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古代ギリシアの彫刻 - Wikipedia コンテンツにスキップ

古代こだいギリシアの彫刻ちょうこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
パルテノン神殿しんでんフリーズ彫刻ちょうこく紀元前きげんぜん440ねんころ

古代こだいギリシアの彫刻ちょうこく(こだいギリシアのちょうこく、えい:Ancient Greek sculpture)では、古代こだいギリシア時代じだい制作せいさくされた彫刻ちょうこくについて説明せつめいする。

現代げんだい学芸がくげいいんは、文献ぶんけんとぼしい暗黒あんこく時代じだいからヘレニズム時代じだいまで、古代こだいギリシア彫刻ちょうこくいくつかの区分くぶんけて識別しきべつしている。すべての時代じだいで、大量たいりょうテラコッタせい人物じんぶつぞう金属きんぞく素材そざいつくられた少数しょうすう彫刻ちょうこく存在そんざいした。

ギリシアじんは、芸術げいじゅつ追究ついきゅうにとって人間にんげん姿すがたがたもっと重要じゅうよう主題しゅだいであると、ごく早期そうき決定けっていした[1]かれらのかみ々が人間にんげん姿すがたがたになっていることをても、芸術げいじゅつにおいてせいなるものと世俗せぞくてきなものの区別くべつはほとんどなく、ヒトの肉体にくたい世俗せぞくてきかつ神聖しんせいなものだった。アポローンまたはヘラクレス男性だんせい裸体らたいぞうは、そのとし古代こだいオリンピックのボクシング優勝ゆうしょうしゃのもので、表現ひょうげん方法ほうほうにわずかなちがいがられる程度ていどである。彫像ちょうぞう元々もともと単体たんたいだったが、ヘレニズム時代じだいでは集団しゅうだんのものが支配しはいてきかたちとなった。レリーフ彫刻ちょうこくは、「たかい」位置いちのためかれらがほぼ自立じりつしているようで、やはり重要じゅうようされた。

素材そざい

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天然てんねん大理石だいりせき

古典こてん(およそ紀元前きげんぜん5世紀せいきと4世紀せいき)まで、記念きねんてき彫刻ちょうこくのほぼすべてが大理石だいりせきまたは青銅せいどう(ブロンズ)でできていた。5世紀せいき初頭しょとうまでに主要しゅよう作品さくひんにとってブロンズ鋳造ちゅうぞうひんこのまれる素材そざいになった。ローマ市場いちばけにつくられた大理石だいりせき複製ふくせいひんだけがられている彫刻ちょうこくおおくは、もともとブロンズせいだったとされる。様々さまざま素材そざいからなる少数しょうすう作品さくひんは、それらのおおくが貴重きちょうであり、非常ひじょう大量たいりょう生産せいさんのテラコッタの人物じんぶつぞう一緒いっしょつくられた。シチリアとうやイタリア南部なんぶのぞき、古代こだいギリシアの領土りょうどには大理石だいりせき豊富ほうふしなそろえがあり、ペンテリコさんパロスとう大理石だいりせき現在げんざいマケドニア共和国まけどにあきょうわこくプリレプからのととも最高さいこう評価ひょうかとされた。青銅せいどう鉱石こうせき比較的ひかくてき入手にゅうしゅしやすかった[2]大理石だいりせきは、ほとんどがパルテノン神殿しんでん主要しゅようなギリシアの建物たてもの周辺しゅうへん発見はっけんされた。

赤絵あかえしきキュリクスられる、彫刻ちょうこく作業場さぎょうばおとずれるアテーナー紀元前きげんぜん480ねん)。州立しゅうりつ古代こだい美術びじゅつ博物館はくぶつかん英語えいごばん

大理石だいりせき青銅せいどうはどちらも成形せいけいしやすく、耐久たいきゅうせいがある。わたしたちはほとんどらないがアクロリス英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 1]以外いがいにも、ほとんどの古代こだい文化ぶんかにおいて彫刻ちょうこく伝統でんとううたがいようもない。青銅せいどうにはつね重要じゅうよう解体かいたい価値かちがあるため、オリジナルの青銅せいどうはほとんど現存げんそんしていない、とはいえ近年きんねん海洋かいよう考古学こうこがくトロールもうげではアルテミシオンのブロンズぞう英語えいごばんリアーチェのブロンズぞう英語えいごばんなどいくつかの素晴すばらしい発見はっけんがあり、これらが現代げんだい理解りかいおおきくひろげている。ローマ時代じだい紀元前きげんぜん30ねん-紀元きげん450ねん)のおおくのコピーは、元々もともとはブロンズせいだった作品さくひん大理石だいりせきばんである。アルカイックには普通ふつう石灰岩せっかいがん使つかわれ、しかしその建築けんちく彫刻ちょうこく装飾そうしょくのためだけに使つかわれた(現在げんざいのイタリア地域ちいきのぞく)。たまに漆喰しっくいスタッコかみだけに使用しようされていた[3]

