新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく (しんこてんしゅぎけんちく、英 えい : Neoclassical Architecture )は、18世紀 せいき 後期 こうき に、啓蒙 けいもう 思想 しそう や革命 かくめい 精神 せいしん を背景 はいけい として、フランス で興 おこ った建築 けんちく 様式 ようしき 。ロココ芸術 げいじゅつ の過剰 かじょう な装飾 そうしょく 性 せい や軽薄 けいはく さに対 たい する反動 はんどう として荘厳 そうごん さや崇高 すうこう 美 び を備 そな えた建築 けんちく が模索 もさく されたが、やがて19世紀 せいき の歴史 れきし 主義 しゅぎ 、様式 ようしき 濫用 らんよう の中 なか に埋没 まいぼつ した。
パンテオン
たんなる古代 こだい の復興 ふっこう にとどまらず、当時 とうじ の政治 せいじ 情況 じょうきょう とも関連 かんれん していた。ルイ15世 せい の時代 じだい を中心 ちゅうしん に展開 てんかい したロココ様式 ようしき の官能 かんのう 性 せい や通俗 つうぞく 性 せい に対 たい し、論理 ろんり 的 てき で厳粛 げんしゅく な、啓蒙 けいもう 的 てき 性格 せいかく をもつ様式 ようしき におきかえようとする動 うご きが広 ひろ がっていった。その後 ご 、革命 かくめい 運動 うんどう をへてフランスとアメリカに共和 きょうわ 国 こく が樹立 じゅりつ されると、古代 こだい ギリシャ や共和 きょうわ 政 せい 時代 じだい の古代 こだい ローマ民主 みんしゅ 主義 しゅぎ との結 むす び付 つ きから、新 しん 政府 せいふ の指導 しどう 者 しゃ たちは公式 こうしき の美術 びじゅつ として新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ を採用 さいよう した。しかしナポレオン がフランスで権力 けんりょく の座 ざ につくと、この様式 ようしき はナポレオンの宣伝 せんでん 効果 こうか をあげるためのものに変質 へんしつ する。またロマン主義 しゅぎ の台頭 たいとう にともない、個人 こじん 的 てき な表現 ひょうげん に対 たい する好 この みが固定 こてい 的 てき な理想 りそう 的 てき 価値 かち 観 かん にもとづく美術 びじゅつ にとってかわることになった。
新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ という名称 めいしょう は、その格式 かくしき ばった様式 ようしき に対 たい する蔑称 べっしょう として19世紀 せいき に考案 こうあん された呼 よ び方 かた である。また、ナチス やファシスト党 とう において、国家 こっか 的 てき モニュメントに新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ が採用 さいよう されたため、その歴史 れきし 的 てき 意義 いぎ について否定 ひてい 的 てき な見方 みかた をされることもある。
しかし、18世紀 せいき にこの様式 ようしき が勃興 ぼっこう した当初 とうしょ は「真 しん の様式 ようしき 」と呼 よ ばれ、古代 こだい または始 はじめ 源 げん に存在 そんざい したとされる真理 しんり を再生 さいせい ・復興 ふっこう することを目的 もくてき とした画期的 かっきてき な建築 けんちく 運動 うんどう であった。美 び を具現 ぐげん する唯一 ゆいいつ の様式 ようしき としてイギリス 、ドイツ 諸国 しょこく に波及 はきゅう したという意味 いみ で一種 いっしゅ の普遍 ふへん 性 せい があり、その建築 けんちく 思想 しそう はモダニズム建築 けんちく にも受 う け継 つ がれている。
サン・シュルピス教会 きょうかい 正面 しょうめん
新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ は、18世紀 せいき 中頃 なかごろ のフランスにおいて急速 きゅうそく に成熟 せいじゅく したが、基本 きほん となる建築 けんちく 形態 けいたい や理念 りねん は、クロード・ペロー やジャン・ルイ・ド・コルドモワ といった前 ぜん 世紀 せいき のフランスの建築 けんちく 家 か 、建築 けんちく 理論 りろん 家 か たちによってすでに用意 ようい されていた。
