エジプトだい1ちゅうあいだ

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エジプトだい1ちゅうあいだ(エジプトだい1ちゅうかんき、紀元前きげんぜん2180ねんごろ - 紀元前きげんぜん2040ねんころ)は、古代こだいエジプトにおける時代じだい区分くぶん通常つうじょうだい6王朝おうちょう崩壊ほうかいからだい11王朝おうちょうによるさい統一とういつまでの時代じだいす。長期間ちょうきかんにわたって安定あんていした統治とうちつづけていた王国おうこく崩壊ほうかいとその戦乱せんらんによって社会しゃかいてき思想しそうてき政治せいじてきおおきな変化へんかもたらした。

エジプトの歴史れきし

このテンプレートはエジプト関連かんれん一部いちぶである。
年代ねんだいについては諸説しょせつあり。
エジプトさき王朝おうちょう時代じだい pre–3100 BCE
古代こだいエジプト
エジプト初期しょき王朝おうちょう時代じだい 3100–2686 BCE
エジプト王国おうこく 2686–2181 BCE
エジプトだい1ちゅうあいだ 2181–2055 BCE
エジプトちゅう王国おうこく 2055–1795 BCE
エジプトだい2ちゅうあいだ 1795–1550 BCE
エジプトしん王国おうこく 1550–1069 BCE
エジプトだい3ちゅうあいだ 1069–664 BCE
エジプト末期まっき王朝おうちょう 664–332 BCE
古典こてん古代こだい
アケメネスあさエジプト 525–404 BCE, 343-332 BCE
プトレマイオスあさ 332–30 BCE
アエギュプトゥス 30 BCE–641 CE
サーサーンあさ占領せんりょう英語えいごばん 621–629
中世ちゅうせい
ムスリムによるエジプト征服せいふく英語えいごばん 641
ウマイヤあさ 641–750
アッバースあさ 750–868, 905-935
トゥールーンあさ 868–905
イフシードあさ 935–969
ファーティマあさ 969–1171
アイユーブあさ 1171–1250
マムルークあさ 1250–1517
近世きんせい
オスマン帝国ていこくりょうエジプト 1517–1867
フランス占領せんりょう 1798–1801
ムハンマド・アリーあさ 1805–1882
エジプトふくおうりょう英語えいごばん 1867–1914
近代きんだい
イギリス統治とうち英語えいごばん 1882–1953
エジプト・スルタンこく英語えいごばん 1914–1922
エジプト王国おうこく 1922–1953
エジプト共和きょうわこく 1953–1958
アラブ連合れんごう共和きょうわこく 1958–1971
エジプト・アラブ共和きょうわこく 1971–現在げんざい
エジプトの旗

概観がいかん[編集へんしゅう]

メンフィス中心ちゅうしんとしたエジプト王国おうこく統一とういつ権力けんりょくは、だい5王朝おうちょう末期まっき以来いらい地方ちほうしゅうこう勢力せいりょく徐々じょじょ拡大かくだいしたことにより、だい6王朝おうちょうおうペピ2せい治世ちせい末期まっきには地方ちほうたいする統制とうせい能力のうりょく喪失そうしつし、各地かくちしゅうノモス[注釈ちゅうしゃく 1])を統治とうちしたしゅうこうたち自立じりつ傾向けいこうたかまった[1]。メンフィスの政権せいけんはなお存続そんぞくだい7だい8王朝おうちょう)し、統一とういつ政権せいけんおうとしての権威けんいいちおうたもたれたが、地方ちほう分離ぶんり潮流ちょうりゅうわらなかった。当時とうじのメンフィス政権せいけん歴代れきだいおうめいやその治績ちせきについてはっきりかっていることきわめてすくない。

だい7王朝おうちょうだい8王朝おうちょうぜん2181ねん-ぜん2160ねん[編集へんしゅう]

