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ミノア文明ぶんめい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
クレタとうミノア文明ぶんめい地図ちず

ミノア文明ぶんめい(ミノアぶんめい)は、エーゲ文明ぶんめいのうち、クレタとうさかえた青銅器せいどうき文明ぶんめいのことである。伝説でんせつじょうミノスおうにちなみ、ミノス文明ぶんめいともばれるが、クレタ文明ぶんめいばれることもある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

クノッソス宮殿きゅうでん

紀元前きげんぜん2000ねんころ中期ちゅうきミノアに、地中海ちちゅうかい交易こうえきによって発展はってんし、クノッソスマリア英語えいごばんファイストスなど、島内とうない各地かくち地域ちいきごとの物資ぶっし貯蔵ちょぞうさい分配ぶんぱいおこな宮殿きゅうでんてられた。宮殿きゅうでん以外いがいにもコモスやパレカストロのような港湾こうわん都市とし繁栄はんえい。また、貿易ぼうえきつうじてエジプトフェニキア芸術げいじゅつ流入りゅうにゅうし、高度こうど工芸こうげいひんした。紀元前きげんぜん18世紀せいきごろには、せん文字もじA使用しようしている。

紀元前きげんぜん1600ねんころ後期こうきミノアには、かく都市とし国家こっか中央ちゅうおう集権しゅうけん階層かいそうすすみ、クノッソス、ファイストスが島中しまなかひさしを、マリアがしま東部とうぶをそれぞれ支配しはいするにいたったが木材もくざい大量たいりょう伐採ばっさいによる自然しぜん環境かんきょう破壊はかい文明ぶんめいそのものの衰退すいたいまね[1]紀元前きげんぜん1400ねんごろにミュケナイアカイアじんがクレタとう侵入しんにゅう略奪りゃくだつされミノア文明ぶんめい崩壊ほうかいした。

クレタの宮殿きゅうでん建築けんちく非対称ひたいしょうせい有機ゆうきてき機能きのうてき構成こうせいで、中庭なかにわ外部がいぶから直接ちょくせつ進入しんにゅうすることができ、かつ建物たてものかく部分ぶぶんへのどうせん起点きてんとなっている。建物たてものつね外部がいぶたいして開放かいほうされており、当時とうじのクレタが非常ひじょう平和へいわであったことが推察すいさつされる。

初期しょき宮殿きゅうでん建築けんちくでは、宮殿きゅうでんせっして市民しみん公共こうきょう空間くうかんもうけられていたが、後期こうきミノア時代じだい社会しゃかい体制たいせい中央ちゅうおう集権しゅうけん階層かいそうするとともに次第しだい公共こうきょう空間くうかんすたれ、建築けんちくぶつてられた。祭政さいせい一体いったいとしてっていたために、独立どくりつした祭儀さいぎじょうたない。

ミノア文明ぶんめいは、紀元前きげんぜん15世紀せいきなかばに突然とつぜん崩壊ほうかいした。その原因げんいんを、イギリスの考古こうこ学者がくしゃアーサー・エバンスらは、サントリーニとう巨大きょだい爆発ばくはつミノア噴火ふんか)にまれたとするせつとなえた[2]。しかし、アクロティリ英語えいごばん遺跡いせき調査ちょうさによってミノア文明ぶんめいほろんだのは、ミノア噴火ふんかより50ねんほどのちであり、サントリーニとう噴火ふんか直接ちょくせつ原因げんいんではないことがほぼ確定かくていしている[3]

ミノア文明ぶんめい以前いぜん[編集へんしゅう]

ミノア文化ぶんかにおけるへんねん
年代ねんだい 土器どきによるへんねん 文化ぶんか推移すいいによる区分くぶん
ぜん3650ねん-3000ねん EMI ぜん宮殿きゅうでん時代じだい
ぜん2900ねん-2300ねん EMII
ぜん2300ねん-2160ねん EMIII
ぜん2160ねん-1900ねん MMIA
ぜん1900ねん-1800ねん MMIB 古宮こみや殿どの時代じだい
(だい1宮殿きゅうでん時代じだい)
ぜん1800ねん-1700ねん MMII
ぜん1700ねん-1640ねん MMIIIA しん宮殿きゅうでん時代じだい
(だい2宮殿きゅうでん時代じだい)
ぜん1640ねん-1600ねん MMIIIB
ぜん1600ねん-1480ねん LMIA
ぜん1480ねん-1425ねん LMIB
ぜん1425ねん-1390ねん LMII しょ宮殿きゅうでん崩壊ほうかい時代じだい
(最終さいしゅう宮殿きゅうでん時代じだい)
ぜん1390ねん-1370ねん LMIIIA1
ぜん1370ねん-1340ねん LMIIIA2
ぜん1340ねん-1190ねん LMIIIB
ぜん1190ねん-1170ねん LMIIIC
ぜん1100ねん ミノア文化ぶんか

