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エジプトだい26王朝おうちょう

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エジプトだい26王朝おうちょう
エジプト第25王朝
新アッシリア帝国
紀元前きげんぜん664ねん - 紀元前きげんぜん525ねん エジプト第27王朝
エジプト第26王朝の位置
しんアッシリア帝国ていこく滅亡めつぼうのオリエントよん大国たいこく。この当時とうじのエジプトがだい26王朝おうちょう
公用こうよう エジプト
首都しゅと サイス
ファラオ
紀元前きげんぜん664ねん - 紀元前きげんぜん610ねん プサムテク1せい
紀元前きげんぜん610ねん - 紀元前きげんぜん595ねんネコ2せい
紀元前きげんぜん526ねん - 紀元前きげんぜん525ねんプサムテク3せい
変遷へんせん
成立せいりつ 紀元前きげんぜん664ねん
アッシリアから独立どくりつ紀元前きげんぜん653ねん
カルケミシュのたたか紀元前きげんぜん605ねん
ペルシウムのたたか英語えいごばん紀元前きげんぜん525ねん

エジプトだい26王朝おうちょう(エジプトだい26おうちょう、紀元前きげんぜん664ねん - 紀元前きげんぜん525ねん)は、だい3ちゅうあいだ、または末期まっき王朝おうちょう時代じだい古代こだいエジプト王朝おうちょうアッシリアがエジプトを征服せいふくしたのち、エジプトの管理かんりゆだねられたサイス王家おうけによる王朝おうちょうす。このためサイスあさばれることもある。のちにアッシリアの弱体じゃくたいじょうじて独立どくりつ達成たっせいし、オリエントのよん大国たいこく[1] の1つとしておおきな影響えいきょうりょく発揮はっきした。美術びじゅつめんではサイス・ルネサンスばれる王国おうこく手本てほんとした伝統でんとう回帰かいきうごきがられた。最後さいごあらたにオリエント世界せかい覇者はしゃとしてあらわれたアケメネスあさ侵攻しんこうけてその支配しはいはいった。

歴史れきし

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だい26王朝おうちょう王家おうけは、歴代れきだいおうめいなどから元来がんらいリビアけいであり、かつてサイスを拠点きょてんしもエジプトを支配しはいしただい24王朝おうちょう王家おうけつらなる一族いちぞくであったと推定すいていされている[2]マネト記録きろくでは、だい26王朝おうちょう最初さいしょおうエチオピアじんアンメリス英語えいご: Ammeris the Nubian)であるとしるされているが、かれだい24王朝おうちょう最後さいごおうバクエンレネフ古代こだいギリシャBocchoris、ボッコリス)がだい25王朝おうちょうクシュ)のおうシャバカ(サバコン)にやぶだい24王朝おうちょう崩壊ほうかいしたのち、シャバカによって任命にんめいされた知事ちじであろう。

おなじくマネトの記録きろくでアンメリスのつぎおうとされるのはステフィナテス(テフナクト2せい英語えいごばん)であり、前述ぜんじゅつとおだい24王朝おうちょう王家おうけ一族いちぞくであったとかんがえられている。ステフィナテスと、それにつづくネケプソス(ネカウバ)の時代じだいにはサイスの支配しはいもどしていたが、だい25王朝おうちょうなんらかのかたち従属じゅうぞくしていたものとかんがえられる。しかし、オリエントで勢力せいりょく拡張かくちょうつづけるアッシリアがエジプトに侵攻しんこうしてきたためにおおきなチャンスが到来とうらいした。

アッシリアのエジプト支配しはいとサイスの王家おうけ

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紀元前きげんぜん7世紀せいき前半ぜんはんにはすでにオリエント世界せかい最大さいだい勢力せいりょくとなっていたアッシリアは、紀元前きげんぜん671ねんエサルハドンおうしたでエジプトに侵入しんにゅうした。だい25王朝おうちょうおうタハルカ英語えいごばんたたかいにやぶ根拠地こんきょちであるヌビアへとわれアッシリアのエジプト支配しはいはじまった。当時とうじサイスを支配しはいしていたネコ1せい(ネカウ1せい)と、その息子むすこプサメティコス1せい(プサムテク1せい)はアッシリアによってエジプトの管理かんりまかされ、それぞれ「サイスのおう」、「アトリビスおう」という地位ちい承認しょうにんされた。