メンフィスに存続そんぞくしただい7、だい8王朝おうちょうについてわかっていること極端きょくたんすくない。マネト[注釈ちゅうしゃく 2]だい7王朝おうちょうについて「70にんおうが70日間にちかん統治とうちした[注釈ちゅうしゃく 3]」という記録きろくのこしている。これは文学ぶんがくてき修辞しゅうじであろうが、だい7王朝おうちょう統治とうち能力のうりょくひくさを端的たんてきあらわ文章ぶんしょうである[2]だい8王朝おうちょう若干じゃっかんおう小規模しょうきぼピラミッドのこしており、かれらが王国おうこく伝統でんとうごうとしていたことがわかる[3]若干じゃっかん学者がくしゃだい6王朝おうちょう以前いぜん王朝おうちょうだい7、だい8王朝おうちょう連続れんぞくせい重視じゅうしし、このりょう王朝おうちょう王国おうこく分類ぶんるいしている[4]。このふたつの存在そんざい不確ふたしかな王朝おうちょう崩壊ほうかいとともに王国おうこく以来いらいエジプトを統合とうごうしてきたメンフィスの政権せいけん命運めいうんきた[5]

だい9王朝おうちょうだい10王朝おうちょうぜん2160ねん-ぜん2040ねん[編集へんしゅう]

うえエジプトだい20けんヘラクレオポリス[注釈ちゅうしゃく 4])のしゅうこうによってあらたな政権せいけんてられた。このヘラクレオポリスの政権せいけんだい9だい10王朝おうちょうんでいる[6][7][8]。ヘラクレオポリス政権せいけん当初とうしょアスワンまでのぜんうえエジプトまで支配しはいおよぼしていた可能かのうせいがある[9]が、その南方なんぽうテーベ成立せいりつしただい11王朝おうちょうと1世紀せいき前後ぜんこうわたってエジプトの覇権はけんめぐってあらそった。最後さいごだい11王朝おうちょうメンチュヘテプ2せいによってほろぼされた。だい9、だい10王朝おうちょうふたつの王朝おうちょうについての記録きろくとぼしく、なぜマネトがふたつの王朝おうちょう分類ぶんるいしたのかもわかっていない[10]

だい11王朝おうちょうぜん2134-ぜん1991)[編集へんしゅう]

うえエジプトだい4けんのテーベでもまた、地元じもとしゅうこうちからをつけ自立じりつ勢力せいりょくきずいた。これがだい11王朝おうちょうとされる[11][12][13]。マネトはだい9からだい11まで、あたかも連続れんぞくてき王朝おうちょう成立せいりつしたかのようにばんしているが、実際じっさいにはだい10王朝おうちょうだい11王朝おうちょう存続そんぞく期間きかんだい部分ぶぶん重複じゅうふくしているとかんがえられる[14]。テーベにおこったこの政権せいけんヘラクレオポリスほうひとし周囲しゅうい対立たいりつする政権せいけん徐々じょじょあつだおし、うえエジプトの過半かはんをその支配しはいおさめた。メンチュヘテプ2せい即位そくいすると、国境こっきょう地帯ちたいきた反乱はんらんけにだい10王朝おうちょうり、ながたたかいのすえにこれをくだしてエジプトをふたた統一とういつした。このエジプトの統一とういつをもってだい1ちゅうあいだ終了しゅうりょうエジプトちゅう王国おうこくはじまりとされる[13]だい11王朝おうちょうはメンチュヘテプ2せい没後ぼつご20ねんあまりでわりをむかえたが、統一とういつ政権せいけんだい12王朝おうちょうがれた。

文学ぶんがく作品さくひんつたえるエジプトの思想しそうじょうの「革命かくめい[編集へんしゅう]

すうひゃくねん以上いじょうにわたってつづいた王国おうこく安定あんていうしなわれたこと、そしてそのおとずれた政治せいじ混乱こんらんはエジプトの社会しゃかい動揺どうようさせた。王国おうこく時代じだい王朝おうちょう交代こうたいとうしゅとして政府せいふ内部ないぶ事件じけんであったのとことなり、だい6王朝おうちょう末期まっき以降いこう混乱こんらん広範こうはん人々ひとびとたたかいをこした。こうした状況じょうきょうは「社会しゃかい革命かくめい」ともばれており、エジプトじん社会しゃかい思想しそう重大じゅうだい変化へんかもたらした[15]

