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エジプト初期しょき王朝おうちょう時代じだい

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エジプト初期しょき王朝おうちょう時代じだい(エジプトしょきおうちょうじだい、紀元前きげんぜん3100ねんごろ - 紀元前きげんぜん2686ねんころ)は、古代こだいエジプト史学しがくエジプトがく)における時代じだい区分くぶんの1つである。

エジプトだい1王朝おうちょうならびにエジプトだい2王朝おうちょう時代じだい初期しょき王朝おうちょう時代じだい区分くぶんされる。エジプト複数ふくすうあった「王国おうこく」が統合とうごうし、ぜんエジプトがはじめてひとつの政体せいたいした統合とうごうされた時代じだいをもって初期しょき王朝おうちょう時代じだいはじまりとする。

エジプトの歴史れきし

このテンプレートはエジプト関連かんれん一部いちぶである。
年代ねんだいについては諸説しょせつあり。
エジプトさき王朝おうちょう時代じだい pre–3100 BCE
古代こだいエジプト
エジプト初期しょき王朝おうちょう時代じだい 3100–2686 BCE
エジプト王国おうこく 2686–2181 BCE
エジプトだい1ちゅうあいだ 2181–2055 BCE
エジプトちゅう王国おうこく 2055–1795 BCE
エジプトだい2ちゅうあいだ 1795–1550 BCE
エジプトしん王国おうこく 1550–1069 BCE
エジプトだい3ちゅうあいだ 1069–664 BCE
エジプト末期まっき王朝おうちょう 664–332 BCE
古典こてん古代こだい
アケメネスあさエジプト 525–404 BCE, 343-332 BCE
プトレマイオスあさ 332–30 BCE
アエギュプトゥス 30 BCE–641 CE
サーサーンあさ占領せんりょう英語えいごばん 621–629
中世ちゅうせい
ムスリムによるエジプト征服せいふく英語えいごばん 641
ウマイヤあさ 641–750
アッバースあさ 750–868, 905-935
トゥールーンあさ 868–905
イフシードあさ 935–969
ファーティマあさ 969–1171
アイユーブあさ 1171–1250
マムルークあさ 1250–1517
近世きんせい
オスマン帝国ていこくりょうエジプト 1517–1867
フランス占領せんりょう 1798–1801
ムハンマド・アリーあさ 1805–1882
エジプト・ヘディーヴこく 1867–1914
近代きんだい
イギリス統治とうち英語えいごばん 1882–1953
エジプト・スルタンこく 1914–1922
エジプト王国おうこく 1922–1953
エジプト共和きょうわこく 1953–1958
アラブ連合れんごう共和きょうわこく 1958–1971
エジプト・アラブ共和きょうわこく 1971–現在げんざい
エジプトの旗

この時代じだい後世こうせいのエジプト王朝おうちょう基本きほんてき性格せいかくめるすうおおくの文化ぶんか揺籃ようらんであった。たとえばそれは王権おうけん概念がいねんレガリアおうごう王冠おうかんおうしゃくとう)、おうはか美術びじゅつ様式ようしきぜんエジプトの中心ちゅうしんとしての首都しゅとメンフィス登場とうじょうとうである。初期しょき王朝おうちょう時代じだい登場とうじょうしたこれらの要素ようそは、王国おうこく時代じだい以降いこう多彩たさいなエジプト文化ぶんかしていくことになる。

概略がいりゃく

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王権おうけん

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上下じょうげエジプト王冠おうかんあか王冠おうかんしもエジプト、しろ王冠おうかんうえエジプトの王冠おうかんであり、わせて上下じょうげエジプト両国りょうこく王権おうけんあらわ

