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エジプト第13王朝 - Wikipedia コンテンツにスキップ

エジプトだい13王朝おうちょう

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エジプトだい13王朝おうちょう(エジプトだい13おうちょう、紀元前きげんぜん1782ねんごろ - 紀元前きげんぜん1650ねんころ[注釈ちゅうしゃく 1]または紀元前きげんぜん1803ねんごろ - 紀元前きげんぜん1649ねんごろ)は、古代こだいエジプト王朝おうちょう

概要がいよう[編集へんしゅう]

だい13王朝おうちょう時代じだい現代げんだい学者がくしゃによってエジプトだい2ちゅうあいだないしエジプトちゅう王国おうこくのいずれかに分類ぶんるいされている[注釈ちゅうしゃく 2]だい13王朝おうちょうちゅう王国おうこく分類ぶんるいするかんがかたは、この王朝おうちょうメンフィス近郊きんこうつくられたなか王国おうこく首都しゅとイチ・タウィからなおぜんエジプトを支配しはいしていたこと重視じゅうしした見解けんかいである[3]。この王朝おうちょうだい12王朝おうちょう延長線えんちょうせんじょうにある政権せいけんであり、その交代こうたいさいにはおおきな混乱こんらんはなかったとかんがえられている[4][5]実態じったいあきらかでない多数たすうおうによる政権せいけんであるが、そのほぼぜん期間きかん国家こっか安定あんていしており中央ちゅうおう政府せいふ権威けんい全土ぜんどおよんでいた[6]。その統治とうち末期まっきにはしもエジプトデルタ地帯ちたいだい14王朝おうちょうとしてまとめられているアジアじん[注釈ちゅうしゃく 3]地方ちほう政権せいけん自立じりつ[7][8]、エジプトの統一とういつくずれた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

成立せいりつ[編集へんしゅう]

だい12王朝おうちょうアメンエムハト3せいぜん1842-ぜん1797)の死後しご王族おうぞくである可能かのうせい指摘してきされている[9]アメンエムハト4せいぜん1798-ぜん1786)があといだ。かれ治世ちせいについてはほとんどられていない[10]。その女王じょおうセベクネフェル即位そくいした。女王じょおう即位そくいという事態じたい後継こうけいしゃ問題もんだい存在そんざい[11]おそらくは男系だんけいおうみつる断絶だんぜつしめすであろう[12]

だい12王朝おうちょうからだい13王朝おうちょうへの交代こうたいおおきな問題もんだいもなくおこなわれたようにおもわれるが[4][5]だい13王朝おうちょうおうたちについてはおおくの場合ばあい詳細しょうさいがわからない。その初代しょだいおうはかつてトリノおうめいひょう記述きじゅつからウガエフであるとかんがえられていたが[注釈ちゅうしゃく 4]現在げんざいではセベクヘテプ1せい初代しょだいであると有力ゆうりょくされている[5]現代げんだい研究けんきゅうしゃはこの二人ふたり名前なまえ即位そくいめい)の類似るいじ(クタウィラーとセケムラー・クタウィ)のためにトリノおうめいひょう編者へんしゃによって混同こんどうされた結果けっか、ウガエフが初代しょだいおうであるという記載きさいがされたのだとかんがえている[13]

また、セベクヘテプ1せいと、だい2だいセネブエフだい12王朝おうちょうのアメンエムハト4せい息子むすこである可能かのうせいがある[14]。だが、あきらかにだい13王朝おうちょうおうたち単独たんどく家系かけいによって構成こうせいされておらず、すうおおくの明瞭めいりょうでない出自しゅつじおうたちからっていた[5]。このような状況じょうきょう王位おうい継承けいしょうについての異変いへんがあったことをしめし、一部いちぶおうについては簒奪さんだつしゃ僭称せんしょうしゃ摂政せっしょうであった可能かのうせい指摘してきされている。それぞれのおうたち関係かんけいについては系図けいずさい構成こうせいはもちろん、王位おうい継承けいしょうじゅんについても復元ふくげん問題もんだいがあり、学者がくしゃたち統一とういつした見解けんかいつけられないでいる[15]。この原因げんいんひとつはだい13王朝おうちょうおうめい継承けいしょうじゅんについての主要しゅよう史料しりょうであるトリノおうめいひょう保存ほぞん状態じょうたいわるく、分析ぶんせき困難こんなんであることである[15]

