アクロポリス博物館 はくぶつかん (アクロポリスはくぶつかん、ギリシア語 ご : Μουσείο Ακρόπολης , 英語 えいご : Acropolis Museum )は、アテネのアクロポリス の発掘 はっくつ 現場 げんば から出土 しゅつど した文化財 ぶんかざい を中心 ちゅうしん に収蔵 しゅうぞう ・展示 てんじ している考古 こうこ 博物館 はくぶつかん である。
現在 げんざい のアクロポリス博物館 はくぶつかん は新 あたら しく建 た てられたものなので、区別 くべつ のために新 しん アクロポリス博物館 はくぶつかん (New Acropolis Museum ) とも呼 よ ばれる。
Makrygianni の考古 こうこ 遺跡 いせき 、ローマ時代 じだい や東 ひがし ローマ時代 じだい の遺構 いこう の上 うえ に建 た てられている。アクロポリスの岩山 いわやま の上 うわ や麓 ふもと で出土 しゅつど した、青銅器 せいどうき 時代 じだい から古代 こだい ギリシア ・ローマ属 ぞく 州 しゅう ・東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい を中心 ちゅうしん とした工芸 こうげい 品 ひん などを収蔵 しゅうぞう している。1万 まん 4000平方 へいほう メートル の展示 てんじ スペースに4000点 てん 近 ちか くが展示 てんじ されている。
この建物 たてもの 自体 じたい は2003年 ねん に着工 ちゃっこう され、2008年 ねん に博物館 はくぶつかん の組織 そしき が結成 けっせい された。開館 かいかん は2009年 ねん 6月21日 にち 。建設 けんせつ プロジェクトを指揮 しき したのはテッサロニキ・アリストテレス大学 だいがく の考古学 こうこがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ ディミトリオス・パンデルマリス Dimitrios Pandermalis で、現 げん 館長 かんちょう である。
旧 きゅう アクロポリス博物館 はくぶつかん [ 編集 へんしゅう ]
かつてのアクロポリス博物館 はくぶつかん (区別 くべつ のため旧 きゅう アクロポリス博物館 はくぶつかん と呼 よ ばれる)は、1865年 ねん から1874年 ねん にかけて、アクロポリスの東 ひがし 斜面 しゃめん に建設 けんせつ された。
しかしアクロポリスの発掘 はっくつ が進 すす むにつれ、1950年代 ねんだい に若干 じゃっかん 拡張 かくちょう されたものの、出土 しゅつど 品 ひん の量 りょう が旧 きゅう 博物館 はくぶつかん の収蔵 しゅうぞう 容量 ようりょう を超 こ えてしまった。
新 しん 博物館 はくぶつかん 建設 けんせつ のもう1つの動機 どうき として、かつてイギリスがアクロポリスから持 も ち去 さ ったエルギン・マーブル の返還 へんかん をギリシャ政府 せいふ が要求 ようきゅう した際 さい 、たとえ返還 へんかん してもギリシャには展示 てんじ に適 てき した博物館 はくぶつかん がないとイギリスの高官 こうかん から示唆 しさ された件 けん がある。最近 さいきん ではエルギン・マーブルの展示 てんじ 用 よう ギャラリーの建設 けんせつ が新 しん 博物館 はくぶつかん 設計 せっけい にあたっての重要 じゅうよう な鍵 かぎ となっていた。
新 しん 博物館 はくぶつかん の設計 せっけい コンペ[ 編集 へんしゅう ]
このように発掘 はっくつ 現場 げんば の上 うえ に新 しん 博物館 はくぶつかん が建設 けんせつ された。
最初 さいしょ の建築 けんちく 設計 せっけい 競技 きょうぎ (コンペ)は1976年 ねん に開催 かいさい されたが、参加 さんか 資格 しかく がギリシャ人 じん のみに制限 せいげん されていた。1976年 ねん と1979年 ねん のコンペでは、建設 けんせつ 予定 よてい 地 ち に合 あ った設計 せっけい 案 あん が出 で ず、失敗 しっぱい に終 お わった。
