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ファーティマあさ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ファーティマあさ
الخلافة الفاطمية
アグラブ朝
ルスタム朝
イフシード朝
アッバース朝
909ねん - 1171ねん アイユーブ朝
ズィール朝
セルジューク朝
エルサレム王国
アンティオキア公国
中カリフ帝国の国旗
国旗こっき
中カリフ帝国の位置
公用こうよう アラビア
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうイスマーイール
首都しゅと マフディーヤ921ねん - 948ねん
カイロ973ねん - 1171ねん
カリフ
909ねん - 934ねん ウバイドゥッラー
952ねん - 975ねんムイッズ
996ねん - 1021ねんハーキム
1160ねん - 1171ねんアーディド
宰相さいしょう
1164ねん - 1169ねんシャーワル
1169ねん - 1171ねんサラーフッディーン
面積めんせき
969ねん4,100,000km²
人口じんこう
6,200,000にん
変遷へんせん
建国けんこく 909ねん1がつ5にち
エジプトを征服せいふくする969ねん
アズハル学院がくいん開校かいこうする978ねん
だい1かい十字軍じゅうじぐん侵攻しんこう1098ねん
滅亡めつぼう1171ねん9月17にち
通貨つうかディナール
現在げんざい エジプト
リビアの旗 リビア
チュニジアの旗 チュニジア
アルジェリアの旗 アルジェリア
モロッコの旗 モロッコ
イタリアの旗 イタリアシチリアとう
スーダンの旗 スーダン
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
ヨルダンの旗 ヨルダン
イスラエルの旗 イスラエル
パレスチナ国の旗 パレスチナ
トルコの旗 トルコ
レバノンの旗 レバノン
シリアの旗 シリア
イラクの旗 イラク

ファーティマあさ(ファーティマちょう、アラビア: الخلافة الفاطمية‎ 、Al-Khilafah al-Fāṭimīyah)は、シーア一派いっぱイスマーイール建国けんこくしたイスラム王朝おうちょうである(909ねん - 1171ねん)。その君主くんしゅは、イスマーイールのシーアからの分裂ぶんれつほうじたイマーム、イスマーイールの子孫しそんしょうし、イスラム世界せかい多数たすうであるスンナ指導しどうしゃであるアッバースあさカリフ対抗たいこうしてカリフをしょうした。王朝おうちょうめいのファーティマは、イスマーイールの先祖せんぞである初代しょだいイマーム、アリーつま預言よげんしゃムハンマドむすめであるファーティマ由来ゆらいしている。

ファーティマあさは、きたアフリカイフリーキヤ現在げんざいチュニジア)でおこり、のちにカイロうつってエジプト中心ちゅうしん支配しはいおこなった。イスマーイール信仰しんこう王朝おうちょう原理げんりとしてし、カリフをしょうするなどアッバースあさつよ対抗たいこう意識いしきをもった。おな時期じきにはイベリア半島はんとうアンダルスでスンナこうウマイヤあさがカリフをしょうしたのでイスラム世界せかいには3にんのカリフが鼎立ていりつした。そこから、日本にっぽんではかつては3にんのカリフのうち地理ちりてき中間ちゅうかん位置いちするファーティマあさを「ちゅうカリフこく」と通称つうしょうしていた。 

歴史れきし[編集へんしゅう]

建国けんこく[編集へんしゅう]

ファーティマあさ淵源えんげんは、8世紀せいき後半こうはんイマーム(シーア多数たすう)のだい6だいイマーム、ジャアファル・サーディクくなったとき、その長子ちょうしイスマーイールのイマーム継承けいしょう支持しじしたグループが形成けいせいしたイスマーイールにある[1]。イスマーイールの死後しごはこのからはイマームがいなくなりきょうぜいおとろえたが、9世紀せいき後半こうはんになって、イスマーイールのムハンマドは現世げんせいから姿すがたかくしているかくれイマームであり、やがて救世主きゅうせいしゅマフディー)として再臨さいりんし、かくされた真実しんじつ顕現けんげんするとする教理きょうり主張しゅちょうするようになり、さかんにきょうせん活動かつどうおこなった[2]

