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デモステネス

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デモステネスの胸像きょうぞう
演説えんぜつをするデモステネスのジャン=ジュール=アントワーヌ・ルコント・デュ・ヌイ

デモステネス古代こだいギリシア: Δημοσθένης、ラテン文字もじ転記てんき:Dēmosthénēs、紀元前きげんぜん384ねんごろ - 紀元前きげんぜん322ねん)は、古代こだいギリシア政治せいじ弁論べんろんアッティカじゅうだい雄弁ゆうべん一人ひとりアテナイ指導しどうしゃとしてギリシアもろポリス自立じりつうったえてはんマケドニア運動うんどう展開てんかいしたがかなわず、自殺じさつへとまれた。

生涯しょうがい[ソースを編集へんしゅう]

デモステネスは紀元前きげんぜん384ねんアテナイ富裕ふゆう商工しょうこう業者ぎょうしゃいえまれた。しかしわかくしてちちうしない、さらに後見人こうけんにんたちに遺産いさん横領おうりょうされた。その遺産いさん奪回だっかいはかって、アッティカじゅうだい雄弁ゆうべん一人ひとりイサイオス師事しじして弁論べんろんじゅつまなび、やがて後見人こうけんにんたちを告訴こくそしてかれらから全額ぜんがくではないにせよ遺産いさんうばかえした。その裁判さいばん関連かんれん仕事しごとみずからが弁論べんろんじゅつ指導しどうすることで生計せいけいて、徐々じょじょ当時とうじのアテナイ政治せいじにも発言はつげんつよめていった。

当時とうじのギリシアもろポリス都市とし国家こっか)は、かつてのような一人ひとりいちにん市民しみん武装ぶそうして都市とし防衛ぼうえい従事じゅうじする戦士せんし集団しゅうだんとしての性格せいかくすでうしなっており、傭兵ようへい依存いぞんした戦争せんそうかえすうちに市民しみん共同きょうどうたい維持いじしていくという精神せいしんそこなわれていた。一方いっぽうで、北方ほっぽうマケドニア王国おうこくピリッポス2せいのもとで強大きょうだいすすんでいたため、しょポリスの独立どくりつうばわれる危機ききおちいっていた。こうしたなかで、デモステネスははんマケドニアの主張しゅちょうかかげ、紀元前きげんぜん339ねんのアテナイ・テーバイ同盟どうめい成立せいりつにも尽力じんりょくしたのだが、翌年よくねんカイロネイアのたたかで、アテナイ・テーバイ同盟どうめいはマケドニアのピリッポス2せい完敗かんぱいした。

当時とうじ世論せろんは、マケドニアにくっすることにたいしてかならずしも否定ひていてきではなかった。長期ちょうきわたるポリスあいだこうそう人々ひとびと疲弊ひへいさせており、強大きょうだい指導しどうしゃした平和へいわ安定あんていのぞこえもあった。デモステネスとほぼどう時代じだいきた弁論べんろんイソクラテスもマケドニアの興隆こうりゅうたいしてピリッポスのしたでのギリシアの団結だんけつアケメネスあさ打倒だとうろんじていたし、デモステネスのライバルともえるアイスキネスはマケドニアのしたにギリシアを統一とういつすべしとおやマケドニアの立場たちばであった。そのため、デモステネスは遊説ゆうぜいかさねたものの、はんマケドニア運動うんどう機運きうん十分じゅうぶんたかめることはできず、結局けっきょくスパルタのぞくギリシアのしょポリスがマケドニアに屈服くっぷくした(コリントス同盟どうめい)。紀元前きげんぜん336ねん、デモステネスはピリッポス2せい突然とつぜん暗殺あんさつされたことにじょうじてふたたはんマケドニア運動うんどうこすが失敗しっぱい亡命ぼうめい余儀よぎなくされた。

ピリッポス2せい死後しごのマケドニアは、あらたに息子むすこアレクサンドロス3せい指導しどうしゃとして東方とうほう遠征えんせい敢行かんこうするなど指導しどうりょく発揮はっきするが、紀元前きげんぜん323ねんにアレクサンドロスが熱病ねつびょう急死きゅうしした。このさいにデモステネスはアテナイに帰国きこくし、再度さいどはんマケドニア運動うんどう展開てんかいし、アテナイはラミア戦争せんそうこした。しかしマケドニアぐんまえ鎮圧ちんあつされ、マケドニアの追跡ついせきせまなか服毒ふくどく自殺じさつした。

デモステネスの弁論べんろんとしての名声めいせい非常ひじょうたかく、共和きょうわせい弁論べんろんたか価値かちあたえられていたローマでもデモステネスの代表だいひょうてき弁論べんろんピリッピカ』(『フィリッピカ』)はよくまれた。たとえば、マルクス・トゥッリウス・キケロマルクス・アントニウス僭主せんしゅとして糾弾きゅうだんする自身じしん一連いちれん弁論べんろんたいし『ピリッピカ』のあたえている。

日本語にほんごやく[ソースを編集へんしゅう]

  • デモステネス弁論べんろんしゅう 1加来かくあきらしゅん北嶋きたじま美雪みゆき杉山すぎやまあきら太郎たろう田中たなか美知太郎みちたろう北野きたの雅弘まさひろ やく京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい西洋せいよう古典こてん叢書そうしょ〉、2006ねんぜん7かん
    マケドニアおうピリッポス2せいからの書簡しょかんふくむ、デモステネスの議会ぎかい弁論べんろんすべてを収録しゅうろく
  • デモステネス弁論べんろんしゅう 2木曽きそ明子あきこ わけ京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい西洋せいよう古典こてん叢書そうしょ〉、2010ねん
    古典こてんギリシア散文さんぶん最高峰さいこうほうという評価ひょうか不動ふどうのものにした代表だいひょうさくかんむりについて』(だいじゅうはち弁論べんろん)のほか『使節しせつ職務しょくむ不履行ふりこうについて』(だいじゅうきゅう弁論べんろん)を収録しゅうろく解説かいせつ関連かんれん地図ちずとうす。
  • デモステネス弁論べんろんしゅう 3北嶋きたじま美雪みゆき木曽きそ明子あきこ杉山すぎやまあきら太郎たろう やく京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい西洋せいよう古典こてん叢書そうしょ〉、2004ねん。デモステネスの初期しょき法廷ほうてい弁論べんろん収録しゅうろく
  • デモステネス弁論べんろんしゅう 4木曽きそ明子あきこ杉山すぎやまあきら太郎たろう やく京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい西洋せいよう古典こてん叢書そうしょ〉、2003ねん。デモステネスの初期しょき法廷ほうてい弁論べんろん収録しゅうろく
  • デモステネス弁論べんろんしゅう 5杉山すぎやまあきら太郎たろう木曽きそ明子あきこ葛西かさい康徳やすのり北野きたの雅弘まさひろ吉武よしたけ純夫すみお やく京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい西洋せいよう古典こてん叢書そうしょ〉、2019ねん
  • デモステネス弁論べんろんしゅう 6佐藤さとうのぼる木曽きそ明子あきこ吉武よしたけ純夫すみお平田ひらたまつわれ半田はんだ勝彦かつひこ やく京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい西洋せいよう古典こてん叢書そうしょ〉、2020ねん
  • デモステネス弁論べんろんしゅう 7栗原くりはら麻子あさこ木曽きそ明子あきこ吉武よしたけ純夫すみお やく京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい西洋せいよう古典こてん叢書そうしょ〉、2022ねん

脚注きゃくちゅう[ソースを編集へんしゅう]