その萌芽 ほうが は、1732年 ねん に設計 せっけい 競技 きょうぎ が行 おこな われたパリ のサン・シュルピス教会 きょうかい ファサードに現 あらわ れている。しばしば前 ぜん 新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ と評 ひょう されるこのファサードは、ジョヴァンニ・ニッコロ・セルヴァンドーニ によって設計 せっけい された。工事 こうじ の進捗 しんちょく 状 じょう 況 きょう が遅 おそ かったため、彼 かれ は当初 とうしょ 計画 けいかく した平凡 へいぼん なバロック様式 ようしき のデザインを変更 へんこう し続 つづ け、水平 すいへい のラインを直線 ちょくせん 的 てき な構成 こうせい でまとめあげた。塔 とう の間 あいだ には巨大 きょだい な破風 はふ (ペディメント)があったが、1770年 ねん の被 ひ 雷 かみなり によって取 と り外 はず され、最終 さいしゅう 的 てき に水平 すいへい と垂直 すいちょく のラインが強調 きょうちょう されたギリシア神殿 しんでん を思 おも わせるファサードが完成 かんせい した。
『建築 けんちく 試論 しろん 』第 だい 二 に 版 はん の口絵 くちえ 原始 げんし の小屋 こや
新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の最初 さいしょ の転換 てんかん 点 てん となったのは、1753年 ねん に刊行 かんこう されたマルク・アントワーヌ・ロジエ の著作 ちょさく 『建築 けんちく 試論 しろん (Essai sur l’architecture)』である。ロージエは建築 けんちく の原始 げんし 的 てき 形態 けいたい にまで遡 さかのぼ り、柱 はしら ・梁 りょう (エンタブラチュア )・破風 はふ (ペディメント )の要素 ようそ のみで構成 こうせい された建築 けんちく (「原始 げんし の小屋 こや 」)が、真 しん の古典 こてん 建築 けんちく の規範 きはん であると考 かんが えた。ウィトルウィウス の理論 りろん が建築 けんちく 各部 かくぶ の意味 いみ をギリシア建築 けんちく に由来 ゆらい するものとして解説 かいせつ しているのに対 たい し、ロージエのそれは、あらゆる文明 ぶんめい の発祥 はっしょう に適用 てきよう するとのできる状態 じょうたい にまで還元 かんげん したものである。もっとも、これは想像 そうぞう 上 じょう の起原 きげん にすぎず、実証 じっしょう 性 せい に関 かん しては無 む 担保 たんぽ であったのだが、試論 しろん はすぐ各国 かっこく 語 ご に翻訳 ほんやく され、ヨーロッパの建築 けんちく 思想 しそう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
ジャック・ジェルメン・スフロ は、1755年 ねん に計画 けいかく されたパリのサント・ジュヌヴィエーヴ教会堂 きょうかいどう (革命 かくめい 後 ご はパンテオン と称 しょう される)で、ロージエの理想 りそう を最初 さいしょ に実現 じつげん した。全体 ぜんたい 構成 こうせい はロージェの考 かんが え方 かた に沿 そ ってはいるが、スフロ自身 じしん は様式 ようしき の問題 もんだい よりもむしろゴシック建築 けんちく などの構造 こうぞう 的 てき 問題 もんだい に関心 かんしん を持 も っており、様式 ようしき については曖昧 あいまい で折衷 せっちゅう 的 てき な部分 ぶぶん もあったので、この建築 けんちく はあまり厳格 げんかく にロジエの理念 りねん を反映 はんえい しているわけではない。事実 じじつ 、ロージエはドームを支 ささ えるピアの付 づけ 柱 ばしら をバロック的 てき 意匠 いしょう として非難 ひなん しているし、スフロの意匠 いしょう は継承 けいしょう されることがなかった。
エトワール凱旋 がいせん 門 もん
