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ピリッピカ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ピリッピカまたはフィリッピカ: philippica(e)えい: philippic(s))は、特定とくてい政治せいじなどを非難ひなんするためのはげしい攻撃こうげき演説えんぜつ意味いみする。デモステネス紀元前きげんぜん4世紀せいきピリッポス2せいたいしてったすうかい演説えんぜつ由来ゆらいである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだいローマ[編集へんしゅう]

キケロ紀元前きげんぜん44ねん初回しょかいはこのとし9月2にちおこなわれたとされている[よう出典しゅってん])と紀元前きげんぜん43ねんデモステネス演説えんぜつ意識いしきてきにモデルとしてマルクス・アントニウス攻撃こうげきする演説えんぜつおこなった。現存げんそんするブルトゥスとの書簡しょかん本物ほんものだとすれば、すくなくとも5かいと7かい演説えんぜつ当時とうじから「フィリッピカ」とばれていた。アウルス・ゲッリウスはそれらの演説えんぜつを Antonian Orations とんだ。

皮肉ひにくなことにデモステネスの演説えんぜつこうかなでせず、ピリッポス2せい息子むすこアレクサンドロス3せい東方とうほう征服せいふくすることになった。カエサル暗殺あんさつ、キケロは暗殺あんさつしゃらがアントニウスも暗殺あんさつしてくれなかったことを残念ざんねんがり、アントニウスの評判ひょうばんとす努力どりょくをすることにした。キケロはオクタウィアヌスみずからの私的してき軍隊ぐんたい合法ごうほうしたことも擁護ようごした。キケロは全部ぜんぶで14かいのフィリッピカを2ねん未満みまん期間きかんっている。キケロはアントニウスを失脚しっきゃくさせること注力ちゅうりょくしたが、オクタウィアヌスがキケロの理想りそうとする共和きょうわせいへの脅威きょういとなることを見過みすごしてしまい、結果けっかとして自身じしん失脚しっきゃくまねくことになった。

キケロのアントニウスへの攻撃こうげき演説えんぜつゆるされず、わすられることもなかった。結果けっかとしてプロスクリプティオ名前なまえ公示こうじされ、紀元前きげんぜん43ねんころされた。オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスだいかいさんとう政治せいじ反対はんたいするものへのせしめとして、かれ頭部とうぶフォルム・ロマヌムさらされた。デモステネスはピリッピカをおこなったせいでころされることはなかったが、のち反乱はんらんこし自害じがいした。

帝政ていせいローマ歴史れきしタキトゥスは、キケロを有名ゆうめいにした業績ぎょうせきとしてカティリナ弾劾だんがい演説えんぜつなどとともにフィリッピカをげている。

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]