パルテノン神殿 しんでん のフリーズ 彫刻 ちょうこく 、紀元前 きげんぜん 440年 ねん 頃 ころ 。
古代 こだい ギリシアの彫刻 ちょうこく (こだいギリシアのちょうこく、英 えい :Ancient Greek sculpture)では、古代 こだい ギリシア時代 じだい に制作 せいさく された彫刻 ちょうこく について説明 せつめい する。
現代 げんだい の学芸 がくげい 員 いん は、文献 ぶんけん の乏 とぼ しい暗黒 あんこく 時代 じだい からヘレニズム時代 じだい まで、古代 こだい ギリシア彫刻 ちょうこく を幾 いく つかの区分 くぶん に分 わ けて識別 しきべつ している。全 すべ ての時代 じだい で、大量 たいりょう のテラコッタ 製 せい の人物 じんぶつ 像 ぞう と金属 きんぞく や他 た の素材 そざい で作 つく られた少数 しょうすう の彫刻 ちょうこく が存在 そんざい した。
ギリシア人 じん は、芸術 げいじゅつ の追究 ついきゅう にとって人間 にんげん の姿 すがた 形 がた が最 もっと も重要 じゅうよう な主題 しゅだい であると、ごく早期 そうき に決定 けってい した[1] 。彼 かれ らの神 かみ 々が人間 にんげん の姿 すがた 形 がた になっていることを見 み ても、芸術 げいじゅつ において聖 せい なるものと世俗 せぞく 的 てき なものの区別 くべつ はほとんどなく、ヒトの肉体 にくたい は世俗 せぞく 的 てき かつ神聖 しんせい なものだった。アポローン またはヘラクレス の男性 だんせい 裸体 らたい 像 ぞう は、その年 とし の古代 こだい オリンピック のボクシング優勝 ゆうしょう 者 しゃ のもので、表現 ひょうげん 方法 ほうほう にわずかな違 ちが いが見 み られる程度 ていど である。彫像 ちょうぞう は元々 もともと は単体 たんたい だったが、ヘレニズム時代 じだい では集団 しゅうだん のものが支配 しはい 的 てき な形 かたち となった。レリーフ 彫刻 ちょうこく は、「高 たか い」位置 いち のため彼 かれ らがほぼ自立 じりつ しているようで、やはり重要 じゅうよう 視 し された。
天然 てんねん の大理石 だいりせき
古典 こてん 期 き (およそ紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき と4世紀 せいき )まで、記念 きねん 碑 ひ 的 てき な彫刻 ちょうこく のほぼ全 すべ てが大理石 だいりせき または青銅 せいどう (ブロンズ)でできていた。5世紀 せいき 初頭 しょとう までに主要 しゅよう 作品 さくひん にとってブロンズ鋳造 ちゅうぞう 品 ひん が好 この まれる素材 そざい になった。ローマ市場 いちば 向 む けに作 つく られた大理石 だいりせき の複製 ふくせい 品 ひん だけが知 し られている彫刻 ちょうこく の多 おお くは、もともとブロンズ製 せい だったとされる。様々 さまざま な素材 そざい からなる少数 しょうすう 作品 さくひん は、それらの多 おお くが貴重 きちょう であり、非常 ひじょう に大量 たいりょう 生産 せいさん のテラコッタの人物 じんぶつ 像 ぞう と一緒 いっしょ に作 つく られた。シチリア島 とう やイタリア南部 なんぶ を除 のぞ き、古代 こだい ギリシアの領土 りょうど には大理石 だいりせき の豊富 ほうふ な品 しな 揃 そろ えがあり、ペンテリコ山 さん とパロス島 とう の大理石 だいりせき が現在 げんざい のマケドニア共和国 まけどにあきょうわこく プリレプ からのと共 とも に最高 さいこう 評価 ひょうか とされた。青銅 せいどう の鉱石 こうせき も比較的 ひかくてき 入手 にゅうしゅ しやすかった[2] 。大理石 だいりせき は、ほとんどがパルテノン神殿 しんでん と他 た の主要 しゅよう なギリシアの建物 たてもの 周辺 しゅうへん で発見 はっけん された。
赤絵 あかえ 式 しき のキュリクス に見 み られる、彫刻 ちょうこく 家 か の作業場 さぎょうば を訪 おとず れるアテーナー (紀元前 きげんぜん 480年 ねん )。州立 しゅうりつ 古代 こだい 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん (英語 えいご 版 ばん )
大理石 だいりせき と青銅 せいどう はどちらも成形 せいけい しやすく、耐久 たいきゅう 性 せい がある。私 わたし たちはほとんど知 し らないがアクロリス (英語 えいご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 1] 以外 いがい にも、ほとんどの古代 こだい 文化 ぶんか において木 き に彫刻 ちょうこく の伝統 でんとう は疑 うたが いようもない。青銅 せいどう には常 つね に重要 じゅうよう な解体 かいたい 価値 かち があるため、オリジナルの青銅 せいどう はほとんど現存 げんそん していない、とはいえ近年 きんねん の海洋 かいよう 考古学 こうこがく やトロール網 もう 引 ひ き上 あ げではアルテミシオンのブロンズ像 ぞう (英語 えいご 版 ばん ) やリアーチェのブロンズ像 ぞう (英語 えいご 版 ばん ) など幾 いく つかの素晴 すば らしい発見 はっけん があり、これらが現代 げんだい 理解 りかい を大 おお きく広 ひろ げている。ローマ時代 じだい (紀元前 きげんぜん 30年 ねん -紀元 きげん 後 ご 450年 ねん )の多 おお くのコピーは、元々 もともと はブロンズ製 せい だった作品 さくひん の大理石 だいりせき 版 ばん である。アルカイック期 き には普通 ふつう の石灰岩 せっかいがん が使 つか われ、しかしその後 ご は建築 けんちく 彫刻 ちょうこく や装飾 そうしょく のためだけに使 つか われた(現在 げんざい のイタリア地域 ちいき を除 のぞ く)。たまに漆喰 しっくい やスタッコ が髪 かみ の毛 け だけに使用 しよう されていた[3] 。
