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しん古典こてん主義しゅぎ建築けんちく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

しん古典こてん主義しゅぎ建築けんちく(しんこてんしゅぎけんちく、えい: Neoclassical Architecture)は、18世紀せいき後期こうきに、啓蒙けいもう思想しそう革命かくめい精神せいしん背景はいけいとして、フランスおこった建築けんちく様式ようしきロココ芸術げいじゅつ過剰かじょう装飾そうしょくせい軽薄けいはくさにたいする反動はんどうとして荘厳そうごんさや崇高すうこうそなえた建築けんちく模索もさくされたが、やがて19世紀せいき歴史れきし主義しゅぎ様式ようしき濫用らんようなか埋没まいぼつした。

パンテオン

たんなる古代こだい復興ふっこうにとどまらず、当時とうじ政治せいじ情況じょうきょうとも関連かんれんしていた。ルイ15せい時代じだい中心ちゅうしん展開てんかいしたロココ様式ようしき官能かんのうせい通俗つうぞくせいたいし、論理ろんりてき厳粛げんしゅくな、啓蒙けいもうてき性格せいかくをもつ様式ようしきにおきかえようとするうごきがひろがっていった。その革命かくめい運動うんどうをへてフランスとアメリカに共和きょうわこく樹立じゅりつされると、古代こだいギリシャ共和きょうわせい時代じだい古代こだいローマ民主みんしゅ主義しゅぎとのむすきから、しん政府せいふ指導しどうしゃたちは公式こうしき美術びじゅつとしてしん古典こてん主義しゅぎ採用さいようした。しかしナポレオンがフランスで権力けんりょくにつくと、この様式ようしきはナポレオンの宣伝せんでん効果こうかをあげるためのものに変質へんしつする。またロマン主義しゅぎ台頭たいとうにともない、個人こじんてき表現ひょうげんたいするこのみが固定こていてき理想りそうてき価値かちかんにもとづく美術びじゅつにとってかわることになった。

しん古典こてん主義しゅぎという名称めいしょうは、その格式かくしきばった様式ようしきたいする蔑称べっしょうとして19世紀せいき考案こうあんされたかたである。また、ナチスファシストとうにおいて、国家こっかてきモニュメントにしん古典こてん主義しゅぎ採用さいようされたため、その歴史れきしてき意義いぎについて否定ひていてき見方みかたをされることもある。

しかし、18世紀せいきにこの様式ようしき勃興ぼっこうした当初とうしょは「しん様式ようしき」とばれ、古代こだいまたははじめげん存在そんざいしたとされる真理しんり再生さいせい復興ふっこうすることを目的もくてきとした画期的かっきてき建築けんちく運動うんどうであった。具現ぐげんする唯一ゆいいつ様式ようしきとしてイギリスドイツ諸国しょこく波及はきゅうしたという意味いみ一種いっしゅ普遍ふへんせいがあり、その建築けんちく思想しそうモダニズム建築けんちくにもがれている。

概説がいせつ

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しん古典こてん主義しゅぎ開花かいか

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サン・シュルピス教会きょうかい正面しょうめん

しん古典こてん主義しゅぎは、18世紀せいき中頃なかごろのフランスにおいて急速きゅうそく成熟せいじゅくしたが、基本きほんとなる建築けんちく形態けいたい理念りねんは、クロード・ペロージャン・ルイ・ド・コルドモワといったぜん世紀せいきのフランスの建築けんちく建築けんちく理論りろんたちによってすでに用意よういされていた。

その萌芽ほうがは、1732ねん設計せっけい競技きょうぎおこなわれたパリサン・シュルピス教会きょうかいファサードにあらわれている。しばしばぜんしん古典こてん主義しゅぎひょうされるこのファサードは、ジョヴァンニ・ニッコロ・セルヴァンドーニによって設計せっけいされた。工事こうじ進捗しんちょくじょうきょうおそかったため、かれ当初とうしょ計画けいかくした平凡へいぼんバロック様式ようしきのデザインを変更へんこうつづけ、水平すいへいのラインを直線ちょくせんてき構成こうせいでまとめあげた。とうあいだには巨大きょだい破風はふ(ペディメント)があったが、1770ねんかみなりによってはずされ、最終さいしゅうてき水平すいへい垂直すいちょくのラインが強調きょうちょうされたギリシア神殿しんでんおもわせるファサードが完成かんせいした。