クレタとうでは文化ぶんかギリシャ本土ほんどキクラデス諸島しょとう並行へいこうしながら独自どくじ進化しんかげていた。そのため、本土ほんど島嶼とうしょ発掘はっくつされるソースボートはクレタとうではまれにしか発見はっけんされず、そのぎゃくにクレタとう発掘はっくつされるヴァシリキ様式ようしき(de)ティーポットは本土ほんど島嶼とうしょ発見はっけんされることはまれである[4]

そのため、初期しょき青銅器せいどうき時代じだいにキクラデス諸島しょとうでの文化ぶんか断絶だんぜつ発生はっせいしたにもかかわらず、クレタとうではその傾向けいこうられず、中期ちゅうき青銅器せいどうき時代じだいいたると宮殿きゅうでんきずかれるようになった。この青銅器せいどうき時代じだい文化ぶんか推移すいいについてクレタとうではゲ海げかいられる初期しょき中期ちゅうき後期こうき並行へいこうしたかたちぜん宮殿きゅうでん時代じだい古宮こみや殿どのだい1宮殿きゅうでん時代じだい新宮しんぐう殿どのだい2宮殿きゅうでん時代じだいしょ宮殿きゅうでん崩壊ほうかい最終さいしゅう宮殿きゅうでん、もしくはクレタのミケーネ)時代じだいという区分くぶんもちいられることがおお[5]。なお、かく時代じだい土器どき様式ようしき変化へんかともない、みぎひょうのように細分さいぶんされている。

ミノア文化ぶんか盛衰せいすいについては研究けんきゅうしゃのあいだでも議論ぎろんつづいており、こうへんねんものていへんねんものあいだで100ねんほどのている。ミノア文化ぶんかについてあきらかにするにはせん文字もじA解読かいどく宮殿きゅうでんからられる情報じょうほう整理せいり宮殿きゅうでん周囲しゅうい都市としやヴィラ、聖域せいいきなども考慮こうりょして研究けんきゅうすることが必要ひつようであるとされており、研究けんきゅうつづいている[6]

ぜん宮殿きゅうでん時代じだい[編集へんしゅう]

土器どき様式ようしき[編集へんしゅう]

ヴァシリキ様式ようしき土器どき

この細分さいぶんされたへんねんぜん宮殿きゅうでん時代じだいぞくするEMI、EMII、EMIII(初期しょき青銅器せいどうき時代じだい)、MMIA(中期ちゅうき青銅器せいどうき時代じだい初期しょき)のにおいて、EMIはピュルゴス土器どきばれる部分ぶぶんてきみがかれた装飾そうしょくられるはい黒色こくしょく土器どき、または水差みずさしが発見はっけんされることのおお白色はくしょくあかせんえがかれたアイオス・オヌフリオス土器どき代表だいひょうとなる[5]

EMIIはさらにAとBに細分さいぶんされており、Aのほうではクウマサ土器どきばれるアイオス・オヌフリオス土器どき発展はってんしたあやぶん土器どきこくぶんられた灰色はいいろ土器どきられる。それにたいしてBではヴァシリキ土器どきおおられる。このヴァシリキ土器どきはクレタ東部とうぶおお分布ぶんぷしており、うつわ外面がいめんみがかれくろあか光沢こうたくがあるまだらられるのが特徴とくちょうである[5]

EMIIIでは黒地くろじしろ文様もんようえがかれているが、この特徴とくちょうはMMIAにもがれており、MMIAでは赤色あかいろがこれにくわわっている[7]