一方いっぽうやぶれただい25王朝おうちょうではタハルカの後継こうけいしゃタヌトアメン体制たいせいなおし、紀元前きげんぜん664ねん失地しっち回復かいふく目指めざして北上ほくじょうした。ネコ1せいはアッシリアの従属じゅうぞくおうとしてタヌトアメンとたたかい、やぶれてころされたとられる。ヘロドトスの『歴史れきし』がつたえるところによれば、プサメティコス1せいもアッシリアへの亡命ぼうめい余儀よぎなくされたとう。しかしアッシリアおうアッシュールバニパル再度さいど遠征えんせい同年どうねんちゅうにタヌトアメンが撃破げきはされ、だい25王朝おうちょう終了しゅうりょうすると、プサメティコス1せいふたたおう地位ちい保証ほしょうされた。これをもってだい26王朝おうちょう成立せいりつなされ、アッシリアの庇護ひごしたでその勢力せいりょく確実かくじつなものとしていくことになる。

青銅せいどう人間にんげんと『歴史れきし

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プサメティコス1せい治世ちせい以降いこうについては、ヘロドトスの『歴史れきし』にくわしい記録きろくのこされている。ヘロドトスによればプサメティコス1せい王位おういについたころかれしもエジプトの支配しはいしゃたち対立たいりつし、侮辱ぶじょくけたうえ沼沢しょうたく地帯ちたいへといやられた。かれらへの報復ほうふくのぞんだプサメティコス1せいは、その方法ほうほうもとめてプトまちレートーせんたくしょ使者ししゃをやったところ、「青銅せいどう男子だんしらがうみより出現しゅつげんするとき報復ほうふくげられん。」と神託しんたくくだった。プサメティコス1せいは「青銅せいどう人間にんげん」が自分じぶんたすけにるとうこの予言よげん不信ふしんねんってめたが、もなくイオニアけいギリシアじんカリアじんいちたいが、略奪りゃくだつ目的もくてき遠征えんせいちゅうにエジプトに漂着ひょうちゃくするという事件じけんきた。かれらは上陸じょうりく地点ちてんでやはり略奪りゃくだつはたらいたが、青銅せいどうせい武具ぶぐ武装ぶそうしていた。このような武装ぶそうたことがなかったエジプトじんは、沼沢ぬまさわ地帯ちたいのプサメティコス1せいもとで、「青銅せいどう人間にんげんあらわれて平野へいやらしております。」と報告ほうこくし、これをいたプサメティコス1せい神託しんたく実現じつげんしたことをさとり、ギリシアじんとカリアじんたち莫大ばくだい報酬ほうしゅう約束やくそくして自軍じぐんれた。そしてかれらのたすけをて、しもエジプトのほか支配しはいしゃたち撃破げきはし、これを統一とういつすることに成功せいこうした[3]

ギリシアじんとカリアじんたちはその恩賞おんしょうり、ナイルがわペルシウム支流しりゅうの「陣屋じんや」に居住きょじゅうさせられたが、のちイアフメス2せい英語えいごばんによってメンフィスうつされ、おう護衛ごえいたいとされた。そしてギリシアじんたちかれらによって、そののエジプトの歴史れきしることができたのだとう。

我々われわれギリシアじんがプサンメティコスおう以降いこう後代こうだいにわたってエジプトにこった事件じけんすべ詳細しょうさいっているのは、エジプトに定住ていじゅうしたかれらと我々われわれ交渉こうしょうつにいたったからにならない。実際じっさいエジプトじん言語げんごことにするものでエジプトに永住えいじゅうしたのはかれらが最初さいしょで、かれらが退以前いぜん居住きょじゅうしていた地域ちいきには船渠せんきょ住居じゅうきょ遺跡いせきわたし時代じだいまでのこっていた。[4]