神殿 しんでん の偶像 ぐうぞう や豪華 ごうか な作品 さくひん に使 つか われるクリセラファンティーネ (英語 えいご 版 ばん ) 彫刻 ちょうこく には金箔 きんぱく が使用 しよう され、姿 すがた 形 がた の部分 ぶぶん (顔 かお や手 て )は象牙 ぞうげ で、恐 おそ らくは宝石 ほうせき や他 た の素材 そざい もあっただろうが、さほど一般 いっぱん 的 てき ではなく断片 だんぺん だけが現存 げんそん している。多 おお くの彫像 ちょうぞう には、取 と り付 つ けるための穴 あな から見 み て宝石 ほうせき が据 す えられ、武器 ぶき または異 こと なる材質 ざいしつ の別 べつ の物体 ぶったい を握 にぎ っていた[4] 。
「勝利 しょうり した若者 わかもの の像 ぞう (The Victorious Youth )」(紀元前 きげんぜん 310年 ねん 頃 ごろ )。野 の ざらしでの保存 ほぞん だったコントラポスト ポーズのブロンズ像 ぞう 。
今日 きょう では白 しろ いギリシア彫刻 ちょうこく も、元々 もともと は塗装 とそう されていた[5] [6] [7] 。色 いろ を復元 ふくげん したトロイア の弓 ゆみ 兵 へい の像 ぞう 。
古代 こだい ギリシア彫刻 ちょうこく は元々 もともと 明 あか るい色 いろ で塗 ぬ られていたが、元 もと の色素 しきそ が劣化 れっか したため今日 きょう では白 しろ い状態 じょうたい で現 あらわ れる[5] [6] [7] 。着色 ちゃくしょく された彫刻 ちょうこく への言及 げんきゅう は、エウリピデス 著 ちょ 『ヘレネ 』をはじめ古典 こてん 文献 ぶんけん 全体 ぜんたい を通 とお して見 み つかっている[5] [6] 。一部 いちぶ の良好 りょうこう な保存 ほぞん 状態 じょうたい の彫像 ちょうぞう には、元々 もともと の彩色 さいしき の痕跡 こんせき が残 のこ っており、考古 こうこ 学者 がくしゃ はそれらを元々 もともと あったように再現 さいげん することが可能 かのう である[5] [6] [7] 。
19世紀 せいき 初頭 しょとう までに、古代 こだい ギリシア遺跡 いせき の体系 たいけい 的 てき な発掘 はっくつ は、表面 ひょうめん の多彩 たさい な痕跡 こんせき を残 のこ した彫刻 ちょうこく を数多 かずおお くもたらし、その一部 いちぶ は今 いま でも見 み ることができる。それにもかかわらず、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン をはじめ影響 えいきょう 力 りょく を持 も つ美術 びじゅつ 史家 しか たちがギリシア彫刻 ちょうこく は着色 ちゃくしょく されていたとの見解 けんかい に強硬 きょうこう に反対 はんたい し、塗装 とそう された彫像 ちょうぞう の支持 しじ 者 しゃ たちを変人 へんじん だとして追放 ついほう してしまった。そして彼 かれ らの(着色 ちゃくしょく されていたとの)見解 けんかい は、1世紀 せいき 以上 いじょう にわたってほぼ完全 かんぜん に却下 きゃっか されてしまった。大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん にあるエルギン・マーブル では色 いろ の痕跡 こんせき を研磨 けんま して真 ま っ白 しろ にしてしまう行為 こうい まで行 おこな われ、1939年 ねん に彫刻 ちょうこく のスキャンダルとしてBBCに報 ほう じられた[8] 。
20世紀 せいき 後半 こうはん から21世紀 せいき 初頭 しょとう になってようやく、ドイツの考古 こうこ 学者 がくしゃ ヴィンツェンツ・ブリンクマン (英語 えいご 版 ばん ) によって発表 はっぴょう されたことで、古代 こだい ギリシア彫刻 ちょうこく の着色 ちゃくしょく が確定 かくてい された事実 じじつ になった。高 こう 輝度 きど 照明 しょうめい 、紫外線 しがいせん 、特殊 とくしゅ カメラ、石膏 せっこう の鋳型 いがた 、特定 とくてい の粉末 ふんまつ 鉱石 こうせき を使 つか って、ブリンクマンは建物 たてもの 構造 こうぞう や彫像 ちょうぞう を含 ふく むパルテノン神殿 しんでん 全体 ぜんたい が、かつて塗装 とそう されていたことを証明 しょうめい した。彼 かれ は元 もと の塗料 とりょう の色素 しきそ を分析 ぶんせき して、その組成 そせい も突 つ き止 と めた。
ブリンクマンは着色 ちゃくしょく したギリシア彫刻 ちょうこく のレプリカ を幾 いく つか作 つく って、世界 せかい 各地 かくち を巡 めぐ った。また、その中 なか にはギリシア・ローマ彫刻 ちょうこく 以外 いがい の作品 さくひん のレプリカもあり、彼 かれ はギリシア・ローマ美術 びじゅつ が例外 れいがい なのではなく、彫刻 ちょうこく に着色 ちゃくしょく する作業 さぎょう が普遍 ふへん 的 てき であることを示 しめ して見 み せた[9] 。この展覧 てんらん 会 かい を主催 しゅさい した博物館 はくぶつかん には、ミュンヘン のグリプトテク美術館 びじゅつかん 、ヴァチカン美術館 びじゅつかん 、アテネ国立 こくりつ 考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん などがある。この着色 ちゃくしょく 像 ぞう たちは、2007年 ねん 秋 あき にハーバード大学 だいがく でも公開 こうかい された[10] 。
ブリンクマンは「古代 こだい 芸術 げいじゅつ の他 ほか の側面 そくめん は、神殿 しんでん の多彩 たさい な絵画 かいが や彫刻 ちょうこく ほど理解 りかい されてはいない」と述 の べ、表向 おもてむ きはギリシア彫刻 ちょうこく に触発 しょくはつ されたとする未 み 塗装 とそう の現代 げんだい 彫刻 ちょうこく は「全 まった く新 あたら しいもの」だと語 かた った[11] 。