王権おうけんとその表現ひょうげん形式けいしきだい1王朝おうちょう時代じだい原型げんけいがほぼ確立かくりつした。古代こだいエジプトではホルスめい女神めがみめい(ネブティめい)、黄金おうごんのホルスめい上下じょうげエジプトおうめい即位そくいめい、ネスウト・ビティめい)、誕生たんじょうめいというファラオじゅう称号しょうごう使用しようされていたが、このうちホルスめい女神めがみめい即位そくいめいみっつはだい1王朝おうちょう時代じだい登場とうじょうする。おうめい様式ようしき完全かんぜんととのうのははるちゅう王国おうこく時代じだいになる[1]が、これらをもちいておうごうおうめいしめ様式ようしきすで初期しょき王朝おうちょう時代じだい確立かくりつしていった。先王せんおうあさ時代じだいうえエジプトおうは、みずからがホルスかみ化身けしんであることあらわホルスめいもちいた。ホルスめい使用しようする伝統でんとう初期しょき王朝おうちょう時代じだいはいっても継続けいぞくされたが、統一とういつされたエジプトでの正当せいとう王権おうけんしめすため、やがてホルスめいくわえてだい女神めがみめいおうめいくわえられた。これはおううえエジプトの守護しゅご女神めがみネクベトと、しもエジプトの守護しゅご女神めがみウアジェト双方そうほう化身けしんであることをしめ名前なまえである[2]さらに、だい1王朝おうちょうだい5だいおうデン時代じだいには上下じょうげエジプトおうめいくわえられ、一体いったいせい政治せいじ世界せかいとしての「エジプト」が形成けいせいされてく。

また、おう各種かくしゅのレガリアをけて身分みぶん表現ひょうげんする様式ようしき初期しょき王朝おうちょう時代じだいおおむ定型ていけいした[3]おうはか巨大きょだい王権おうけんしめすための儀式ぎしきであるセドさい挙行きょこう初期しょき王朝おうちょう時代じだいはじまる。先王せんおうあさ時代じだいおうにおいても身分みぶん確認かくにんできるが、それはたんおおきさや副葬品ふくそうひんりょうによって区別くべつされるものであった。しかし、初期しょき王朝おうちょう時代じだいにはおう特有とくゆう建築けんちく様式ようしき登場とうじょうした。大型おおがたマスタバはかや、葬祭そうさい殿どの建築けんちくがそれにあたる。これらは王国おうこく時代じだいはじまるピラミッド建造けんぞうつながっていく。

さらにしもエジプトとうえエジプトのなかあいだ地点ちてん首都しゅととしてメンフィス建設けんせつされた。この時代じだいのメンフィスの遺構いこういま発掘はっくつされていないが、メンフィスの付属ふぞく墓地ぼちであるサッカラには実際じっさいだい1王朝おうちょう時代じだいおう林立りんりつしており、だい1王朝おうちょう時代じだいにメンフィスが首都しゅととして整備せいびされた可能かのうせいたか[4]

くにせい

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だい1王朝おうちょう以降いこう官僚かんりょう組織そしき整備せいび急速きゅうそくすすめられた。この官僚かんりょう組織そしきについては印章いんしょう、ラベル、石碑せきひとう記録きろくからおおむ推測すいそくできるようになっている[5]国家こっか頂点ちょうてんおうとし、その配下はいか王族おうぞくからなる少数しょうすう支配しはいそうがいた。いで宰相さいしょう任命にんめいされ、かれ王家おうけ家政かせい財政ざいせい地方ちほう行政ぎょうせい統括とうかつした。財政ざいせい部門ぶもん印璽いんじかん統括とうかつし、徴税ちょうぜいからさい分配ぶんぱいまでの財政ざいせいになった。地方ちほう行政ぎょうせい部門ぶもん上下じょうげエジプト、およびその地域ちいき分割ぶんかつされそれぞれを官僚かんりょうたち管理かんりした。おう頂点ちょうてんとし、宰相さいしょう中心ちゅうしんとした上記じょうきみっつの部門ぶもん国家こっか運営うんえいする基本きほん構造こうぞうしん王国おうこく時代じだい以降いこうまで継続けいぞくした[5]

