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アクエンアテン

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アメンホテプ4せいから転送てんそう
アクエンアテン / アメンホテプ4せい
Akhenaten (Ikhnaton) / Amenhotep (Amenhetep) IV / Amenophis IV(まれ)
アクエンアテン(アメンホテプ4世)の胸像
アクエンアテン(アメンホテプ4せい)の胸像きょうぞう
古代こだいエジプト ファラオ
統治とうち期間きかん 紀元前きげんぜん1353ねん? - 紀元前きげんぜん1336ねん?,だい18王朝おうちょう
共同きょうどう統治とうちしゃ アメンホテプ3せい諸説しょせつあり)[1]
ぜんおう アメンホテプ3せい
つぎおう スメンクカーラー
配偶はいぐうしゃ ネフェルティティ
キヤ
わかほう淑女しゅくじょ
タドゥキパ英語えいごばん
子息しそく スメンクカーラー?
トゥトアンクアテン
子女しじょ メリトアテン
メケトアテン英語えいごばん
アンケセンパーテン
ネフェルネフェルウアテン・タシェリト
ネフェルネフェルウラー英語えいごばん
セテプエンラー英語えいごばん
ちち アメンホテプ3せい
はは ティイ
出生しゅっしょう 紀元前きげんぜん1362ねん?
死去しきょ 紀元前きげんぜん1336ねん?
埋葬まいそう KV55英語えいごばん?
記念きねんぶつ アケトアテン (テル=エル=アマルナ)
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アクエンアテンまたはアメンホテプ4せいえい: Akhenaten/ Amenhotep IV紀元前きげんぜん1362ねん? - 紀元前きげんぜん1333ねん?)は、古代こだいエジプトだい18王朝おうちょうおうファラオ)(在位ざいい紀元前きげんぜん1353ねん? - 紀元前きげんぜん1336ねん?)。「アクエンアテン (Akhenaten)」は「イクナートン (Ikhnaton / Echnaton)」、「アメンホテプ (Amenhotep)」は「アメンヘテプ (Amenhetep)」ともそれぞれ表記ひょうきされる。

エジプトだい18王朝おうちょう初期しょきよりアメンホテプ3せい時代じだいにかけて、強大きょうだい権力けんりょくゆうしたアメン神官しんかんだん対抗たいこうするべく、唯一ゆいいつかみアテン主神しゅしんえ、「宗教しゅうきょう改革かいかく」をおこなった。出生しゅっしょう名前なまえはアメンホテプであったが、在位ざいい4ねん[注釈ちゅうしゃく 1]当時とうじ国家こっかしんであったアメンしんからアテンしんへの信仰しんこう変更へんこうのため、「アテンしん有益ゆうえきな(る)しゃ」を意味いみするアクエンアテンへと改名かいめいした。同時どうじにテーベより、現在げんざいテル=エル=アマルナ位置いちし、「アテンの地平線ちへいせん」の意味いみつアケトアテンへと遷都せんとおこなった[1]

在位ざいいちゅうはアメンしんとそのつまムト女神めがみ名前なまえ神殿しんでんからけずる、神像しんぞう破壊はかいするひとして迫害はくがい。この処置しょちかみにもおよんだ。しかし、アテンしん傾倒けいとうするあまり国民こくみん支持しじうしない、またトトメス3せいより維持いじしてきたアジア植民しょくみん注意ちゅういはらわず、治世ちせい末期まっきにはエジプトはおおきく領土りょうどらした。アクエンアテン自身じしん後継こうけいしゃさだめたスメンクカーラー死去しきょすうねんくなり、結果けっかとしてつぎおうツタンカーメン(トゥトアンクアメン)の治世ちせいではアテンしん信仰しんこうからアメンしんへの信仰しんこう復興ふっこうおこなわれた[1]

人物じんぶつ

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ちちアメンホテプ3せいはは正妃せいひティイといわれる。

アクエンアテンのぞうゆび異常いじょうながい、あごとがる、脂肪しぼうかた不自然ふしぜんであるなどマルファン症候群しょうこうぐん特徴とくちょうてき症状しょうじょうつように見受みうけられ、生前せいぜんから奇形きけいだったというせつもあるが、王家おうけ血筋ちすじではない王妃おうひネフェルティティ家臣かしんたちも同様どうよう形式けいしきえがかれることから、これはアマルナ美術びじゅつ特有とくゆう高貴こうき人々ひとびと表現ひょうげん形態けいたいであったとるのが妥当だとうである。また、遺伝子いでんし調査ちょうさによる王族おうぞくミイラ特定とくていともない、この表現ひょうげんは、王家おうけ人々ひとびと容姿ようし特徴とくちょうをかなり誇張こちょうしたものであることもかってきている。病弱びょうじゃくであったとする証拠しょうことくく、かつては憶測おくそくのままだったが、2010ねん本人ほんにんのミイラ特定とくていにより、今後こんご研究けんきゅうたれる状態じょうたいとなっている。