一般 いっぱん に、ギリシア彫刻 ちょうこく の最初 さいしょ 期 き の具現 ぐげん は木彫 きぼ りの偶像 ぐうぞう だと考 かんが えられており、パウサニアス により最初 さいしょ は「xoana」と記述 きじゅつ された[12] [注釈 ちゅうしゃく 2] 。そうした木像 もくぞう はほとんど現存 げんそん しておらず、恐 おそ らく何 なん 百 ひゃく 年間 ねんかん にわたって崇拝 すうはい 対象 たいしょう だったのだろうが、その記述 きじゅつ も曖昧 あいまい である。収集 しゅうしゅう されることになったギリシア彫刻 ちょうこく の最初 さいしょ の欠片 かけら は、恐 おそ らくレフカンディ (英語 えいご 版 ばん ) のケンタウロス (Lefkandi Centaur)で、これはエヴィア島 とう で発見 はっけん された紀元前 きげんぜん 約 やく 920年 ねん とされるテラコッタの彫像 ちょうぞう である。この彫像 ちょうぞう はパーツに分解 ぶんかい され、2つの墓 はか に切 き り分 わ けて埋葬 まいそう されていた。このケンタウルスは膝 ひざ の上 うえ に意図 いと 的 てき な印 しるし があり、この彫像 ちょうぞう は多分 たぶん ヘラクレス の矢 や で負傷 ふしょう して膝 ひざ 立 だ ちとなっているケイローン の姿 すがた を描 えが いたものではないか、と研究 けんきゅう 者 しゃ たちは主張 しゅちょう した[13] 。もしそうなら、これはギリシア彫刻 ちょうこく の歴史 れきし において知 し られている神話 しんわ の最初 さいしょ 期 き の描写 びょうしゃ であろう。
幾何 きか 学 がく 文様 もんよう 期 き (紀元前 きげんぜん 900年 ねん 頃 ごろ から同 どう 700年 ねん 頃 ごろ )の形態 けいたい は主 おも にテラコッタの人物 じんぶつ 像 ぞう 、ブロンズ像 ぞう 、象牙 ぞうげ 像 ぞう だった。ブロンズは主 おも に三 さん 本 ほん 足 あし の大釜 おおかま (tripod cauldrons)と自立 じりつ した人物 じんぶつ 像 ぞう である。こうしたブロンズ像 ぞう は恐 おそ らくシリア から導入 どうにゅう されたロストワックス 技術 ぎじゅつ を用 もち いて作 つく られたもので、ヘレニズム 文明 ぶんめい 期 き においてオリンピア 、デロス島 とう 、デルポイ の全 ぜん ギリシア聖域 せいいき に残 のこ されていたほぼ全 すべ ての奉納 ほうのう 品 ひん である(とはいえ、アテネ 、アルゴス 、スパルタ からの発見 はっけん により地域 ちいき スタイルが分 わ かると、他 た の場所 ばしょ で製造 せいぞう されていたかもしれない)。
この時代 じだい の典型 てんけい 的 てき な作品 さくひん には、カルディツァ の戦士 せんし (Karditsa warrior, 12831)や小型 こがた の騎馬 きば 像 ぞう (例 たと えば、Equestrian statue, 21.88.24)が多 おお く含 ふく まれる。このブロンズ作品 さくひん のレパートリーは立 た っている男性 だんせい や馬 うま に限 かぎ られているわけではなく、当時 とうじ の花瓶 かびん の絵 え には、牡鹿 おじか 、鳥 とり 、カブトムシ、野 の ウサギ、グリフォン 、ライオンのイメージも描 えが かれている。紀元前 きげんぜん 7世紀 せいき 初頭 しょとう のテーバイ にてマンティクロス のアポローン(Mantiklos "Apollo", 03.997)が出現 しゅつげん するまで、初期 しょき から中間 ちゅうかん の幾何 きか 学 がく 文様 もんよう 期 き 彫刻 ちょうこく には碑文 ひぶん がない。その全身 ぜんしん 像 ぞう は、疑似 ぎじ ダイダロス様式 ようしき (pseudo-daedalic form)[注釈 ちゅうしゃく 3] の立 た っている男性 だんせい で、その下 した に碑文 ひぶん "Μαντικλος μ みゅー ' ανεθε̅κ かっぱ ε いぷしろん ϝεκαβολο̅ι いおた αργυροτοχσο̅ι いおた τας {δ でるた }δ でるた ε いぷしろん -κατας· τ たう υ うぷしろん δ でるた ε いぷしろん Φ ふぁい ο おみくろん ι いおた β べーた ε いぷしろん δ でるた ι いおた δ でるた ο おみくろん ι いおた χαριϝετταν αμοιϝ[α あるふぁ ν にゅー ]"のヘクサメトロス が書 か かれている。ラテン語 らてんご 文章 ぶんしょう は"Mantiklos manetheke wekaboloi argurotoxsoi tas dekatas; to de Foibe didoi xariwettan amoiw [an]"と読 よ めて、抄訳 しょうやく すると「マンティクロスは銀 ぎん の弓 ゆみ のアポローンに少 すこ しばかりの寄付 きふ として自 みずか らを捧 ささ げました。あなたは喜 よろこ んでお返 かえ しを何 なに か施 ほどこ してくれますか、ポイボス (アポローン)」となる。この碑文 ひぶん はアポローン彫像 ちょうぞう の宣誓 せんせい であり、その後 ご に恩返 おんがえ しの要請 ようせい がある。自 みずか らの目的 もくてき を記録 きろく するという斬新 ざんしん さとは別 べつ に、この彫刻 ちょうこく は、より短 みじか い三角形 さんかっけい の顔 かお とわずかに前 まえ に出 だ した左足 ひだりあし に見 み られるように、東洋 とうよう のブロンズ像 ぞう の様式 ようしき に適合 てきごう している。これはたまに、紀元前 きげんぜん 7世紀 せいき の表現 ひょうげん の自由 じゆう がより広 ひろ がる予兆 よちょう だと見 み なされており、そのため、マンティクロスの人物 じんぶつ 像 ぞう は原始 げんし ダイダロス様式 ようしき (proto-Daedalic)として言及 げんきゅう されることがある。
クレオビスとビトン 、アルカイック期 き の青年 せいねん 裸身 らしん 立像 りつぞう (クーロス像 ぞう )、紀元前 きげんぜん 580年 ねん 頃 ごろ 。 デルポイ考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん (英語 えいご 版 ばん )