1989年 ねん 、3度目 どめ のコンペは国際 こくさい 的 てき に開催 かいさい されることが発表 はっぴょう された。建設 けんせつ 予定 よてい 地 ち は3カ所 かしょ から選択 せんたく 可能 かのう だった。このコンペではイタリアの設計 せっけい チーム(NicolettiとPassarelli)が勝利 しょうり した。この3度目 どめ の設計 せっけい 案 あん に基 もと づいて1990年代 ねんだい に慎重 しんちょう に予定 よてい 地 ち の発掘 はっくつ 調査 ちょうさ を行 おこな ったところ、考古学 こうこがく 的 てき に非常 ひじょう に貴重 きちょう な遺構 いこう が見 み つかり、1999年 ねん にこのコンペの結果 けっか は無効 むこう となった。新 しん 博物館 はくぶつかん の建設 けんせつ 予定 よてい 地 ち はやや簡単 かんたん に決定 けってい された。それは、ディオニューソス劇場 げきじょう の向 む かいにあった Camp Makrygianni という既 すで に使 つか われていない憲兵 けんぺい 隊 たい 兵舎 へいしゃ の大 おお きな区画 くかく である。兵舎 へいしゃ の敷地 しきち は公有 こうゆう 地 ち で、周辺 しゅうへん の少数 しょうすう の個人 こじん 宅 たく だけ買収 ばいしゅう すればよいという利点 りてん があった。兵舎 へいしゃ のメインの建物 たてもの は新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の Weiler Building で、そのまま改修 かいしゅう されて、Museum of the Center for the Acropolis Studies が入居 にゅうきょ する建物 たてもの として新 しん 博物館 はくぶつかん に組 く み込 こ まれることになった。
4回 かい 目 め のコンペでは、建設 けんせつ 予定 よてい 地 ち から遺跡 いせき が見 み つかった場合 ばあい の対策 たいさく を何 なに も立 た てなかった。このミスは国際 こくさい 記念 きねん 物 ぶつ 遺跡 いせき 会議 かいぎ (ICOMOS) などでも指摘 してき されてから初 はじ めて最小限 さいしょうげん の対策 たいさく がとられ、コンペが開催 かいさい されることになった。対策 たいさく とは、建物 たてもの 全体 ぜんたい を柱 はしら で支 ささ えて接地 せっち 面積 めんせき を最小限 さいしょうげん にするというものだった。コンペは建築 けんちく 経験 けいけん 者 しゃ を指名 しめい する形 かたち で行 おこな われ、建築 けんちく 家 か ベルナール・チュミ とギリシャの Michael Photiadis のチームが勝利 しょうり した。
2002年 ねん 、建設 けんせつ 工事 こうじ が始 はじ まった。当初 とうしょ 計画 けいかく では2004年 ねん のアテネオリンピック にまでに開館 かいかん する予定 よてい だったが、住民 じゅうみん の立 た ち退 の き拒否 きょひ 、遺跡 いせき 保全 ほぜん 問題 もんだい や景観 けいかん 問題 もんだい による反対 はんたい 運動 うんどう などにより、大幅 おおはば に遅 おく れることとなった。
発掘 はっくつ によって出 で てきたのは個人 こじん の普通 ふつう の家 いえ と工房 こうぼう の2層 そう の遺構 いこう で、上層 じょうそう は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 初期 しょき のもの、下層 かそう は古典 こてん 期 き のものだった。全体 ぜんたい の配置 はいち と層 そう 序 じょ の分析 ぶんせき が済 す むと、柱 はしら を立 た てるのに適 てき した場所 ばしょ が特定 とくてい された。柱 はしら の基礎 きそ を土壌 どじょう 層 そう を突 つ っ切 き って基盤 きばん 岩 がん に設置 せっち し、そこにころ軸受 じくうけ を置 お いた上 うえ で柱 はしら を立 た て、マグニチュード 10の地震 じしん にも耐 た えられるようにした。