神殿しんでん偶像ぐうぞう豪華ごうか作品さくひん使つかわれるクリセラファンティーネ英語えいごばん彫刻ちょうこくには金箔きんぱく使用しようされ、姿すがたがた部分ぶぶんかお)は象牙ぞうげで、おそらくは宝石ほうせき素材そざいもあっただろうが、さほど一般いっぱんてきではなく断片だんぺんだけが現存げんそんしている。おおくの彫像ちょうぞうには、けるためのあなから宝石ほうせきえられ、武器ぶきまたはことなる材質ざいしつべつ物体ぶったいにぎっていた[4]

勝利しょうりした若者わかものぞう(The Victorious Youth)」(紀元前きげんぜん310ねんごろ)。ざらしでの保存ほぞんだったコントラポストポーズのブロンズぞう

着色ちゃくしょく

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今日きょうではしろいギリシア彫刻ちょうこくも、元々もともと塗装とそうされていた[5][6][7]いろ復元ふくげんしたトロイアゆみへいぞう

古代こだいギリシア彫刻ちょうこく元々もともとあかるいいろられていたが、もと色素しきそ劣化れっかしたため今日きょうではしろ状態じょうたいあらわれる[5][6][7]着色ちゃくしょくされた彫刻ちょうこくへの言及げんきゅうは、エウリピデスちょヘレネ』をはじめ古典こてん文献ぶんけん全体ぜんたいとおしてつかっている[5][6]一部いちぶ良好りょうこう保存ほぞん状態じょうたい彫像ちょうぞうには、元々もともと彩色さいしき痕跡こんせきのこっており、考古こうこ学者がくしゃはそれらを元々もともとあったように再現さいげんすることが可能かのうである[5][6][7]

19世紀せいき初頭しょとうまでに、古代こだいギリシア遺跡いせき体系たいけいてき発掘はっくつは、表面ひょうめん多彩たさい痕跡こんせきのこした彫刻ちょうこく数多かずおおくもたらし、その一部いちぶいまでもることができる。それにもかかわらず、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンをはじめ影響えいきょうりょく美術びじゅつ史家しかたちがギリシア彫刻ちょうこく着色ちゃくしょくされていたとの見解けんかい強硬きょうこう反対はんたいし、塗装とそうされた彫像ちょうぞう支持しじしゃたちを変人へんじんだとして追放ついほうしてしまった。そしてかれらの(着色ちゃくしょくされていたとの)見解けんかいは、1世紀せいき以上いじょうにわたってほぼ完全かんぜん却下きゃっかされてしまった。だいえい博物館はくぶつかんにあるエルギン・マーブルではいろ痕跡こんせき研磨けんましてしろにしてしまう行為こういまでおこなわれ、1939ねん彫刻ちょうこくのスキャンダルとしてBBCにほうじられた[8]

20世紀せいき後半こうはんから21世紀せいき初頭しょとうになってようやく、ドイツの考古こうこ学者がくしゃヴィンツェンツ・ブリンクマン英語えいごばんによって発表はっぴょうされたことで、古代こだいギリシア彫刻ちょうこく着色ちゃくしょく確定かくていされた事実じじつになった。こう輝度きど照明しょうめい紫外線しがいせん特殊とくしゅカメラ、石膏せっこう鋳型いがた特定とくてい粉末ふんまつ鉱石こうせき使つかって、ブリンクマンは建物たてもの構造こうぞう彫像ちょうぞうふくパルテノン神殿しんでん全体ぜんたいが、かつて塗装とそうされていたことを証明しょうめいした。かれもと塗料とりょう色素しきそ分析ぶんせきして、その組成そせいめた。

ブリンクマンは着色ちゃくしょくしたギリシア彫刻ちょうこくレプリカいくつかつくって、世界せかい各地かくちめぐった。また、そのなかにはギリシア・ローマ彫刻ちょうこく以外いがい作品さくひんのレプリカもあり、かれはギリシア・ローマ美術びじゅつ例外れいがいなのではなく、彫刻ちょうこく着色ちゃくしょくする作業さぎょう普遍ふへんてきであることをしめしてせた[9]。この展覧てんらんかい主催しゅさいした博物館はくぶつかんには、ミュンヘングリプトテク美術館びじゅつかんヴァチカン美術館びじゅつかんアテネ国立こくりつ考古学こうこがく博物館はくぶつかんなどがある。この着色ちゃくしょくぞうたちは、2007ねんあきハーバード大学だいがくでも公開こうかいされた[10]

ブリンクマンは「古代こだい芸術げいじゅつほか側面そくめんは、神殿しんでん多彩たさい絵画かいが彫刻ちょうこくほど理解りかいされてはいない」とべ、表向おもてむきはギリシア彫刻ちょうこく触発しょくはつされたとする塗装とそう現代げんだい彫刻ちょうこくは「まったあたらしいもの」だとかたった[11]