ファーティマあさ始祖しそウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)はイスマーイールの子孫しそんしょうするイスマーイールきょうせん運動うんどう指導しどうしゃで、899ねんには[よう出典しゅってん]従来じゅうらい教理きょうりあらためてみずからがイマームにしてマフディーであると宣言せんげん活動かつどう先鋭せんえいしていた[3][* 1]。ウバイドゥッラーの指示しじしたがい、イスマーイールたいする迫害はくがいきびしい本拠地ほんきょちシリアからはなれたきたアフリカで活動かつどうしていたきょうせんいんアブー=アブドゥッラー(アルハサン・ブン・ザカリヤーともばれる[2]。)は、現地げんちベルベルじん支持しじあつめて軍事ぐんじりょく組織そしきすることに成功せいこうし、909ねんにイフリーキヤを中心ちゅうしんきたアフリカ中部ちゅうぶ支配しはいするアグラブあさほろぼした[5]かれらはウバイドゥッラーをシリアからきたアフリカにむかえカリフに推戴すいたいし、チュニジアのでファーティマあさ建国けんこくされた[4]

ウバイドゥッラーは王朝おうちょう建設けんせつ功労こうろうしゃアブー=アブドゥッラーを粛清しゅくせいしてカリフによる独裁どくさい権力けんりょく確立かくりつチュニスみなみ新都しんとマフディーヤ(「マフディーの」の)を建設けんせつしてシーア国家こっかのファーティマあさ支配しはいかためた[4]

ファーティマあさ拡大かくだい[編集へんしゅう]

ウバイドゥッラーによるきたアフリカへの進出しんしゅつは、そもそも西方せいほう王朝おうちょう基盤きばん建設けんせつして東方とうほうバグダードにあるアッバースあさほろぼすための第一歩だいいっぽ位置付いちづけられていたので、ファーティマあさ王朝おうちょう初期しょきから東方とうほうへの進出しんしゅつをはかり、たびたびエジプトに遠征えんせいぐん派遣はけんされた[6]。この一連いちれん遠征えんせいぐん派遣はけんアレクサンドリア一旦いったん占領せんりょうするものの、いずれもアッバースあさぐんにより退しりぞけられ成功せいこうおさめられなかった[6]。このため、内政ないせい強化きょうかとマグリブ方面ほうめんへの進出しんしゅつへと方針ほうしん転換てんかんされたものの、モロッコではこうウマイヤあさ介入かいにゅうによりはかばかしい成果せいかをあげられなかった[7]

一方いっぽうで、きたアフリカにおける勢力せいりょく拡大かくだいすすめられ、シチリアとうまで勢力せいりょくにおき、そこに海軍かいぐん基地きちもうけた[7][* 2]。また、チュニジアではスンナ住民じゅうみん多数たすうめたので、ファーティマあさによるイスマーイール至上しじょう主義しゅぎたいする反感はんかんつよまり、軍事ぐんじ増大ぞうだいまかなうためにイスラームほうによらない増税ぞうぜいおこなわれ、民心みんしんがますます離反りはんした[8]。アブー・アルカースィムのだいハワーリジュ中心ちゅうしんとする組織そしきてき抵抗ていこうこったが、ファーティマあさ勝利しょうりわって王朝おうちょう基盤きばん強化きょうかされた[9]

エジプト支配しはい[編集へんしゅう]

