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カデシュの戦 たたか い (カデシュのたたかい、英語 えいご :Qadesh battle)は、紀元前 きげんぜん 1286年 ねん 頃 ごろ [注 ちゅう 1] [注 ちゅう 2] [1] にシリア のオロンテス川 がわ 一帯 いったい で起 お きた、古代 こだい エジプト とヒッタイト の戦 たたか いである。史上 しじょう 初 はつ の公式 こうしき な軍事 ぐんじ 記録 きろく に残 のこ された戦争 せんそう であり、成文 せいぶん 化 か された平和 へいわ 条約 じょうやく が取 と り交 か わされた史上 しじょう 初 はつ となる戦 たたか いであるともいわれている。
カデシュの位置 いち ヒッタイトの最盛 さいせい 期 き の領土 りょうど (赤 あか )とエジプト(緑 みどり )との国境 こっきょう 付近 ふきん
エジプトのラムセス2世 せい は治世 ちせい 4年 ねん 目 め にシリア地方 ちほう 北部 ほくぶ に侵攻 しんこう し、ヒッタイトの属国 ぞっこく アムル(アムッル) を傘下 さんか に治 おさ めた。ヒッタイトのムワタリ2世 せい はすぐにアムル奪還 だっかん を目指 めざ し、同盟 どうめい 諸国 しょこく から軍隊 ぐんたい を集 あつ めて同地 どうち に向 む かった。進軍 しんぐん 途上 とじょう で2人 ふたり のヒッタイトのスパイを捕 と らえたラムセス2世 せい は、ヒッタイト軍 ぐん がアレッポ に居 い るとの情報 じょうほう をつかみ、防備 ぼうび の薄 うす いうちにカデシュ を陥落 かんらく させようと進軍 しんぐん を速 はや めた。
エジプト軍 ぐん は、それぞれ神 かみ の名 な を冠 かん したプタハ 、セト (ステフ)、アメン (アモン)、ラー の四 よん 軍団 ぐんだん に分 わ けられていた。ラムセス2世 せい 率 ひき いるアメン軍団 ぐんだん がカデシュに到着 とうちゃく した時 とき 、強行 きょうこう 軍 ぐん によって後続 こうぞく の個々 ここ の軍団 ぐんだん の距離 きょり が離 はな れてしまっていた。再 ふたた び二 に 人 にん のヒッタイト人 じん を捕 と らえたラムセス2世 せい は、先 さき の情報 じょうほう が嘘 うそ であること、そしてヒッタイト軍 ぐん がカデシュの丘 おか の背後 はいご に潜 ひそ んでいることを知 し ったが、時 とき すでに遅 おそ く、ヒッタイトの戦車 せんしゃ 隊 たい 2,500両 りょう が後続 こうぞく のラー軍団 ぐんだん に攻撃 こうげき を仕掛 しか けて壊滅 かいめつ させ、その勢 いきお いでアメン軍団 ぐんだん にも襲 おそ い掛 か かった。エジプト軍 ぐん の敗勢 はいせい 必至 ひっし であったが、アムルからの援軍 えんぐん が突如 とつじょ 現 あらわ れ、ヒッタイトを撃退 げきたい した。エジプト軍 ぐん は再 さい 結集 けっしゅう し、戦車 せんしゃ 隊 たい を破 やぶ ったが、逃 のが れた戦車 せんしゃ 隊 たい はオロンテス川 がわ を渡 わた って自軍 じぐん の歩兵 ほへい 部隊 ぶたい と合流 ごうりゅう した。
戦闘 せんとう が膠着 こうちゃく 状態 じょうたい に入 はい り、ムワタリは停戦 ていせん を申 もう し入 い れた。ラムセス2世 せい はこれを受諾 じゅだく し、両 りょう 軍 ぐん とも兵 へい を退 しりぞ くこととなった。ラムセス2世 せい が負 ま けることはなかったものの、多 おお くの死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ し、領土 りょうど も獲得 かくとく できなかった。また、アムルは後 のち に再 ふたた びヒッタイトの属国 ぞっこく となった。
粘土 ねんど 板 ばん (イスタンブール考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん 蔵 くら )
「
古 いにしえ の時 とき より、エジプトの偉大 いだい なる主 あるじ とヒッタイトの偉大 いだい なる王 おう に関 かん し、神 かみ 々は条約 じょうやく によってそれらの間 あいだ に戦争 せんそう を起 お こさせなかった。ところが、我 わ が兄 あに 、ヒッタイトの偉大 いだい なる王 おう 、ムワタリの時代 じだい 、エジプトの偉大 いだい な主 おも と戦 たたか ったが、しかし、今日 きょう この日 ひ より、見 み よ、ヒッタイトの偉大 いだい なる王 おう 、ハットゥシリは、エジプトとヒッタイトのために、ラー神 しん とセト神 しん が作 つく った、恒久 こうきゅう 的 てき に戦 たたか いを起 お こさせないための条約 じょうやく に同意 どうい する。――我々 われわれ の平和 へいわ と友好 ゆうこう 関係 かんけい は永久 えいきゅう に守 まも られるであろう。――ヒッタイトの子 こ とその子孫 しそん は偉大 いだい なる主 あるじ の子 こ とその子孫 しそん の間 あいだ も平和 へいわ であろう。なぜなら、彼 かれ らも平和 へいわ と友好 ゆうこう 関係 かんけい を守 まも って生 い きるからである。
」
このハットゥシャ から出土 しゅつど した粘土 ねんど 板 ばん (イスタンブール考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん 蔵 くら )は1970年 ねん からそのレプリカが世界 せかい 最古 さいこ の和平 わへい 協定 きょうてい として平和 へいわ を理念 りねん とする国際 こくさい 連合 れんごう 本部 ほんぶ ビル の壁面 へきめん に飾 かざ られており[注 ちゅう 3] 、2001年 ねん にユネスコ記憶 きおく 遺産 いさん に登録 とうろく されている[2] 。
^ 編 へん 年 ねん の仕方 しかた によるばらつきが存在 そんざい するため、以前 いぜん は紀元前 きげんぜん 1285年 ねん あたりとされていたが、紀元前 きげんぜん 1274年 ねん を採 と る例 れい が多 おお くなってきている。
^ 紀元前 きげんぜん 1286年 ねん 、シリアのカデシュでヒッタイトのハットゥシリ3世 せい とエジプトのラムセス2世 せい との間 あいだ での戦 たたか いであった。
^ Ancient Discoveries: Egyptian Warfare. Event occurs at 12:00 hrs EDST, 2008-05-14. the recently produced program details current thinking of three experts on the Battle of Qadesh, and the Peace of Qadesh (signed about) 15 years later. Retrieved 2008-05-15.