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

ぜん宮殿きゅうでん時代じだい代表だいひょうてき遺跡いせきとしてミルトスのフルヌウ・コリフィ遺跡いせきげられるが、この遺跡いせきはEMIIに所属しょぞくする。この遺跡いせきはEMII末期まっきやきこわしたのち定住ていじゅうしゃあらわれなかったために当時とうじ様相ようそうのこしている[8]

この遺跡いせき計画けいかくてきてられたものではなく、家々いえいえちいさな部屋へや構成こうせいされているが、その時代じだい形成けいせいされた宮殿きゅうでんのような大型おおがた貯蔵庫ちょぞうこおぼしきものが発見はっけんされている。また、遺跡いせき周辺しゅうへんには膨大ぼうだいかずいしさら発見はっけんされており、当時とうじ、この遺跡いせき穀物こくもつこなにされていたことが想像そうぞうされている[8]

埋葬まいそうについては共同きょうどう墓地ぼちなに世代せだいもの人々ひとびとほうむられており、クレタ中部ちゅうぶのメサラ平野へいやられるトロス、クレタとうのモクロスとうられる長方形ちょうほうけい施設しせつ存在そんざいする。ただし、このトロスはミケーネ時代じだいのように地下ちかではなく地上ちじょうつくられている。また、アルハネスのトロスCではキクラデス文化ぶんか石偶せきぐう発見はっけんされており、クレタとうゲ海げかい島嶼とうしょ交流こうりゅうしていたことがうかがえる[9]

そのぜん2000ねんごろになるとクレタとうにおけるミノア文化ぶんか特徴とくちょうづける宮殿きゅうでん成立せいりつすることになる。これらの宮殿きゅうでん計画けいかくてき建設けんせつされており、また、規格きかくもなされている。そのため、フルヌウ・コリフィの集落しゅうらくのように自然しぜん発生はっせいしたものではなく、クノッソス、マリア、フェストスザクロス発見はっけんされたそれぞれの宮殿きゅうでん基本きほんてき同一どういつ構造こうぞうである。これらの宮殿きゅうでん規格きかく構造こうぞう同一どういつであることはなんらかの人物じんぶつ主導しゅどうしたと想像そうぞうされており、この宮殿きゅうでん成立せいりつによってミノア文化ぶんか人々ひとびと支配しはいするがわ支配しはいされるがわ分化ぶんかはじまっていたとおもわれる。

また、宮殿きゅうでん中央ちゅうおう長方形ちょうほうけい広場ひろば形成けいせいされ、その周囲しゅうい各種かくしゅ機能きのうになうブロックが配置はいちされているが、この西側にしがわにはさらに広場ひろば構築こうちくされている。この西側にしがわ広場ひろばから宮殿きゅうでんたときに宮殿きゅうでんもっと威容いようつようにされており、ここにも分化ぶんか傾向けいこう暗示あんじされている。

古宮こみや殿どの時代じだい[編集へんしゅう]

土器どき様式ようしき[編集へんしゅう]

カマレス土器どき

この時代じだいカマレス土器どきばれるしろ、クリームしょくあか、オレンジしょく大胆だいたん抽象ちゅうしょうてき文様もんようえがかれた土器どきまれる。また、MMIBはいるとろくろが導入どうにゅうされたと想像そうぞうされており、その技術ぎじゅつはかなり向上こうじょうしている。これらのたか技術ぎじゅつ宮殿きゅうでん成立せいりつともなってせいすえ専門せんもんされたことによりまれたとかんがえられている[10]

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

クノッソスの宮殿きゅうでん最古さいこはMMIBにぞくしているが、この時期じき宮殿きゅうでん完成かんせいされたわけではなく、北西ほくせい西側にしがわ貯蔵庫ちょぞうこ最初さいしょ構築こうちくされ、その東側ひがしがわ建物たてもの構築こうちくされたとかんがえられている。西側にしがわ広場ひろばではクールーレスとばれる円形えんけいのピットがみっられており、これらは穀物こくもつ地下ちか貯蔵ちょぞうしていたとされている。また、さい西部せいぶではオリおりブ油ぶゆワインなどが貯蔵ちょぞうされており、宮殿きゅうでん構築こうちく当初とうしょから農産物のうさんぶつ貯蔵ちょぞう使用しようされていたことがうかがえる。また、中央ちゅうおう広場ひろば東部とうぶでは土器どき補完ほかん紡績ぼうせき作業場さぎょうばとして使用しようされていたことが推測すいそくされており、これらの発展はってんはメサラ平野へいやのフェストス宮殿きゅうでんでもることができ、フェストスでは古宮こみや殿どの時代じだいはフェイズ1、フェイズ2、フェイズ3のさん段階だんかいけられているが、それぞれのフェイズで貯蔵庫ちょぞうこ加工かこうとしての性格せいかく進行しんこうしている。