アクエンアテンは宗教しゅうきょう改革かいかく没頭ぼっとうし、対外たいがい政策せいさく軽視けいしした。この原因げんいんとしてアクエンアテンが平和へいわ主義しゅぎしゃであったからだというせつ存在そんざいする[よう出典しゅってん]

アマルナの公文書こうぶんしょ保管ほかんしょから発見はっけんされた粘土ねんどばんしるされた書簡しょかんである、アマルナ文書ぶんしょからは、外国がいこくおうやエジプトの領地りょうち支配しはいしゃたちからエジプト国王こくおう黄金おうごん補給ほきゅう物資ぶっし救援きゅうえんうったえていることがかれている。しかしながら、宗教しゅうきょう改革かいかくによって発生はっせいした経済けいざいてき負担ふたん、あるいは外国がいこくにおける地位ちい失墜しっついのためにエジプト国内こくないおおきな反乱はんらんこったという事実じじつはない。このことから、はん改革かいかく運動うんどうおう自身じしん家族かぞく宮廷きゅうていじんあいだでひそかに進行しんこうしていたものとおもわれる[2]

アマルナ改革かいかく

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アクエンアテンとかれ家族かぞくがアテンを信仰しんこうしている姿すがた

かれアクエンアテンのおこなった改革かいかくは、アマルナ改革かいかくとして有名ゆうめいである。アテンかみ崇拝すうはいし、治世ちせい5ねんぜん1367ねんごろ)にアテン信仰しんこう導入どうにゅうはじめたが、まだ伝統でんとうてきかみ々への崇拝すうはい禁止きんししなかった。このころ、アテンへささげる神殿しんでんほかに、従来じゅうらいかみ々へささげる神殿しんでん建築けんちくしている。

しかし即位そくい4ねん名前なまえをアメンホテプからアクエンアテンに改名かいめいし、即位そくい6ねんにはアケトアテンの主要しゅよう建築けんちくぶつ完成かんせい王朝おうちょう発祥はっしょうテーベ放棄ほうき遷都せんとした。

即位そくい9ねんはいると、アクエンアテンは旧来きゅうらいのエジプトのかみ々を排斥はいせきし、アテンが唯一ゆいいつかみであると宗教しゅうきょう改革かいかくすすめた。この改革かいかくかんしては、アメン=ラーのちから対抗たいこうするおうこころみのひとつであったとかんがえられる。

改革かいかく原因げんいん

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テーベの守護神しゅごじんおよび国家こっかしんであるアメンをまつ神官しんかん勢力せいりょくおうおさえるほどのつよ勢力せいりょくになったことをアクエンアテンがきらい、宗教しゅうきょうてき権力けんりょく王権おうけん一本いっぽんすることをねらったとかんがえられる。前者ぜんしゃ理由りゆう一般いっぱんてきだが、アクエンアテン自身じしんがアテンをたたえる執筆しっぴつしているひとしたんなる政治せいじてき理由りゆうだけでは説明せつめいのつかないことおおく、後者こうしゃ理由りゆうおおきかったことがうかがえる。

宗教しゅうきょうてき意義いぎ

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多神教たしんきょうであった従来じゅうらいのエジプトの宗教しゅうきょうはいし、唯一ゆいいつかみアテンのみをまつ世界せかいはつ一神教いっしんきょうはじめたことげられた。しかし研究けんきゅうにより、現在げんざいではアクエンアテンがかみ々の存在そんざい積極せっきょくてき否定ひていしなかったというせつがおこり、現在げんざいではただ一神教いっしんきょうではなくはい一神教いっしんきょうなしている学者がくしゃ[3]と、たん一神教いっしんきょう[4]なしている学者がくしゃがいる。

また、著名ちょめい宗教しゅうきょう学者がくしゃエリアーデは、アクエンアテンの宗教しゅうきょうひょうし、「実際じっさいには二神にかみきょうであった」としている。なぜならば、かれ宗教しゅうきょうではアテンのみならず、伝統でんとうてきなエジプト宗教しゅうきょうおなじくおうたるアクエンアテン自身じしんかみであるとされたからである。