新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の潮流 ちょうりゅう は、オデオン座 ざ の設計 せっけい 者 しゃ マリ・ジョゼフ・ペール とシャル・ド・ヴァイイ 、ボルドー劇場 げきじょう のヴィクトール・ルイ 、バガテルのフランソワ・ジョゼフ・ベランジェ 、エトワール凱旋 がいせん 門 もん を設計 せっけい したジャン・フランソワ・テレーズ・シャルグラン らによって引 ひ き継 つ がれた。彼 かれ らには革命 かくめい 的 てき な建築 けんちく 運動 うんどう に携 たずさ わっているという自負 じふ があり、建築 けんちく によって社会 しゃかい が完全 かんぜん に刷新 さっしん することを信 しん じた。彼 かれ らに共通 きょうつう する要素 ようそ は、厳格 げんかく な立方体 りっぽうたい のシルエット、直線 ちょくせん 的 てき な構成 こうせい 、半円 はんえん のドーム、コリント式 しき やイオニア式 しき よりもドーリア式 しき とトスカナ式 しき のオーダーを好 この んだことである。なかでもジャック・フランソワ・ブロンデル の弟子 でし 、エティエンヌ・ルイ・ブーレー とクロード・ニコラ・ルドゥー は最 もっと も革新 かくしん 的 てき であり、絶大 ぜつだい な影響 えいきょう 力 りょく を持 も った。
いわゆる幻視 げんし の建築 けんちく 家 か として知 し られるブーレーは、建築 けんちく 教師 きょうし として活躍 かつやく し、実 み 作 さく はパリのアレクサンドル邸 てい のほか少数 しょうすう が知 し られるのみである。彼 かれ のデザインしたサント・ジュヌヴィエーヴを巨大 きょだい 化 か させたような大 だい 教会 きょうかい 、ピラミッド型 がた の霊廟 れいびょう 、超 ちょう 巨 きょ 大 だい ヴォールトに覆 おお われた国立 こくりつ 図書館 としょかん 、そしてニュートン記念 きねん 堂 どう などの巨大 きょだい 建築 けんちく の計画 けいかく 案 あん は、対称 たいしょう 性 せい が重視 じゅうし され、球体 きゅうたい などの幾何 きか 学 がく 的 てき マッスが強調 きょうちょう された崇高 すうこう なものであった。彼 かれ の影響 えいきょう は、ピエール・フランソワ・レオナール・フォンテーヌ の大 だい 帝国 ていこく の君主 くんしゅ たちの記念 きねん 碑 ひ や、アントワーヌ・ロラン・トマ・ヴォドワイエ のコスリタンの家 いえ などに見 み ることができる。
ブーレーとは対照 たいしょう 的 てき に、ルドゥー は建築 けんちく 実務 じつむ を好 この み、理想 りそう 的 てき な建築 けんちく よりはむしろ実用 じつよう 的 てき な建築 けんちく のデザインを行 おこな った。幾何 きか 学 がく 的 てき 形態 けいたい を複雑 ふくざつ に組 く み合 あ わせた彼 かれ の建築 けんちく は奇妙 きみょう かつ散漫 さんまん であり、入 いり 市 し 関税 かんぜい 門 もん 、ショーの製塩 せいえん 工場 こうじょう とそこに計画 けいかく された理想 りそう 都市 とし の建築 けんちく (セノビ、オイケマ、墓地 ぼち )、皇太子 こうたいし の狩猟 しゅりょう 小屋 こや などは未熟 みじゅく な建築 けんちく とみなされたが、全 すべ てにおいて独特 どくとく の力強 ちからづよ さを持 も っている。
マドレーヌ寺院 じいん
ブルボン宮殿 きゅうでん
フランス革命 かくめい とそれに続 つづ く時代 じだい はフランスの建築 けんちく 活動 かつどう を著 いちじる しく衰退 すいたい させた。ナポレオンは大 だい 規模 きぼ なプロジェクトを積極 せっきょく 的 てき に推進 すいしん したが、すでに新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ はその躍動 やくどう 的 てき なエネルギーを失 うしな っていたと言 い える。1807年 ねん に完成 かんせい したアレクサンドル・ピエール・ヴィニョン によるマドレーヌ寺院 じいん (ラ・マドレーヌとも表記 ひょうき される。)や、ベルナール・ポワイエ によって1808年 ねん に竣工 しゅんこう したブルボン宮殿 きゅうでん (現 げん 下院 かいん 議事堂 ぎじどう )のコリント式 しき 列 れつ 柱 ばしら を持 も つファサードは、古代 こだい ローマ建築 けんちく の単 たん なる模倣 もほう にすぎない。