建築けんちく試論しろんだいはん口絵くちえ 原始げんし小屋こや

しん古典こてん主義しゅぎ最初さいしょ転換てんかんてんとなったのは、1753ねん刊行かんこうされたマルク・アントワーヌ・ロジエ著作ちょさく建築けんちく試論しろん(Essai sur l’architecture)』である。ロージエは建築けんちく原始げんしてき形態けいたいにまでさかのぼり、はしらりょうエンタブラチュア)・破風はふペディメント)の要素ようそのみで構成こうせいされた建築けんちく(「原始げんし小屋こや」)が、しん古典こてん建築けんちく規範きはんであるとかんがえた。ウィトルウィウス理論りろん建築けんちく各部かくぶ意味いみをギリシア建築けんちく由来ゆらいするものとして解説かいせつしているのにたいし、ロージエのそれは、あらゆる文明ぶんめい発祥はっしょう適用てきようするとのできる状態じょうたいにまで還元かんげんしたものである。もっとも、これは想像そうぞうじょう起原きげんにすぎず、実証じっしょうせいかんしては担保たんぽであったのだが、試論しろんはすぐ各国かっこく翻訳ほんやくされ、ヨーロッパの建築けんちく思想しそうおおきな影響えいきょうあたえた。

ジャック・ジェルメン・スフロは、1755ねん計画けいかくされたパリのサント・ジュヌヴィエーヴ教会堂きょうかいどう革命かくめいパンテオンしょうされる)で、ロージエの理想りそう最初さいしょ実現じつげんした。全体ぜんたい構成こうせいはロージェのかんがかた沿ってはいるが、スフロ自身じしん様式ようしき問題もんだいよりもむしろゴシック建築けんちくなどの構造こうぞうてき問題もんだい関心かんしんっており、様式ようしきについては曖昧あいまい折衷せっちゅうてき部分ぶぶんもあったので、この建築けんちくはあまり厳格げんかくにロジエの理念りねん反映はんえいしているわけではない。事実じじつ、ロージエはドームをささえるピアのづけばしらをバロックてき意匠いしょうとして非難ひなんしているし、スフロの意匠いしょう継承けいしょうされることがなかった。

エトワール凱旋がいせんもん

しん古典こてん主義しゅぎ潮流ちょうりゅうは、オデオン設計せっけいしゃ マリ・ジョゼフ・ペールシャル・ド・ヴァイイ 、ボルドー劇場げきじょうヴィクトール・ルイ、バガテルのフランソワ・ジョゼフ・ベランジェエトワール凱旋がいせんもん設計せっけいしたジャン・フランソワ・テレーズ・シャルグランらによってがれた。かれらには革命かくめいてき建築けんちく運動うんどうたずさわっているという自負じふがあり、建築けんちくによって社会しゃかい完全かんぜん刷新さっしんすることをしんじた。かれらに共通きょうつうする要素ようそは、厳格げんかく立方体りっぽうたいのシルエット、直線ちょくせんてき構成こうせい半円はんえんのドーム、コリントしきイオニアしきよりもドーリアしきトスカナしきのオーダーをこのんだことである。なかでもジャック・フランソワ・ブロンデル弟子でしエティエンヌ・ルイ・ブーレークロード・ニコラ・ルドゥーもっと革新かくしんてきであり、絶大ぜつだい影響えいきょうりょくった。