ギリシア彫刻ちょうこく発展はってん

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幾何きかがく文様もんよう

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一般いっぱんに、ギリシア彫刻ちょうこく最初さいしょ具現ぐげん木彫きぼりの偶像ぐうぞうだとかんがえられており、パウサニアスにより最初さいしょは「xoana」と記述きじゅつされた[12][注釈ちゅうしゃく 2]。そうした木像もくぞうはほとんど現存げんそんしておらず、おそらくなんひゃく年間ねんかんにわたって崇拝すうはい対象たいしょうだったのだろうが、その記述きじゅつ曖昧あいまいである。収集しゅうしゅうされることになったギリシア彫刻ちょうこく最初さいしょ欠片かけらは、おそらくレフカンディ英語えいごばんケンタウロス(Lefkandi Centaur)で、これはエヴィアとう発見はっけんされた紀元前きげんぜんやく920ねんとされるテラコッタの彫像ちょうぞうである。この彫像ちょうぞうはパーツに分解ぶんかいされ、2つのはかけて埋葬まいそうされていた。このケンタウルスはひざうえ意図いとてきしるしがあり、この彫像ちょうぞう多分たぶんヘラクレス負傷ふしょうしてひざちとなっているケイローン姿すがたえがいたものではないか、と研究けんきゅうしゃたちは主張しゅちょうした[13]。もしそうなら、これはギリシア彫刻ちょうこく歴史れきしにおいてられている神話しんわ最初さいしょ描写びょうしゃであろう。

幾何きかがく文様もんよう紀元前きげんぜん900ねんごろからどう700ねんごろ)の形態けいたいおもにテラコッタの人物じんぶつぞう、ブロンズぞう象牙ぞうげぞうだった。ブロンズはおもさんほんあし大釜おおかま(tripod cauldrons)と自立じりつした人物じんぶつぞうである。こうしたブロンズぞうおそらくシリアから導入どうにゅうされたロストワックス技術ぎじゅつもちいてつくられたもので、ヘレニズム文明ぶんめいにおいてオリンピアデロスとうデルポイぜんギリシア聖域せいいきのこされていたほぼすべての奉納ほうのうひんである(とはいえ、アテネアルゴススパルタからの発見はっけんにより地域ちいきスタイルがかると、場所ばしょ製造せいぞうされていたかもしれない)。

この時代じだい典型てんけいてき作品さくひんには、カルディツァ戦士せんし(Karditsa warrior, 12831)や小型こがた騎馬きばぞうたとえば、Equestrian statue, 21.88.24)がおおふくまれる。このブロンズ作品さくひんのレパートリーはっている男性だんせいうまかぎられているわけではなく、当時とうじ花瓶かびんには、牡鹿おじかとり、カブトムシ、ウサギ、グリフォン、ライオンのイメージもえがかれている。紀元前きげんぜん7世紀せいき初頭しょとうテーバイにてマンティクロスのアポローン(Mantiklos "Apollo", 03.997)が出現しゅつげんするまで、初期しょきから中間ちゅうかん幾何きかがく文様もんよう彫刻ちょうこくには碑文ひぶんがない。その全身ぜんしんぞうは、疑似ぎじダイダロス様式ようしき(pseudo-daedalic form)[注釈ちゅうしゃく 3]っている男性だんせいで、そのした碑文ひぶん "Μαντικλος μみゅー' ανεθε̅κかっぱεいぷしろん ϝεκαβολο̅ιいおた αργυροτοχσο̅ιいおた τας {δでるた}δでるたεいぷしろん-κατας· τたうυうぷしろん δでるたεいぷしろん Φふぁいοおみくろんιいおたβべーたεいぷしろん δでるたιいおたδでるたοおみくろんιいおた χαριϝετταν αμοιϝ[αあるふぁνにゅー]"のヘクサメトロスかれている。ラテン語らてんご文章ぶんしょうは"Mantiklos manetheke wekaboloi argurotoxsoi tas dekatas; to de Foibe didoi xariwettan amoiw [an]"とめて、抄訳しょうやくすると「マンティクロスはぎんゆみのアポローンにすこしばかりの寄付きふとしてみずからをささげました。あなたはよろこんでおかえしをなにほどこしてくれますか、ポイボス(アポローン)」となる。この碑文ひぶんはアポローン彫像ちょうぞう宣誓せんせいであり、その恩返おんがえしの要請ようせいがある。みずからの目的もくてき記録きろくするという斬新ざんしんさとはべつに、この彫刻ちょうこくは、よりみじか三角形さんかっけいかおとわずかにまえした左足ひだりあしられるように、東洋とうようのブロンズぞう様式ようしき適合てきごうしている。これはたまに、紀元前きげんぜん7世紀せいき表現ひょうげん自由じゆうがよりひろがる予兆よちょうだとなされており、そのため、マンティクロスの人物じんぶつぞう原始げんしダイダロス様式ようしき(proto-Daedalic)として言及げんきゅうされることがある。

アルカイック

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クレオビスとビトンアルカイック青年せいねん裸身らしん立像りつぞう(クーロスぞう)、紀元前きげんぜん 580ねんごろデルポイ考古学こうこがく博物館はくぶつかん英語えいごばん

エジプトメソポタミア石像せきぞう彫刻ちょうこく触発しょくはつされて、ギリシアじんふたたせき彫刻ちょうこくはじめた[15]自立じりつする人物じんぶつぞう東洋とうようモデルの特徴とくちょうてきかたさと正面しょうめん姿勢しせい共有きょうゆうしているが、たとえばオーセールの婦人ふじんぞう英語えいごばんヘーラー胴体どうたいぞう(アルカイック初頭しょとう紀元前きげんぜん660-580ねんごろルーヴル美術館びじゅつかん)など、それらの形態けいたいはエジプト彫刻ちょうこくのものよりも力強ちからづよさがある。紀元前きげんぜんやく575ねんぎて、男性だんせい女性じょせいどちらの人物じんぶつぞうも、いわゆるアルカイックスマイルはじめた。人物じんぶつ状況じょうきょう描写びょうしゃ特定とくてい妥当だとうせいたないこの表現ひょうげんは、人物じんぶつぞう人間にんげんならではの特徴とくちょうをつけるための装置そうちだった可能かのうせいがある。