エジプトの自立じりつ

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ヘロドトスのしるすプサメティコス1せいしたエジプトの支配しはいしゃたちとのたたかいは、アッシリアの宗主そうしゅけんにおいておこなわれたものであり、はんアッシリア勢力せいりょく統制とうせいというめんわせていたが、ともかくもしもエジプトにおける支配しはい確立かくりつされた。そのかれうえエジプトのテーベにたいしてもみずからの権威けんい承認しょうにんさせることに成功せいこうした。だい25王朝おうちょう時代じだいよりテーベの長官ちょうかん地位ちいにあったメンチュエムハトはプサムテク1せいむすめニトクリスが、将来しょうらい「アメンのせいつま」の地位ちいくことをれたことがはしてきにそれをしめしている。

こうして国内こくないにおける支配しはい確立かくりつしたプサメティコス1せいは、しん王国おうこく行政ぎょうせい制度せいど手本てほんとした内政ないせい改革かいかくかった。しかしその称号しょうごう王国おうこくふうのものが採用さいようされ、意識いしきてきに「過去かこ栄光えいこう」が追求ついきゅうされた。こうした支配しはいしゃ傾向けいこう美術びじゅつひんにもつよ影響えいきょうし、王国おうこくちゅう王国おうこくふう様式ようしき手本てほんとした復古ふっこてき美術びじゅつ様式ようしき形成けいせいされた。こうしたうごきは「サイス・ルネサンス」とばれ、この時期じき作成さくせいされた彫像ちょうぞうやレリーフのなかには、とき現代げんだい学者がくしゃ王国おうこく時代じだい作成さくせいされたものかだい26王朝おうちょう時代じだいのものか、判別はんべつ困難こんなんかんずるほどのものもある[5]

そしてオリエントにおけるアッシリアの勢力せいりょく縮小しゅくしょうてんじたことによって、紀元前きげんぜん653ねんころまでにはその宗主そうしゅけんから離脱りだつした。そしてシリア方面ほうめんへの勢力せいりょく拡大かくだいはかった。ヘロドトスの記録きろくによれば、プサメティコス1せいアシュドドを29年間ねんかんかけて陥落かんらくさせた(en:Fall of Ashdod[6]一方いっぽうでこのころオリエントに侵入しんにゅうしたスキタイひとがシリア地方ちほうはいると、プサメティコス1せいは「おくものとしで」かれらの攻撃こうげき回避かいひしたとも[7]

アッシリアの滅亡めつぼう

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一方いっぽうでアッシリアではアッシュールバニパルおう治世ちせい末期まっきごろから急速きゅうそく弱体じゃくたいした。東方とうほうではイラン高原こうげん中心ちゅうしんとしたメディア[8]勢力せいりょくしつつあり、紀元前きげんぜん625ねんころまでにはバビロニア総督そうとくナボポラッサルもアッシリアに反旗はんきひるがえして独自どくじ王国おうこくきずいた(しんバビロニア[9])。メディアとしんバビロニアは同盟どうめいむすんでアッシリアを攻撃こうげきし、これをやぶって首都しゅとニネヴェはじめとした中心ちゅうしん地帯ちたい制圧せいあつするいきおいをせた。

プサメティコス1せいはこの事態じたいたいし、かつての支配しはいしゃアッシリアをたすけるみちえらび、紀元前きげんぜん616ねんにはシリアへ出兵しゅっぺいしてしんバビロニアぐん干戈かんかまじえた。しかし大勢おおぜいわらず、もなくメディアとしんバビロニアの連合れんごうぐんによってアッシリアの首都しゅとニネヴェが陥落かんらく、アッシリア貴族きぞくであったアッシュール・ウバリト2せいハランへとのがれた。

紀元前きげんぜん610ねんにプサメティコス1せいぼっすると、息子むすこネコ2せい王位おうい継承けいしょうし、なおもアッシリアへの支援しえんつづけ、シリアへの再度さいど出兵しゅっぺいった。かれ途中とちゅうユダおうヨシヤころ[10]、パレスチナを通過つうかしてハランのアッシュール・ウバリト2せい合流ごうりゅうしたが、しんバビロニアぐんとのたたかいに敗北はいぼくして退却たいきゃく余儀よぎなくされ、ここにアッシリアが滅亡めつぼうした(紀元前きげんぜん609ねん)。