いわゆる幻視げんし建築けんちくとしてられるブーレーは、建築けんちく教師きょうしとして活躍かつやくし、さくはパリのアレクサンドルていのほか少数しょうすうられるのみである。かれのデザインしたサント・ジュヌヴィエーヴを巨大きょだいさせたようなだい教会きょうかい、ピラミッドがた霊廟れいびょうちょうきょだいヴォールトにおおわれた国立こくりつ図書館としょかん、そしてニュートン記念きねんどうなどの巨大きょだい建築けんちく計画けいかくあんは、対称たいしょうせい重視じゅうしされ、球体きゅうたいなどの幾何きかがくてきマッスが強調きょうちょうされた崇高すうこうなものであった。かれ影響えいきょうは、ピエール・フランソワ・レオナール・フォンテーヌだい帝国ていこく君主くんしゅたちの記念きねんや、アントワーヌ・ロラン・トマ・ヴォドワイエのコスリタンのいえなどにることができる。

ブーレーとは対照たいしょうてきに、ルドゥー建築けんちく実務じつむこのみ、理想りそうてき建築けんちくよりはむしろ実用じつようてき建築けんちくのデザインをおこなった。幾何きかがくてき形態けいたい複雑ふくざつわせたかれ建築けんちく奇妙きみょうかつ散漫さんまんであり、いり関税かんぜいもん、ショーの製塩せいえん工場こうじょうとそこに計画けいかくされた理想りそう都市とし建築けんちく(セノビ、オイケマ、墓地ぼち)、皇太子こうたいし狩猟しゅりょう小屋こやなどは未熟みじゅく建築けんちくとみなされたが、すべてにおいて独特どくとく力強ちからづよさをっている。

フランスの後期こうきしん古典こてん主義しゅぎ

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マドレーヌ寺院じいん
ブルボン宮殿きゅうでん

フランス革命かくめいとそれにつづ時代じだいはフランスの建築けんちく活動かつどういちじるしく衰退すいたいさせた。ナポレオンはだい規模きぼなプロジェクトを積極せっきょくてき推進すいしんしたが、すでにしん古典こてん主義しゅぎはその躍動やくどうてきなエネルギーをうしなっていたとえる。1807ねん完成かんせいしたアレクサンドル・ピエール・ヴィニョンによるマドレーヌ寺院じいん(ラ・マドレーヌとも表記ひょうきされる。)や、ベルナール・ポワイエによって1808ねん竣工しゅんこうしたブルボン宮殿きゅうでんげん下院かいん議事堂ぎじどう)のコリントしきれつばしらつファサードは、古代こだいローマ建築けんちくたんなる模倣もほうにすぎない。

シャルル・ペルシエとフォンテーヌはどう時代じだいすぐれた建築けんちくであり、1799ねん皇后こうごうジョゼフィーヌのために改装かいそうしたマルメゾンじょうでは、のちにアンピール様式ようしき帝政ていせい様式ようしきEmpire)とばれる対比たいひ強調きょうちょうした歯切はぎれのよいデザインを表現ひょうげんしたが、全体ぜんたいとしてはおもルネサンス建築けんちくからの着想ちゃくそうりまぜた折衷せっちゅう様式ようしきである。かれらはナポレオンのいのちにより、1801ねんにはテュイルリー宮殿きゅうでん工事こうじおこない、これとルーヴル宮殿きゅうでんつな連絡れんらく計画けいかくした。1808ねんには、ルーヴル宮殿きゅうでん内装ないそう工事こうじ着手ちゃくしゅしている。これらアンピール様式ようしきのデザインはいずれもしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちくあらたな展開てんかいにはていないが、(おおくの場合ばあい侮蔑ぶべつてきに)しん古典こてん主義しゅぎ最盛さいせいとみなされている。