建設 けんせつ が完了 かんりょう に近 ちか づいた2007年 ねん 10月、歴史 れきし 的 てき 遺物 いぶつ をアクロポリスの岩 いわ の上 うえ にある旧 きゅう 博物館 はくぶつかん から新 しん 博物館 はくぶつかん までの 280 meters (310 yd) の距離 きょり を運 はこ ぶ作戦 さくせん が開始 かいし された。3つの大型 おおがた クレーン を使 つか い、4カ月 かげつ かけて彫像 ちょうぞう などが運 はこ ばれた。ギリシャ政府 せいふ は新 しん 博物館 はくぶつかん がエルギン・マーブル 返還 へんかん 運動 うんどう の一助 いちじょ となることを望 のぞ むという声明 せいめい を発表 はっぴょう した[2] [3] 。
2008年 ねん 、ギリシャ政府 せいふ は新 しん 博物館 はくぶつかん とアクロポリスを描 えが いた10ユーロ 記念 きねん 硬貨 こうか を発行 はっこう した。
パルテノン神殿 しんでん (左 ひだり )とアクロポリス博物館 はくぶつかん (右 みぎ )
この博物館 はくぶつかん はアクロポリスの南西 なんせい 斜面 しゃめん に位置 いち し、古代 こだい の「聖 せい なる岩 いわ 」に向 む かう道 みち の上 うえ にある。パルテノン神殿 しんでん との直線 ちょくせん 距離 きょり はわずか 280 meters (310 yd) で、歩道 ほどう の道 みち のりでも 400 meters (440 yd) しかない。古代 こだい 遺跡 いせき にこれほど近 ちか い場所 ばしょ に建 た てられた現代 げんだい 的 てき 博物館 はくぶつかん としては最大 さいだい のものだが、アクロポリスには150年 ねん も前 まえ からもっと近 ちか くに普通 ふつう の建物 たてもの が多数 たすう 存在 そんざい した。正面 しょうめん 玄関 げんかん のすぐ前 まえ にはアテネ地下鉄 ちかてつ 2号線 ごうせん のアクロポリ駅 えき がある。
ベルナール・チュミ の設計 せっけい は4回 かい 目 め のコンペで選 えら ばれた。チュミの設計 せっけい は、「光 ひかり 」や「動 うご き」といった概念 がいねん と、立地 りっち やコンペで設定 せってい された条件 じょうけん を中心 ちゅうしん としている。これらの特徴 とくちょう と共 とも に、制約 せいやく 条件 じょうけん を建築 けんちく 上 じょう のチャンスと捉 とら え、ギリシア建築 けんちく の数学 すうがく 的 てき かつ概念的 がいねんてき 明晰 めいせき さを備 そな えた単純 たんじゅん で明解 めいかい な博物館 はくぶつかん となった。
内部 ないぶ
収蔵 しゅうぞう 品 ひん は3階 かい に分 わ けて展示 てんじ されており、4階 かい にはショップ、カフェ、オフィスなどがある。1階 かい にはアクロポリスの斜面 しゃめん で出土 しゅつど したものが展示 てんじ されている。床 ゆか に傾斜 けいしゃ のついた細長 ほそなが い長方形 ちょうほうけい のホールはアクロポリスに登 のぼ っていく斜面 しゃめん に似 に ており、2階 かい に続 つづ いている。次 つぎ にあるのは古代 こだい の出土 しゅつど 品 ひん を収容 しゅうよう している大 おお きな台形 だいけい のホールである。同 おな じ階 かい にはエレクテイオン 、アテーナー・ニーケー神殿 しんでん 、プロピュライア などのアクロポリス上 じょう の建築 けんちく 物 ぶつ にあった彫像 ちょうぞう や工芸 こうげい 品 ひん 、古代 こだい ローマ時代 じだい や初期 しょき キリスト教 きりすときょう にまつわる出土 しゅつど 品 ひん もある。ただし、後者 こうしゃ は上 うえ 階 かい を見 み てから降 お りていく際 さい に見 み るようになっており、見学 けんがく 者 しゃ は先 さき に3階 かい のパルテノン神殿 しんでん の大理石 だいりせき 像 ぞう 群 ぐん を見 み てからそちらに回 まわ っていくことになる。