当時とうじ雰囲気ふんいきつたえる文書ぶんしょとして『イプエルの訓戒くんかい[注釈ちゅうしゃく 5]ばれる文学ぶんがく作品さくひんられている。

きゅう秩序ちつじょ崩壊ほうかい社会しゃかい混乱こんらん指摘してきし、現状げんじょう変革へんかくなどを主張しゅちょうするこの文書ぶんしょには、同一どういつ導入どうにゅう反復はんぷくする形式けいしき沿ってエジプトの混乱こんらん描写びょうしゃされている。それによれば門番もんばん職人しょくにん洗濯せんたくみずからの仕事しごとをせず掠奪りゃくだつかけており、海上かいじょう支配しはいけんクレタじんうばわれ、しもエジプトには蛮族ばんぞく侵入しんにゅうして「エジプトじんとなった」[注釈ちゅうしゃく 6]掠奪りゃくだつしゃいたるところにあらわれ、ナイルが氾濫はんらんしても土地とちたがやすものもく、貴族きぞくたちはなげき、貧乏人びんぼうにんよろこびにちた。とみうしなわれ、死者ししゃミイラとするための材料ざいりょうく、うえエジプトは内戦ないせんのために租税そぜいおさめなくなった。老人ろうじん若者わかものも「んでしまいたい」とい、幼児ようじは「んでくれなければよかったのに」といい自殺じさつしゃがあふれた。呪文じゅもん民衆みんしゅうわたったために効力こうりょくうしない、おう民衆みんしゅうによってはいされ、貴婦人きふじんいかだうえ貴族きぞくたち強制きょうせい労働ろうどう従事じゅうじしていたという[18]

貧乏人びんぼうにんによる掠奪りゃくだつ貴族きぞく没落ぼつらく納税のうぜい停滞ていたいなどをなげくこの文書ぶんしょは、ふる有力ゆうりょくしゃ立場たちば代弁だいべんしたものであるとかんがえられるが、当時とうじのエジプトをおそっていた厭世えんせいてき雰囲気ふんいきをまざまざとることができる。また解釈かいしゃくめぐって議論ぎろんのある文書ぶんしょではあるが、『生活せいかつつかれたものたましいとの対話たいわ』とばれる文書ぶんしょでも「ぜんはいたるところで退しりぞけられ、あゆあくまるところがない。」とかたられている[19]

社会しゃかい正義まさよし[編集へんしゅう]

だい1ちゅうあいだ初頭しょとう混乱こんらん国家こっかとのむすびつきのつよ官吏かんり神官しんかんにもつよ衝撃しょうげきあたえた。かれらは文字もじあやつることのできる知識ちしき階級かいきゅうでもあり、創造そうぞうしんによってさだめられた宇宙うちゅう秩序ちつじょ(マート)の体現たいげんしゃたるおうつかえてマートの維持いじ貢献こうけんするならば、現世げんせいにおける成功せいこうあたえられるという理念りねんふるくよりっていた[15]。しかしだい1ちゅうあいだはいり、もはや旧来きゅうらいのような安定あんていした地位ちい維持いじ俸給ほうきゅう供物くもつ確保かくほ不可能ふかのうとなり、またかれらが信奉しんぽうした倫理りんり道徳どうとくてき価値かちかんうしなわれていくなかで、かれらの価値かちかん変容へんようせまられた[15]上述じょうじゅつの『イプエルの訓戒くんかい』においても批判ひはん矛先ほこさき従来じゅうらい絶対ぜったいてき存在そんざいとしてあつかわれていたおうやそのうえにいるかみ[注釈ちゅうしゃく 7]にさえけられることもあった。

一方いっぽうで、かみ々にたいする崇拝すうはいはなお思想しそう根幹こんかんでありつづけ、かみ正義せいぎ規定きていしゃでありつづけた。かみ正義せいぎとする前提ぜんていのもと、秩序ちつじょ維持いじする責任せきにん人間にんげんにあるとして、かみさだめた正義せいぎした秩序ちつじょ確立かくりつする最高さいこう責任せきにんしゃとしてのおう役割やくわり強調きょうちょうされるようになっていった。それを反映はんえいして従来じゅうらいかみ化身けしんであるとされたおうのための「教訓きょうくん」をべる文学ぶんがく成立せいりつした。だい10王朝おうちょうおうメリカラーたいする『メリカラーおうへの教訓きょうくん[注釈ちゅうしゃく 8]がそれである。