969ねん6がつだい4だいカリフのムイッズは、エジプトを支配しはいするイフシードあさ内部ないぶ崩壊ほうかいじょうじ、シチリア出身しゅっしん将軍しょうぐんジャウハルひきいる遠征えんせいぐんアレクサンドリア派遣はけんした[10]。ジャウハルはほとんど抵抗ていこうけることなくエジプトを支配しはいおさめ、カリフのエジプト移転いてんにあわせてエジプトの首府しゅふフスタートきたとなり新都しんとカーヒラ(「勝利しょうり」)を建設けんせつした[11]。カイロは、アラビアのアル=カーヒラ (ar:القاهرة) が西欧せいおうしょ言語げんごなまったである[* 3]

エジプトにおけるファーティマあさはイフシードあさ版図はんと踏襲とうしゅうし、エルサレムふくみなみシリア地方ちほうまで支配しはいひろげた[12]。さらにマッカ(メッカ)をふくアラビア半島はんとう西部せいぶヒジャーズ地方ちほうをも保護ほごにおいた[13]。ムイッズと、そのアズィーズ英語えいごばん治世ちせいがファーティマあさ最盛さいせいとなった[9][14]

アズハル・モスク

エジプトの征服せいふくにあたり、ファーティマあさはイフシードあさ以来いらい支配しはいそう財産ざいさん保証ほしょうし、強圧きょうあつてきなイスマーイールけをけて、多数たすうであるスンナとの融和ゆうわをはかった[15]。このため、ファーティマあさ内部ないぶにこれまで以上いじょうのスンナ勢力せいりょくかかえることになったが、978ねんにはムイッズの建設けんせつしたアズハル・モスク英語えいごばんにイスマーイール最高さいこう教育きょういく機関きかんとなるアズハル学院がくいん開講かいこうされ[16]、カイロでイスマーイール教理きょうりまなんだきょうせんいんたちはファーティマあさ版図はんとまらず、イスラム世界せかい各地かくちらばってイスマーイール布教ふきょうした[17]現在げんざいシリアイランパキスタンインド西部せいぶ信仰しんこうされているイスマーイールは、こうしたファーティマあさ積極せっきょくてき布教ふきょうによりひろがったものである[17][18]

しかし、10世紀せいきまつのシリアで土着どちゃくのスンナ勢力せいりょくによるはんファーティマあさうごきがひろがり、ファーティマあさ支配しはいから独立どくりつした[19]一方いっぽう王朝おうちょう発祥はっしょうチュニジアでは、ファーティマあさからマグリブ西にしアラブ)・トリポリタニアげんリビア方面ほうめん統治とうちゆだねられていたズィールあさ事実じじつじょう独立どくりつたし、エジプト以西いせい領土りょうどうしなわれていた[20]。さらに、だい6だいカリフのハーキム1021ねんなぞ失踪しっそうげて以降いこう実力じつりょくのないカリフがつづき、行政ぎょうせい官庁かんちょう最高さいこう実力じつりょくしゃである宰相さいしょうワズィール)が実権じっけん掌握しょうあくした[21]

おな11世紀せいきにはシリア地方ちほうセルジュークあさ、ついでだい1かい十字軍じゅうじぐん到来とうらいし、エルサレムをはじめとするシリア地方ちほうのほとんどがファーティマあさ支配しはいからうしなわれた[22]。ヒジャーズの宗主そうしゅけんもセルジュークあさうばわれ、12世紀せいきにはファーティマあさはもはやほとんどエジプトのみを支配しはいするにぎなくなった。

ファーティマあさ滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

12世紀せいき後半こうはんはいると、幼弱ようじゃくものがカリフの地位ちいくようになり、宰相さいしょう地位ちいをめぐる軍人ぐんじんたちのあらそいが一切いっさいおさえをうしなって政治せいじはますます混乱こんらんした[23]。さらにファーティマあさ衰退すいたいじょうじ、シリア地方ちほうはげしくあらそイスラム勢力せいりょくザンギーあさと、エルサレム王国おうこくなどの十字軍じゅうじぐん国家こっかがエジプトへの侵攻しんこう介入かいにゅうをはかるようになっていった[23]