つまり、ほぼ年代 ねんだい 順 じゅん に展示 てんじ されている。パルテノン・ギャラリーはアクロポリス上 じょう のパルテノン神殿 しんでん と同 おな じ向 む きになっており、ガラス張 がらすば りになっているので自然 しぜん 光 こう が入 はい るようになっている。同 どう ギャラリーには、略奪 りゃくだつ されたエルギン・マーブル の精巧 せいこう なレプリカが、オリジナルの彫刻 ちょうこく と共 とも に展示 てんじ されている。
この博物館 はくぶつかん の下 した の地面 じめん には考古 こうこ 遺跡 いせき が広 ひろ がっており、1階 かい の床 ゆか のあちこちが透明 とうめい になっていて、下 した で続行 ぞっこう されている発掘 はっくつ の様子 ようす を見 み ることができる。また、舞台 ぶたい 、バーチャル・シアター、特別 とくべつ 展示 てんじ 用 よう スペースなどもある。
建築 けんちく についての論争 ろんそう [ 編集 へんしゅう ]
考古 こうこ 遺跡 いせき の上 うえ に博物館 はくぶつかん を建設 けんせつ することの是非 ぜひ については議論 ぎろん が巻 ま き起 お こった。また、大 おお きな現代 げんだい 建築 けんちく がこの場所 ばしょ の風景 ふうけい にふさわしいかどうかという懸念 けねん もあった[4] 。
2007年 ねん 、隣接 りんせつ する2つの歴史 れきし 的 てき 建物 たてもの を取 と り壊 こわ すという案 あん についても議論 ぎろん が巻 ま き起 お こった[5] 。これらの建物 たてもの は博物館 はくぶつかん とアクロポリスの間 あいだ にある。ベルナール・チュミは、それらの建物 たてもの と4階 かい 建 だ てほどの高 たか さのある木々 きぎ を除去 じょきょ した場合 ばあい の博物館 はくぶつかん からの眺 なが めを合成 ごうせい して画像 がぞう で示 しめ した。これらの建物 たてもの の1つは新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく [6] 、もう1つはアール・デコ 様式 ようしき の一 いち 例 れい [5] [6] だったが、ギリシャ 政府 せいふ はこれらを歴史 れきし 的 てき 建造 けんぞう 物 ぶつ のリストから外 はず した。取 と り壊 こわ し案 あん への抗議 こうぎ はINTBAU [5] やICOMOS [6] といった国際 こくさい 機関 きかん からも寄 よ せられた。
議論 ぎろん の中心 ちゅうしん に、取 と り壊 こわ し対象 たいしょう とされた新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく の家 いえ の所有 しょゆう 者 しゃ である作曲 さっきょく 家 か ヴァンゲリス がいる。ギリシャ当局 とうきょく によれば、その建物 たてもの はアクロポリスの南 みなみ 斜面 しゃめん にある古代 こだい のディオニューソス劇場 げきじょう の眺 なが めを遮 さえぎ っているという。これに対 たい してヴァンゲリスは、彼 かれ の家 いえ を含 ふく めた取 と り壊 こわ し対象 たいしょう の一 いち 画 かく が新 しん 博物館 はくぶつかん の食堂 しょくどう からの眺 なが めを遮 さえぎ っていることが真 しん の取 と り壊 こわ し理由 りゆう だと主張 しゅちょう し、ギリシャ政府 せいふ による「建築 けんちく 上 じょう のテロリズム」だと非難 ひなん した。最近 さいきん では、これらの建物 たてもの のファサード だけを隣 となり の区画 くかく に移 うつ して保存 ほぞん するという提案 ていあん がなされている。
脚注 きゃくちゅう ・出典 しゅってん [ 編集 へんしゅう ]
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