エジプト とメソポタミア の石像 せきぞう 彫刻 ちょうこく に触発 しょくはつ されて、ギリシア人 じん は再 ふたた び石 せき に彫刻 ちょうこく を始 はじ めた[15] 。自立 じりつ する人物 じんぶつ 像 ぞう は東洋 とうよう モデルの特徴 とくちょう 的 てき な堅 かた さと正面 しょうめん 姿勢 しせい を共有 きょうゆう しているが、例 たと えばオーセールの婦人 ふじん 像 ぞう (英語 えいご 版 ばん ) やヘーラー の胴体 どうたい 像 ぞう (アルカイック期 き 初頭 しょとう 、紀元前 きげんぜん 660-580年 ねん 頃 ごろ 、ルーヴル美術館 びじゅつかん )など、それらの形態 けいたい はエジプト彫刻 ちょうこく のものよりも力強 ちからづよ さがある。紀元前 きげんぜん 約 やく 575年 ねん を過 す ぎて、男性 だんせい と女性 じょせい どちらの人物 じんぶつ 像 ぞう も、いわゆるアルカイックスマイル を身 み に着 つ け始 はじ めた。人物 じんぶつ や状況 じょうきょう の描写 びょうしゃ に特定 とくてい の妥当 だとう 性 せい を持 も たないこの表現 ひょうげん は、人物 じんぶつ 像 ぞう に人間 にんげん ならではの特徴 とくちょう をつけるための装置 そうち だった可能 かのう 性 せい がある。
この時期 じき は3種類 しゅるい の人物 じんぶつ 像 ぞう が流行 りゅうこう した。青年 せいねん の裸身 らしん 立像 りつぞう であるクーロス像 ぞう (kouros , 複数 ふくすう 形 がた kouroi)布 ぬの をまとった娘 むすめ の立像 りつぞう であるコレー像 ぞう (kore , 複数 ふくすう 形 がた korai)、そして着座 ちゃくざ した女性 じょせい 像 ぞう である。どれもが、人物 じんぶつ の本質 ほんしつ 的 てき な特徴 とくちょう を強調 きょうちょう して一般 いっぱん 化 か し、人間 にんげん 解剖 かいぼう 学 がく の理解 りかい をさらに正確 せいかく に反映 はんえい している。若者 わかもの の像 ぞう は埋葬 まいそう か奉納 ほうのう のための彫像 ちょうぞう だった。その例 れい には、初期 しょき 作品 さくひん であるアポローン(Bronze Statuette of Apollo,07.286.91、メトロポリタン美術館 びじゅつかん )や、後期 こうき 作品 さくひん だと アナフィ島 とう (英語 えいご 版 ばん ) から出土 しゅつど のアポローン(Strangford Apollo ,1864,0220.1、大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん )があり、他 ほか にもアナヴィソス (英語 えいご 版 ばん ) のクーロス像 ぞう (Anavyssos Kouros,3851、アテネ国立 こくりつ 考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん )がある。この彫像 ちょうぞう には、以前 いぜん の作品 さくひん よりも筋肉 きんにく や骨格 こっかく 構造 こうぞう が多 おお く見 み られる。布 ぬの をまとった娘 むすめ の立像 りつぞう は、アテネのアクロポリス博物館 はくぶつかん の彫刻 ちょうこく のように、幅 はば の広 ひろ い表現 ひょうげん をしている。彼女 かのじょ らの衣装 いしょう のひだ(ドレープ)は繊細 せんさい さを持 も って彫刻 ちょうこく および着色 ちゃくしょく がされており、この時期 じき の彫刻 ちょうこく の細部 さいぶ に共通 きょうつう する緻密 ちみつ さである。
アルカイック期 き で最 さい 重要 じゅうよう な彫刻 ちょうこく の形態 けいたい は、青年 せいねん の裸身 らしん 立像 りつぞう (クーロス像 ぞう )だった。コレー像 ぞう や服 ふく を着 き た女性 じょせい 像 ぞう も一般 いっぱん 的 てき であり、ギリシア芸術 げいじゅつ では紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき まで女性 じょせい の裸体 らたい 像 ぞう が展示 てんじ されなかった(ポルノの意図 いと がない限 かぎ り)。この時期 じき の服飾 ふくしょく を表現 ひょうげん する技法 ぎほう の発展 はってん は、明 あき らかに重要 じゅうよう なものである。
陶器 とうき と同 おな じで、ギリシア人 じん は単 たん なる芸術 げいじゅつ 的 てき 展示 てんじ のために彫刻 ちょうこく を制作 せいさく したわけではない。彫像 ちょうぞう は、貴族 きぞく の個人 こじん または国 くに による依頼 いらい に基 もと づいて、公的 こうてき な記念 きねん 碑 ひ 、神殿 しんでん や神託 しんたく 所 しょ や聖域 せいいき の貢 みつ ぎ物 もの (しばしば彫像 ちょうぞう の碑文 ひぶん にて見 み てとれる)、もしくは墓標 ぼひょう などに使 つか われた。 アルカイック期 き の彫像 ちょうぞう は、特定 とくてい 個人 こじん を表 あらわ すことを必 かなら ずしも意図 いと したものではなく、美 うつく しさ、敬意 けいい 、名誉 めいよ 、犠牲 ぎせい といった理想 りそう の描写 びょうしゃ だった。たとえ高齢 こうれい 者 しゃ の墓地 ぼち に置 お かれたとしても、これらは(恐 おそ らく)常 つね に思春期 ししゅんき から青年 せいねん 期 き までの若 わか い男性 だんせい の描写 びょうしゃ だった。クーロス像 ぞう どれも様式 ようしき 的 てき に類似 るいじ していた。像 ぞう を依頼 いらい する人 ひと の社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい の目盛 めも りは、芸術 げいじゅつ 的 てき 革新 かくしん 性 せい よりも大 おお きさによって示 しめ された。
リアーチェのブロンズ像 ぞう (英語 えいご 版 ばん ) 、古典 こてん 期 き のブロンズ彫刻 ちょうこく の例 れい 。レッジョ・ディ・カラブリア にあるマーニャ グレーチャ国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん (英語 えいご 版 ばん )
アルテミシオンのブロンズ像 ぞう (英語 えいご 版 ばん ) 、はポセイドーン またはゼウス のどちらかだと考 かんが えられている。1928年 ねん に、アルテミシオン岬 みさき の海岸 かいがん から漁師 りょうし によって発見 はっけん された。人物 じんぶつ 像 ぞう の高 たか さは2m以上 いじょう 、紀元前 きげんぜん 460年 ねん 頃 ごろ 。アテネ国立 こくりつ 考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん
古典 こてん 期 き ではギリシア彫刻 ちょうこく の革命 かくめい が見 み られ、時 とき には民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の導入 どうにゅう を取 と り巻 ま く大衆 たいしゅう 文化 ぶんか と、クーロス像 ぞう に関連 かんれん する貴族 きぞく 的 てき 文化 ぶんか の終 お わりとが歴史 れきし 家 か によって関連付 かんれんづ けられた。古典 こてん 期 き では、現実 げんじつ 的 てき な人間 にんげん の形 かたち を描写 びょうしゃ するギリシア彫刻 ちょうこく 家 か の技術 ぎじゅつ 技法 ぎほう の劇的 げきてき な増加 ぞうか に伴 ともな って、彫刻 ちょうこく の体型 たいけい や機能 きのう の変化 へんか が見 み られた。ポーズもまた、特 とく にこの期間 きかん 初頭 しょとう において、より自然 しぜん 主義 しゅぎ 的 てき になった。このことはコントラポスト の最 もっと も初期 しょき の知 し られている彫刻 ちょうこく クリティオスの少年 しょうねん (英語 えいご 版 ばん ) (紀元前 きげんぜん 480年 ねん )やデルポイの御者 ぎょしゃ (英語 えいご 版 ばん ) (紀元前 きげんぜん 474年 ねん )などの作品 さくひん で具現 ぐげん 化 か されており、これらはより自然 しぜん 主義 しゅぎ 的 てき な彫刻 ちょうこく への移行 いこう を示 しめ すものとなっている。紀元前 きげんぜん 500年 ねん 頃 ごろ から、ギリシア彫刻 ちょうこく は、神話 しんわ の漠然 ばくぜん とした解釈 かいしゃく や全 まった く架空 かくう の奉納 ほうのう 像 ぞう などとは対照 たいしょう 的 てき に、現実 げんじつ の人々 ひとびと を描写 びょうしゃ することが多 おお くなり始 はじ めた。とはいえ、それらが表現 ひょうげん していたスタイルはまだ現実 げんじつ 的 てき な肖像 しょうぞう 画 が の形 かたち にまでは発展 はってん しなかった。アテネに設置 せっち されたハルモディオスとアリストゲイトン の彫像 ちょうぞう は、貴族 きぞく 的 てき な僭主 せんしゅ 政治 せいじ の崩壊 ほうかい を示 しめ すもので、実際 じっさい の個人 こじん を表 あらわ している最初 さいしょ の公的 こうてき 記念 きねん 碑 ひ と言 い われている。
古典 こてん 期 き では、建物 たてもの の装飾 そうしょく として彫像 ちょうぞう や彫刻 ちょうこく を使用 しよう するものが多 おお く見 み られた。アテネのパルテノン神殿 しんでん やオリンピアのゼウス神殿 しんでん といった古典 こてん 期 き の特徴 とくちょう 的 てき な神殿 しんでん はフリーズ (小 しょう 壁 かべ )を飾 かざ るためのレリーフ 彫刻 ちょうこく を使用 しよう し、ペディメント の三角形 さんかっけい の妻 つま 壁 かべ を埋 う めるために円形 えんけい の彫刻 ちょうこく を施 ほどこ している。困難 こんなん な審美 しんび 的 てき かつ技術 ぎじゅつ 的 てき な挑戦 ちょうせん は、彫刻 ちょうこく 技術 ぎじゅつ 革新 かくしん の道 みち を大 おお いに刺激 しげき した。 これらの作品 さくひん の大半 たいはん は例 たと えばパルテノン神殿 しんでん のように断片 だんぺん だけが現存 げんそん しており、その約 やく 半分 はんぶん は大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん にある(エルギン・マーブル 等 ひとし )。
葬式 そうしき 用 よう の彫像 ちょうぞう は、アルカイック期 き の剛直 ごうちょく で非 ひ 人間 にんげん 的 てき なクーロス像 ぞう から古典 こてん 期 き の非常 ひじょう に個人 こじん 的 てき な家族 かぞく の集団 しゅうだん 像 ぞう まで、この時期 じき に進化 しんか を遂 と げた。これらの記念 きねん 碑 ひ はアテネ近郊 きんこう でよく見 み られ、古代 こだい には都市 とし 郊外 こうがい に墓地 ぼち があった。それらの幾 いく つかは「理想 りそう 的 てき 」なタイプ、喪 も に服 ふく す母親 ははおや 、忠実 ちゅうじつ な息子 むすこ を描 えが いているが、 それらはますます実在 じつざい の人々 ひとびと を描 えが いたものとなった(典型 てんけい 的 てき には当人 とうにん の家族 かぞく からの尊厳 そんげん ある離別 りべつ を描 えが いた)。このことが、アルカイック期 き や幾何 きか 学 がく 文様 もんよう 期 き に比 くら べて感情 かんじょう の度合 どあ いを著 いちじる しく向上 こうじょう させている。
もう1つの注目 ちゅうもく すべき変化 へんか は、彫刻 ちょうこく における芸術 げいじゅつ 的 てき 信用 しんよう の急 きゅう 成長 せいちょう である。アルカイック期 き と幾何 きか 学 がく 文様 もんよう 期 き の彫刻 ちょうこく について知 し られていた情報 じょうほう はどれも作品 さくひん 自体 じたい に集中 しゅうちゅう しており、彫刻 ちょうこく 家 か の情報 じょうほう はたとえあったとしても稀 まれ なことだった。この例 れい としては、パルテノン神殿 しんでん の設計 せっけい と建築 けんちく を監督 かんとく したことで知 し られるペイディアス と、芸術 げいじゅつ 的 てき に尊敬 そんけい される最初 さいしょ の女性 じょせい の裸体 らたい 彫刻 ちょうこく を作 つく ったプラクシテレス がいる。コピーとして現存 げんそん している彼 かれ の作品 さくひん クニドスのアプロディーテー は、しばしば大 だい プリニウス によって言及 げんきゅう され、称賛 しょうさん された。
リュシストラトス (英語 えいご 版 ばん ) は生 い きている人々 ひとびと から採取 さいしゅ した石膏 せっこう 型 がた を使用 しよう してロストワックス 鋳造 ちゅうぞう の肖像 しょうぞう を作成 さくせい した最初 さいしょ の人物 じんぶつ と言 い われており、既存 きそん の彫像 ちょうぞう から鋳造 ちゅうぞう する技術 ぎじゅつ を開発 かいはつ したと言 い われている。彼 かれ は彫刻 ちょうこく 家 か の家族 かぞく の出身 しゅっしん で、彼 かれ の兄弟 きょうだい シキオン のリュシッポス は、生涯 しょうがい のうちに1500の彫像 ちょうぞう を制作 せいさく した[16] 。