アテンは太陽たいよう円盤えんばんかたちすうおおくのっており、通常つうじょうのエジプト宗教しゅうきょうにおいてこれはおおくのみんすくためのものであると解釈かいしゃくされていたにもかかわらず、アクエンアテンの宗教しゅうきょうでは、アテンはアクエンアテンだけのためかみであった。そしてその一般いっぱんみんたいしては、アクエンアテン自身じしんかみとして崇拝すうはいするよういたのである。

その

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アクエンアテンは、後世こうせい人々ひとびとからは異端いたんしゃなされて、その記念きねんから削除さくじょされ、かれがテーベやアケトアテンに造営ぞうえいした建物たてもの破壊はかいされた。おそらく、アテン信仰しんこう宮廷きゅうていいくつかの場所ばしょでのみれられていたとかんがえられている。

アクエンアテン崩御ほうぎょ中心ちゅうしんいま完成かんせいされていないアケトアテンを永久えいきゅうり、テーベへもどった。のちに、ホルエムヘブ命令めいれいによりアケトアテンのまち破壊はかいされ、その石材せきざい場所ばしょでの建設けんせつ計画けいかくのためにはこられた。おかせつぶされおう名前なまえ碑文ひぶんから削除さくじょされた。

また、アテンだい神殿しんでん大地だいちたおされ、そのなかにあったせいなる品々しなじな粉々こなごな破壊はかいされた。テーベにあったアテンの神殿しんでん同様どうよう解体かいたいされ、アテン信仰しんこうやそのにくむべき保護ほごしゃであるおう痕跡こんせき抹消まっしょうするあらゆる努力どりょくがなされた。アケトアテンの残骸ざんがいは、まもなくふうはこばれたすなまり、その存在そんざいまった偶然ぐうぜん発見はっけんされるまでなんせんねんものあいだられることがなかった。[2]

后妃こうひ子女しじょ

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つま
  1. ネフェルティティ - ぞく古代こだいエジプトさんだい美女びじょ一人ひとりわれ、6にんむすめんだ。だい神官しんかんアイつまティイのむすめ一説いっせつによると、即位そくいめいアンケトケペルウラーとしてアクエンアテンの治世ちせい晩年ばんねん共同きょうどう統治とうちおこなったとされる
  2. キヤ (Kiya) - ミタンニおうトゥシュラッタ王女おうじょタドゥキパ英語えいごばん(Tadukhipa)[5]
  3. エニシャシ(げんレバノン)の統治とうちしゃシャティヤのむすめ[6]
  4. カッシートあさバビロンおうブルナ・ブリアシュ2せい英語えいごばんむすめ[6]
  5. アメンホテプ3せい王女おうじょわかほう淑女しゅくじょ) - トゥトアンクアメン実母じつぼ不明ふめい。アクエンアテンとはどうちち同母どうぼ姉妹しまいである。
ほかに実子じっし3にん共同きょうどう統治とうちしゃとし、つまあたえた。
  1. メリトアテン - むすめ(ネフェルティティの長女ちょうじょ)。メリタトンとも表記ひょうきされる。スメンクカーラー
  2. メケトアテン英語えいごばん - むすめ(ネフェルティティの次女じじょ)。
  3. アンケセンパーテン - むすめ(ネフェルティティのさんじょ)。のちのアンケセナーメン
  1. スメンクカーラー - 母親ははおや不明ふめいネフェルネフェルアテンつぎのファラオ。アメンホテプ3せいでアクエンアテンのおとうとという研究けんきゅうもある。
  2. メリトアテン - ネフェルティティの長女ちょうじょ
  3. メケトアテン英語えいごばん - ネフェルティティの次女じじょ
  4. アンケセンパーテン - ネフェルティティのさんじょ。ツタンカーメンの
  5. ネフェルネフェルウアテン・タシェリト - ネフェルティティのよんじょ。James P. Allenは、ファラオ・ネフェルネフェルウアテン在位ざいいぜん1335ねんまえ1333ねん)として次代じだいのファラオになったと示唆しさしている[7]
  6. ネフェルネフェルウラー英語えいごばん - ネフェルティティのじょ
  7. セテプエンラー英語えいごばん - ネフェルティティのろくじょ
  8. トゥトアンクアテン - スメンクカーラーのつぎのファラオ。黄金おうごんのマスクで有名ゆうめいなツタンカーメン。