シャルル・ペルシエ とフォンテーヌは同 どう 時代 じだい の優 すぐ れた建築 けんちく 家 か であり、1799年 ねん に皇后 こうごう ジョゼフィーヌのために改装 かいそう したマルメゾン城 じょう では、後 のち にアンピール様式 ようしき (帝政 ていせい 様式 ようしき 、Empire )と呼 よ ばれる対比 たいひ を強調 きょうちょう した歯切 はぎ れのよいデザインを表現 ひょうげん したが、全体 ぜんたい としては主 おも にルネサンス建築 けんちく からの着想 ちゃくそう を織 お りまぜた折衷 せっちゅう 様式 ようしき である。彼 かれ らはナポレオンの命 いのち により、1801年 ねん にはテュイルリー宮殿 きゅうでん の工事 こうじ を行 おこな い、これとルーヴル宮殿 きゅうでん を繋 つな ぐ連絡 れんらく 路 ろ を計画 けいかく した。1808年 ねん には、ルーヴル宮殿 きゅうでん の内装 ないそう 工事 こうじ に着手 ちゃくしゅ している。これらアンピール様式 ようしき のデザインはいずれも新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく の新 あら たな展開 てんかい には成 な り得 え ていないが、(多 おお くの場合 ばあい 、侮蔑 ぶべつ 的 てき に)新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の最盛 さいせい 期 き とみなされている。
ルーヴル宮殿 きゅうでん
ナポレオンの失脚 しっきゃく 後 ご 、大型 おおがた プロジェクトは失効 しっこう し建築 けんちく 活動 かつどう は再 ふたた び低迷 ていめい した。この時期 じき の新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく において主導 しゅどう 的 てき な役割 やくわり を果 は たしたのは、疑 うたが いなくベルリンのフリードリッヒ・ジリーであって、フランスでは、美術 びじゅつ アカデミー書記 しょき 長 ちょう であったキャトルメール・ド・カンシー が建築 けんちく を指導 しどう していたが、それほど重要 じゅうよう な動向 どうこう はなかった。カンシーは実際 じっさい の芸術 げいじゅつ 活動 かつどう においては優 すぐ れた作品 さくひん を残 のこ すことはなく、ギリシア芸術 げいじゅつ を理想 りそう としながら、好 この みは疑 うたが いなく古代 こだい ローマのものであった。ルイ・ピエール・バルタール のリヨン裁判所 さいばんしょ やルイ・イポリト・ルバ によるノートルダム・ド・ロレット教会 きょうかい などはカンシー主導 しゅどう によるコンクールで選 えら ばれたものである。
革命 かくめい 以後 いご 、すでに新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ は唯一 ゆいいつ 絶対 ぜったい の建築 けんちく 様式 ようしき ではなく、建築 けんちく 家 か たちは自 みずか らの建築 けんちく 様式 ようしき に対 たい して、次第 しだい に多様 たよう なアプローチを採 と り始 はじ めた。ジャック・イニャス・イトルフ は、ギリシア建築 けんちく は華美 かび な彩色 さいしき が施 ほどこ されたことを主張 しゅちょう し、シャン・ゼリゼに彩色 さいしき を施 ほどこ したパノラマ 館 かん と冬 ふゆ のサーカス館 かん をデザインした。1830年 ねん に起工 きこう したサン・ヴァンサン・ド・ポール教会 きょうかい は彼 かれ の主要 しゅよう 作品 さくひん である。その外観 がいかん は迫力 はくりょく に欠 か け、生気 せいき がないが、内部 ないぶ 空間 くうかん は、ギリシア建築 けんちく が華 はな やかなものであったとする彼 かれ の持論 じろん を見事 みごと に具現 ぐげん している。しかし、そこに新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の理念 りねん を見 み いだすことはもはや困難 こんなん である。
大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん
ブロンデルの下 した で建築 けんちく を学 まな んだウィリアム・チェンバーズ は、イギリスの建築 けんちく 家 か としては最 もっと も早 はや く新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の様式 ようしき に接 せっ し得 え た人物 じんぶつ であるが、彼 かれ はこの建築 けんちく 様式 ようしき から常 つね に距離 きょり をおいた。新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の新 しん 的 てき なデザインはイギリスの建築 けんちく 的 てき 伝統 でんとう に沿 そ わず、折衷 せっちゅう 的 てき な様式 ようしき が好 この まれたからである。イギリスでは、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ とはいくつかある現象 げんしょう のうちの一 ひと つにすぎなかった。当時 とうじ 最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく のあったロバート・アダム やジェームズ・ワイアット も、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ のモティーフやパッラーディオ主義 しゅぎ 、ピクチャレスク の概念 がいねん をちりばめた様式 ようしき の創造 そうぞう に専念 せんねん した。
チェンバーズの弟子 でし ジェームズ・ガンドン 、トマス・クーリー らは、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の要素 ようそ を比較的 ひかくてき 率直 そっちょく に表現 ひょうげん したが、彼 かれ らの拠点 きょてん はアイルランド であった。イングランドでは、ジェームズ・スチュアート (James Stuart (1713-1788) )らによる グリーク・リヴァイヴァル が興 おこ りつつあったが、ジョージ・ダンス 、そしてジョン・ソーン という建築 けんちく 家 か によって、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ は結局 けっきょく のところロマン主義 しゅぎ 的 てき に処理 しょり された。彼 かれ らは新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく やゴシック建築 けんちく など、様々 さまざま な異質 いしつ な要素 ようそ を再 さい 構成 こうせい し、独創 どくそう 的 てき な空間 くうかん をつくりあげた。
イギリスの新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく は、他 た にセント・パンクラス聖堂 せいどう (ロンドン、1822年 ねん ~)、ユニヴァーシティ・カレッジ(ロンドン、1825年 ねん ~)、カンバーランド・テラス(ロンドン、1826年 ねん ~)、ラドクリフ図書館 としょかん (オックスフォード、1737~49年 ねん )、セント・マーティンズ・インザ・フィールズ聖堂 せいどう (ロンドン、1722年 ねん ~)、パーク・クレセント(ロンドン、1812年 ねん ~)などがある[ 1] 。
ブランデンブルク門 もん
ドイツの新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ は、グリーク・リヴァイヴァルによってもたらされた。ハインリッヒ・ゲンツ 、カール・ゴットハルト・ラングハンス 、トマス・ハリスン といったドイツ初期 しょき の新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく 家 か たちは、おそらくジュリアン・ダヴィッド・ル・ロワ の『ギリシアの最 もっと も美 うつく しい記念 きねん 碑 ひ の廃墟 はいきょ 』に魅 み せられ、ギリシア・ドーリア式 しき オーダー を用 もち いた建築 けんちく を設計 せっけい した。
フリードリッヒ・ジリー が、ベルリンのフリードリッヒ大王 だいおう 記念 きねん 碑 ひ の設計 せっけい 競技 きょうぎ において提出 ていしゅつ した計画 けいかく 案 あん もドーリア式 しき オーダーを用 もち い、荘厳 そうごん なギリシアのドーリア式 しき 神殿 しんでん を思 おも わせる。フリードリッヒの記念 きねん 碑 ひ 建設 けんせつ は、ドイツの民族 みんぞく 意識 いしき の高揚 こうよう の結果 けっか であり、いわば国家 こっか 権威 けんい と新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の記念 きねん 的 てき 性格 せいかく の結 むす びつきを示 しめ している。小高 こだか い丘 おか の上 うえ に立 た つギリシア神殿 しんでん の権威 けんい 的 てき イメージは、当時 とうじ の国家 こっか 権力 けんりょく にとって、大変 たいへん 魅力 みりょく 的 てき なものだった。レオ・フォン・クレンツェ 設計 せっけい によるバイエルンのヴァルハラは、その理想 りそう 的 てき 光景 こうけい である。
