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カデシュのたたか

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カデシュのたたか

アブ・シンベル神殿しんでんにあるカデシュのたたかいでのラムセス2せい
とき紀元前きげんぜん1274ねんごろ
場所ばしょシリアオロンテスがわ一帯いったい
結果けっか ともに自国じこく勝利しょうり宣言せんげん
事実じじつじょう、ヒッタイトの勝利しょうり(ヒッタイトの南下なんか拡大かくだい
衝突しょうとつした勢力せいりょく
エジプトだい19王朝おうちょう ヒッタイト帝国ていこく
指揮しきかん

ラムセス2せい

ムワタリ2せい

戦力せんりょく
歩兵ほへいやく 16,000 にん
騎兵きへいやく 2,000とう
歩兵ほへいやく 20,000 にん
騎兵きへいやく 3,000 とう
被害ひがいしゃすう
不明ふめい甚大じんだい 不明ふめい軽微けいび

カデシュのたたか(カデシュのたたかい、英語えいご:Qadesh battle)は、紀元前きげんぜん1286ねんごろ[ちゅう 1][ちゅう 2][1]シリアオロンテスがわ一帯いったいきた、古代こだいエジプトヒッタイトたたかいである。史上しじょうはつ公式こうしき軍事ぐんじ記録きろくのこされた戦争せんそうであり、成文せいぶんされた平和へいわ条約じょうやくわされた史上しじょうはつとなるたたかいであるともいわれている。

たたかいの経過けいか[編集へんしゅう]

カデシュの位置いち
ヒッタイトの最盛さいせい領土りょうどあか)とエジプト(みどり)との国境こっきょう付近ふきん

エジプトのラムセス2せい治世ちせい4ねんにシリア地方ちほう北部ほくぶ侵攻しんこうし、ヒッタイトの属国ぞっこくアムル(アムッル)傘下さんかおさめた。ヒッタイトのムワタリ2せいはすぐにアムル奪還だっかん目指めざし、同盟どうめい諸国しょこくから軍隊ぐんたいあつめて同地どうちかった。進軍しんぐん途上とじょう2人ふたりのヒッタイトのスパイをらえたラムセス2せいは、ヒッタイトぐんアレッポるとの情報じょうほうをつかみ、防備ぼうびうすいうちにカデシュ陥落かんらくさせようと進軍しんぐんはやめた。

エジプトぐんは、それぞれかみかんしたプタハセト(ステフ)、アメン(アモン)、ラーよん軍団ぐんだんけられていた。ラムセス2せいひきいるアメン軍団ぐんだんがカデシュに到着とうちゃくしたとき強行きょうこうぐんによって後続こうぞく個々ここ軍団ぐんだん距離きょりはなれてしまっていた。ふたたにんのヒッタイトじんらえたラムセス2せいは、さき情報じょうほううそであること、そしてヒッタイトぐんがカデシュのおか背後はいごひそんでいることをったが、ときすでにおそく、ヒッタイトの戦車せんしゃたい2,500りょう後続こうぞくのラー軍団ぐんだん攻撃こうげき仕掛しかけて壊滅かいめつさせ、そのいきおいでアメン軍団ぐんだんにもおそかった。エジプトぐん敗勢はいせい必至ひっしであったが、アムルからの援軍えんぐん突如とつじょあらわれ、ヒッタイトを撃退げきたいした。エジプトぐんさい結集けっしゅうし、戦車せんしゃたいやぶったが、のがれた戦車せんしゃたいはオロンテスがわわたって自軍じぐん歩兵ほへい部隊ぶたい合流ごうりゅうした。

戦闘せんとう膠着こうちゃく状態じょうたいはいり、ムワタリは停戦ていせんもうれた。ラムセス2せいはこれを受諾じゅだくし、りょうぐんともへい退しりぞくこととなった。ラムセス2せいけることはなかったものの、おおくの死傷ししょうしゃし、領土りょうど獲得かくとくできなかった。また、アムルはのちふたたびヒッタイトの属国ぞっこくとなった。

遺跡いせき[編集へんしゅう]

粘土ねんどばんイスタンブール考古学こうこがく博物館はくぶつかんくら
いにしえときより、エジプトの偉大いだいなるあるじとヒッタイトの偉大いだいなるおうかんし、かみ々は条約じょうやくによってそれらのあいだ戦争せんそうこさせなかった。ところが、あに、ヒッタイトの偉大いだいなるおう、ムワタリの時代じだい、エジプトの偉大いだいおもたたかったが、しかし、今日きょうこのより、よ、ヒッタイトの偉大いだいなるおう、ハットゥシリは、エジプトとヒッタイトのために、ラーしんとセトしんつくった、恒久こうきゅうてきたたかいをこさせないための条約じょうやく同意どういする。――我々われわれ平和へいわ友好ゆうこう関係かんけい永久えいきゅうまもられるであろう。――ヒッタイトのとその子孫しそん偉大いだいなるあるじとその子孫しそんあいだ平和へいわであろう。なぜなら、かれらも平和へいわ友好ゆうこう関係かんけいまもってきるからである。

このハットゥシャから出土しゅつどした粘土ねんどばんイスタンブール考古学こうこがく博物館はくぶつかんくら)は1970ねんからそのレプリカが世界せかい最古さいこ和平わへい協定きょうていとして平和へいわ理念りねんとする国際こくさい連合れんごう本部ほんぶビル壁面へきめんかざられており[ちゅう 3]2001ねんユネスコ記憶きおく遺産いさん登録とうろくされている[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ へんねん仕方しかたによるばらつきが存在そんざいするため、以前いぜん紀元前きげんぜん1285ねんあたりとされていたが、紀元前きげんぜん1274ねんれいおおくなってきている。
  2. ^ 紀元前きげんぜん1286ねん、シリアのカデシュでヒッタイトのハットゥシリ3せいとエジプトのラムセス2せいとのあいだでのたたかいであった。
  3. ^ Ancient Discoveries: Egyptian Warfare. Event occurs at 12:00 hrs EDST, 2008-05-14. the recently produced program details current thinking of three experts on the Battle of Qadesh, and the Peace of Qadesh (signed about) 15 years later. Retrieved 2008-05-15.

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 大村おおむら幸弘ゆきひろ和平わへい条約じょうやく粘土ねんどばん物語ものがたること」/ 大村おおむら幸弘ゆきひろ永田ながた雄三ゆうぞう内藤ないとうただしてん編著へんちょ『トルコをるための53しょう明石書店あかししょてん 54ページ
  2. ^ UNESCO Memory of the World Archives

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]