この時期じきは3種類しゅるい人物じんぶつぞう流行りゅうこうした。青年せいねん裸身らしん立像りつぞうであるクーロスぞうkouros, 複数ふくすうがたkouroi)ぬのをまとったむすめ立像りつぞうであるコレーぞうkore, 複数ふくすうがたkorai)、そして着座ちゃくざした女性じょせいぞうである。どれもが、人物じんぶつ本質ほんしつてき特徴とくちょう強調きょうちょうして一般いっぱんし、人間にんげん解剖かいぼうがく理解りかいをさらに正確せいかく反映はんえいしている。若者わかものぞう埋葬まいそう奉納ほうのうのための彫像ちょうぞうだった。そのれいには、初期しょき作品さくひんであるアポローン(Bronze Statuette of Apollo,07.286.91、メトロポリタン美術館びじゅつかん)や、後期こうき作品さくひんだと アナフィとう英語えいごばんから出土しゅつどのアポローン(Strangford Apollo,1864,0220.1、だいえい博物館はくぶつかん)があり、ほかにもアナヴィソス英語えいごばんのクーロスぞう(Anavyssos Kouros,3851、アテネ国立こくりつ考古学こうこがく博物館はくぶつかん)がある。この彫像ちょうぞうには、以前いぜん作品さくひんよりも筋肉きんにく骨格こっかく構造こうぞうおおられる。ぬのをまとったむすめ立像りつぞうは、アテネのアクロポリス博物館はくぶつかん彫刻ちょうこくのように、はばひろ表現ひょうげんをしている。彼女かのじょらの衣装いしょうのひだ(ドレープ)は繊細せんさいさをって彫刻ちょうこくおよび着色ちゃくしょくがされており、この時期じき彫刻ちょうこく細部さいぶ共通きょうつうする緻密ちみつさである。

アルカイックさい重要じゅうよう彫刻ちょうこく形態けいたいは、青年せいねん裸身らしん立像りつぞう(クーロスぞう)だった。コレーぞうふく女性じょせいぞう一般いっぱんてきであり、ギリシア芸術げいじゅつでは紀元前きげんぜん4世紀せいきまで女性じょせい裸体らたいぞう展示てんじされなかった(ポルノの意図いとがないかぎり)。この時期じき服飾ふくしょく表現ひょうげんする技法ぎほう発展はってんは、あきらかに重要じゅうようなものである。

陶器とうきおなじで、ギリシアじんたんなる芸術げいじゅつてき展示てんじのために彫刻ちょうこく制作せいさくしたわけではない。彫像ちょうぞうは、貴族きぞく個人こじんまたはくにによる依頼いらいもとづいて、公的こうてき記念きねん神殿しんでん神託しんたくしょ聖域せいいきみつもの(しばしば彫像ちょうぞう碑文ひぶんにててとれる)、もしくは墓標ぼひょうなどに使つかわれた。 アルカイック彫像ちょうぞうは、特定とくてい個人こじんあらわすことをかならずしも意図いとしたものではなく、うつくしさ、敬意けいい名誉めいよ犠牲ぎせいといった理想りそう描写びょうしゃだった。たとえ高齢こうれいしゃ墓地ぼちかれたとしても、これらは(おそらく)つね思春期ししゅんきから青年せいねんまでのわか男性だんせい描写びょうしゃだった。クーロスぞうどれも様式ようしきてき類似るいじしていた。ぞう依頼いらいするひと社会しゃかいてき地位ちい目盛めもりは、芸術げいじゅつてき革新かくしんせいよりもおおきさによってしめされた。

古典こてん

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リアーチェのブロンズぞう英語えいごばん古典こてんのブロンズ彫刻ちょうこくれいレッジョ・ディ・カラブリアにあるマーニャ グレーチャ国立こくりつ博物館はくぶつかん英語えいごばん
アルテミシオンのブロンズぞう英語えいごばん、はポセイドーンまたはゼウスのどちらかだとかんがえられている。1928ねんに、アルテミシオンみさき海岸かいがんから漁師りょうしによって発見はっけんされた。人物じんぶつぞうたかさは2m以上いじょう紀元前きげんぜん460ねんごろアテネ国立こくりつ考古学こうこがく博物館はくぶつかん