1163ねん、ファーティマあさ有力ゆうりょくしゃ同士どうし宰相さいしょうめぐあらそいにさいし、一方いっぽう要請ようせいけたザンギーあさヌールッディーンは、部下ぶかクルドじん将軍しょうぐんシールクーフをエジプトに派遣はけんした[23]。1164ねんシールクーフはカイロにはいったが[23]、エルサレムおうアモーリー1せい介入かいにゅうによりシリアへと撤退てったい余儀よぎなくされた。シールクーフとエルサレム王国おうこくはそのもエジプトへの介入かいにゅうかえし、1169ねん最終さいしゅうてきにシールクーフがエルサレム王国おうこくぐんってカイロに入城にゅうじょうした[24]

1168ねんカリフの援軍えんぐん要請ようせいによりシールクーフはエジプトへはいり、カリフはスンナであるかれ宰相さいしょうにんじたが、シールクーフはそのわずか2ヵ月かげつ同年どうねん3月23にち急死きゅうしし、かわっておいサラーフッディーン宰相さいしょう就任しゅうにんした[25][26]。サラーフッディーンは一切いっさい実権じっけんをもたないカリフになりかわってエジプトの政治せいじ仕切しきり、外来がいらいのシリアぐんたいして反乱はんらんこしたファーティマあさ黒人こくじん奴隷どれいへい軍団ぐんだん撃破げきはし、カリフ宮廷きゅうてい勢力せいりょくるっていた黒人こくじん宦官かんがん殺害さつがいして政権せいけんかためた[27]。さらに、自身じしん親族しんぞくマムルークイクター授与じゅよしてザンギーちょうしきくにせい導入どうにゅうし、イスマーイール法官ほうかんカーディー)を追放ついほうしてスンナ法官ほうかんにすげえるなど、体制たいせいえをすすめた[27]1171ねん宮廷きゅうていこもりきりだった最後さいごのカリフが20さいわかさで病死びょうしするのに前後ぜんごして、サラーフッディーンはエジプトがアッバースあさカリフの宗主そうしゅけん承認しょうにんする宣言せんげんおこない、ファーティマあさ終焉しゅうえんむかえた[27]

ファーティマあさ消滅しょうめつにともない、かわってサラーフッディーンによるスンナ王朝おうちょうアイユーブあさがエジプトを支配しはいし、やがてシリアへと勢力せいりょくひろげてゆく。

くにせい[編集へんしゅう]

ファーティマあさのきわだった特性とくせいは、カリフを絶対ぜったい君主くんしゅとするきわめて中央ちゅうおう集権しゅうけんてき国家こっか体制たいせいをもったことである[12][17]。これは、預言よげんしゃムハンマドの従弟じゅうていにしてむすめ婿むこであったアリー以来いらい、その子孫しそんがイマームとしてちちからがれる政治せいじてき宗教しゅうきょうてき指導しどうりょくぐとするシーア原理げんり裏打うらうちされていた[12][17]。ファーティマあさのカリフはすなわちシーア一派いっぱであるイスマーイールのイマームであるとされ、クルアーン(コーラン)などにしめされたかみ意志いししんなる意味いみ解釈かいしゃくする能力のうりょくみとめられる[12][17]。このてんで、原則げんそくとしては政治せいじてき指導しどうしゃぎなかったスンナのカリフとくらべると[28]神権しんけんてきちから裏付うらづけられた権力けんりょく正当せいとうすることができた[17]