また、この王朝おうちょうには平民へいみん出身しゅっしんおう数多かずおおくいた。セベクヘテプ2せいちちはネンと名前なまえ平民へいみんであったことがトリノおうめいひょう記録きろくからわかる[16]即位そくいまえには高級こうきゅう官吏かんりであったセベクヘテプ3せい父親ちちおや平民へいみんのメンチュヘテプ(メンチュヘテプA)であった[17]かれあといだネフェルヘテプ1せいもまた、その両親りょうしん平民へいみんであったことは各種かくしゅ資料しりょうから明白めいはくである[17]

政治せいじ[編集へんしゅう]

このような状況じょうきょうで、だい13王朝おうちょう王権おうけんきわめて弱体じゃくたいしていたとられる。にもかかわらず、だい13王朝おうちょう政府せいふ機構きこう王朝おうちょう存続そんぞくしたほとんどの期間きかんにおいて正常せいじょう機能きのうしていた[12][6]初代しょだいのセベクヘテプ1せいつぎのセネブエフは統治とうち機関きかんみじかさとは裏腹うらはらに、記念きねん分布ぶんぷからぜんエジプトにその権威けんいおよぼしていた[12]し、セベクヘテプ2せい以降いこうはやや王位おうい安定あんていし、やはりエジプト全土ぜんど支配しはいいている[12]

この理由りゆうとしてだい12王朝おうちょう時代じだい長期間ちょうきかんかけてつくげられ、センウセルト3せいぜん1878 - ぜん1841)によって完成かんせいされていた官僚かんりょう機構きこうだい13王朝おうちょう時代じだいにも正常せいじょう機能きのうしていたことがあげられる[18]ちゅう王国おうこく官僚かんりょう組織そしききわめて完成かんせいたかかったらしく、王権おうけん弱体じゃくたいしても事実じじつじょう統括とうかつしゃであった宰相さいしょう中心ちゅうしんとして国家こっか運営うんえいすることが可能かのうであったとられている[3]。この見解けんかいだい13王朝おうちょうについての伝統でんとうてき見解けんかいであるが、一方いっぽう資料しりょう不足ふそくのためかつての(あるいはそのの)王朝おうちょうだい13王朝おうちょう統治とうちがどのようにことなっているのか具体ぐたいてきには不明ふめいなため、こうした見解けんかいこととなえる研究けんきゅうしゃ近年きんねん登場とうじょうしている[5]

セベクヘテプ4せいぞうブル美術館ぶるびじゅつかん収蔵しゅうぞう

上記じょうきとおり、だい13王朝おうちょう歴史れきしこまかくあきらかにするのは困難こんなんであるが、政治せいじ実権じっけんにぎ宰相さいしょうしょく世襲せしゅうすすんでいたことがわかっている。セベクヘテプ2せい時代じだい宰相さいしょうアンクウは、つぎケンジェルぜん1747ねんごろおう治世ちせいでも権勢けんせいるい、そのかれ子供こどもまごへと宰相さいしょうしょく世襲せしゅうされた[3]。このことが関係かんけいするのかかならずしもあきらかではないが、アンクウのまごイイメルウ宰相さいしょうとなったセベクヘテプ4せい[注釈ちゅうしゃく 5]時代じだいにはしもエジプトナイルがわデルタ地帯ちたい)のクソイス出身しゅっしんとされる政権せいけん一般いっぱんだい14王朝おうちょうわれる)がせま範囲はんい支配しはいにおいてだい13王朝おうちょう統制とうせいはなれ、エジプトの統一とういつふたたうしなわれた[20]

1つあきらかであるのはこの時代じだいにはしもエジプトで「アジアじん」の勢力せいりょく増大ぞうだいしていたことである[21]かれらアジアじんすくなくてもだい1ちゅうあいだ以来いらい傭兵ようへい奴隷どれい、そしてときには外敵がいてきとしてエジプトにはいっていた。かれらはエジプトじん歴史れきし叙述じょじゅつにおいては「侵入しんにゅうしゃ」となされるが、実際じっさいにはちゅう王国おうこく時代じだいにアジアけい高官こうかん輩出はいしゅつしており、その人的じんてき交流こうりゅう相当そうとう活発かっぱつであった[22]

衰退すいたい[編集へんしゅう]

アイおうぜん1700ごろ~ぜん1677ごろ)は、だい13王朝おうちょうおうなかもっとなが在位ざいいしたおうであり、その治世ちせいやく23年間ねんかんつづいた。同時どうじかれ上下じょうげエジプトにそのしるした記念きねん建造けんぞうぶつのこ最後さいごおうでもある[6]かれ時代じだい以降いこうしもエジプトではだい13王朝おうちょう統制とうせい完全かんぜんおよばなくなった。そのためちゅうにはアイおうちゅう王国おうこく時代じだい最後さいごおうなす研究けんきゅうしゃもいる。