古典こてんではギリシア彫刻ちょうこく革命かくめいられ、ときには民主みんしゅ主義しゅぎ導入どうにゅう大衆たいしゅう文化ぶんかと、クーロスぞう関連かんれんする貴族きぞくてき文化ぶんかわりとが歴史れきしによって関連付かんれんづけられた。古典こてんでは、現実げんじつてき人間にんげんかたち描写びょうしゃするギリシア彫刻ちょうこく技術ぎじゅつ技法ぎほう劇的げきてき増加ぞうかともなって、彫刻ちょうこく体型たいけい機能きのう変化へんかられた。ポーズもまた、とくにこの期間きかん初頭しょとうにおいて、より自然しぜん主義しゅぎてきになった。このことはコントラポストもっと初期しょきられている彫刻ちょうこくクリティオスの少年しょうねん英語えいごばん紀元前きげんぜん480ねん)やデルポイの御者ぎょしゃ英語えいごばん紀元前きげんぜん474ねん)などの作品さくひん具現ぐげんされており、これらはより自然しぜん主義しゅぎてき彫刻ちょうこくへの移行いこうしめすものとなっている。紀元前きげんぜん500ねんごろから、ギリシア彫刻ちょうこくは、神話しんわ漠然ばくぜんとした解釈かいしゃくまった架空かくう奉納ほうのうぞうなどとは対照たいしょうてきに、現実げんじつ人々ひとびと描写びょうしゃすることがおおくなりはじめた。とはいえ、それらが表現ひょうげんしていたスタイルはまだ現実げんじつてき肖像しょうぞうかたちにまでは発展はってんしなかった。アテネに設置せっちされたハルモディオスとアリストゲイトン彫像ちょうぞうは、貴族きぞくてき僭主せんしゅ政治せいじ崩壊ほうかいしめすもので、実際じっさい個人こじんあらわしている最初さいしょ公的こうてき記念きねんわれている。

古典こてんでは、建物たてもの装飾そうしょくとして彫像ちょうぞう彫刻ちょうこく使用しようするものがおおられた。アテネのパルテノン神殿しんでんオリンピアのゼウス神殿しんでんといった古典こてん特徴とくちょうてき神殿しんでんフリーズしょうかべ)をかざるためのレリーフ彫刻ちょうこく使用しようし、ペディメント三角形さんかっけいつまかべめるために円形えんけい彫刻ちょうこくほどこしている。困難こんなん審美しんびてきかつ技術ぎじゅつてき挑戦ちょうせんは、彫刻ちょうこく技術ぎじゅつ革新かくしんみちおおいに刺激しげきした。 これらの作品さくひん大半たいはんたとえばパルテノン神殿しんでんのように断片だんぺんだけが現存げんそんしており、そのやく半分はんぶんだいえい博物館はくぶつかんにある(エルギン・マーブルひとし)。

葬式そうしきよう彫像ちょうぞうは、アルカイック剛直ごうちょく人間にんげんてきなクーロスぞうから古典こてん非常ひじょう個人こじんてき家族かぞく集団しゅうだんぞうまで、この時期じき進化しんかげた。これらの記念きねんはアテネ近郊きんこうでよくられ、古代こだいには都市とし郊外こうがい墓地ぼちがあった。それらのいくつかは「理想りそうてき」なタイプ、ふく母親ははおや忠実ちゅうじつ息子むすこえがいているが、 それらはますます実在じつざい人々ひとびとえがいたものとなった(典型てんけいてきには当人とうにん家族かぞくからの尊厳そんげんある離別りべつえがいた)。このことが、アルカイック幾何きかがく文様もんようくらべて感情かんじょう度合どあいをいちじるしく向上こうじょうさせている。

もう1つの注目ちゅうもくすべき変化へんかは、彫刻ちょうこくにおける芸術げいじゅつてき信用しんようきゅう成長せいちょうである。アルカイック幾何きかがく文様もんよう彫刻ちょうこくについてられていた情報じょうほうはどれも作品さくひん自体じたい集中しゅうちゅうしており、彫刻ちょうこく情報じょうほうはたとえあったとしてもまれなことだった。このれいとしては、パルテノン神殿しんでん設計せっけい建築けんちく監督かんとくしたことでられるペイディアスと、芸術げいじゅつてき尊敬そんけいされる最初さいしょ女性じょせい裸体らたい彫刻ちょうこくつくったプラクシテレスがいる。コピーとして現存げんそんしているかれ作品さくひんクニドスのアプロディーテーは、しばしばだいプリニウスによって言及げんきゅうされ、称賛しょうさんされた。

リュシストラトス英語えいごばんきている人々ひとびとから採取さいしゅした石膏せっこうがた使用しようしてロストワックス鋳造ちゅうぞう肖像しょうぞう作成さくせいした最初さいしょ人物じんぶつわれており、既存きそん彫像ちょうぞうから鋳造ちゅうぞうする技術ぎじゅつ開発かいはつしたとわれている。かれ彫刻ちょうこく家族かぞく出身しゅっしんで、かれ兄弟きょうだいシキオンリュシッポスは、生涯しょうがいのうちに1500の彫像ちょうぞう制作せいさくした[16]

オリンピアのゼウスぞうアテーナー・パルテノスぞう(どちらもペイディアスの指揮しきによって製作せいさくされたクリセラファンティーネ英語えいごばんで、古典こてん彫刻ちょうこくなかもっと偉大いだいであったとかんがえられている)はうしなわれてしまったが、よりちいさな複製ふくせいひんべつ素材そざい)とすぐれた描述の両方りょうほうがまだ現存げんそんする。それらのおおきさと雄大ゆうだいさから、ビザンティン帝国ていこく時代じだいにライバルたちがそれをうばうようになり、コンスタンティノープルうつされると、そこでのち破壊はかいされた。