シンケル の幾何 きか 学 がく 的 てき で端正 たんせい なデザインはモダニズムの建築 けんちく 家 か にも影響 えいきょう を与 あた えた。
19世紀 せいき には、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ は生気 せいき のない冷徹 れいてつ な古代 こだい の復興 ふっこう と思 おも われたが、実際 じっさい には、古代 こだい 建築 けんちく に内在 ないざい する美 び 、すなわち真理 しんり を探究 たんきゅう し、諸 しょ 芸術 げいじゅつ の真 しん の復活 ふっかつ を意図 いと した躍動 やくどう 的 てき な運動 うんどう であった。この建築 けんちく 様式 ようしき を支 ささ えたのは、啓蒙 けいもう 思想家 しそうか たちによる合理 ごうり 的 てき 思索 しさく と、ロココ に表現 ひょうげん される軽薄 けいはく な旧 きゅう 体制 たいせい に対抗 たいこう する道徳 どうとく 的 てき 観念 かんねん である。
フランスにおける建築 けんちく の合理 ごうり 的 てき 解釈 かいしゃく は、ペローにおいては、遺跡 いせき の測量 そくりょう やルネサンスの建築 けんちく 論 ろん を比較 ひかく して、オーダーなどの建築 けんちく 比例 ひれい が決 けっ して宇宙 うちゅう 的 てき 秩序 ちつじょ を具現 ぐげん したものではないという見解 けんかい を示 しめ し、コルドモワにおいては、ゴシック建築 けんちく の構造 こうぞう 的 てき 側面 そくめん に着目 ちゃくもく し、加重 かじゅう を支持 しじ する垂直 すいちょく と水平 すいへい のラインの強調 きょうちょう という特質 とくしつ が、古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく の文法 ぶんぽう によって説明 せつめい できることを示 しめ した。すなわち、ルネサンス以降 いこう 、自明 じめい 的 てき とされた前提 ぜんてい に対 たい して根本 こんぽん 的 てき な問題 もんだい を提起 ていき するものであった。
ロジエの『建築 けんちく 試論 しろん 』は、これらのフランス合理 ごうり 主義 しゅぎ の結節 けっせつ 点 てん となった。それは、「原始 げんし の小屋 こや 」という建築 けんちく の根源 こんげん 的 てき 形態 けいたい と考 かんが えられた柱 はしら 、梁 りょう 、破風 はふ を重視 じゅうし し、他 た の要素 ようそ を付属 ふぞく 物 ぶつ と見 み なすことであった。また、コルドモワと同 おな じく、ゴシック建築 けんちく の構造 こうぞう 的 てき な合理 ごうり 性 せい に言及 げんきゅう し、その手法 しゅほう がこれからの建築 けんちく に表現 ひょうげん されなければならないとされた。1765年 ねん に発行 はっこう された『建築 けんちく に関 かん する省察 せいさつ 』では、1:1の比例 ひれい を最 もっと も美 うつく しいものと考 かんが え、正方形 せいほうけい を最良 さいりょう の図形 ずけい と定義 ていぎ している。『建築 けんちく に関 かん する省察 せいさつ 』は、あまりにも頓狂 とんきょう なものと評価 ひょうか されたが、『建築 けんちく 試論 しろん 』は各国 かっこく で読 よ まれ、初期 しょき の新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく は、敢 あ えて言 い えば、試論 しろん を積極 せっきょく 的 てき に肯定 こうてい するものであるか、または批判 ひはん するものかのいずれかであると言 い い得 え る。