そのエジプトではだい14王朝おうちょうつづきアジアけいおうきずいたとされるだい15王朝おうちょう権力けんりょく確立かくりつしていく。かれらアジアけい支配しはいしゃヒクソス[注釈ちゅうしゃく 6]られている。マネトの記録きろくによればヒクソス(だい15王朝おうちょう)はトゥティマイオスと名前なまえおうときにエジプトの支配しはいけんにぎったとされている[19]

終盤しゅうばんだい13王朝おうちょうおうたちはヒクソスの宗主そうしゅけんのもとでうえエジプト(ナイルがわ上流じょうりゅう)を統治とうちした可能かのうせいがあるとされているが[19]、その終焉しゅうえんについての情報じょうほうはない。ヒクソス支配しはいのエジプト北部ほくぶと、南部なんぶとが分裂ぶんれつした時代じだいだい2ちゅうあいだ分類ぶんるいされる。

歴代れきだいおう[編集へんしゅう]

だい13王朝おうちょう歴代れきだいおう即位そくいじゅん完全かんぜんには復元ふくげんされていない。マネト[注釈ちゅうしゃく 7]はこの王朝おうちょうはディオスポリス(テーベ)の60にんおうからなるとするが、個々ここおうについてはなにれない[24]。また、トリノおうめいひょうにはすくなくとも36にんおう記録きろくされている[12]

あきらかにだい13王朝おうちょうおうたち平均へいきん在位ざいい期間きかんすうねん程度ていどであったが、かれらのおおくは考古学こうこがくてき記念きねんぶつのこしているため[25]、それらの出土しゅつど地域ちいき分布ぶんぷから王権おうけんおよんでいた範囲はんいおおむ推定すいていされている。また、彼等かれら系譜けいふ復元ふくげんするじょうがかりになるのが、だい13王朝おうちょう時代じだいおうめい特徴とくちょうてきなが誕生たんじょうめいである。これは父親ちちおや祖先そせん誕生たんじょうめいんだものと解釈かいしゃくされ、れいとしてアメンエムハト6せい誕生たんじょうめい「アメニ・アンテフ・アメンエムハト」は「アメニ(アメンエムハト5せい)のまご、アンテフの息子むすこ、アメンエムハト」と理解りかいされている[15]。これらをもとだい13王朝おうちょうおうみつるさい構築こうちくおこなわれているが、一部いちぶ王位おうい継承けいしょう順序じゅんじょについてはいまなお議論ぎろんつづいており[5]なんめいかにはどう一人物いちじんぶつ可能かのうせいもある。そしてだい13王朝おうちょうおうたちあきらかに同一どういつ家系かけいぞくしていない[5]名前なまえについても同名どうめい別人べつじん区別くべつするために一人ひとり人間にんげん複数ふくすう名前なまえ文書ぶんしょもちいるれい多数たすうあるため、これらがかならずしも血縁けつえん関係かんけいしめしているとはえないという指摘してきもされている。

以下いかだい13王朝おうちょうおう一覧いちらんしめすが、確定かくていしたものではない。採録さいろくするおう原則げんそくとして参考さんこう文献ぶんけんぜん系図けいずづけエジプト歴代れきだい王朝おうちょう』にった。