ヘレニズム

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ラオコーンぞう後期こうきヘレニズム)、バチカン美術館びじゅつかん
ヘレニズムペルガモンのだい祭壇さいだん英語えいごばんひだりからネーレウスドーリス巨人きょじんぞくオーケアノス

詳細しょうさいヘレニズム美術びじゅつ英語えいごばんペイディアス参照さんしょう

古典こてんからヘレニズム時代じだいへの移行いこうは、紀元前きげんぜん4世紀せいきこった。ギリシア芸術げいじゅつはますます多様たようし、アレキサンダー大王だいおう紀元前きげんぜん336-323統治とうち)の征服せいふくによりギリシャ領地りょうちまれた人々ひとびと文化ぶんかによる影響えいきょうけた。一部いちぶ美術びじゅつ史家しか見解けんかいは、これをしつ独創どくそうせい低下ていかとして記述きじゅつしている(ただし、当時とうじ人達ひとたちはそうおもわなかったかもしれない)。以前いぜん古典こてん傑作けっさくかんがえられていたおおくの彫刻ちょうこくが、いまはヘレニズム時代じだいのものとしてられている。ヘレニズム彫刻ちょうこく技術ぎじゅつてき能力のうりょくは、サモトラケのニケペルガモンのだい祭壇さいだん英語えいごばんといった主要しゅよう作品さくひん明快めいかい証拠しょうこである。ギリシア文化ぶんかあたらしい中心ちゅうしんとく彫刻ちょうこくにおいてはアレクサンドリアアンティオキアペルガモン、と都市としでも発展はってんした。紀元前きげんぜん2世紀せいきまでに、共和きょうわせいローマ勢力せいりょくがギリシャの伝統でんとうおおくを吸収きゅうしゅうし、そしてローマせい作品さくひん割合わりあいえていった。

この時代じだいに、彫刻ちょうこくふたた自然しぜん主義しゅぎへの移行いこうこった。 一般いっぱんひと女性じょせい子供こども動物どうぶつ家庭かていのシーンは彫刻ちょうこく可能かのう主題しゅだいとなり、いえにわ装飾そうしょくとして裕福ゆうふく家庭かていによる依頼いらいけた。あらゆる年齢ねんれい男性だんせい女性じょせい現実げんじつてき人物じんぶつぞう制作せいさくされ、彫刻ちょうこくはもはや人々ひとびと理想りそうまたは完璧かんぺき肉体にくたいとして描写びょうしゃしなくても大丈夫だいじょうぶになった。同時どうじに、エジプトシリアアナトリアまれたあたらしいヘレニズム都市としでは、神殿しんでん公共こうきょう場所ばしょでギリシアのかみ々や英雄えいゆうえがいたぞう必要ひつようとされた。これは陶器とうきのような彫刻ちょうこく制作せいさくする産業さんぎょうで、結果けっかとして標準ひょうじゅんと(若干じゃっかんの)品質ひんしつ低下ていかをもたらした。 これらの理由りゆうから、古典こてんよりもかなりおおくのヘレニズム彫刻ちょうこく現存げんそんしている。

自然しぜん主義しゅぎへの自然しぜん移行いこうとともに、彫刻ちょうこく表現ひょうげんにも変遷へんせんがあった。 彫刻ちょうこくはこの時期じきに、よりおおくのちからとエネルギーを表現ひょうげんはじめた。 ヘレニズム時代じだい表現ひょうげん変遷へんせんるための簡単かんたん方法ほうほうは、それを古典こてん彫刻ちょうこく比較ひかくすることである。古典こてんには、謙虚けんきょさを表現ひょうげんするデルポイの御者ぎょしゃ英語えいごばんような彫刻ちょうこくがあった。 しかし、ヘレニズム時代じだい彫刻ちょうこくは、アルテミシオンの騎手きしゅ英語えいごばんしめされるように、よりおおきなちからとエネルギーの表現ひょうげんられた[17]

もっともよくられているヘレニズム彫刻ちょうこくとして、サモトラケのニケ(紀元前きげんぜん2-1世紀せいき)、ミロのヴィーナスとしてられるミロスとうのアプロディーテーぞう紀元前きげんぜん2世紀せいきなかば)、瀕死ひんしのガラテアじん英語えいごばん記念きねんてきラオコーンぞう紀元前きげんぜん1世紀せいき後半こうはん)がある。古典こてんてきなテーマをえがいたこれらすべての彫像ちょうぞうは、古典こてんいかめしさよりも加工かこうがはるかに感覚かんかくてき感情かんじょうてきであり、それが許可きょかされていたかその技術ぎじゅつりょくみとめられていた。また、ヘレニズム彫刻ちょうこく寸法すんぽう増大ぞうだいによっても特徴とくちょうづけられ、ついには自由じゆう女神めがみぞうとほぼおなおおきさとされるロドスとうきょぞう紀元前きげんぜん3世紀せいき後半こうはん)にまでたっした。地震じしん略奪りゃくだつふくあいてき効果こうかがこれをこわしてしまい、おなじくこの時期じき存在そんざいしていただろうほか非常ひじょうおおきな作品さくひん破壊はかいしてしまった。

