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エンタシス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
エンタシスのはしらパルテノン神殿しんでん

エンタシス(entasis)は、建築けんちくにおいて円柱えんちゅう下部かぶもしくはちゅうあいだから、上部じょうぶにかけて徐々じょじょほそくした形状けいじょうはしら

中央ちゅうおう一番いちばんふと場合ばあいもある。直径ちょっけいちがいによるテーパー形状けいじょうゆるやかにふくらみがある場合ばあいおおい。

エンタシスをほどこしたはしらしたから見上みあげると、ぐな円柱えんちゅうよりも安定あんていしてえる錯覚さっかくむため巨大きょだい建築けんちくぶつはしらもちいられ、現代げんだい建築けんちくでも使用しようされている構法である。

概要がいよう

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「エンタシス」のかたりローマ建築けんちくいえウィトルウィウスもちいたのが最初さいしょであり、「る」「きつくばす」などの意味いみつギリシャ「εντείνω (enteino)」に由来ゆらいする。

古代こだいギリシャ神殿しんでん建築けんちくもちいられたものが有名ゆうめいだが、ひがしアジア伝統でんとう建築けんちくでもたようなテクニックがもちいられており、日本語にほんごでは「どうり」とばれる。中国ちゅうごくきたそう時代じだい建築けんちくしょ営造えいぞう法式ほうしき』にも記載きさいされており、うえかってほそくなるものや、はしらしたから1/3のところもっとふとくなるものなどがある。

どう

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ひがしアジアの歴史れきしてき建築けんちくにみられるはしらのふくらみを、日本にっぽんでは「どうり」または「徳利とっくりばしら」とぶ。はしらしたから1/3のところもっとふとくなるタイプのエンタシスである。

奈良なら時代じだい前期ぜんき法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどうには見事みごとどうりがあるが、時代じだいくだるにつれ、海龍かいりゅう王寺おうじじゅうしょうとうではどうりがすくなくなり、唐招提寺とうしょうだいじ金堂こんどうではごくわずかになり、平安へいあん時代じだい前期ぜんき消滅しょうめつしたと推測すいそくできる[1]

鎌倉かまくら時代ときよ中国ちゅうごくからだい仏様ほとけさま禅宗ぜんしゅうさま日本にっぽんつたえられ、はしら上下じょうげはしほそくしたエンタシス類似るいじ曲線きょくせんはしら流行りゅうこうしたが、これは「エンタシス」や「どうり」とはばず「ちまきがた(ちまきがた)」とう。

韓国かんこくではどうりのはしらもちいた仏堂ぶつどう現代げんだいいたるまで建築けんちくされている。歴史れきしてき建造けんぞうぶつとしては、高麗こうらい時代じだい浮石うきいしてら無量むりょう寿ひさし殿どの国宝こくほうだい18ごう)やこうりょう客舎かくしゃもん韓国かんこく国宝こくほうだい51ごう)などがある。ベトナムでもちょうひねあさ時代じだいからあったようだが、当地とうち高温こうおん多湿たしつ木造もくぞう建築けんちくくさりやすいということもあり、15世紀せいき以前いぜん木造もくぞう建造けんぞうぶつがほとんどのこっていない。それゆえくわしくわかっていないが、大悲だいひてらこうはじむあさ前期ぜんき現在げんざい金蓮寺かなはすじ)などの発掘はっくつ調査ちょうさによってエンタシスのはしらつかっている。

営造えいぞう法式ほうしき』でははしら形式けいしきがまとめられており、たとえば中国ちゅうごく世界せかい遺産いさんふつこうてら大殿おおいどのなどで使つかわれている、上方かみがた1/3がすぼまったタイプのはしらが「梭柱」と名前なまえであるが、これも英語えいごの「entasis」にふく場合ばあいがある(「はしら上方かみがたがすぼまっているものはすべてentasis」と広義こうぎ分類ぶんるいによる)。日本にっぽんでは、法隆寺ほうりゅうじにあるはしら形式けいしきはギリシャのエンタシスばしらシルクロードとおしてつたわったとされた時期じきもあったが、経由けいゆ周辺しゅうへんへの伝播でんぱつからず、現在げんざいでは俗説ぞくせつとされる(後述こうじゅつ)。