だい13王朝おうちょうのファラオの一覧いちらん
ホルスめい[26] 即位そくいめい[26] 誕生たんじょうめい 備考びこう
メネク(…) セケムラー・クタウィ セベクヘテプ1せい おそらくだい12王朝おうちょうのアメンエムハト4せい息子むすこ[14]
メフイブタウィ セケムカラー セネブエフ おそらくアメンエムハト4せい息子むすこ[14]
ネリカラー アメニ・ケマウとどう一人物いちじんぶつ可能かのうせいがある
セケムカラー アメンエムハト5せい セネブエフとどう一人物いちじんぶつとするせつがある
アメニ・ケマウ おそらくアメンエムハト5せい息子むすこ
セヘルタウィ スアンクイブラー アメンエムハト6せい おそらくアメンエムハト5せい息子むすこアンテフの息子むすこ
ダハシュールピラミッドのこしている[12]
セメンカラー ネブヌン
イウフェニ
ヘテプイブラー サホルネジュヒルイオテフ おそらくアメニ・ケマウの息子むすこ
セワジカラー
ネジェムイブラー
セマタウィ カーアンクラー セベクヘテプ2せい 平民へいみんネンの息子むすこ[27]
レニセネブ アメンエムハト6せい息子むすこ[16]
ヘテプイブタウィ アウトイブラー ホル おそらくレニセネブの息子むすこ[27]
ヘリテプタウィ セジェファカラー カイ・アメンエムハト7せい 前任ぜんにんしゃホルの息子むすこ兄弟きょうだいではなかった[27]
セケムネチェル クタウィラー ウガエフ セベクヘテプ1せい混同こんどうされ、初代しょだいおうとされていた。[5]
ウセルカラー ケンジェル サッカラみなみのピラミッド[12]
セメンクカラー イミロメシャ
セヘテプカラー アンテフ4せい
メリイブラー セテ(ィ)
クタウィ セケムラーセワジタウィ セベクヘテプ3せい ブルックリン美術館びじゅつかん所蔵しょぞうパピルス断片だんぺん(35-1446)

[28]
平民へいみんメンチュヘテプの息子むすこ[17]

ゲレグタウィ カーセケムラー ネフェルヘテプ1せい アビュドス出土しゅつど石碑せきひと、ビュブロス出土しゅつどあさ浮彫うきぼり[19]
平民へいみんハアンクエフとケミの息子むすこ[17]
メンワジラー サハトホル ネフェルヘテプ1せい兄弟きょうだい[29]
アンクイブタウィ カーネフェルラー セベクヘテプ4せい ネフェルヘテプ1せい兄弟きょうだい[29]
メルヘテプラー セベクヘテプ5せい おそらく前任ぜんにんしゃたち血縁けつえん関係かんけいかった[17]
カーヘテプラー セベクヘテプ6せい
ワハイブラー イアイブ
メルネフェルラー アイ エジプト全土ぜんど記念きねんのこ最後さいごおう[6]
メルヘテプラー イニ1せい おそらくアイの息子むすこ
スアンクエンラー セワジュトゥ
メルセケムラー イネド ネフェルヘテプ2せいどう一人物いちじんぶつ可能かのうせいがある
(…)ウェブエンラー ホリ
メルカウラー セベクヘテプ7せい
イニ2せい
ネフェルヘテプ2せい
名称めいしょう不明ふめいの5にんおう
メル(…)ラーという破損はそんした名前なまえおう
メルケペルラー
名称めいしょう不明ふめいおう
セワジュアラー メンチュヘテプ5せい
(…)メスラーという破損はそんした名前なまえおう
(…)マートラー イビ
ホル(…)という破損はそんした名前なまえおう
セ(…)カラーという破損はそんした名前なまえおう
セヘカエンラー サンクプタヒ
セカエンラー
セワフエンラー セネブミウ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 紀元前きげんぜん1650ねんごろ終了しゅうりょうねんはクレイトンにるが[1]西村にしむらはこの年代ねんだいちゅう王国おうこくわりをすものであり、だい13王朝おうちょうさら継続けいぞくしているとする[2]実際じっさいだい13王朝おうちょうがいつの時点じてんわったのかは不明ふめいである。
  2. ^ 前者ぜんしゃれいとしてフィネガン 1983, 屋形やかた 1998がいる。スペンサー 2009は、ちゅう王国おうこくだい2ちゅうあいだ両方りょうほう分類ぶんるいしている。
  3. ^ エジプトがく文脈ぶんみゃくでは、アジアじん用語ようごレヴァントシリアアナトリア地方ちほう南岸なんがん人々ひとびと意味いみ使用しようされる。
  4. ^ クレイトンは『ファラオ歴代れきだい』にて初代しょだいにウガエフを配置はいちしている[1]
  5. ^ セベクヘテプ4せいは、ぜん2世紀せいきアレクサンドリアユダヤじんアルタバヌスの記録きろくなかで「メンフィスより上流じょうりゅう地方ちほうおう」としるされているケネフェレスおうであるかもしれない。ナイル川下かわしも流域りゅういきたいするだい13王朝おうちょう支配しはいよわまったこと反映はんえいした記録きろくであるといわれる[19]
  6. ^ ヒクソスとは「異国いこく支配しはいしゃたち」を意味いみする古代こだいエジプトヘカウ・カスウトギリシアかたちである。このかたりすうひゃくねん以上いじょうまえからシリアパレスチナ方面ほうめん首長しゅちょうたちかたりであったが、やがてエジプトで支配しはいけんにぎったアジアけいおうかたりとして転用てんようされた。しかしおな名前なまえばれているとはっても、すうひゃくねんまえのシリア・パレスチナの政治せいじ勢力せいりょくといわゆる「ヒクソス」を同一どういつすることはできない[23]詳細しょうさいヒクソスエジプトだい15王朝おうちょうエジプトだい2ちゅうあいだひとし参照さんしょう
  7. ^ マネトは紀元前きげんぜん3世紀せいきのエジプトの歴史れきしかれはエジプトじんであったが、ギリシアけい王朝おうちょうプトレマイオスあさつかえたためギリシア著作ちょさくおこなった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b クレイトン 1999 p.115
  2. ^ だい13王朝おうちょう(紀元前きげんぜん1,773〜1,650ねんごろ)”. 古代こだいエジプト史料しりょうかん. 2017ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c 屋形やかたら 1998, pp.443
  4. ^ a b クレイトン 1999, pp.115-116
  5. ^ a b c d e f g h ドドソン, ヒルトン 2012, p.100
  6. ^ a b c d クレイトン 1999, p.116
  7. ^ フィネガン 1983, p.288
  8. ^ スペンサー 2009, p.47
  9. ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p.95
  10. ^ クレイトン 1999, pp.113-114
  11. ^ クレイトン 1999, p.114
  12. ^ a b c d e f g 屋形やかたら 1998, p.442
  13. ^ 13th Dynasty (1783-1640)” (英語えいご). The Ancient Egypt Site. 2017ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  14. ^ a b c ドドソン, ヒルトン 2012, p.104
  15. ^ a b c ドドソン, ヒルトン 2012, p.101
  16. ^ a b ドドソン, ヒルトン 2012, p.102
  17. ^ a b c d e ドドソン, ヒルトン 2012, p.103
  18. ^ 屋形やかたら 1998, pp.442-443
  19. ^ a b c d フィネガン 1983 p.287
  20. ^ 屋形やかたら 1998, pp.443-444
  21. ^ フィネガン 1983 p.288
  22. ^ 近藤こんどう 1997, pp.114-116
  23. ^ セーテルベルク 1973, p.150
  24. ^ マネトーン断片だんぺんしゅう だい13王朝おうちょう”. Barbaroi!. 2017ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  25. ^ フィネガン 1983 pp.286-287
  26. ^ a b The Second Intermediate Period” (英語えいご). PHARAOH.SE. 2017ねん5がつ30にち閲覧えつらん 左記さきサイトを参考さんこうにした。
  27. ^ a b c ドドソン, ヒルトン 2012, pp.102,104
  28. ^ フィネガン 1983, p.286
  29. ^ a b ドドソン, ヒルトン 2012, pp.106-107