クノッソスの宮殿きゅうでんにおける祭祀さいし行政ぎょうせい中核ちゅうかく宮殿きゅうでん西にしつばさ東部とうぶおこなわれており、このなかでも重要じゅうよう箇所かしょである「玉座ぎょくざあいだ」は過去かこにミケーネ時代じだい(LMII)にいたってから構築こうちくされていたとおもわれていたが、その研究けんきゅう結果けっか、この時代じだい構築こうちくされたことがあきらかになっている[# 1]。このようにクノッソスでは祭祀さいし施設しせつ宮殿きゅうでん内部ないぶ構築こうちくされていたが、マリアの宮殿きゅうでんでは宮殿きゅうでんがいのMu地区ちく(Quartier Mu)とばれるふくあい施設しせつ構築こうちくされている[# 2]

これら宮殿きゅうでん時代じだい宮殿きゅうでんこうへんねんではまえ1780ねん地震じしんすべ崩壊ほうかいしたとかんがえられている。しかし、その崩壊ほうかいした宮殿きゅうでんうえ同様どうよう計画けいかくをもってより規模きぼ拡大かくだいしたうえで再建さいけんされている[11]

しん宮殿きゅうでん時代じだい[編集へんしゅう]

土器どき[編集へんしゅう]

海洋かいよう文様もんようえがかれた土器どき

しん宮殿きゅうでん時代じだいいたると土器どきフェイズではMMIIIからLMIBに分類ぶんるいされるが、この時代じだいにミノア文化ぶんか最盛さいせいむかえる。MMIIIはいるとカマレス土器どきはあまりられなくなり、そのわりに亀甲きっこう波状はじょうぶんほどこされたものがあらわれはじめる。さらに土器どき形状けいじょう様々さまざまなものがまれはじめ、後期こうき青銅器せいどうき時代じだいられる土器どき導入どうにゅうされた技術ぎじゅつまれはじめているのがMMIIIの特徴とくちょうでもある[12]

LMIAはいると明色めいしょく暗色あんしょくあかちゃ)で水平すいへい方向ほうこう渦巻うずまき草花くさばなえがくことが普及ふきゅうしはじめる。草花くさばなぶんはカマレス土器どきにもえがかれることがあったが、LMIAはそれとちがい柔軟じゅうなん自然しぜん主義しゅぎてき文様もんようおおく、これはフレスコにも共通きょうつうしている[# 3][13]

LMIBにはいるとあらたに「宮殿きゅうでん伝統でんとう」として高度こうど芸術げいじゅつせいった精製せいせい土器どきぐんあらわれる。この土器どきには海洋かいよう文様もんようしき草花くさばな文様もんようしき抽象ちゅうしょう文様もんようしき交互こうご様式ようしきの4様式ようしきられる[13]

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

クノッソス宮殿きゅうでん平面へいめん

古宮こみや殿どの時代じだいいち崩壊ほうかいしたクノッソスの宮殿きゅうでんもそのうえあらたに宮殿きゅうでん再建さいけんされた。この再建さいけん同時どうじおこなわれたものではなく、徐々じょじょ造営ぞうえいされたとかんがえられている。この再建さいけんに「玉座ぎょくざあいだ」も玉座ぎょくざつくられ、それをくベンチもつくられたとかんがえられるが、この玉座ぎょくざつくられた経緯けいい、その機能きのうについては現在げんざい議論ぎろんつづいている[14]

玉座ぎょくざあいだかべにはグリフォンがえがかれている

ただし、玉座ぎょくざ背後はいごかべには一対いっついグリフォンえがかれているが、この一対いっついのグリフォンが印章いんしょうなどにえがかれていた場合ばあい女性じょせいまもえがかれることがおおいことからこの玉座ぎょくざすわって宗教しゅうきょうてき、もしくは世俗せぞくてき行為こういおこなったのが女性じょせいであった可能かのうせいたかい。また、「玉座ぎょくざあいだ」の南側みなみがわには宮殿きゅうでんにおける信仰しんこう中心ちゅうしんであったとかんがえられている神聖しんせい円柱えんちゅうふく祭祀さいし施設しせつ構築こうちくされており、さらにそのおくがわには神聖しんせい供物くもつ保管ほかんする地下ちか格納庫かくのうこ構築こうちくされていた[14]