美術びじゅつ

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古代こだいエジプトの基本きほんてき美術びじゅつ様式ようしきたとえば次元じげん表現ひょうげんにおいて人体じんたい側面そくめん正面しょうめんわせてえがく、実際じっさいのサイズに関係かんけいなく「偉大いだいさ」によって人物じんぶつおおきさが表現ひょうげんされる、場面ばめんだん区切くぎ人物じんぶつぞう地面じめんあらわせんうええがかれる(レジスター)、ひとし表現ひょうげん方法ほうほうすで初期しょき王朝おうちょう時代じだい確立かくりつした[4]。これらの特徴とくちょうのうちのいくつかはすで先王せんおうあさ時代じだいにその萌芽ほうがられ、のエジプト美術びじゅつ基本きほんてき路線ろせん規定きていした。

初代しょだいおうについての問題もんだい

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エジプトの「最初さいしょおう」がだれなのかについて、現在げんざいでも定説ていせつがあるわけではない。文献ぶんけん史料しりょう登場とうじょうする初代しょだいおうメニ/メネス考古学こうこがくてき確認かくにんできる人物じんぶつ同定どうていしようとするこころみがエジプトがく黎明れいめいからつづけられてきた。

メニ/メネスおう

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文献ぶんけん史料しりょうとしてはおもギリシア記述きじゅつされた古典こてん古代こだい記録きろくと、古代こだいエジプトあるいは図像ずぞう表現ひょうげんによって作成さくせいされたおうめいひょう記録きろく存在そんざいする。

前者ぜんしゃ代表だいひょうするのがマネト[注釈ちゅうしゃく 1]記述きじゅつした『エジプト』であり、だい1からだい31までの王朝おうちょう分類ぶんるいして古代こだいエジプト把握はあくする方法ほうほうはマネトの方法ほうほう踏襲とうしゅうしたものである。そのマネトの記録きろくでは、初代しょだいのエジプトおうメネスであった。また紀元前きげんぜん5世紀せいき歴史れきしヘロドトスは『歴史れきし』においてエジプトじんからいたこととしてエジプトの初代しょだいおうはミンであると記録きろくし、紀元前きげんぜん1世紀せいきにはシケリアのディオドロスが『歴史れきし叢書そうしょ』のなかでエジプトの初代しょだいおうはメナスであるとしるしている。メネス、ミン、メナスはいずれも同一どういつ名前なまえであるとかんがえられる。マネトはもちろんのこと、ヘロドトスとディオドロスはいずれもエジプトに実際じっさい滞在たいざいしたことがあることがられているため、紀元前きげんぜん5世紀せいき紀元前きげんぜん1世紀せいきのエジプトではメネスおうからはじまるエジプトの歴史れきし共有きょうゆうされていたとかんがえられる[6]

後者こうしゃのものとしては『トリノおうめいひょう』や『アビドスおうめいひょう』、『サッカラ王らおうめいひょう』が代表だいひょうてきである[6][7]。これらのおうめいひょう初代しょだいおう位置いちにメニというおうめい配置はいちしている。このメニおう名前なまえ登場とうじょうする最古さいこ史料しりょうハトシェプスト女王じょおう時代じだい紀元前きげんぜん1500ねんころ)のスカラベかれたものである。おうめい類似るいじからかんがえて、このおうめいひょう登場とうじょうするメニのがギリシアじん著述ちょじゅつたちがエジプトにおとずれた時代じだいでもつたわっており、メネスと記録きろくされたとかんがえられる。