ルーヴル宮殿きゅうでん

ナポレオンの失脚しっきゃく大型おおがたプロジェクトは失効しっこう建築けんちく活動かつどうふたた低迷ていめいした。この時期じきしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちくにおいて主導しゅどうてき役割やくわりたしたのは、うたがいなくベルリンのフリードリッヒ・ジリーであって、フランスでは、美術びじゅつアカデミー書記しょきちょうであったキャトルメール・ド・カンシー建築けんちく指導しどうしていたが、それほど重要じゅうよう動向どうこうはなかった。カンシーは実際じっさい芸術げいじゅつ活動かつどうにおいてはすぐれた作品さくひんのこすことはなく、ギリシア芸術げいじゅつ理想りそうとしながら、このみはうたがいなく古代こだいローマのものであった。ルイ・ピエール・バルタールのリヨン裁判所さいばんしょルイ・イポリト・ルバによるノートルダム・ド・ロレット教会きょうかいなどはカンシー主導しゅどうによるコンクールでえらばれたものである。

革命かくめい以後いご、すでにしん古典こてん主義しゅぎ唯一ゆいいつ絶対ぜったい建築けんちく様式ようしきではなく、建築けんちくたちはみずからの建築けんちく様式ようしきたいして、次第しだい多様たようなアプローチをはじめた。ジャック・イニャス・イトルフは、ギリシア建築けんちく華美かび彩色さいしきほどこされたことを主張しゅちょうし、シャン・ゼリゼに彩色さいしきほどこしたパノラマかんふゆのサーカスかんをデザインした。1830ねん起工きこうしたサン・ヴァンサン・ド・ポール教会きょうかいかれ主要しゅよう作品さくひんである。その外観がいかん迫力はくりょくけ、生気せいきがないが、内部ないぶ空間くうかんは、ギリシア建築けんちくはなやかなものであったとするかれ持論じろん見事みごと具現ぐげんしている。しかし、そこにしん古典こてん主義しゅぎ理念りねんいだすことはもはや困難こんなんである。

イギリスへの伝播でんぱ

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だいえい博物館はくぶつかん

ブロンデルのした建築けんちくまなんだウィリアム・チェンバーズは、イギリスの建築けんちくとしてはもっとはやしん古典こてん主義しゅぎ様式ようしきせっ人物じんぶつであるが、かれはこの建築けんちく様式ようしきからつね距離きょりをおいた。しん古典こてん主義しゅぎしんてきなデザインはイギリスの建築けんちくてき伝統でんとう沿わず、折衷せっちゅうてき様式ようしきこのまれたからである。イギリスでは、しん古典こてん主義しゅぎとはいくつかある現象げんしょうのうちのひとつにすぎなかった。当時とうじもっと影響えいきょうりょくのあったロバート・アダムジェームズ・ワイアットも、しん古典こてん主義しゅぎのモティーフやパッラーディオ主義しゅぎピクチャレスク概念がいねんをちりばめた様式ようしき創造そうぞう専念せんねんした。

チェンバーズの弟子でしジェームズ・ガンドントマス・クーリーらは、しん古典こてん主義しゅぎ要素ようそ比較的ひかくてき率直そっちょく表現ひょうげんしたが、かれらの拠点きょてんアイルランドであった。イングランドでは、ジェームズ・スチュアートJames Stuart (1713-1788))らによる グリーク・リヴァイヴァルおこりつつあったが、ジョージ・ダンス、そしてジョン・ソーンという建築けんちくによって、しん古典こてん主義しゅぎ結局けっきょくのところロマン主義しゅぎてき処理しょりされた。かれらはしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちくゴシック建築けんちくなど、様々さまざま異質いしつ要素ようそさい構成こうせいし、独創どくそうてき空間くうかんをつくりあげた。

イギリスのしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちくは、にセント・パンクラス聖堂せいどう(ロンドン、1822ねん~)、ユニヴァーシティ・カレッジ(ロンドン、1825ねん~)、カンバーランド・テラス(ロンドン、1826ねん~)、ラドクリフ図書館としょかん(オックスフォード、1737~49ねん)、セント・マーティンズ・インザ・フィールズ聖堂せいどう(ロンドン、1722ねん~)、パーク・クレセント(ロンドン、1812ねん~)などがある[1]