この地下ちか格納庫かくのうこでは陶製とうせいへび女神めがみぞうせん文字もじAがきざまれた粘土ねんどばん出土しゅつどしているが、これらのものがおな場所ばしょ出土しゅつどしたことは祭祀さいし行政ぎょうせいかたむすばれていたことをしめしていたとおもわれる[11]

うしびの儀式ぎしき

しん宮殿きゅうでんでも中央ちゅうおう広場ひろば構築こうちくされており、この広場ひろばではうしびの儀式ぎしきおこなわれた場所ばしょとされているが、これには異論いろん存在そんざいしており、西側にしがわ広場ひろばおこなわれていたものをえがいたとおもわれるフレスコ中央ちゅうおう広場ひろばおこなわれていたものをえがいたフレスコではえがかれた若者わかもの服装ふくそう髪型かみがたちがいがられるが、これはこの広場ひろば運動うんどうじょうであったわけではなく、集会しゅうかいじょう、いわゆる古代こだいギリシャにおいておこなわれたアゴラ暗示あんじするものとかんがえられている[15]

宮殿きゅうでん[編集へんしゅう]

ミノア文化ぶんか宮殿きゅうでん各地かくちからあつまる物資ぶっし貯蔵ちょぞう加工かこうおこない、それをさい分配ぶんぱいするシステムの中心ちゅうしんであった。マリアやザクロスでは宮殿きゅうでん中心ちゅうしんまち形成けいせいされている。ただし、ザクロスの場合ばあいうみめんした地域ちいき港湾こうわん都市とし形成けいせいされ、その宮殿きゅうでん形成けいせいされたと推測すいそくされている。グルニア、コモス、パレカストロでは宮殿きゅうでんとはべつ箇所かしょまち形成けいせいされている。とくにパレカストロではまち規模きぼ宮殿きゅうでん上回うわまわっており、街道かいどう中心ちゅうしん形成けいせいされている。また、発掘はっくつすすめられているコモスも港湾こうわん都市としであり、宮殿きゅうでんどう規模きぼまち発見はっけんされている[16]

しん宮殿きゅうでん時代じだいいたると都市としとはべつにヴィラとばれる孤立こりつ家屋かおく普及ふきゅうはじめる。ヴィラは複数ふくすう部屋へや構成こうせいされる一軒屋いっけんや、もしくは複数ふくすう家屋かおくぐん構築こうちくされていることがあるが、これらは宮殿きゅうでんおなじように物資ぶっし貯蔵ちょぞう施設しせつがあり、アルハネスみなみのヴァシペトロのヴィラではワイン、オリおりブ油ぶゆ製造せいぞうする遺構いこう発見はっけんされており、さらにこのヴィラは円柱えんちゅうをめぐらしたけの2かい部分ぶぶんにバルコニーがついたものが発掘はっくつされており、これは当時とうじ姿すがたをよくつたえている[17]

ミノア文化ぶんか多神教たしんきょうであったが、宮殿きゅうでん信仰しんこう中心ちゅうしんでもあった。各地かくち宮殿きゅうでん祭祀さいしかかわる施設しせつつくられ、おおくの宮殿きゅうでんには聖域せいいき構築こうちくされており、そこには『きよしべつかく』がかざられていた[# 4]

発掘はっくつ[編集へんしゅう]

アーサー・エヴァンス

ミノア文明ぶんめい発掘はっくつ1884ねん、クレタとうおとずれたイタリア研究けんきゅうハルブヘルによる、ぜん5世紀せいきあらわされたとされるゴルテュン法典ほうてん発見はっけん嚆矢こうしとなった。

そのイギリス考古こうこ学者がくしゃであるアーサー・エヴァンズは、エジプトやメソポタミアれいかぎり、ハインリヒ・シュリーマン発見はっけんしたトロイアミュケナイにおける高度こうど文明ぶんめい文字もじなしには成立せいりつないとかんがえ、アテネ店先みせさきたクレタとう起源きげん護符ごふのような印章いんしょう象形しょうけい文字もじおもわれる記号きごうがあったことからクレタとうかった[19]