ナルメルおう

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上記じょうきのような古代こだい記録きろくたいし、現代げんだい考古学こうこがくてき調査ちょうさによってぜんエジプトをはじめて支配しはいしたとかんがえられる最初さいしょおうナルメルである。ナルメルについてはナルメルのパレット化粧けしょうばん)、ナルメルのメイスヘッドというふたつの重要じゅうよう遺物いぶつ存在そんざいする。ナルメルのパレットは、表裏ひょうり両面りょうめん上端じょうたんにホルスめいのナルメルがしるされ、表面ひょうめんしもエジプト王冠おうかんこうむったおうてき死体したい検分けんぶんするようが、裏面りめんうえエジプト王冠おうかんこうむったおうホルスしん化身けしんとしてえがかれている)が敵国てきこく征服せいふくするようえがかれており、その意図いと上下じょうげエジプト両国りょうこく統合とうごう象徴しょうちょうすることであったのは明白めいはくである[8]。ナルメルのメイスヘッドには、うえエジプトの守護神しゅごじんネクベトまもられたナルメルがしもエジプトの王冠おうかんこうむり、おそらくはしもエジプトの王女おうじょネイトヘテプつまとする光景こうけいえがかれている[9]。こちらもまた、上下じょうげエジプトの統合とうごうしめ図像ずぞう表現ひょうげんであることが明白めいはくである。また、だい1王朝おうちょう時代じだいふうどろにおけるおうめい配置はいちや、おうはか位置いちとう分析ぶんせきから、だい1王朝おうちょうおうたちがナルメルを初代しょだいかんがえていた可能かのうせいたかいとかんがえられている[10]

アハおう

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初代しょだいおう候補こうほ」としてもう一人ひとり重要じゅうよう候補者こうほしゃとしてアハがいる。アハはアビュドス出土しゅつどふうどろなどの考古こうこ史料しりょうから、ナルメルのつぎおうであったことがかなり確実視かくじつしされている[11]。このてんだい1王朝おうちょうの2代目だいめということになるが、かれ文献ぶんけん史料しりょう登場とうじょうするメニ/メネスおうどう一人物いちじんぶつとする有力ゆうりょくせつがある。その根拠こんきょはアハおう象牙ぞうげせいラベルで、このラベルのなかにホルスめい「アハ」とわせて女神めがみめい「メン」と記載きさいされている。このことからアハおうはメンという別名べつめい可能かのうせいがあり、これこそが後世こうせいのメニおうであるというものである[11]。この場合ばあい、ナルメルのパレットとうたんなる宗教しゅうきょう儀礼ぎれい呪術じゅじゅつ儀礼ぎれいてき性質せいしつのもので実際じっさいされたものではないとかんがえる[12]

初代しょだいおう確定かくていするじょうでの問題もんだい

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ナルメル、アハ、そして彼等かれらつづだい1王朝おうちょうおうたちなか確実かくじつにメネスおうどう一人物いちじんぶつであると同定どうていできるおうはいない。これはおうめい表記ひょうきほう問題もんだいによる。初期しょき王朝おうちょう時代じだいおうたち記念きねん使用しようしたおうめい通常つうじょうホルスめいばれるおう即位そくいめいであった。これは誕生たんじょうにつけられた名前なまえとはべつ名前なまえである。一方いっぽう後世こうせいおうめいひょう誕生たんじょう名前なまえ使用しようしているといわれている。このため記念きねんぶつにホルスめい誕生たんじょうめい併記へいきするようになっただい1王朝おうちょうだい5だいデンおうよりまえおうについて、おうめいひょう考古学こうこがく遺物いぶつ対照たいしょう困難こんなんである[13]。このため、2017ねん現在げんざいにおいても初期しょき王朝おうちょう時代じだい開始かいし(つまりエジプトにおける統一とういつ王朝おうちょう出現しゅつげん)について、研究けんきゅうしゃあいだ完全かんぜん一致いっちした見解けんかい存在そんざいしない[14]

王国おうこく時代じだい作成さくせいされた『カイロ年代ねんだい』ではだい1王朝おうちょう以前いぜんおうたち上下じょうげエジプト王冠おうかんいただかたち描写びょうしゃされているため、これを論拠ろんきょ実際じっさい王朝おうちょう統一とういつすでだい1王朝おうちょう以前いぜん完了かんりょうしていたとするせつさえ存在そんざいする[14]