オリンピアのゼウス像 ぞう とアテーナー・パルテノス像 ぞう (どちらもペイディアスの指揮 しき によって製作 せいさく されたクリセラファンティーネ (英語 えいご 版 ばん ) で、古典 こてん 期 き の彫刻 ちょうこく の中 なか で最 もっと も偉大 いだい であったと考 かんが えられている)は失 うしな われてしまったが、より小 ちい さな複製 ふくせい 品 ひん (別 べつ 素材 そざい )と優 すぐ れた描述の両方 りょうほう がまだ現存 げんそん する。それらの大 おお きさと雄大 ゆうだい さから、ビザンティン帝国 ていこく 時代 じだい にライバルたちがそれを奪 うば い合 あ うようになり、コンスタンティノープル に移 うつ されると、そこで後 のち に破壊 はかい された。
ラオコーン像 ぞう (後期 こうき ヘレニズム)、バチカン美術館 びじゅつかん
ヘレニズム期 き のペルガモンの大 だい 祭壇 さいだん (英語 えいご 版 ばん ) 。左 ひだり からネーレウス 、ドーリス 、巨人 きょじん 族 ぞく 、オーケアノス 。
詳細 しょうさい はヘレニズム美術 びじゅつ (英語 えいご 版 ばん ) とペイディアス を参照 さんしょう 。
古典 こてん 期 き からヘレニズム 時代 じだい への移行 いこう は、紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき に起 お こった。ギリシア芸術 げいじゅつ はますます多様 たよう 化 か し、アレキサンダー大王 だいおう (紀元前 きげんぜん 336-323統治 とうち )の征服 せいふく によりギリシャ領地 りょうち に引 ひ き込 こ まれた人々 ひとびと の文化 ぶんか による影響 えいきょう を受 う けた。一部 いちぶ の美術 びじゅつ 史家 しか の見解 けんかい は、これを質 しつ と独創 どくそう 性 せい の低下 ていか として記述 きじゅつ している(ただし、当時 とうじ の人達 ひとたち はそう思 おも わなかったかもしれない)。以前 いぜん は古典 こてん 期 き の傑作 けっさく と考 かんが えられていた多 おお くの彫刻 ちょうこく が、今 いま はヘレニズム時代 じだい のものとして知 し られている。ヘレニズム彫刻 ちょうこく 家 か の技術 ぎじゅつ 的 てき 能力 のうりょく は、サモトラケのニケ やペルガモンの大 だい 祭壇 さいだん (英語 えいご 版 ばん ) といった主要 しゅよう 作品 さくひん が明快 めいかい な証拠 しょうこ である。ギリシア文化 ぶんか の新 あたら しい中心 ちゅうしん 地 ち 、特 とく に彫刻 ちょうこく においてはアレクサンドリア 、アンティオキア 、ペルガモン 、と他 た の都市 とし でも発展 はってん した。紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき までに、共和 きょうわ 政 せい ローマ の勢力 せいりょく がギリシャの伝統 でんとう の多 おお くを吸収 きゅうしゅう し、そしてローマ製 せい 作品 さくひん の割合 わりあい も増 ふ えていった。
この時代 じだい に、彫刻 ちょうこく は再 ふたた び自然 しぜん 主義 しゅぎ への移行 いこう が起 お こった。 一般 いっぱん の人 ひと 、女性 じょせい 、子供 こども 、動物 どうぶつ 、家庭 かてい のシーンは彫刻 ちょうこく の受 う け入 い れ可能 かのう な主題 しゅだい となり、家 いえ や庭 にわ の装飾 そうしょく として裕福 ゆうふく な家庭 かてい による依頼 いらい を受 う けた。あらゆる年齢 ねんれい の男性 だんせい と女性 じょせい の現実 げんじつ 的 てき な人物 じんぶつ 像 ぞう が制作 せいさく され、彫刻 ちょうこく 家 か はもはや人々 ひとびと を美 び の理想 りそう または完璧 かんぺき な肉体 にくたい として描写 びょうしゃ しなくても大丈夫 だいじょうぶ になった。同時 どうじ に、エジプト 、シリア 、アナトリア で生 う まれた新 あたら しいヘレニズム都市 とし では、神殿 しんでん や公共 こうきょう の場所 ばしょ でギリシアの神 かみ 々や英雄 えいゆう を描 えが いた像 ぞう が必要 ひつよう とされた。これは陶器 とうき のような彫刻 ちょうこく を制作 せいさく する産業 さんぎょう で、結果 けっか として標準 ひょうじゅん 化 か と(若干 じゃっかん の)品質 ひんしつ 低下 ていか をもたらした。 これらの理由 りゆう から、古典 こてん 期 き よりもかなり多 おお くのヘレニズム彫刻 ちょうこく が現存 げんそん している。
自然 しぜん 主義 しゅぎ への自然 しぜん な移行 いこう とともに、彫刻 ちょうこく の表現 ひょうげん にも変遷 へんせん があった。 彫刻 ちょうこく はこの時期 じき に、より多 おお くの力 ちから とエネルギーを表現 ひょうげん し始 はじ めた。 ヘレニズム時代 じだい の表現 ひょうげん の変遷 へんせん を見 み るための簡単 かんたん な方法 ほうほう は、それを古典 こてん 期 き の彫刻 ちょうこく と比較 ひかく することである。古典 こてん 期 き には、謙虚 けんきょ さを表現 ひょうげん するデルポイの御者 ぎょしゃ (英語 えいご 版 ばん ) ような彫刻 ちょうこく があった。 しかし、ヘレニズム時代 じだい の彫刻 ちょうこく は、アルテミシオンの騎手 きしゅ (英語 えいご 版 ばん ) で示 しめ されるように、より大 おお きな力 ちから とエネルギーの表現 ひょうげん が見 み られた[17] 。
