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西山にしやまこころざしきよし

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西山にしやまこころざしきよし

西山にしやま こころざしきよし(にしやま ゆきずみ、天保てんぽう13ねん6月6にち1842ねん7がつ13にち) - 明治めいじ44ねん1911ねん5月27にち)は、幕末ばくまつ土佐とさはん迅衝たい日本にっぽん明治めいじ初期しょき軍人ぐんじん政治せいじ幼名ようみょう直次郎なおじろう旧姓きゅうせい平井ひらい植木うえき

生涯しょうがい

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1842ねん天保てんぽう13ねん)6がつ6にち土佐とさこく高知こうち南新みなみしんまち現在げんざい高知こうち)にて土佐とさはん西山にしやま嘉蔵よしぞう三男さんなんまれた。どう藩士はんし平井ひらいしんたかし次女じじょ加尾かお結婚けっこんして平井ひらい婿養子むこようしにはいるが、1878ねん明治めいじ11ねん)3がつつまとともに西山にしやま復籍ふくせきした。

文学ぶんがく市川いちかわあきらとき徳永とくながせんただしに、武芸ぶげい武市たけいちみずほさん吉村よしむらよりゆきたいらに致道かんまなぶ。のちに土佐とさ勤王きんのうとう参加さんかし、平井ひらいおさむ二郎じろうつみわれたさい土佐とさへの護送ごそうみずやま下獄げごくたってははん免罪めんざいねがた。

1868ねん慶応けいおう4ねん)、板垣いたがき退助たいすけひきいる土佐とさ迅衝たいくわわり戊辰戦争ぼしんせんそう従軍じゅうぐんし、こうてた。 1870ねん明治めいじ3ねん[西暦せいれきねんよう検証けんしょう]兵部ひょうぶしょう出仕しゅっしして翌年よくねんにはおやへい一等いっとう士官しかんになるが、1873ねん明治めいじ6ねんせいかんろんそうでは辞職じしょくする。

1874ねん明治めいじ7ねん大蔵省おおくらしょうにんするも、ふたた辞職じしょくして帰郷ききょうする。板垣いたがき退助たいすけたすけて立志りっししゃ愛国あいこくしゃ土佐とさみんかい設立せつりつ尽力じんりょくをする。1878ねん明治めいじ11ねん立志りっししゃふく社長しゃちょう1880ねん明治めいじ13ねん愛国あいこくしゃふく議長ぎちょうとなり、欠席けっせき片岡かたおか健吉けんきちわって国会こっかい開設かいせつ歎願たんがん議論ぎろんをまとめた。

1883ねん明治めいじ16ねん新聞しんぶん社長しゃちょう1887ねん明治めいじ20ねん言論げんろん出版しゅっぱん集会しゅうかい自由じゆう建白けんぱくするため上京じょうきょうするも保安ほあん条例じょうれいによって投獄とうごくされる。1889ねん明治めいじ22ねん帰郷ききょう1890ねん明治めいじ23ねん自由党じゆうとう幹事かんじとなる。翌年よくねん同志どうし自由じゆう倶楽部くらぶ組織そしきし、1892ねん明治めいじ25ねん)2がつだい2かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ高知こうちけんだいさんから出馬しゅつば代議士だいぎし当選とうせん以後いご1893ねん明治めいじ31ねん)3がつだい5かいそう選挙せんきょまで連続れんぞく4かい当選とうせん。また、だい9かいそう選挙せんきょ補欠ほけつ選挙せんきょ当選とうせんし、通算つうさん5かい当選とうせんはたした。

1898ねん明治めいじ31ねんだい1大隈おおくま重信しげのぶ内閣ないかくでは警視総監けいしそうかんつとめた。1911ねん明治めいじ44ねん)5がつ27にちぼつ享年きょうねん70。

家族かぞく

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参考さんこう資料しりょう

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  • 高知こうちけん人名じんめい事典じてん高知こうち市民しみん図書館としょかん、1970ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどななじゅうねん - 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1962ねん