中国ちゅうごくでは法隆寺ほうりゅうじにあるようなタイプのどうりはのこっておらず、はや時期じきすたれてしまったとられる。しかしかきわんがけこうかん時代じだい)やよし慈恵じえ石柱せきちゅう南北なんぼくあさ時代じだい)などの遺跡いせきえがかれた石刻せっこくばしらかぎりでは、おそらく古代こだいには存在そんざいしたと推測すいそくされており、中国ちゅうごくから韓国かんこく日本にっぽんへと伝播でんぱしたとかんがえられている。

法隆寺ほうりゅうじどうりの起源きげん古代こだいギリシャのエンタシス」せつ

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1893ねん日本にっぽん明治めいじ時代じだい)、帝国ていこく大学だいがく現在げんざい東大とうだい院生いんせい伊東いとう忠太ちゅうたが、法隆寺ほうりゅうじどうりの起源きげん古代こだいギリシャにあるとする論文ろんぶん学位がくい論文ろんぶん)「法隆寺ほうりゅうじ建築けんちくろん」を発表はっぴょうした。このせつかずつじ哲郎てつろう昭和しょうわ時代じだい発表はっぴょうしたエッセイ『古寺ふるでら巡礼じゅんれい』によってとく有名ゆうめいとなった。

ただし、建築けんちく藤森ふじもりあきらしんによると、このせつ建築けんちくてきには「ウソ」とのこと[2]。このせつまれた背景はいけいには、明治めいじ時代じだい日本にっぽん建築けんちくにおいて、「日本にっぽん建築けんちく西洋せいよう建築けんちくたいしておくれたものである」というおおきな劣等れっとうかんがあったため、ヨーロッパ文化ぶんか原点げんてんであるギリシャと日本にっぽん建築けんちくがつながっていることをしめねらいがあったという。

ギリシャ美術びじゅつ研究けんきゅう前田まえだ正明まさあきも、ギリシャ建築けんちく様式ようしきとその周辺しゅうへん諸国しょこくへの伝播でんぱ経緯けいいから考察こうさつし、「たとえそこにエンタシスがられるからといってこの法隆寺ほうりゅうじ中門ちゅうもん金堂こんどう内陣ないじんなどのはしらをドリス様式ようしき影響えいきょうるのはあやまりである。」と否定ひていしている[3]

伊東いとう自説じせつ証明しょうめいするため、中国ちゅうごくからインド、トルコなどをてギリシャまで3ねんがかりで徒歩とほ旅行りょこうしたが、日本にっぽんとギリシャ以外いがいのどこにもエンタシスのはしらつけることはできず、結局けっきょくこのせつ証明しょうめいすることは出来できなかった。なお伊東いとうはアジアでの調査ちょうさちゅう浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ法主ほっしゅ大谷おおや光瑞こうずいひきいる大谷おおや探検たんけんたい遭遇そうぐうしたことがきっかけで交流こうりゅうはじまり、築地つきじ本願寺ほんがんじ設計せっけい依頼いらいけることとなった。

参照さんしょう

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  1. ^ 近藤こんどうゆたか建築けんちく細部さいぶ意匠いしょう大河おおかわ出版しゅっぱん、p.31
  2. ^ 藤森ふじもりあきらしん×山口やまぐちあきら 日本にっぽん建築けんちく集中しゅうちゅう講義こうぎあわ交社 p.13
  3. ^ 前田まえだ正明まさあき『ギリシアの美術びじゅつさ・え・ら』 「法隆寺ほうりゅうじのエンタシス論争ろんそう再考さいこうにち貿出版しゅっぱんしゃ p.202

外部がいぶリンク

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