崩御ほうぎょ

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KV55から発見はっけんされたアクエンアテンのかんかお部分ぶぶんけずられている

テーベかれはかとされるものが発見はっけんされているが、(おそらくかれ反対はんたい勢力せいりょくにより)レリーフは一切いっさいけずられている。かれのミイラとかん王家おうけたにKV55英語えいごばんから発見はっけんされており、破壊はかいおそれて移動いどうされたとられる。これらはエジプト考古学こうこがく博物館はくぶつかん保管ほかんされているが、かん破壊はかいされていたためミイラの保存ほぞん状態じょうたいわるく、白骨はっこつしてしまっており一般いっぱんには非公開ひこうかいである。かんも、修復しゅうふくして公開こうかいされているがかお部分ぶぶんけずられてしまっている。KV55のミイラは、ハワード・カーターはツタンカーメンの父親ちちおやのアクエンアテンのミイラだと主張しゅちょうしていたが、スメンクカーラーだとするせつもあり、はっきりしない部分ぶぶんがあった。

2010ねんザヒ・ハワスらの調査ちょうさにより、DNA鑑定かんていでツタンカーメンのミイラと比較ひかくした結果けっか、このミイラはほぼ間違まちがいなくアクエンアテンであることが発表はっぴょうされた。それとともに、ははティイとツタンカーメンのははのミイラ(ともアメンホテプ2せいおうはか(KV35)で発見はっけん)も身元みもと特定とくていされ、ツタンカーメンのはははアクエンアテンのどうちち同母どうぼ姉妹しまいであることがあきらかになった[8]。(アメンホテプ3せいとティイの5にんむすめのうち、さんじょヘヌトタネブ英語えいごばん(Henuttaneb)、よんじょネベトイアハ英語えいごばん(Nebetah)、じょベケトアテン英語えいごばん(Beketaten)のなかのいずれかではないかとされる[9]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 5~6ねんとするせつあり[1]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 松本まつもと 1998, pp. 207–219.
  2. ^ a b Kodai ejiputojin. David, Ann Rosalie., Kondō, Jirō, 1951-, 近藤こんどう, 二郎じろう, 1951-. 筑摩書房ちくましょぼう. (1986). ISBN 4-480-85307-3. OCLC 673002815. https://www.worldcat.org/oclc/673002815 
  3. ^ Montserrat, Dominic, 1964- (2000). Akhenaten : history, fantasy, and ancient Egypt. London: Routledge. ISBN 0-415-18549-1. OCLC 42923652. https://www.worldcat.org/oclc/42923652 
  4. ^ Brewer, Douglas J. (2007). Egypt and the Egyptians. Teeter, Emily. (2nd ed ed.). Cambridge, UK: Cambridge University Press. ISBN 0-521-85150-5. OCLC 64313016. https://www.worldcat.org/oclc/64313016 
  5. ^ Reeves, C. Nicholas. New Light on Kiya from Texts in the British Museum, p.100 The Journal of Egyptian Archaeology, Vol. 74 (1988)
  6. ^ a b Grajetzki, Ancient Egyptian Queens: A Hieroglyphic Dictionary, Golden House Publications, London, 2005, ISBN 978-0-9547218-9-3
  7. ^ The Amarna Succession, pp.14-15
  8. ^ “ツタンカーメンかされた系譜けいふ記事きじ全文ぜんぶん)”. ナショナルジオグラフィック公式こうしき日本語にほんごサイト. (2010ねん9がつ). http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/1009/feature01/ 2011ねん9がつ閲覧えつらん 
  9. ^ Aidan Dodson, Dyan Hilton: The Complete Royal Families of Ancient Egypt. The American University in Cairo Press, London 2004

参考さんこう文献ぶんけん

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  • エイダン・ドトソン+デイアン・ヒルトンちょ『エジプト歴代れきだい王朝おうちょう東洋とうよう書林しょりん、2012ねんISBN 9784887217980 
  • ロザリー・デイヴィッドちょ古代こだいエジプトじん : そのかみ々と生活せいかつ筑摩書房ちくましょぼうISBN 4480853073
  • 松本まつもと わたる図説ずせつ 古代こだいエジプトのファラオ』株式会社かぶしきがいしゃ わたる呂久ろく、1998ねんISBN 4946482121 

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
アメンホテプ3せい
古代こだいエジプトおう
エジプトだい18王朝おうちょう だい10代
ぜん1353ねん? - ぜん1336ねん?
次代じだい
スメンクカーラー