国家こっか機関きかんは、アッバースあさ同様どうよう、イスラム時代じだい初期しょきからイスラム王朝おうちょうによっておこなわれてきたものを踏襲とうしゅうし、ディーワーンばれる行政ぎょうせい官庁かんちょうによって徴税ちょうぜいおこない、軍人ぐんじん俸給ほうきゅうアター)を分配ぶんぱいした。行政ぎょうせい官庁かんちょうちょう宰相さいしょう(ワズィール)で、エジプト時代じだい地位ちいたかめ、次第しだいにカリフにわる実質じっしつじょう最高さいこう権力けんりょくしゃとなっていった。エジプト時代じだい初期しょきにはカリフ専制せんせい体制たいせい背景はいけいに、宰相さいしょうには宮廷きゅうていとの個人こじんてきなつながりによって登用とうようされた有能ゆうのうユダヤきょうキリスト教きりすときょうからの改宗かいしゅうしゃ就任しゅうにんしたが、11世紀せいき後半こうはん以降いこう軍人ぐんじん出身しゅっしん有力ゆうりょくしゃ就任しゅうにんするようになる。

軍人ぐんじんは、王朝おうちょう創建そうけん当初とうしょはその成立せいりつ事情じじょう反映はんえいしてベルベルじん軍団ぐんだん将軍しょうぐんちからをもったが、のちには黒人こくじんギリシャじんスラヴじんトルコじんなどからなる傭兵ようへいあるいは奴隷どれい身分みぶん出身しゅっしんしゃマムルークなど)により編制へんせいされた[12]軍人ぐんじんたちはそれぞれの出自しゅつじ身分みぶんべつ編成へんせいされた軍団ぐんだんかれ[29]有力ゆうりょくしゃ同士どうし宰相さいしょうめぐあらそいによって相互そうご対立たいりつしたことは、ファーティマあさ混乱こんらんおおきな要因よういんとなった。

歴代れきだいカリフ[編集へんしゅう]

  1. ウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー、909ねん - 934ねん
  2. カーイム英語えいごばん(アブー・アルカースィム[9]、アブ・アル=カーシム・ムハンマド・アル=カーイム[30]934ねん - 946ねん
  3. マンスール英語えいごばん946ねん - 952ねん
  4. ムイッズ952ねん - 975ねん
  5. アズィーズ英語えいごばん975ねん - 996ねん
  6. ハーキム996ねん - 1021ねん
  7. ザーヒル英語えいごばん1021ねん - 1036ねん
  8. ムスタンスィル英語えいごばん1036ねん - 1094ねん
  9. ムスタアリー1094ねん - 1101ねん
  10. アーミル英語えいごばん1101ねん - 1130ねん
  11. ハーフィズ1130ねん - 1149ねん
  12. ザーフィル英語えいごばん1149ねん - 1154ねん
  13. ファーイズ英語えいごばん1154ねん - 1160ねん
  14. アーディド1160ねん - 1171ねん

参照さんしょう[31]

系図けいず[編集へんしゅう]

 
ムハンマド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ファーティマ
 
アリー
正統せいとう4だいカリフ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハサン
2だいイマーム
 
フサイン
3だいイマーム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イドリースあさ
アラヴィーあさ
 
ジャアファル・サーディク
6だいイマーム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イスマーイール
 
ムーサー・カーズィム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド
 
じゅうイマーム
イマーム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャアファル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウバイドゥッラー1
(アブドゥッラー・マフディー)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カーイム2
(アブー・アル=カースィム)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マンスール3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムイッズ4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アズィーズ5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハーキム6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ザーヒル7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムスタンスィル8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムスタアリー9
 