建築 けんちく の構造 こうぞう 原理 げんり は、実験 じっけん と数学 すうがく 的 てき 計算 けいさん によって求 もと められるべきものというスフロと、経験 けいけん 則 そく を重 おも んじるピエール・パット の間 あいだ で議論 ぎろん が交 か わされた。しかし、両者 りょうしゃ ともに、構造 こうぞう 理論 りろん を説明 せつめい するために用 もち いたサンプルはゴシック建築 けんちく であった。彼 かれ らや、あるいはカルロ・ロードリ といった理論 りろん 家 か たちの構造 こうぞう 理論 りろん は、非常 ひじょう に重要 じゅうよう なものであったが、ローマ建築 けんちく にしろギリシア建築 けんちく にしろ、彫刻 ちょうこく 的 てき なものだと評価 ひょうか した当時 とうじ の建築 けんちく 家 か たちは、あまりこれらの理論 りろん を好 この まなかった。ところが、以降 いこう 、建築 けんちく の構造 こうぞう 原理 げんり が重要 じゅうよう さを増 ま してくるにつれ、ゴシック建築 けんちく は構造 こうぞう を表出 ひょうしゅつ した正直 しょうじき な建築 けんちく とみなされるようになり、ゴシック・リヴァイヴァル 運動 うんどう の勃興 ぼっこう の契機 けいき となった。
新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の目的 もくてき の一 ひと つは、原始 げんし 的 てき な純粋 じゅんすい さ、単純 たんじゅん さへの純化 じゅんか 的 てき な回帰 かいき によって、真 しん の美 び を表現 ひょうげん することにあった。このため、ローマ 、ギリシア 、エジプト のほか、インド や中国 ちゅうごく の建築 けんちく に関 かん する考古学 こうこがく 的 てき 文献 ぶんけん 、実測 じっそく 図面 ずめん が要求 ようきゅう された。これら各地 かくち の建築 けんちく 物 ぶつ から、普遍 ふへん 的 てき な建築 けんちく 形態 けいたい を抽出 ちゅうしゅつ しようとしたのである。
また、1745年 ねん に刊行 かんこう されたリチャード・ポコック の『東方 とうほう と他 た の諸国 しょこく の解説 かいせつ (Description of the East and Some Other Countries)』を契機 けいき として、リチャード・ドルトン による『ギリシアとエジプトの古代 こだい 建築 けんちく (Antiquities of Grees and Egypt)』(1752年 ねん )、ジュリアン・ダヴィッド・ル・ロワの『ギリシアの最 もっと も美 うつく しい記念 きねん 碑 ひ の廃墟 はいきょ (Les Ruins des plus beaux monuments de la Grece)』(1758年 ねん )など、ギリシア建築 けんちく の詳細 しょうさい な図版 ずはん 集 しゅう が発行 はっこう された。なかでも最 もっと も重要 じゅうよう なものは、ル・ロワの著作 ちょさく に対抗 たいこう するかたちで出版 しゅっぱん されたジェームズ・スチュアートとニコラス・レヴェット による『アテネの古代 こだい 遺跡 いせき (Antiquities of Athens)』(1762年 ねん )である。遺跡 いせき の測量 そくりょう と記録 きろく の時期 じき 、そしてその正確 せいかく さにおいてもル・ロワに先 さき んじた著作 ちょさく で、グリーク・リヴァイヴァル の流行 りゅうこう に寄与 きよ した。
18世紀 せいき のギリシア建築 けんちく の発見 はっけん は、それまでごく一部 いちぶ の人々 ひとびと にしか知 し られていなかったローマよりも古 ふる い建築 けんちく 物 ぶつ をヨーロッパにもたらした。よりプリミティブな建築 けんちく はローマ建築 けんちく かギリシア建築 けんちく か、といった問題 もんだい に関 かん して、『ローマの建築 けんちく と壮麗 そうれい について(Della Mgnificenza ed Arcitettura de’ Romani)』(1760年 ねん )を出版 しゅっぱん したジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ やウィリアム・チェンバーズ、ジェームズ・ペイン らのローマ建築 けんちく 擁護 ようご 派 は と、トーマス・ブラックウェル 、ル・ロワ、ジェームズ・スチュアートたちギリシア建築 けんちく 擁護 ようご 派 は との間 あいだ で激論 げきろん が交 か わされた。この論争 ろんそう によって、ギリシア建築 けんちく に評価 ひょうか が与 あた えられた結果 けっか 、グリーク・リヴァイヴァルというギリシア様式 ようしき の導入 どうにゅう が保証 ほしょう された。