アッシリアの救出きゅうしゅつ失敗しっぱいしたネコ2せいはシリア地方ちほう覇権はけん確立かくりつするべく策動さくどうしたが、アッシリアをやぶったしんバビロニアおうナボポラッサルは息子むすこネブカドネザル2せいめいじてシリアのエジプトぐん攻撃こうげきした。エジプトとしんバビロニアのシリアにおけるたたかいはすう年間ねんかんつづいたが、ユダ王国おうこくやぶり(メギドのたたかい (紀元前きげんぜん609ねん))、つい紀元前きげんぜん605ねんカルケミシュのたたかでエジプトぐん決定的けっていてき敗北はいぼくこうむり、ネコ2せいのシリア政策せいさく完全かんぜん頓挫とんざした。ネブカドネザル2せい余勢よせいってエジプトにまで進軍しんぐんしてきたときにはこれを撃退げきたいすることに成功せいこうしたものの、以後いごシリア地方ちほうでの軍事ぐんじ活動かつどうおこなうことはできなかった。

シリアとリビアでの敗北はいぼく

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しんバビロニアとリュディア、メディア、エジプトのよん大国たいこく
アプリエスおうつくらせたスフィンクスぞうブル美術館ぶるびじゅつかん収蔵しゅうぞう

アッシリア滅亡めつぼうのオリエント世界せかい勢威せいいるったのはエジプト、しんバビロニア、メディア、そしてアナトリア半島はんとうリュディアというよっつの大国たいこくであった。エジプトにとってさんヵ国かこくのうちもっと憂慮ゆうりょすべき相手あいて国境こっきょう隣接りんせつするしんバビロニアであり、ネコ2せい敗北はいぼくしたのちもシリアをめぐたたかいがかえされることになる。

ネコ2せい死後しご紀元前きげんぜん595ねん王位おういいだプサメティコス2せい英語えいごばん(プサムテク2せい)の治世ちせいみじかく、ヘロドトスのつたえるヌビア遠征えんせい[11] 以外いがい業績ぎょうせき不明ふめいであるが、かれしんバビロニアとのたたかいはけていたとかんがえられる。

しかしつぎアプリエス英語えいごばん(ウアフイブラー)の時代じだいにはふたたびシリア地方ちほうしんバビロニアと衝突しょうとつした。ユダ王国おうこくしんバビロニアに制圧せいあつされたのちも、エジプトとの緩衝かんしょうこく役割やくわり期待きたいされ従属じゅうぞく王国おうこくとして存続そんぞくしていた。しかしこの従属じゅうぞく反対はんたいするユダ王国おうこく主戦しゅせん主導しゅどうけんにぎり、紀元前きげんぜん588ねんしんバビロニアからの離反りはん目指めざうごきをせると、アプリエスはこれにたいする支援しえんやくした。ネブカドネザル2せいはすばやくユダ王国おうこくへの出兵しゅっぺいかり、紀元前きげんぜん587ねんには首都しゅとエルサレム包囲ほういした。アプリエスはただちに救援きゅうえんぐん派遣はけんし、エルサレム近郊きんこうしんバビロニアぐんたたかったがやぶり、エルサレムも陥落かんらくしてユダ王国おうこく完全かんぜん滅亡めつぼうした。

シリアで敗北はいぼくしたアプリエスは、その軍事ぐんじめんでの失敗しっぱいつづ求心力きゅうしんりょく低下ていかさせていく。シリアでの敗北はいぼくのちリビア植民しょくみんキュレネにギリシアじん大挙たいきょ移住いじゅうすると事件じけんきた。このために周辺しゅうへんのリビアじん軋轢あつれきつよまり、リビアじんおうアディクランはアプリエスに支援しえんもとめてきた。アプリエスはキュレネに大軍たいぐん派遣はけんしたが、テステのいずみ付近ふきんたたかいで壊滅かいめつてき損害そんがいけて退却たいきゃくまれた[12]