アレキサンダー大王だいおう征服せいふくつづいて、アフガニスタン東部とうぶアイ・ハヌム発掘はっくつおよびグレコ・バクトリア王国おうこくインド・グリークあさ文明ぶんめいによって証明しょうめいされたように、ギリシア文化ぶんかはインドまでひろがった。 グレコ仏教ぶっきょう芸術げいじゅつ英語えいごばんは、ギリシア芸術げいじゅつ仏教ぶっきょう視覚しかくてき表現ひょうげんとのシンクレティズム融合ゆうごう)をあらわしていた。ヘラクレウム古代こだいエジプト都市とし現在げんざい水没すいぼつ周辺しゅうへんの19世紀せいきまつ以来いらい発見はっけんは、紀元前きげんぜん4世紀せいきイシス描写びょうしゃふくんでいる。 その描写びょうしゃはエジプトの女神めがみ描写びょうしゃにはめずらしく官能かんのうてきで、と同時どうじ特色とくしょくすくないささやかさで女性じょせいてきであり、アレキサンダー大王だいおうがエジプトを征服せいふくした時代じだいのエジプトとヘレニズムのかたちわせたものとなっている。

インドのゴアでは、ギリシアふう仏像ぶつぞう発見はっけんされた。これらはギリシアじん仏教ぶっきょう改宗かいしゅうしたことに起因きいんしており、かれらのおおくがヘレニズム時代じだいにゴアに定住ていじゅうしたことがられている[18][19]

偶像ぐうぞう

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テネシーしゅうパルテノン神殿しんでん (ナッシュビル)にある、もとおおきさの「アテーナー・パルテノス英語えいごばんぞう再現さいげん

すべての古代こだいギリシア・ローマにおける神殿しんでん通常つうじょうしょう広間ひろまCella)に偶像ぐうぞうがあった。しょう広間ひろまくのは様々さまざまだったが、司祭しさいとはべつ方向ほうこうからで、すくなくとも一般いっぱんてき崇拝すうはいしゃ一部いちぶときおりしょう広間ひろまくことが可能かのうだった。けれどもかみへの犠牲ぎせい通常つうじょう神殿しんでん境内けいだい外側そとがわにある祭壇さいだん(ギリシャTemenos)でおこなわれた。偶像ぐうぞうなかにはるのが簡単かんたんで、主要しゅよう観光かんこうスポットとばれたものもあった。ぞう通常つうじょうだとかみ立像りつぞうで、元々もともと実物じつぶつサイズよりもちいさなかたちだったが、典型てんけいてきにはおおむね実物じつぶつだいである。なかには実物じつぶつなんばいものおおきさで、大理石だいりせきやブロンズでつくられ、とく高名こうみょうクリセラファンティーネ英語えいごばん彫像ちょうぞうえるからだ部分ぶぶんには象牙ぞうげ使つかい、衣服いふく木製もくせい枠組わくぐみの周囲しゅういにはきむ使用しようしている(よこ写真しゃしん参照さんしょう)。

もっと有名ゆうめいなギリシアの偶像ぐうぞうもこのタイプで、オリンピアのゼウスぞうペイディアスつくったアテネのパルテノン神殿しんでんのアテーナー・パルテノスぞうがあるが、どちらの巨大きょだい彫像ちょうぞう完全かんぜんうしなわれてしまった。デルポイからは2つのクリセラファンティーネぞう断片だんぺん発掘はっくつされた。一般いっぱん偶像ぐうぞうは、識別しきべつできる象徴しょうちょうぶつ保持ほじまたはけており、これは神殿しんでん場所ばしょにおけるべつおおくの彫像ちょうぞうとを区別くべつする方法ほうほうの1つである。

アクロリス英語えいごばんべつふくごうがたで、こちらは木製もくせいからだつコスト節約せつやくがたのものである。ゾアノン英語えいごばん原始げんしてきかつ象徴しょうちょうてき木製もくせいぞうで、おそらくヒンドゥーきょうリンガlingam)に匹敵ひってきする。これらのおおくは古代こだいより保管ほかんされ、あがめられていた。 ローマの大理石だいりせき複製ふくせいひんからよくられているギリシア彫像ちょうぞうおおくはもともと神殿しんでん偶像ぐうぞうだったもので、バルベリーニのアポローン英語えいごばんなど一部いちぶれい確実かくじつ識別しきべつされている。ごくわずかに実際じっさいのオリジナルが現存げんそんし、たとえばブロンズぞうピレウスのアテーナー英語えいごばんたかさ2.35m、ヘルメットふくむ)がある。

ギリシア神話しんわローマ神話しんわにおいて、「パラディウム」は都市とし安全あんぜんかかわるとわれていた非常ひじょう古代こだいぞうであり、とくオデュッセウスディオメーデーストロイ城塞じょうさいからぬすんだ木製もくせいぞうについては、のちアイネイアースによってローマにはこばれた(ローマの物語ものがたりは、ウェルギリウスの『アエネーイス』や作品さくひん関連かんれんられる)。