さらおうはマートを維持いじする義務ぎむうが、おうによって統治とうちされる人々ひとびとがわにもマートの実現じつげん要求ようきゅうする権利けんりがあり、むしろみずかすすんで要求ようきゅうしなければならないという主張しゅちょう成立せいりつした。不当ふとう財産ざいさんうばわれた農夫のうふ雄弁ゆうべんるってそれをかえす『雄弁ゆうべん農夫のうふ物語ものがたり』はまさにこうしたかんがえを全面ぜんめんした作品さくひんである[22]

葬祭そうさいの「民主みんしゅ」とオシリス信仰しんこう[編集へんしゅう]

王国おうこく時代じだいにおいて永遠えいえん来世らいせ観念かんねんすで成立せいりつしていたが、そのための手続てつづきはおうによって保証ほしょうされた。おう臣下しんか来世らいせ保障ほしょうするために臣下しんかはかたいしても供物くもつ供給きょうきゅうしていた。しかし中央ちゅうおう権力けんりょく瓦解がかいとともに、おうによる来世らいせ保障ほしょう説得せっとくりょくたなくなった。かつておうによって独占どくせんされていた葬祭そうさい儀礼ぎれい臣下しんかあいだにもひろがり、各人かくじん独自どくじ葬祭そうさい儀礼ぎれいおこなって来世らいせ保障ほしょうする努力どりょくおこなった。おう永生えいせい保障ほしょうするピラミッド・テキスト類似るいじした呪文じゅもん臣下しんかはかにもしるされるようになり、これはコフィン・テキストかんひつぎぶん)とばれている。こうしたうごきはやがて一般いっぱん民衆みんしゅうにまでおよんだ。この過程かてい葬祭そうさいの「民主みんしゅ」とばれている[23]

そしてこの時代じだいひろ普及ふきゅうするのがオシリス信仰しんこうである。オシリスしん起源きげんはわかっていない。伝統でんとうてきせつとして、アッシリアアッシュールかみ同一どういつ起源きげんつというせつや、オシリスをあらわヒエログリフ座席ざせきによって構成こうせいされるところから王権おうけん関連付かんれんづけるせつもある[24]ふるくよりオシリスしん登場とうじょうし、だい3王朝おうちょう時代じだいのレリーフにもあらわされているが、オシリスが本格ほんかくてき信仰しんこう対象たいしょうとして登場とうじょうするのはだい5王朝おうちょう末期まっき以降いこうである[24]だい5王朝おうちょうウナスおうのピラミッド・テキストにはオシリスがかみ々とともに登場とうじょうする。

オシリス信仰しんこう重要じゅうよう中心ちゅうしんとなったのがうえエジプトだい8けんにあるアビュドスである。このではふるくよりケンティアメンティウかみ[注釈ちゅうしゃく 9]ばれる死者ししゃかみまつられていたが、その主神しゅしんをオシリスしんゆずどういちされるようになった。「ひとねばだれもがオシリスしんとなり、復活ふっかつして来世らいせむかえる」というオシリス信仰しんこうは、おうやその周辺しゅうへん臣下しんかかぎられていた復活ふっかつ再生さいせい権利けんり一挙いっきょ大衆たいしゅうした。この思想しそう急速きゅうそくにエジプト全土ぜんどひろまり、だい1ちゅうあいだ以降いこうにはオシリスしんたいする信仰しんこうはエジプトの宗教しゅうきょうにおけるもっと重要じゅうよう要素ようその1つとなった[25]ふるくよりオシリスしん登場とうじょうし、だい3王朝おうちょう時代じだいのレリーフにもあらわされているが、オシリスが本格ほんかくてき信仰しんこう対象たいしょうとして登場とうじょうするのはだい5王朝おうちょう末期まっき以降いこうである[24]だい11王朝おうちょうによるエジプトのさい統一とういつむかえると人々ひとびとはこぞってアビュドスへの巡礼じゅんれいおこない、再生さいせい復活ふっかつ祈願きがんするようになった。このアビュドス巡礼じゅんれいはその長期ちょうきにわたって存続そんぞくしていくことになる[注釈ちゅうしゃく 10]

だい1ちゅうあいだ遺構いこう[編集へんしゅう]