反乱はんらん簒奪さんだつ

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リビアから生還せいかんしたエジプトへいたちは、アプリエスおう見込みこみがないのをりながら故意こい出兵しゅっぺいったものであるとして反乱はんらんこした。アプリエスは兵士へいしたち反乱はんらん説得せっとくによってしずめようとこころみ、ヌビア遠征えんせい頭角とうかくあらわしていたイアフメス2せい(アマシス2せい、アモシスとも)を派遣はけんした。イアフメス2せい反乱はんらんへいたち交渉こうしょうかさねたが、反乱はんらんへいたちはイアフメス2せいたいし、自分じぶんたちがアプリエスよりもイアフメス2せいほうをこそおうとして相応ふさわしいとかんがえていることをつたえると、イアフメス2せいはそれにっておう名乗なの反乱はんらんがわ寝返ねがえったのであった。

イアフメス2せい反乱はんらんがわについたことがれると、アプリエスの人事じんじじょう失策しっさく[13]手伝てつだっておおくのエジプトじんがイアフメス2せいがわいた。このためアプリエスはイオニアけいギリシアじんとカリアじん傭兵ようへい中心ちゅうしんとしたぐんって反乱はんらん討伐とうばつかい、モメンピスげんメヌフ)のまちでイアフメス2せい軍勢ぐんぜいたたかった。アプリエスの傭兵ようへいたち勇敢ゆうかんたたかったが、かずおとったために敗北はいぼくきっし、アプリエスはイアフメス2せいらえられた。そしてアプリエスは処刑しょけいされ、その遺体いたい歴代れきだいおうたちおなじようにおう相応ふさわしい礼式れいしきのっとって埋葬まいそうされた。

こうしてイアフメス2せい王位おうい簒奪さんだつすることに成功せいこうし、以後いご40ねん以上いじょうにわたってエジプトを統治とうちすることになる。

イアフメス2せい

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ヘロドトスの『歴史れきし』には、イアフメスの人格じんかく政策せいさく詳細しょうさい記録きろくされている。その記述きじゅつしたがうと、元来がんらいイアフメス2せいはシウプというまち平民へいみんだしであり、わかころより酒好さけずきでわるふざけをこのみ、しばしばぬすみをはたらいて逮捕たいほされるなどしていたという。王位おういについたのちもこの性分しょうぶんあらたまらず、あさのうちは政務せいむいそしむが、そのさけみふざけらしていた。おうのこのようないを心配しんぱいした臣下しんかたちおうを諫めたが、イアフメス2せいはまるでみみたなかった。以下いかは『歴史れきしだい2かん173せつしるされた臣下しんかとイアフメス2せいのやりりである。訳文やくぶん松平まつだいら千秋ちあきのそれにしたがう。

おうよ、あまりにも下賎げせん振舞ふるまいをなされるのは、国王こくおうとしての御身おんみりっせられるただしい仕方しかたではありますまい。王様おうさまにはいかめしい玉座ぎょくざにいかめしくおすわりになって、終日しゅうじつ政務せいむをおりになることこそつかわしいのでありまして、かくてこそエジプト臣民しんみん偉大いだい統治とうちしゃいただいていることを自覚じかくいたしましょうし、王様おうさま評判ひょうばんくなるに相違そういありません。現在げんざいのようななさられかたは、けっして帝王ていおう相応ふさわしいことではありません。」
ゆみ所持しょじするものは、これをもちいる必要ひつようのあるときしぼるが、使つかわればゆるめておくものじゃ。ゆみというものはいつもったままにしておけばれてしまい、肝心かんじんときものようたぬようになる。人間にんげんかたもこれとおなじことじゃ。常時じょうじ謹厳きんげんてっせんとのみ心掛こころがけ、ときにはくつろいであそぶという気持きもちがなくば、本人ほんにん気付きづかぬうち乱心らんしんしたりけたりすることにもなろう。はこの心得こころえているがゆえに、両者りょうしゃをほどよく使つかけているのだ。」