初期しょき王朝おうちょう時代じだい遺跡いせき遺物いぶつ

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マネトの記録きろくによれば、エジプトだい1、だい2王朝おうちょうおうたちには「ティニスの」という形容詞けいようしがつけられている。おそらくこれはこのおうたちがティニスという都市としにいて統治とうちした、もしくはエジプト統一とういつ王朝おうちょう母体ぼたいとなった王朝おうちょうがティニスにあったということを意味いみするとかんがえられる[15]

ティニスの正確せいかく位置いちはわかっていないが、おそらく今日きょうギルガ(ナイルがわ西岸せいがん付近ふきんであっただろうと推測すいそくされている[15]。ギルガのみなみ20kmあまりの地点ちてんにあるアビュドス遺跡いせき発見はっけんされた初期しょき王朝おうちょう時代じだい遺物いぶつは、この地域ちいきだい1王朝おうちょうだい2王朝おうちょうとの関係かんけい立証りっしょうするものである。

アビュドスとサッカラ

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初期しょき王朝おうちょう時代じだいおう遺構いこう集中しゅうちゅうしているのがアビュドス遺跡いせきとサッカラ遺跡いせきである。アビュドスでは19世紀せいきまつフリンダーズ・ピートリー調査ちょうさによりだい1王朝おうちょう時代じだいおう相次あいついで発見はっけんされた。これらのはかまえっていた石碑せきひから10にんおう1人ひとり王妃おうひられた。おうめいはほぼホルスめいであり、このうちナルメルからはじまる8にんおうだい1王朝おうちょうぞくしているとかんがえられる。唯一ゆいいつ王妃おうひメルネイトであり、おそらくだい1王朝おうちょう4代目だいめジェトおうである[16]

また、アビュドスにはケンティアメンティウかみ[注釈ちゅうしゃく 2]神殿しんでんあと確認かくにんされているが、これが最初さいしょてられたのはだい1王朝おうちょう時代じだいであった。また、だい2王朝おうちょう時代じだいてられた日干ひぼ煉瓦れんがとりであとヶ所かしょ発見はっけんされている。これはこのとりであとから出土しゅつどしたふうどろそのだい2王朝おうちょうペルイブセンおうカーセケムイおう時代じだいのものであることからわかる。これらのとりで長方形ちょうほうけいのプランでてられており、外部がいぶには凹凸おうとつ装飾そうしょくもちいられている。あきらかにメソポタミア建築けんちく様式ようしき影響えいきょうけたものである[17]

他方たほう、メンフィスにちかいサッカラでは、20世紀せいき前半ぜんはんからなかばにかけての調査ちょうさ初期しょき王朝おうちょう時代じだいおう発見はっけんされた。これはアビュドス遺跡いせきものよりも大型おおがたマスタバはかふく多数たすうはか広範囲こうはんいから発見はっけんされており、これらの墓地ぼちなかにはふねれるためのがこいがあるものも発見はっけんされている。これはおそらく死者ししゃ死後しご世界せかいたびするためのふねであると推定すいていされる。この墓地ぼちから発見はっけんされた碑文ひぶんとうからはアビュドス遺跡いせき発見はっけんされたおうめい一致いっちするだい1王朝おうちょう時代じだいの6にんおうアハおうカアおう)と2人ふたり王妃おうひオルネイトとメルネイト)、およ親族しんぞくまたは臣下しんかられる多数たすう人名じんめいれる。