ドイツのしん古典こてん主義しゅぎ

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ブランデンブルクもん

ドイツのしん古典こてん主義しゅぎは、グリーク・リヴァイヴァルによってもたらされた。ハインリッヒ・ゲンツカール・ゴットハルト・ラングハンストマス・ハリスンといったドイツ初期しょきしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちくたちは、おそらくジュリアン・ダヴィッド・ル・ロワの『ギリシアのもっとうつくしい記念きねん廃墟はいきょ』にせられ、ギリシア・ドーリアしきオーダーもちいた建築けんちく設計せっけいした。

フリードリッヒ・ジリーが、ベルリンのフリードリッヒ大王だいおう記念きねん設計せっけい競技きょうぎにおいて提出ていしゅつした計画けいかくあんもドーリアしきオーダーをもちい、荘厳そうごんなギリシアのドーリアしき神殿しんでんおもわせる。フリードリッヒの記念きねん建設けんせつは、ドイツの民族みんぞく意識いしき高揚こうよう結果けっかであり、いわば国家こっか権威けんいしん古典こてん主義しゅぎ記念きねんてき性格せいかくむすびつきをしめしている。小高こだかおかうえつギリシア神殿しんでん権威けんいてきイメージは、当時とうじ国家こっか権力けんりょくにとって、大変たいへん魅力みりょくてきなものだった。レオ・フォン・クレンツェ設計せっけいによるバイエルンのヴァルハラは、その理想りそうてき光景こうけいである。

シンケル幾何きかがくてき端正たんせいなデザインはモダニズムの建築けんちくにも影響えいきょうあたえた。

特徴とくちょう

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19世紀せいきには、しん古典こてん主義しゅぎ生気せいきのない冷徹れいてつ古代こだい復興ふっこうおもわれたが、実際じっさいには、古代こだい建築けんちく内在ないざいする、すなわち真理しんり探究たんきゅうし、しょ芸術げいじゅつしん復活ふっかつ意図いとした躍動やくどうてき運動うんどうであった。この建築けんちく様式ようしきささえたのは、啓蒙けいもう思想家しそうかたちによる合理ごうりてき思索しさくと、ロココ表現ひょうげんされる軽薄けいはくきゅう体制たいせい対抗たいこうする道徳どうとくてき観念かんねんである。

建築けんちく合理ごうりてき解釈かいしゃく

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フランスにおける建築けんちく合理ごうりてき解釈かいしゃくは、ペローにおいては、遺跡いせき測量そくりょうやルネサンスの建築けんちくろん比較ひかくして、オーダーなどの建築けんちく比例ひれいけっして宇宙うちゅうてき秩序ちつじょ具現ぐげんしたものではないという見解けんかいしめし、コルドモワにおいては、ゴシック建築けんちく構造こうぞうてき側面そくめん着目ちゃくもくし、加重かじゅう支持しじする垂直すいちょく水平すいへいのラインの強調きょうちょうという特質とくしつが、古典こてん主義しゅぎ建築けんちく文法ぶんぽうによって説明せつめいできることをしめした。すなわち、ルネサンス以降いこう自明じめいてきとされた前提ぜんていたいして根本こんぽんてき問題もんだい提起ていきするものであった。

ロジエの『建築けんちく試論しろん』は、これらのフランス合理ごうり主義しゅぎ結節けっせつてんとなった。それは、「原始げんし小屋こや」という建築けんちく根源こんげんてき形態けいたいかんがえられたはしらりょう破風はふ重視じゅうしし、要素ようそ付属ふぞくぶつなすことであった。また、コルドモワとおなじく、ゴシック建築けんちく構造こうぞうてき合理ごうりせい言及げんきゅうし、その手法しゅほうがこれからの建築けんちく表現ひょうげんされなければならないとされた。1765ねん発行はっこうされた『建築けんちくかんする省察せいさつ』では、1:1の比例ひれいもっとうつくしいものとかんがえ、正方形せいほうけい最良さいりょう図形ずけい定義ていぎしている。『建築けんちくかんする省察せいさつ』は、あまりにも頓狂とんきょうなものと評価ひょうかされたが、『建築けんちく試論しろん』は各国かっこくまれ、初期しょきしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちくは、えてえば、試論しろん積極せっきょくてき肯定こうていするものであるか、または批判ひはんするものかのいずれかであるとる。