最 もっと もよく知 し られているヘレニズム彫刻 ちょうこく として、サモトラケのニケ(紀元前 きげんぜん 2-1世紀 せいき )、ミロのヴィーナス として知 し られるミロス島 とう のアプロディーテー像 ぞう (紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき 半 なか ば)、瀕死 ひんし のガラテア人 じん (英語 えいご 版 ばん ) 、記念 きねん 碑 ひ 的 てき なラオコーン像 ぞう (紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき 後半 こうはん )がある。古典 こてん 的 てき なテーマを描 えが いたこれら全 すべ ての彫像 ちょうぞう は、古典 こてん 期 き の厳 いか めしさよりも加工 かこう がはるかに感覚 かんかく 的 てき で感情 かんじょう 的 てき であり、それが許可 きょか されていたかその技術 ぎじゅつ 力 りょく が認 みと められていた。また、ヘレニズム彫刻 ちょうこく は寸法 すんぽう の増大 ぞうだい によっても特徴 とくちょう づけられ、ついには自由 じゆう の女神 めがみ 像 ぞう とほぼ同 おな じ大 おお きさとされるロドス島 とう の巨 きょ 像 ぞう (紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき 後半 こうはん )にまで達 たっ した。地震 じしん と略奪 りゃくだつ の複 ふく 合 あい 的 てき な効果 こうか がこれを壊 こわ してしまい、同 おな じくこの時期 じき に存在 そんざい していただろう他 ほか の非常 ひじょう に大 おお きな作品 さくひん も破壊 はかい してしまった。
アレキサンダー大王 だいおう の征服 せいふく に続 つづ いて、アフガニスタン 東部 とうぶ のアイ・ハヌム の発掘 はっくつ およびグレコ・バクトリア王国 おうこく やインド・グリーク朝 あさ の文明 ぶんめい によって証明 しょうめい されたように、ギリシア文化 ぶんか はインドまで広 ひろ がった。 グレコ仏教 ぶっきょう 芸術 げいじゅつ (英語 えいご 版 ばん ) は、ギリシア芸術 げいじゅつ と仏教 ぶっきょう の視覚 しかく 的 てき 表現 ひょうげん とのシンクレティズム (融合 ゆうごう )を表 あらわ していた。ヘラクレウム の古代 こだい エジプト都市 とし (現在 げんざい は水没 すいぼつ )周辺 しゅうへん の19世紀 せいき 末 まつ 以来 いらい の発見 はっけん は、紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき のイシス の描写 びょうしゃ を含 ふく んでいる。 その描写 びょうしゃ はエジプトの女神 めがみ の描写 びょうしゃ には珍 めずら しく官能 かんのう 的 てき で、と同時 どうじ に特色 とくしょく の少 すく ない細 ささ やかさで女性 じょせい 的 てき であり、アレキサンダー大王 だいおう がエジプトを征服 せいふく した時代 じだい のエジプトとヘレニズムの形 かたち を組 く み合 あ わせたものとなっている。
インドのゴア では、ギリシア風 ふう の仏像 ぶつぞう が発見 はっけん された。これらはギリシア人 じん が仏教 ぶっきょう に改宗 かいしゅう したことに起因 きいん しており、彼 かれ らの多 おお くがヘレニズム時代 じだい にゴアに定住 ていじゅう したことが知 し られている[18] [19] 。
テネシー州 しゅう のパルテノン神殿 しんでん (ナッシュビル) にある、元 もと の大 おお きさの「アテーナー・パルテノス (英語 えいご 版 ばん ) 」像 ぞう の再現 さいげん 。
全 すべ ての古代 こだい ギリシア・ローマにおける神殿 しんでん は通常 つうじょう 、小 しょう 広間 ひろま (Cella )に偶像 ぐうぞう があった。小 しょう 広間 ひろま へ行 い くのは様々 さまざま だったが、司祭 しさい とは別 べつ 方向 ほうこう からで、少 すく なくとも一般 いっぱん 的 てき 崇拝 すうはい 者 しゃ の一部 いちぶ は時 とき おり小 しょう 広間 ひろま に行 い くことが可能 かのう だった。けれども神 かみ への犠牲 ぎせい は通常 つうじょう 、神殿 しんでん の境内 けいだい の外側 そとがわ にある祭壇 さいだん (ギリシャ語 ご でTemenos )で行 おこな われた。偶像 ぐうぞう の中 なか には見 み るのが簡単 かんたん で、主要 しゅよう 観光 かんこう スポットと呼 よ ばれたものもあった。像 ぞう は通常 つうじょう だと神 かみ の立像 りつぞう で、元々 もともと は実物 じつぶつ サイズよりも小 ちい さな形 かたち だったが、典型 てんけい 的 てき にはおおむね実物 じつぶつ 大 だい である。中 なか には実物 じつぶつ の何 なん 倍 ばい もの大 おお きさで、大理石 だいりせき やブロンズで作 つく られ、特 とく に高名 こうみょう なクリセラファンティーネ (英語 えいご 版 ばん ) 彫像 ちょうぞう は目 め に見 み える体 からだ の部分 ぶぶん には象牙 ぞうげ を使 つか い、衣服 いふく や木製 もくせい の枠組 わくぐ みの周囲 しゅうい には金 きむ を使用 しよう している(横 よこ の写真 しゃしん 参照 さんしょう )。
最 もっと も有名 ゆうめい なギリシアの偶像 ぐうぞう もこのタイプで、オリンピアのゼウス像 ぞう とペイディアス が作 つく ったアテネのパルテノン神殿 しんでん のアテーナー・パルテノス像 ぞう があるが、どちらの巨大 きょだい な彫像 ちょうぞう も完全 かんぜん に失 うしな われてしまった。デルポイからは2つのクリセラファンティーネ像 ぞう の断片 だんぺん が発掘 はっくつ された。一般 いっぱん に偶像 ぐうぞう は、識別 しきべつ できる象徴 しょうちょう 物 ぶつ を保持 ほじ または身 み に付 つ けており、これは神殿 しんでん と他 た の場所 ばしょ における別 べつ の多 おお くの彫像 ちょうぞう とを区別 くべつ する方法 ほうほう の1つである。