調査ちょうさおこなったエマリーは、アビュドスとサッカラの両方りょうほう同一どういつおうはか存在そんざいすることから、初期しょき王朝おうちょう時代じだいがおかれたメンフィスにちかいサッカラに実際じっさいおう埋葬まいそうされ、おういたる出身しゅっしんちかいアビュドスには埋葬まいそうおこなわない象徴しょうちょうてきそらかれたと主張しゅちょうした。このせつおおくの支持しじいち定説ていせつしていた[18]。しかしそのW.カイザーや、B.J.ケンプらによってアビュドスで実際じっさいおう埋葬まいそうおこなった痕跡こんせき発見はっけんされ、だい1王朝おうちょうおうたち埋葬まいそうはアビュドスであるとのせつ急速きゅうそく支持しじされるようになっている[18]。しかしその場合ばあい、サッカラの巨大きょだいたん高官こうかんはかぎないのかとう、その性格せいかく明確めいかくではない。

ナルメルのパレット

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ナルメルのパレット

初期しょき王朝おうちょう時代じだい図像ずぞう史料しりょうなかでももっと有名ゆうめいなものは、うえエジプトのヒエラコンポリス(エジプトめいネケン現在げんざいコム・エル=アハマル)で発見はっけんされたナルメルのパレット(化粧けしょうばん)である。パレットとは古代こだいエジプトじんアイシャドーをすりつぶすのに使用しようしたいたであるが、ナルメルのパレットはながさが64cm、はば42cmもあることから、実用じつようではなく儀式ぎしきようのものであると推定すいていされる。ホルスしん図像ずぞうかんがえられるはやぶさや、てき(アジアじん[注釈ちゅうしゃく 3])とたたかうナルメルおう姿すがたなどがえがかれており、この図像ずぞう解釈かいしゃく古代こだいエジプトの王権おうけん歴史れきし考慮こうりょするじょうきわめて重要じゅうようである。

パレルモせき

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パレルモせき黒色こくしょく閃緑がんつくられた記念きねんであり、断片だんぺんパレルモ博物館はくぶつかんほかカイロロンドン保管ほかんされている。これは初期しょき王朝おうちょう時代じだいよりのち時代じだい遺物いぶつであるが、おそらくおう一覧いちらん記載きさいされている。すわった人物じんぶつぞうべてきざまれており、それぞれ王権おうけん象徴しょうちょうであるおうしゃくち、赤色あかいろ王冠おうかん[注釈ちゅうしゃく 4]をかぶっており、判読はんどく不能ふのうながらおうめい推測すいそくされうる文字もじ付記ふきされている。赤色あかいろ王冠おうかんをかぶっていることを重視じゅうしすればかれらは統一とういつ王朝おうちょう以前いぜんしもエジプトおうであり、もしけた部分ぶぶんうえエジプトおう一覧いちらんっていたのだとすれば、はら王朝おうちょう時代じだい上下じょうげエジプト王国おうこくおうめいひょう実在じつざいしていた可能かのうせいてくる[19]

だい1王朝おうちょうおうめいしるしたとおもわれる部分ぶぶん破損はそんしてのこっていないが、だい2王朝おうちょうニネチェルおうかんがえられるおう記載きさいされ、さらだい4王朝おうちょうだい5王朝おうちょうおう一部いちぶ掲載けいさいされている。かくおうには統治とうち年月としつきあらわ記号きごうしるされ、またとしめいには簡略かんりゃくながら歴史れきしてき事件じけん記録きろくされている。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 紀元前きげんぜん3世紀せいきのエジプトの歴史れきしかれはエジプトじんであったが、ギリシアけい王朝おうちょうプトレマイオスあさつかえたためギリシア著作ちょさくおこなった。
  2. ^ アビュドスのふる地方ちほうしん死者ししゃかみのちオシリスかみ神格しんかくまれた。
  3. ^ パレスチナ地方ちほう住民じゅうみん
  4. ^ しもエジプトおう王冠おうかん

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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原典げんてん資料しりょう

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  • ヘロドトス歴史れきし うえ松平まつだいら千秋ちあきわけ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1971ねん12月。ISBN 978-4-00-334051-6 

資料しりょう

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