実際じっさい当初とうしょはイアフメス2せい平民へいみんであることを理由りゆうに、エジプトじんかれかるんじたとう。しかしかれ次第しだい周囲しゅうい支持しじ獲得かくとくすることに成功せいこうした。ヘロドトスによれば、イアフメス2せい治世ちせいにおいてエジプトは空前くうぜん繁栄はんえいむかえたとう。かれ各地かくち熱心ねっしん建築けんちく活動かつどうおこな一方いっぽうナウクラティス移住いじゅうしたギリシアじんたち商業しょうぎょうじょう特権とっけんあたえて対外たいがい貿易ぼうえき拡張かくちょうはかった。また、ギリシア贔屓びいきであり、デルフォイアポロン神殿しんでん火事かじ崩壊ほうかいしたさいには多額たがく再建さいけん費用ひよう提供ていきょうしたともつたえられる。そして対外たいがいてきにもキプロス服属ふくぞくさせることに成功せいこうし、しんバビロニアとも一時いちじてき衝突しょうとつはあったものの関係かんけい改善かいぜん成功せいこうして国境こっきょう安定あんていさせた。

アケメネスあさのエジプト征服せいふく

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イアフメス2せい治世ちせい末期まっきごろからオリエント世界せかい政治せいじ情勢じょうせい激変げきへんむかえることになる。それはアケメネスあさ出現しゅつげんであった。アケメネスあさはペルシア帝国ていこくともばれ、かつてはメディアに従属じゅうぞくしていたしょう王国おうこくであったが、キュロス2せい時代じだいにメディアから離反りはんし、ぎゃくにこれを併呑へいどんした(紀元前きげんぜん550ねん)。

この事態じたいたいし、イアフメス2せい当時とうじしんバビロニアおうナボニドゥス、リュディアおうクロイソスらとともに同盟どうめいむすんで対応たいおうした。しかし、すうねんのうちにしんバビロニアもリュディアもキュロス2せいによってほろぼされてしまい、エジプトへの侵攻しんこう時間じかん問題もんだいであった。キュロス2せいカスピ海かすぴかい地方ちほうでのたたかいに忙殺ぼうさつされ、マッサゲタイじんとのたたかいによって戦死せんしした(紀元前きげんぜん530ねん)ために、エジプトへのアケメネスあさ進軍しんぐんはかなりのことになったが、キュロス2せい後継こうけいしゃカンビュセス2せい紀元前きげんぜん526ねんすえ、もしくは翌年よくねん初頭しょとうにはエジプト遠征えんせい開始かいしした。

イアフメス2せいはこれに対抗たいこうするために戦争せんそう準備じゅんび奔走ほんそうし、サモス僭主せんしゅポリュクラテスとの同盟どうめいむすばれた。しかしポリュクラテスはてき接近せっきんするとアケメネスあさがわ寝返ねがえり、さらにイアフメス2せい自身じしんたたかいの直前ちょくぜんおそらく紀元前きげんぜん526ねんまつ)に歿し、息子むすこプサメティコス3せい(プサムテク3せい)が王位おういいだ。翌年よくねん、プサメティコス3せいはやはりイオニアけいギリシアじんとカリアじん傭兵ようへい主力しゅりょくとする部隊ぶたいひきいてナイルがわペルシウム河口かこう布陣ふじん、ペルシアぐん相対あいたいしたが完敗かんぱいきっメンフィスへと後退こうたいした(ペルシウムのたたか英語えいごばん)。

この時点じてんでプサメティコス3せいしたにカンビュセス2せいから降伏ごうぶく勧告かんこくする使者ししゃおくられてきたが、プサメティコス3せい使者ししゃ殺害さつがいして篭城ろうじょうした。そしてメンフィスで最後さいごたたかいがおこなわれ、エジプトの敗北はいぼくわった。プサメティコス3せいはカンビュセス2せいしたされ詰問きつもん侮辱ぶじょくけたものの、そのこたえの立派りっぱさに感銘かんめいけたカンビュセス2せいはプサメティコス3せい処刑しょけいせずにおくことにしたのであった。

しかしプサメティコス3せい到底とうてい従属じゅうぞくおう地位ちい満足まんぞくせず、叛乱はんらん企画きかくしたために処刑しょけいされ、だい26王朝おうちょう終焉しゅうえんむかえた。

