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セティ1せい

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セティ1せい
Seti I
アビドスのオシリス神殿にあるセティ1世のレリーフ
アビドスのオシリス神殿しんでんにあるセティ1せいレリーフ
古代こだいエジプト ファラオ
統治とうち期間きかん 1294 B.C.[注釈ちゅうしゃく 1] - 1279 B.C.,だい19王朝おうちょう
ぜんおう ラムセス1せい
つぎおう ラムセス2せい
配偶はいぐうしゃ トゥイア
子息しそく ラメセス2せい
子女しじょ ティア
ちち ラメセス1せい
はは シトラー
出生しゅっしょう ?
死去しきょ 1279 B.C.
埋葬まいそう KV17(en)
記念きねんぶつ セティ1せいそう祭殿さいでん英語えいごばん, アビドス, カルナック神殿しんでん
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セティ1せい英語えいご: Seti I在位ざいい紀元前きげんぜん1294ねん - 紀元前きげんぜん1279ねん)は、古代こだいエジプトだい19王朝おうちょうだい2だいファラオは「セトかみきみ」を意味いみする。エジプト神話しんわおもあくとしてえがかれるようなセトのかんしたファラオの即位そくいは、実在じつざい確認かくにんできるおうでははじめてのことであった[注釈ちゅうしゃく 3]。セティ1せいは、アクエンアテンの時代じだい荒廃こうはいしたエジプトの復興ふっこうつとめ、国力こくりょく充実じゅうじつはかった。海外かいがい遠征えんせいにもちかられ、パレスティナへ侵攻しんこう西にしではリビュアぐん撃退げきたいし、みなみはナイルがわだいよん急流きゅうりゅうまでを支配しはいするにいたった[2]かれ、ラムセス2せいだいにおけるエジプトのだい繁栄はんえいは、セティ1せい安定あんていした治世ちせいによるものがおおきいとみられる。

治績ちせき[編集へんしゅう]

非常ひじょう大柄おおがら戦士せんしになるためにまれてきたようなおとこであったが、同時どうじ芸術げいじゅつにも関心かんしんふかかった。性格せいかくおだやかであったともつたわる。 アマルナ時代じだい治世ちせい以降いこう低下ていかしたエジプトの国力こくりょく国威こくい回復かいふくすべく、ちちラムセス1せい共同きょうどう統治とうちしゃとしてシリアへの軍事ぐんじてき対処たいしょおこない、ちち死後しご政策せいさくいで北方ほっぽうのパレスチナへと遠征えんせいヒッタイトもどすことに成功せいこうした。また南方なんぽうヌビアにも遠征えんせい成功せいこうおさめたほか、紅海こうかい地方ちほう金鉱きんこう発見はっけんしている。 このほか、リビュアじん侵略しんりゃく撃退げきたいした。リビュアじんのちにエジプトに同化どうかされ、ファラオさえ輩出はいしゅつすることになるのだが、この時点じてんではたんなる侵略しんりゃくしゃであった。 内政ないせいめんではアマルナ時代じだい影響えいきょう一掃いっそうすべく、伝統でんとうてき宗教しゅうきょう芸術げいじゅつ復興ふっこうちからそそいだ。 アビドスのオシリス神殿しんでんカルナックのアメン神殿しんでんはしらしつ自身じしんのための葬祭そうさい殿どのなどの建設けんせつ事業じぎょうはその一環いっかんである。自身じしんのためにはほかに王家おうけたに壮麗そうれいはか建設けんせつしている。これらは遠征えんせいとともに、諸国しょこくにエジプトの国力こくりょく回復かいふくける示威じい行為こういであった。ひろられるエジプト美術びじゅつかれ治世ちせい完成かんせいされたものであるとわれる。

ミイラ[編集へんしゅう]

セティ1せいのミイラ

現在げんざいカイロエジプト考古学こうこがく博物館はくぶつかんにて保存ほぞんされているセティ1せいミイラは、非常ひじょう保存ほぞん状態じょうたいものである。防腐ぼうふ処理しょりさいられた樹脂じゅし変色へんしょくしたためにくろ変色へんしょくしてはいるものの、そのかおきた人間にんげんのそれとたいしてわらないものになっている。当時とうじエンバーミング高度こうどであったのを物語ものがたっている。

遺跡いせき[編集へんしゅう]

セティ1せい葬祭そうさい殿どのには、歴代れきだいおうしるしたおうめいひょう(『アビドスのおうめいひょう』)がのこされており、一級いっきゅう資料しりょうとしてあつかわれている。

セティ1せい題材だいざいとした作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1290 B.C.とするせつ存在そんざいする。
  2. ^ "Maat"はJusticeまたはTruthとかいされる
  3. ^ エジプト神話しんわでのホルスとセトとのたたかいは、ホルスの勝利しょうりわり、セトしんはオシリスしんころすなどの邪悪じゃあくなもの[1]としてえがかれているが、その一方いっぽうセトはたたかいのかみあらしかみとして崇拝すうはいもされており、実際じっさいにラメセス2せいカデシュのたたかでヒッタイトぐんたたかったとき軍団ぐんだん名前なまえは、ラーホルス・セト・プタハであった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 松本まつもと(1994) pp.86
  2. ^ 松本まつもと(1994) pp.173-174

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 松本まつもと わたる図説ずせつ 古代こだいエジプト文字もじ手帳てちょう株式会社かぶしきがいしゃ わたる呂久ろく、1994ねんISBN 4946482075 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]