アクロリス (英語 えいご 版 ばん ) は別 べつ の複 ふく 合 ごう 型 がた で、こちらは木製 もくせい の体 からだ を持 も つコスト節約 せつやく 型 がた のものである。ゾアノン (英語 えいご 版 ばん ) は原始 げんし 的 てき かつ象徴 しょうちょう 的 てき な木製 もくせい の像 ぞう で、恐 おそ らくヒンドゥー教 きょう のリンガ (lingam )に匹敵 ひってき する。これらの多 おお くは古代 こだい より保管 ほかん され、崇 あが められていた。 ローマの大理石 だいりせき の複製 ふくせい 品 ひん からよく知 し られているギリシア彫像 ちょうぞう の多 おお くはもともと神殿 しんでん の偶像 ぐうぞう だったもので、バルベリーニのアポローン (英語 えいご 版 ばん ) など一部 いちぶ の例 れい は確実 かくじつ に識別 しきべつ されている。ごく僅 わず かに実際 じっさい のオリジナルが現存 げんそん し、例 たと えばブロンズ像 ぞう でピレウスのアテーナー (英語 えいご 版 ばん ) (高 たか さ2.35m、ヘルメット含 ふく む)がある。
ギリシア神話 しんわ やローマ神話 しんわ において、「パラディウム 」は都市 とし の安全 あんぜん に関 かか わると言 い われていた非常 ひじょう に古代 こだい の像 ぞう であり、特 とく にオデュッセウス とディオメーデース がトロイ の城塞 じょうさい から盗 ぬす んだ木製 もくせい の像 ぞう については、後 のち にアイネイアース によってローマに運 はこ ばれた(ローマの物語 ものがたり は、ウェルギリウス の『アエネーイス 』や他 た の作品 さくひん に関連 かんれん が見 み られる)。
古代 こだい の価値 かち 観 かん で、小 ちい さいほうが良 よ いとされた[20] [21] 。
歴史 れきし 学者 がくしゃ ケネス・J・ドーヴァー (英語 えいご 版 ばん ) は、ペニスが大 おお きいと、愚 おろ かさ、色欲 しきよく 、醜 みにく さを連想 れんそう するため控 ひか えめとなっているとしている[20] 。
^ ギリシア彫刻 ちょうこく で、頭 あたま や露出 ろしゅつ する手足 てあし 部分 ぶぶん を大理石 だいりせき で、胴 どう など衣服 いふく の部分 ぶぶん は他 た の材質 ざいしつ (木材 もくざい や革 かわ など)で作 つく った彫像 ちょうぞう をアクロリス(acrolith)と言 い う。
^ 古代 こだい ギリシアの古代 こだい 木製 もくせい の偶像 ぐうぞう は、現在 げんざい 「ゾアノン(Xoanon )」という名称 めいしょう で呼 よ ばれている。
^ ダイダロス様式 ようしき とは、ギリシア彫刻 ちょうこく 史上 しじょう の最古 さいこ の様式 ようしき で、硬直 こうちょく かつ量 りょう 塊 かたまり 的 てき な彫像 ちょうぞう を特徴 とくちょう とする[14] 。
^ Cook, 19
^ Cook, 74-75
^ Cook, 74-76
^ Cook, 75-76
^ a b c d Brinkmann, Vinzenz (2008). “The Polychromy of Ancient Greek Sculpture” . In Panzanelli, Roberta; Schmidt, Eike D.; Lapatin, Kenneth. The Color of Life: Polychromy in Sculpture from Antiquity to the Present . Los Angeles, California: The J. Paul Getty Museum and the Getty Research Institute. pp. 18-39. ISBN 978-0-89-236-918-8 . https://books.google.com/books?id=2gQesgryr8oC&printsec=frontcover&dq=ancient+Greek+sculptures+were+actually+brightly+painted&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiZgcXvwYjbAhVK5YMKHW2XA20Q6AEIQjAF#v=onepage&q=ancient%20Greek%20sculptures%20were%20actually%20brightly%20painted&f=false
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^ The term xoanon and the ascriptions are both highly problematic . A.A. Donohue's Xoana and the origins of Greek sculpture , 1988, details how the term had a variety of meanings in the ancient world not necessarily to do with the cult objects
^ [1] Archived February 27, 2005, at the Wayback Machine .
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^ “なぜギリシャ彫刻 ちょうこく の男性 だんせい 像 ぞう はペニスの大 おお きさが「控 ひか えめ」なのか…その理由 りゆう を英国 えいこく の歴史 れきし 学者 がくしゃ が解説 かいせつ する 巨 きょ 根 ね を持 も つ人間 にんげん は馬鹿 ばか だと思 おも われていた ”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年 ねん 7月 がつ 6日 にち ). 2023年 ねん 12月18日 にち 閲覧 えつらん 。
Cook, R.M. , Greek Art , Penguin, 1986 (reprint of 1972), ISBN 0140218661
Gagarin, Michael, Elaine Fantham (contributor), The Oxford Encyclopedia of Ancient Greece and Rome, Volume 1 , Oxford University Press, 2010, ISBN 9780195170726
Stele, R. Web. 24 November 2013. http://www.ancientgreece.com/s/Sculpture/
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