ムハンマド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アーミル10
 
ハーフィズ11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ザーフィル12
 
ユースフ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ファーイズ13
 
アーディド14
 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 910ねん1がつ15にちにウバイドゥッラーが国家こっか権力けんりょくにぎり、マフディーでありカリフであるとして自身じしんでフトバをめいじた[4]
  2. ^ シチリアとうはアグラブあさ勢力せいりょくにあったが、ファーティマあさのアグラブあさ征服せいふくによりおやファーティマあさムスリムのうちじゅうイマーム現地げんち指導しどうしゃがいったんは支配しはいした[7]。けれどもイスマーイールではなかったため、ファーティマあさはイスマーイール信徒しんとハサン・ブン・アフマド(ベルベルけいクターマぞく)を派遣はけんした[7]。このハサンの現地げんちアラブけい住民じゅうみんたいする対応たいおうがまずく、912-913ねん反乱はんらんきたが、すぐに鎮圧ちんあつされた[7]
  3. ^ ヒッティ (1983)、p.544 では、ジェノバじんなまって使つかっていたものとしている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ わたし (2002)、pp.204-205.
  2. ^ a b わたし (2002)、p.204
  3. ^ ヒッティ (1983)、pp.530-531.
  4. ^ a b c わたし (2002)、p.206
  5. ^ わたし (2002)、pp.205-206.
  6. ^ a b わたし (2002)、pp.206-207.
  7. ^ a b c d e わたし (2002)、p.207
  8. ^ わたし (2002)、pp.207-208.
  9. ^ a b c わたし (2002)、p.208
  10. ^ わたし (2002)、pp.208-209.
  11. ^ わたし (2002)、p.209
  12. ^ a b c d e 三浦みうら (2002)、p.274
  13. ^ ヒッティ (1983)、pp.534-535.
  14. ^ ヒッティ (1983)、p.547
  15. ^ 三浦みうら (2002)、p.273
  16. ^ ヒッティ (1983)、p.534
  17. ^ a b c d e f ルイス (2001)、p.130
  18. ^ ホーラーニー (2003)、p.42
  19. ^ 三浦みうら (2002)、p.275
  20. ^ わたし (2002)、pp.209-210.
  21. ^ 三浦みうら (2002)、pp.275, 297.
  22. ^ 三浦みうら (2002)、pp.290-291
  23. ^ a b c d 三浦みうら (2002)、p.297
  24. ^ 世界せかい都市とし物語ものがたり10 カイロ」牟田むたくち義郎よしお 1992ねん10がつ20日はつかだい1さつ発行はっこう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ)p126–137
  25. ^ 三浦みうら (2002)、pp.297-298.
  26. ^ ヒッティ (1983)、p.581
  27. ^ a b c 三浦みうら (2002)、p.298
  28. ^ 三浦みうら (2002)、p.283
  29. ^ ヒッティ (1983)、p.550
  30. ^ ヒッティ (1983)、p.533
  31. ^ 西にしアジア 1:アラブ』だい8かん佐藤さとうつぎだかへん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ新版しんぱん 世界せかい各国かっこく〉、2002ねん付録ふろくp.087。ISBN 4-634-41380-9

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 私市きさいちせいねん ちょだい3しょう 西にしアラブ世界せかい展開てんかい」、佐藤さとうつぎだかへん へん西にしアジア 1:アラブ』 だい8かん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ新版しんぱん 世界せかい各国かっこく〉、2002ねん、186-255ぺーじISBN 4-634-41380-9 
  • 三浦みうらとおる ちょだい4しょう ひがしアラブ世界せかい変容へんよう」、佐藤さとうつぎだかへん へん西にしアジア 1:アラブ』 だい8かん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ新版しんぱん 世界せかい各国かっこく〉、2002ねん、256-328ぺーじISBN 4-634-41380-9 
  • ヒッティ, フィリップ・K ちょ岩永いわながひろし やく『アラブの歴史れきし初版しょはん)、講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1983ねんISBN 4-06-158592-4 
  • ホーラーニー, アルバート ちょ湯川ゆかわたけし阿久津あくつ正幸まさゆき やく『アラブの人々ひとびと歴史れきし』(初版しょはんだいさんしょかん、2003ねんISBN 4-8074-0332-X 
  • ルイス, バーナード ちょ白須しらす英子えいこ やく『イスラーム世界せかいせんねん文明ぶんめい十字路じゅうじろ中東ちゅうとうぜん』(初版しょはんくさおもえしゃ、2001ねんISBN 4-7942-1055-8 
  • アミール・アリ回教かいきょう A Short History of the Saracens』(1942ねん善隣ぜんりんしゃ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]