカエムワセトが自分じぶんかれ兄弟きょうだい書記しょきメフのためにうつしたという付記ふきがある。主要しゅようなテキストはサンクトペテルブルクエルミタージュ美術館びじゅつかん保存ほぞんされているものであり、かなりの欠損けっそんがあるが、発見はっけんされている断片だんぺんからある程度ていど復元ふくげんすることができる。全文ぜんぶん日本語にほんごやくが『筑摩ちくま世界せかい文学ぶんがく大系たいけい1 古代こだいオリエントしゅう』に収録しゅうろくされている。なお実際じっさいにケティ3せいあらわしたものかどうかについては確実かくじつとはいえない。メリカラーが即位そくい記述きじゅつさせてみずからの権威けんいけにもちいたというせつや、当時とうじ高官こうかんのこしたというせつ存在そんざいする。しかしだい10王朝おうちょう時代じだい形成けいせいされた文書ぶんしょであるとられている
  5. ^ ヘルモポリスはうえエジプトだい15けん首都しゅとであった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ スペンサー 2012, p.44
  2. ^ 屋形やかたら 1998, p.422
  3. ^ a b 屋形やかたら 1998, p.423
  4. ^ a b フィネガン 1983 p.262
  5. ^ 内容ないようについては『筑摩ちくま世界せかい文学ぶんがく大系たいけい1 古代こだいオリエントしゅう』を参照さんしょう要約ようやくフィネガン 1983 p.263 を参考さんこうにした。
  6. ^ フィネガン 1983 p.263

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

原典げんてん資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 屋形やかたただしあきらやく ちょ「イプエルの訓戒くんかい」、すぎいさむ三笠みかさみやたかしひとしへん へん筑摩ちくま世界せかい文学ぶんがく大系たいけい1 古代こだいオリエントしゅう筑摩書房ちくましょぼう、1978ねん4がつ、pp.450-462ぺーじISBN 978-4-480-20601-5 
  • マネト 『エジプト[1]うち マネトーン断片だんぺんしゅう

資料しりょう[編集へんしゅう]

先代せんだい
だい9王朝おうちょう
エジプトだい10王朝おうちょう
紀元前きげんぜん2130ねんごろ - 紀元前きげんぜん2040ねんころ
次代じだい
(だい11王朝おうちょう)