歴代れきだいおう

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マネトーの記述きじゅつ

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マネトの記録きろくによれば、だい26王朝おうちょう歴代れきだいおう以下いかとおりとなる(括弧かっこない対応たいおうするとかんがえられるどう時代じだい史料しりょう登場とうじょうするおうめいである)。マネトはだい26王朝おうちょう歴代れきだいおう一覧いちらんを、だい25王朝おうちょう臣下しんかとしてサイスをおさめていたと推測すいそくされる時代じだいさかのぼってはじめている。

ヘロドトスの記述きじゅつ

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また、だい26王朝おうちょうについてはヘロドトスによる詳細しょうさい記録きろくのこされている。かれしるしているだい26王朝おうちょうおうめい歴代れきだいおうめい対応たいおう以下いかとおりである。

復元ふくげんされたおうみつる

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つぎに、どう時代じだい史料しりょう登場とうじょうする歴代れきだいおうと、その先祖せんぞであるサイスこう時代じだい当主とうしゅ一覧いちらんしるす。おうめい原則げんそくとして「即位そくいめい上下じょうげエジプトおうめい)・誕生たんじょうめい(ラーのめい) 」のじゅんしるし、そのひろ通用つうようしているおうめい括弧かっこないしるす。在位ざいいねん参考さんこう文献ぶんけん『ファラオ歴代れきだい』の記述きじゅつもとづく。

ちゅう

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  1. ^ エジプト以外いがいの3大国たいこくは、リュディア王国おうこくメディア王国おうこくしんバビロニア王国おうこく
  2. ^ 参考さんこう文献ぶんけん考古学こうこがくから古代こだいオリエント注釈ちゅうしゃくp108の記述きじゅつによる。
  3. ^ 歴史れきしだい2かん150せつ - 152せつ以下いか歴史れきし』の記述きじゅつ多用たようするが、ヘロドトスの叙述じょじゅつがどの程度ていど信頼しんらいできるかについては議論ぎろんがあり、単純たんじゅんすべてを史実しじつであるとすることはできない
  4. ^ 歴史れきしだい2かん154せつ
  5. ^ 無論むろん当時とうじのエジプトじん意識いしきするとしないとにかかわらず、活発かっぱつ対外たいがい交渉こうしょう結果けっかとして文化ぶんか影響えいきょういちじるしかった。
  6. ^ 歴史れきしだい2かん157せつ
  7. ^ 歴史れきしだい1かん105せつ
  8. ^ メディアじんペルシアじんなどとおなじくインド・ヨーロッパ語族ごぞく言語げんごはなした人々ひとびと。メディアじんかんする歴史れきしも、ヘロドトスの記録きろく中心ちゅうしんとなる。
  9. ^ カルデア王国おうこくともう。しんバビロニアと呼称こしょうは、紀元前きげんぜん18世紀せいきころバビロニア区別くべつした呼称こしょうである。
  10. ^ ネコ2せいがユダおうヨシヤを殺害さつがいしたと旧約きゅうやく聖書せいしょ記述きじゅつは、説明せつめい不明瞭ふめいりょう詳細しょうさいがよくわかっていない。おおまかなまとめについては参考さんこう文献ぶんけん聖書せいしょ時代じだい 旧約きゅうやくへん』p161 - 162を参照さんしょう
  11. ^ ちょうどこのころ、ヌビアの中心ちゅうしんはかつてのナパタからメロエへとうつっている。これをプサメティコス2せい遠征えんせい関連付かんれんづけてかんがえる学者がくしゃもいる。
  12. ^ 歴史れきしだい2かん161せつ
  13. ^ ヘロドトスの記述きじゅつしんずるならば、アプリエスはパタルベミスという部下ぶかたいし、イアフメス2せい降伏ごうぶくさせてつれてくるように指示しじしたが、パタルベミスがそれをたせず一人ひとりかえってきたことにいかかれはなみみをそぎとさせた。これをたエジプトじん重臣じゅうしんたちはイアフメス2せいしたへとはしったとう。

参考さんこう文献ぶんけん

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