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

史料しりょう[編集へんしゅう]

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • T.セーヴェ=セーテルベルク「ヒュクソスのエジプト支配しはい」『西洋せいよう古代こだい論集ろんしゅう1』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1973ねん2がつASIN B000J9GVX2 
  • ピーター・クレイトン古代こだいエジプトファラオ歴代れきだい吉村よしむら作治さくじ監修かんしゅう藤沢ふじさわ邦子くにこやくつくもとしゃ、1999ねん4がつISBN 978-4-422-21512-9 
  • ジャック・フィネガン考古学こうこがくから古代こだいオリエント三笠みかさみやたかしじんやく岩波書店いわなみしょてん、1983ねん12月。ISBN 978-4-00-000787-0 
  • 近藤こんどう二郎じろう世界せかい考古学こうこがく4 エジプトの考古学こうこがくどうなりしゃ、1997ねん12月。ISBN 978-4-88621-156-9 
  • 屋形やかたただしあきら世界せかい歴史れきし1 にんるい起原きげん古代こだいオリエント』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1998ねん11月。ISBN 978-4-12-403401-1 
  • A.J.スペンサー『図説ずせつ だいえい博物館はくぶつかん古代こだいエジプト近藤こんどう二郎じろう監訳かんやく小林こばやしとものりやくはら書房しょぼう、2009ねん6がつISBN 978-4-562-04289-0 
  • エイダン・ドドソン、ディアン・ヒルトン『ぜん系図けいずづけエジプト歴代れきだい王朝おうちょう池田いけだひろしやく東洋とうよう書林しょりん、2012ねん5がつISBN 978-4-88721-798-0 

外部がいぶサイト[編集へんしゅう]

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