エヴァンスはクレタ全域ぜんいき踏破とうはしたのち、ギリシャじんミノス・カロケリノスが1878ねん発見はっけんしたケファラのおか発掘はっくつさだめた。エヴァンスにとって幸運こううんなことに1900ねんにクレタとうオスマン帝国ていこくからギリシャりょうとなっていたことやミロスとうのフィラコピ遺跡いせきたずさわっていたマッケンジーの協力きょうりょくたことにより発掘はっくつ順調じゅんちょうすすんだ[20]

1900ねん、クノッソス宮殿きゅうでん発掘はっくつされギリシャ本土ほんどより200ねん以上いじょうまえにギリシャをいろどった文明ぶんめい痕跡こんせき発見はっけんされた。エヴァンスはこれをミノア文明ぶんめい(Minoan)と名付なづけた[21]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ただし、現在げんざいることのできる玉座ぎょくざやベンチがあったわけではなく、「みずはらいあいだ」とばれるミノア文化ぶんか独自どくじ祭祀さいし施設しせつ中心ちゅうしん構成こうせいしていたとかんがえられている[11]
  2. ^ 印章いんしょう粘土ねんどばん発掘はっくつされており、行政ぎょうせい中心ちゅうしんであった可能かのうせい存在そんざいする[11]
  3. ^ まとまった資料しりょう出土しゅつどする場所ばしょとしてLMIA土器どきサントリーニ(テラ)しまアクロティリ英語えいごばん遺跡いせきげられる[13]
  4. ^ この『きよしべつかく』と『そうおの』(ラブリュス)はミノア文化ぶんかにおける特別とくべつ象徴しょうちょうであったとおもわれる[18]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ いし弘之ひろゆきちょ歴史れきしえた火山かざん噴火ふんか自然しぜん災害さいがい環境かんきょうー』かたなすい書房しょぼう 2012ねん 66ページ
  2. ^ いし弘之ひろゆきちょ歴史れきしえた火山かざん噴火ふんか自然しぜん災害さいがい環境かんきょうー』かたなすい書房しょぼう 2012ねん 65ページ
  3. ^ 出典しゅってん : 小山こやま真人まさと『ヨーロッパ火山かざん紀行きこう』ちくま新書しんしょ、1997ねん、33ぺーじ
  4. ^ しゅうふじ (1997-a)、pp.78-79
  5. ^ a b c しゅうふじ (1997-a)、p.79
  6. ^ しゅうふじ (1997-a)、p.84.
  7. ^ しゅうふじ (1997-a)、p.80
  8. ^ a b しゅうふじ (1997-a)、p.81
  9. ^ しゅうふじ (1997-a)、p.82
  10. ^ しゅうふじ (1997-a)、pp.84-85
  11. ^ a b c d しゅうふじ (1997-a)、p.87
  12. ^ しゅうふじ (1997-a)、pp.87-88
  13. ^ a b c しゅうふじ (1997-a)、p.88
  14. ^ a b しゅうふじ (1997-a)、p.89
  15. ^ しゅうふじ (1997-a)、p.90
  16. ^ しゅうふじ (1997-a)、pp.91-92
  17. ^ しゅうふじ (1997-a)、pp.92-93
  18. ^ しゅうふじ (1997-a)、p.93
  19. ^ しゅうふじ (1997-a)、pp.75-77
  20. ^ しゅうふじ (1997-a)、pp.77-78
  21. ^ しゅうふじ (1997-a)、p.78

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • しゅうふじ芳幸よしゆきちょ世界せかい考古学こうこがく3ギリシアの考古学こうこがくどうなりしゃ、1997ねんISBN 4-88621-152-6 しゅうふじ (1997-a)と表記ひょうき
  • しゅうふじ芳幸よしゆきちょしょ文明ぶんめい起源きげん 7古代こだいギリシア 地中海ちちゅうかいへの展開てんかい京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2006ねんISBN 4-87698-816-1 
  • J・チャドウィックちょ 大城おおしろいさおやくせん文字もじBの解読かいどくだい2はん』みすず書房しょぼう、1997ねんISBN 4-622-05015-3 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]