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高階たかしなけいとく

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高階たかしな けいとく(たかしな つねのり、天保てんぽう5ねん8がつ9にち1834ねん9月11にち)- 明治めいじ22ねん1889ねん3月23にち)は、幕末ばくまつから明治めいじ初期しょきにかけての地下ちかかんじん明治維新めいじいしんこう士族しぞくあつかい)・医師いし京都きょうとまれ孝明たかあき明治天皇めいじてんのう侍医じいつとめる。ごうれいえん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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天保てんぽう5ねん典薬てんやくりょう医師いし高階たかしな経由けいゆとして誕生たんじょう祖父そふひがしいっひかりかく天皇てんのうに、祖父そふけいせんひかりかく天皇てんのう仁孝天皇にんこうてんのうに、ちち経由けいゆ仁孝にんこう孝明たかあき明治めいじさんみかどに、それぞれ医術いじゅつをもってづかえた家系かけいであった。そのため、けいとく少年しょうねんからいえじゅくまなび、かぞえで21さいとなったよしみひさし7ねん同年どうねん安政あんせい改元かいげん)1がつ22にち1854ねん2がつ19にち)、典薬てんやくりょう出仕しゅっししたがえろくじょう筑前ちくぜんかい叙任じょにんされた。

典薬てんやくりょう時代じだい[編集へんしゅう]

そのせいろくすすんだけいとくは、文久ぶんきゅう元年がんねんれ(1862ねん1がつ)に和宮かずのみや親子おやこ内親王ないしんのう徳川とくがわ降嫁こうかするさい差添さしぞえ医師いし一人ひとりとして抜擢ばってきされる。また、けいとく若年じゃくねんながらてんみゃくはいゆるされ、慶応けいおう2ねんれ(1867ねん1がつ)に孝明天皇こうめいてんのうやまいたおれたさいは、ちち経由けいゆなどとともに痘瘡とうそうとの診断しんだんくだし、数日すうじつ崩御ほうぎょいたるまで日夜にちや天皇てんのう病床びょうしょうのぞんで治療ちりょう従事じゅうじした。慶応けいおう3ねん9がつ(1867ねん10がつ)に和宮かずのみやきの女官にょかんであった庭田にわた嗣子しし発病はつびょうしたときは、けいとくはその治療ちりょうのためふたた江戸えど派遣はけんされた。

明治めいじ時代じだい[編集へんしゅう]

明治天皇めいじてんのう即位そくい慶応けいおう4ねん1868ねん同年どうねん明治めいじ改元かいげん)、けいとくちち経由けいゆとの連名れんめいで「西洋せいよう医学いがく採用さいようかた」という建白けんぱくしょ提出ていしゅつした。これは、しょ外国がいこくへのすめらぎ発揚はつようのため、孝明天皇こうめいてんのうによってきんじられた(実際じっさい禁止きんしされた範囲はんい宮中きゅうちゅうにとどまるが)西洋せいよう医学いがくひろ許容きょようし、また、国民こくみんへの福祉ふくし政策せいさくとして、医療いりょう施設しせつ充実じゅうじつ社会しゃかいてき弱者じゃくしゃへの施薬せやく救済きゅうさいもとめる内容ないようであった。この建白けんぱくしょしん政府せいふ採用さいようするところとなり、明治めいじしん時代じだいにおいて近代きんだい医学いがく日本にっぽん普及ふきゅうするおおきなきっかけとなった。

このとしに、けいとくしたがえ筑前ちくぜんもりとなるも、よく明治めいじ2ねん官制かんせい変更へんこうともな律令りつりょうかんがすべて廃止はいしされ、筑前ちくぜんもり受領じゅりょうめられた。しん制度せいどにおいててんたちは大典たいてんちゅうてんしょうてん職階しょっかいけられ、けいとくしたがえ大典たいてん任命にんめいされ、明治天皇めいじてんのう奠都てんと供奉ぐぶして東京とうきょう移住いじゅうする。明治めいじ3ねんにはさら制度せいどあらたまり、せいろくけんだい侍医じいとなった。

建白けんぱくしょ提出ていしゅつ以降いこうけいとくみずか率先そっせんして西洋せいよう医学いがく学習がくしゅうつとめてかんよう両方りょうほう医学いがくつうじた。明治めいじ7ねん1874ねん)にろくとう侍医じい明治めいじ10ねん1877ねん)にみや内省ないせい医員いいんなどをつとめ、明治めいじ12ねん1879ねん)にとう侍医じいとなり、明治めいじ14ねん1881ねん)によんとう侍医じいとなり、さら文部省もんぶしょう御用ごようかけねた。明治めいじ19ねん1886ねん)2がつ5にち侍医じいりょうひきいる侍医じいにんじられそう任官にんかんよんとうとなる。明治天皇めいじてんのう侍医じいとしてのほかにかつらみや淑子としこ内親王ないしんのうなおやすし有栖川ありすがわみやのぼりじん親王しんのうなどの診察しんさつつとめた。

かんとしての職務しょくむたずさわる一方いっぽう晩年ばんねん私塾しじゅくこう寿ことぶきいん」をひらいて医師いし育成いくせいつとめる。日本にっぽん最初さいしょ女医じょいである荻野おぎの吟子ぎんこもその門下もんか1人ひとりであった。直前ちょくぜんしたがえじょせられた。

明治めいじ22ねん、54さい死去しきょ染井そめい霊園れいえんほうむられた。

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 京都きょうと府立ふりつ総合そうごう資料しりょうかん ぞう下橋しもはし資料しりょう 地下ちかかんじん家伝かでん
  • 伊良子いらこ光孝みつたかてんみゃくはい 孝明天皇こうめいてんのうはい日記にっき』(「たん復刊ふっかんだい47・48ごう、1976ねん
  • 京都きょうと医師いしかい へん京都きょうと医学いがく』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1980ねん
  • 池田いけだ文書ぶんしょ研究けんきゅうかい へん東大とうだい医学部いがくぶ初代しょだい綜理池田いけだけんとき 池田いけだ文書ぶんしょ研究けんきゅううえ)』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2006ねんISBN 4784212841