18世紀 せいき 、ギリシア建築 けんちく ほどのインパクトはもたらさなかったものの、エジプト、インド、そして中国 ちゅうごく 建築 けんちく までもが建築 けんちく 的 てき 思考 しこう の対象 たいしょう となった。しかし、各 かく 時代 じだい 、各 かく 地域 ちいき の建築 けんちく に関 かん する情報 じょうほう が集積 しゅうせき され、研究 けんきゅう されるに従 したが って、ルネサンス以降 いこう 信 しん じられたオーダーに内在 ないざい する絶対 ぜったい 的 てき な美 び や、古代 こだい に存在 そんざい した純粋 じゅんすい 性 せい などというものの存在 そんざい はむしろ否定 ひてい され、建築 けんちく 美 び とは、恣意 しい 的 てき で相対 そうたい 的 てき なものにすぎないと考 かんが えられるようになった。
ガブリエル・ピエール・マルタン・デュラン は、『集成 しゅうせい 比較 ひかく 』で、ロジェの原始 げんし 的 てき 小屋 こや の構成 こうせい (柱 はしら 、梁 りょう 、破風 はふ )が建築 けんちく の規範 きはん であるとする概念 がいねん を否定 ひてい し、ビルディング・タイプごとに歴史 れきし 上 じょう の建築 けんちく を並列 へいれつ 配置 はいち した。デザインの基本 きほん 原理 げんり は単純 たんじゅん 化 か された幾何 きか 学 がく 、すなわち規則正 きそくただ しいグリット・パターンと対称 たいしょう 性 せい に還元 かんげん された。このため、19世紀 せいき には、個々 ここ の建築 けんちく に各 かく 時代 じだい の様式 ようしき が恣意 しい 的 てき に選択 せんたく されるようになり、ネオ・ルネサンス 、ネオ・バロック、ゴシック・リヴァイヴァル といった様式 ようしき の氾濫 はんらん 期 き を迎 むか えることになった(歴史 れきし 主義 しゅぎ 建築 けんちく 参照 さんしょう )。
しかし、最終 さいしゅう 的 てき には新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の絶対 ぜったい 性 せい そのものを否定 ひてい したものの、建築 けんちく 形態 けいたい の抽象 ちゅうしょう 化 か や、理念 りねん によって建築 けんちく を構築 こうちく するといった手法 しゅほう は、近代 きんだい 建築 けんちく に継承 けいしょう されている。
1756年 ねん 起工 きこう ・1790年 ねん 完成 かんせい サント・ジュヌヴィエーヴ教会 きょうかい 、後 ご のパンテオン (ジャック・ジェルメン・スフロ設計 せっけい 、パリ)
1769年 ねん 起工 きこう ・1776年 ねん 完成 かんせい 医学 いがく 学校 がっこう (ジェームズ・ゴンドゥアン設計 せっけい 、パリ)
1768年 ねん 起工 きこう ・1775年 ねん 完成 かんせい 造幣局 ぞうへいきょく (ジャック・ドニ・アントワーヌ設計 せっけい 、パリ)
1775年 ねん 起工 きこう ・完成 かんせい バガテル(フランソワ・ジョゼフ・ベランジェ設計 せっけい 、パリ)
1776年 ねん 起工 きこう ・1782年 ねん 完成 かんせい テアトル・フランセ、後 ご のオデオン座 ざ (シャルル・ド・ヴァイイとマリ・ジョゼフ・ペール設計 せっけい 、パリ)
1781年 ねん 起工 きこう ・1786年 ねん 完成 かんせい パレ・ロワイアル(ヴィクトール・ルイ設計 せっけい 、パリ)
1785年 ねん 起工 きこう ・1789年 ねん 完成 かんせい 入 いり 市 し 関税 かんぜい 門 もん (クロード・ニコラ・ルドゥー 設計 せっけい 、パリ)
1806年 ねん 起工 きこう ・1836年 ねん 完成 かんせい エトワール凱旋 がいせん 門 もん (シャルグラン設計 せっけい 、パリ)
1806年 ねん 起工 きこう ・1826年 ねん 完成 かんせい マドレーヌ寺院 じいん (ピエール・ヴィーニョン、パリ)
1808年 ねん 起工 きこう ・完成 かんせい 証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ (ブロンニャール設計 せっけい 、パリ)
^ 『新装 しんそう 版 ばん 図説 ずせつ 西洋 せいよう 建築 けんちく の歴史 れきし 』河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、2022年 ねん 、88-89頁 ぺーじ 。
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