ヒエラコンポリスしゅうこうアンクティフィのレリーフ
メンチュヘテプ2せい神殿しんでんおうはかあと

だい1ちゅうあいだはエジプトの分裂ぶんれつのために労働ろうどうりょく建材けんざい確保かくほ困難こんなんになったとられ、王国おうこく時代じだいピラミッド太陽たいよう神殿しんでん英語えいごばんのような大型おおがた建造けんぞうぶつ出土しゅつどれいすくない。まず王国おうこく時代じだい代表だいひょうてき建造けんぞうぶつであるピラミッドの建造けんぞうは、おそらくだい7、だい8王朝おうちょうというメンフィスの政権せいけんによって建設けんせつつづけられていた。だい8王朝おうちょうカカラーおう建設けんせつしたちいさなピラミッドがサッカラみなみから発見はっけんされており、内部ないぶからピラミッド・テキストも発見はっけんされている[2]。またヘラクレオポリス政権せいけんつかえたとられるしゅうこうたちのはか発見はっけんされている。ヒエラコンポリスしゅうこうであった貴族きぞくアンクティフィはか建造けんぞうぶつすくないこの時代じだい遺構いこうとしてとく貴重きちょうである。かれは「ならもの過去かこにも未来みらいにも出現しゅつげんしない」とはかしるし、その善政ぜんせいほこっている[6][27]

だい11王朝おうちょう初期しょきおうたちももちろんはか造営ぞうえいしており、テーベのエル=タリフにはアンテフ2せいはかがある。またかれカルナックにテーベの主神しゅしんアメン・ラーのための神殿しんでん建造けんぞうした[28]かれ建造けんぞうぶつ現存げんそんするもの仕上しあげのあら八角はっかくばしらきざまれたヒエログリフ銘文めいぶんのみであるが、このころから確認かくにんされはじめるアメンしんへの信仰しんこうは、テーベ政権せいけんによるエジプト制覇せいはによってエジプトの宗教しゅうきょう絶大ぜつだい影響えいきょうあたえていくことになる[28]

やがてだい11王朝おうちょうのメンチュヘテプ2せいによるエジプト統一とういつ建築けんちくにも画期的かっきてき変化へんかもたらした。ルクソール近郊きんこう発見はっけんされているメンチュヘテプ2せい葬祭そうさい殿どのはエジプトの分裂ぶんれつ時代じだいわり、ふたた強大きょうだい国家こっかとなったことをその巨大きょだいさによってつたえている。

気候きこう変動へんどう[編集へんしゅう]

ペピ2せい死後しご社会しゃかい混乱こんらんした時期じきには中東ちゅうとう全域ぜんいき長期ちょうきおよ乾燥かんそうはじまっており、エジプトではだい1ちゅうあいだとおして食糧難しょくりょうなん民衆みんしゅう支配しはいそうくるしめた。

グリーンランドのこおりとこアンデス山脈あんですさんみゃく氷河ひょうがから採取さいしゅされたコアの調査ちょうさにより、紀元前きげんぜん2200ねんごろ大量たいりょう火山灰かざんばい広範こうはん地域ちいきそそいだことがわかっている。これによりヨーロッパでは寒冷かんれい中東ちゅうとうでは乾燥かんそうがもたらされた。