衣装いしょうぞう

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女性じょせい

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男性だんせい

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特徴とくちょう

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  • ペニス
古代こだい価値かちかんで、ちいさいほうがいとされた[20][21]
歴史れきし学者がくしゃケネス・J・ドーヴァー英語えいごばんは、ペニスがおおきいと、おろかさ、色欲しきよくみにくさを連想れんそうするためひかえめとなっているとしている[20]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ギリシア彫刻ちょうこくで、あたま露出ろしゅつする手足てあし部分ぶぶん大理石だいりせきで、どうなど衣服いふく部分ぶぶん材質ざいしつ木材もくざいかわなど)でつくった彫像ちょうぞうをアクロリス(acrolith)とう。
  2. ^ 古代こだいギリシアの古代こだい木製もくせい偶像ぐうぞうは、現在げんざい「ゾアノン(Xoanon)」という名称めいしょうばれている。
  3. ^ ダイダロス様式ようしきとは、ギリシア彫刻ちょうこく史上しじょう最古さいこ様式ようしきで、硬直こうちょくかつりょうかたまりてき彫像ちょうぞう特徴とくちょうとする[14]

出典しゅってん

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  1. ^ Cook, 19
  2. ^ Cook, 74-75
  3. ^ Cook, 74-76
  4. ^ Cook, 75-76
  5. ^ a b c d Brinkmann, Vinzenz (2008). “The Polychromy of Ancient Greek Sculpture”. In Panzanelli, Roberta; Schmidt, Eike D.; Lapatin, Kenneth. The Color of Life: Polychromy in Sculpture from Antiquity to the Present. Los Angeles, California: The J. Paul Getty Museum and the Getty Research Institute. pp. 18-39. ISBN 978-0-89-236-918-8. https://books.google.com/books?id=2gQesgryr8oC&printsec=frontcover&dq=ancient+Greek+sculptures+were+actually+brightly+painted&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiZgcXvwYjbAhVK5YMKHW2XA20Q6AEIQjAF#v=onepage&q=ancient%20Greek%20sculptures%20were%20actually%20brightly%20painted&f=false 
  6. ^ a b c d True Colors: Archaeologist Vinzenz Brinkmann insists his eye-popping reproductions of ancient Greek sculptures are right on target”. Smithsonian.com. Smithsonian Institute (July 2008). 15 May 2018閲覧えつらん
  7. ^ a b c Prisco, Jacopo (30 November 2017). “'Gods in Color' returns antiquities to their original, colorful grandeur”. CNN style. Cable News Network (CNN). https://www.cnn.com/style/article/gods-in-color-ancient-world-polychromy/index.html 15 May 2018閲覧えつらん 
  8. ^ Museum admits 'scandal' of Elgin Marbles
  9. ^ Gurewitsch, Matthew (July 2008). “True Colors”. Smithsonian: 66?71. http://www.smithsonianmag.com/arts-culture/true-colors.html. 
  10. ^ October 2007, Colorizing classic statues returns them to antiquity: What was really on that Grecian Urn? Harvard University Gazette.
  11. ^ Brinkmann, Vinzenz (2008). “The Polychromy of Ancient Greek Sculpture”. In Panzanelli, Roberta; Schmidt, Eike D.; Lapatin, Kenneth. The Color of Life: Polychromy in Sculpture from Antiquity to the Present. Los Angeles, California: The J. Paul Getty Museum and the Getty Research Institute. pp. 18-39. ISBN 978-0-89-236-918-8. https://books.google.com/books?id=2gQesgryr8oC&pg=PA18 
  12. ^ The term xoanon and the ascriptions are both highly problematic. A.A. Donohue's Xoana and the origins of Greek sculpture, 1988, details how the term had a variety of meanings in the ancient world not necessarily to do with the cult objects
  13. ^ [1] Archived February 27, 2005, at the Wayback Machine.
  14. ^ ダイダロス様式ようしきとは」コトバンク、ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん解説かいせつより
  15. ^ The debt of archaic Greek sculpture to Egyptian canons was recognized in Antiquity: see Diodorus Siculus, i.98.5-9.
  16. ^ Gagarin, 403
  17. ^ Stele, R. Web. 24 November 2013. <http://www.ancientgreece.com/s/Sculpture/>
  18. ^ Gazetteer of the Union Territory Goa, Daman and Diu: district gazetteer, Volume 1. panajim Goa: Gazetteer Dept., Govt. of the Union Territory of Goa, Daman and Diu, 1979. (1979). pp. (see page 70) 
  19. ^ (see Pius Melkandathil,Martitime activities of Goa and the Indian ocean.)
  20. ^ a b なぜむかし彫像ちょうぞうのペニスはあんなにちいさいのか? - GIGAZINE”. gigazine.net (2016ねん5がつ11にち). 2023ねん12月18にち閲覧えつらん
  21. ^ なぜギリシャ彫刻ちょうこく男性だんせいぞうはペニスのおおきさが「ひかえめ」なのか…その理由りゆう英国えいこく歴史れきし学者がくしゃ解説かいせつする きょ人間にんげん馬鹿ばかだとおもわれていた”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023ねん7がつ6にち). 2023ねん12月18にち閲覧えつらん

参照さんしょう

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外部がいぶリンク

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