建築けんちく構造こうぞう原理げんりは、実験じっけん数学すうがくてき計算けいさんによってもとめられるべきものというスフロと、経験けいけんそくおもんじるピエール・パットあいだ議論ぎろんわされた。しかし、両者りょうしゃともに、構造こうぞう理論りろん説明せつめいするためにもちいたサンプルはゴシック建築けんちくであった。かれらや、あるいはカルロ・ロードリといった理論りろんたちの構造こうぞう理論りろんは、非常ひじょう重要じゅうようなものであったが、ローマ建築けんちくにしろギリシア建築けんちくにしろ、彫刻ちょうこくてきなものだと評価ひょうかした当時とうじ建築けんちくたちは、あまりこれらの理論りろんこのまなかった。ところが、以降いこう建築けんちく構造こうぞう原理げんり重要じゅうようさをしてくるにつれ、ゴシック建築けんちく構造こうぞう表出ひょうしゅつした正直しょうじき建築けんちくとみなされるようになり、ゴシック・リヴァイヴァル運動うんどう勃興ぼっこう契機けいきとなった。

考古学こうこがく影響えいきょう

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しん古典こてん主義しゅぎ目的もくてきひとつは、原始げんしてき純粋じゅんすいさ、単純たんじゅんさへの純化じゅんかてき回帰かいきによって、しん表現ひょうげんすることにあった。このため、ローマギリシアエジプトのほか、インド中国ちゅうごく建築けんちくかんする考古学こうこがくてき文献ぶんけん実測じっそく図面ずめん要求ようきゅうされた。これら各地かくち建築けんちくぶつから、普遍ふへんてき建築けんちく形態けいたい抽出ちゅうしゅつしようとしたのである。

また、1745ねん刊行かんこうされたリチャード・ポコックの『東方とうほう諸国しょこく解説かいせつ(Description of the East and Some Other Countries)』を契機けいきとして、リチャード・ドルトンによる『ギリシアとエジプトの古代こだい建築けんちく(Antiquities of Grees and Egypt)』(1752ねん)、ジュリアン・ダヴィッド・ル・ロワの『ギリシアのもっとうつくしい記念きねん廃墟はいきょ(Les Ruins des plus beaux monuments de la Grece)』(1758ねん)など、ギリシア建築けんちく詳細しょうさい図版ずはんしゅう発行はっこうされた。なかでももっと重要じゅうようなものは、ル・ロワの著作ちょさく対抗たいこうするかたちで出版しゅっぱんされたジェームズ・スチュアートとニコラス・レヴェットによる『アテネの古代こだい遺跡いせき(Antiquities of Athens)』(1762ねん)である。遺跡いせき測量そくりょう記録きろく時期じき、そしてその正確せいかくさにおいてもル・ロワにさきんじた著作ちょさくで、グリーク・リヴァイヴァル流行りゅうこう寄与きよした。

建築けんちく相対そうたい

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18世紀せいきギリシア建築けんちく発見はっけんは、それまでごく一部いちぶ人々ひとびとにしかられていなかったローマよりもふる建築けんちくぶつをヨーロッパにもたらした。よりプリミティブな建築けんちくはローマ建築けんちくかギリシア建築けんちくか、といった問題もんだいかんして、『ローマの建築けんちく壮麗そうれいについて(Della Mgnificenza ed Arcitettura de’ Romani)』(1760ねん)を出版しゅっぱんしたジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージやウィリアム・チェンバーズ、ジェームズ・ペインらのローマ建築けんちく擁護ようごと、トーマス・ブラックウェル、ル・ロワ、ジェームズ・スチュアートたちギリシア建築けんちく擁護ようごとのあいだ激論げきろんわされた。この論争ろんそうによって、ギリシア建築けんちく評価ひょうかあたえられた結果けっか、グリーク・リヴァイヴァルというギリシア様式ようしき導入どうにゅう保証ほしょうされた。