おな時期じきエルニーニョ現象げんしょう発生はっせいし、アフリカからインド洋いんどよういていた季節風きせつふう非常ひじょうよわまり、エチオピア高原こうげん魃をもたらした。ナイルがわ水量すいりょう減少げんしょうし、かわ氾濫はんらんいきおいをよわめると深刻しんこく飢饉ききんき、長年ながねんわた社会しゃかい荒廃こうはい助長じょちょうすることになった。[29]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 古代こだいエジプトではセバトばれたが、ギリシア由来ゆらいするノモスの表記ひょうき慣習かんしゅうてきひろ普及ふきゅうしている。
  2. ^ マネトは紀元前きげんぜん3世紀せいきのエジプトの歴史れきしかれはエジプトじんであったが、ギリシアけい王朝おうちょうプトレマイオスあさつかえたためギリシア著作ちょさくおこなった。
  3. ^ アフリカヌスの引用いんようによる。エウセビオスばんでは5にんおうが75日間にちかんとする。
  4. ^ 古代こだいエジプト:ネン・ネスHwt-nen-nesu。「ヘラクレオポリス」というは、この都市としまつられていた地方ちほうしんヘリシェフギリシアじんハルサフェスび、名前なまえ類似るいじとうからヘラクレス同一どういつしたことによってけられたギリシアである。
  5. ^ この作品さくひんしるしたパピルスオランダライデン博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞうされている。『イプエルの訓戒くんかい』のうち現存げんそんするのは紀元前きげんぜん13世紀せいきから紀元前きげんぜん12世紀せいきころうつされたとかんがえられる写本しゃほんである。成立せいりつ年代ねんだいについてはなが議論ぎろんがあり、この文書ぶんしょいている状況じょうきょうだい2ちゅうあいだものであるとするせつもある[16]が、ここでは屋形やかたせつ[16]したがだい1ちゅうあいだ成立せいりつしたとする立場たちばっている。この作品さくひん現状げんじょう悲惨ひさんさをうったえるのみならず、変革へんかく秩序ちつじょある社会しゃかい実現じつげんするための叱責しっせきふくまれており、政治せいじろんてき色彩しきさいびた文書ぶんしょである。
  6. ^ 文書ぶんしょないでは「ひととなった。」と表記ひょうきされている。本当ほんとうの「ひと」とはエジプトじんのみであるとする伝統でんとうてき見解けんかい存在そんざいした[17]
  7. ^ 『イプエルの訓戒くんかい』の該当がいとうする部分ぶぶんでは明確めいかく非難ひなん対象たいしょうしるされてはいない。通常つうじょうしんあるいはおう相手あいてとすると解釈かいしゃくされる[20]
  8. ^ 『メリカラーおうへの教訓きょうくん』についてはエジプトだい10王朝おうちょう記事きじ参照さんしょう[21]
  9. ^ このかみは「西方せいほうにいる人々ひとびと死者ししゃ)のなか第一人者だいいちにんしゃ」という意味いみである。[25]
  10. ^ こアビュドス巡礼じゅんれいについて近藤こんどう二郎じろうは、キリスト教きりすときょうエルサレムへの聖地せいち巡礼じゅんれいや、イスラームきょうマッカ(メッカ)への巡礼じゅんれいのような、一神教いっしんきょうのものとはやや色合いろあいをことにし、むしろ日本にっぽん伊勢いせまいちかものであるとべている。[26]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

原典げんてん資料しりょう[編集へんしゅう]

  • ヘロドトス歴史れきし うえ松平まつだいら千秋ちあきわけ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1971ねん12月。ISBN 978-4-00-334051-6 
  • すぎ, いさむ三笠みかさみや, たかしひとし へん屋形やかたただしあきら わけ「イプエルの訓戒くんかい」『筑摩ちくま世界せかい文学ぶんがく大系たいけい1 古代こだいオリエントしゅう筑摩書房ちくましょぼう、1978ねん4がつ、450-462ぺーじISBN 978-4-480-20601-5 
  • 屋形やかたただしあきらやく ちょ生活せいかつつかれたものたましいとの対話たいわ」、すぎいさむ三笠みかさみやたかしじん へん筑摩ちくま世界せかい文学ぶんがく大系たいけい1 古代こだいオリエントしゅう筑摩書房ちくましょぼう、1978ねん4がつ、430-436ぺーじISBN 978-4-480-20601-5 
  • 屋形やかたただしあきらやく ちょ「メリカラーおうへの教訓きょうくん」、すぎいさむ三笠みかさみやたかしじん へん筑摩ちくま世界せかい文学ぶんがく大系たいけい1 古代こだいオリエントしゅう筑摩書房ちくましょぼう、1978ねん4がつ、519-526ぺーじISBN 978-4-480-20601-5 
  • 屋形やかたただしあきらやく ちょ雄弁ゆうべん農夫のうふ物語ものがたり」、すぎいさむ三笠みかさみやたかしじん へん筑摩ちくま世界せかい文学ぶんがく大系たいけい1 古代こだいオリエントしゅう筑摩書房ちくましょぼう、1978ねん4がつ、437-449ぺーじISBN 978-4-480-20601-5 
  • マネト 『エジプト[1]うち マネトーン断片だんぺんしゅう

資料しりょう[編集へんしゅう]