18世紀せいき、ギリシア建築けんちくほどのインパクトはもたらさなかったものの、エジプト、インド、そして中国ちゅうごく建築けんちくまでもが建築けんちくてき思考しこう対象たいしょうとなった。しかし、かく時代じだいかく地域ちいき建築けんちくかんする情報じょうほう集積しゅうせきされ、研究けんきゅうされるにしたがって、ルネサンス以降いこうしんじられたオーダーに内在ないざいする絶対ぜったいてきや、古代こだい存在そんざいした純粋じゅんすいせいなどというものの存在そんざいはむしろ否定ひていされ、建築けんちくとは、恣意しいてき相対そうたいてきなものにすぎないとかんがえられるようになった。

ガブリエル・ピエール・マルタン・デュランは、『集成しゅうせい比較ひかく』で、ロジェの原始げんしてき小屋こや構成こうせいはしらりょう破風はふ)が建築けんちく規範きはんであるとする概念がいねん否定ひていし、ビルディング・タイプごとに歴史れきしじょう建築けんちく並列へいれつ配置はいちした。デザインの基本きほん原理げんり単純たんじゅんされた幾何きかがく、すなわち規則正きそくただしいグリット・パターンと対称たいしょうせい還元かんげんされた。このため、19世紀せいきには、個々ここ建築けんちくかく時代じだい様式ようしき恣意しいてき選択せんたくされるようになり、ネオ・ルネサンス、ネオ・バロック、ゴシック・リヴァイヴァルといった様式ようしき氾濫はんらんむかえることになった(歴史れきし主義しゅぎ建築けんちく参照さんしょう)。

しかし、最終さいしゅうてきにはしん古典こてん主義しゅぎ絶対ぜったいせいそのものを否定ひていしたものの、建築けんちく形態けいたい抽象ちゅうしょうや、理念りねんによって建築けんちく構築こうちくするといった手法しゅほうは、近代きんだい建築けんちく継承けいしょうされている。

主要しゅよう建築けんちくぶつ

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  • 1756ねん起工きこう・1790ねん完成かんせい サント・ジュヌヴィエーヴ教会きょうかいパンテオン(ジャック・ジェルメン・スフロ設計せっけい、パリ)
  • 1769ねん起工きこう・1776ねん完成かんせい 医学いがく学校がっこう(ジェームズ・ゴンドゥアン設計せっけい、パリ)
  • 1768ねん起工きこう・1775ねん完成かんせい 造幣局ぞうへいきょく(ジャック・ドニ・アントワーヌ設計せっけい、パリ)
  • 1775ねん起工きこう完成かんせい バガテル(フランソワ・ジョゼフ・ベランジェ設計せっけい、パリ)
  • 1776ねん起工きこう・1782ねん完成かんせい テアトル・フランセ、オデオン(シャルル・ド・ヴァイイとマリ・ジョゼフ・ペール設計せっけい、パリ)
  • 1781ねん起工きこう・1786ねん完成かんせい パレ・ロワイアル(ヴィクトール・ルイ設計せっけい、パリ)
  • 1785ねん起工きこう・1789ねん完成かんせい いり関税かんぜいもんクロード・ニコラ・ルドゥー設計せっけい、パリ)
  • 1806ねん起工きこう・1836ねん完成かんせい エトワール凱旋がいせんもん(シャルグラン設計せっけい、パリ)
  • 1806ねん起工きこう・1826ねん完成かんせい マドレーヌ寺院じいん(ピエール・ヴィーニョン、パリ)
  • 1808ねん起工きこう完成かんせい 証券しょうけん取引とりひきしょ(ブロンニャール設計せっけい、パリ)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 新装しんそうばん 図説ずせつ 西洋せいよう建築けんちく歴史れきし河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2022ねん、88-89ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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エクルズ・ビル