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川村かわむら景明かげあき

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川村かわむらかわむら 景明かげあきかげあき
川村かわむら景明かげあき
生誕せいたん 1850ねん4がつ8にち
日本にっぽん薩摩さつまこく
死没しぼつ (1926-04-28) 1926ねん4がつ28にち(76さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1871ねん - 1919ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう
勲章くんしょう 勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
墓所はかしょ 青山あおやま霊園れいえん
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川村かわむら 景明かげあき(かわむら かげあき、よしみひさし3ねん2がつ26にち1850ねん4がつ8にち) - 大正たいしょう15ねん1926ねん4がつ28にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん華族かぞく東京とうきょう衛戍えいじゅ総督そうとくかもみどりこうぐん司令しれいかんひとし歴任れきにんした。官位かんい元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょうしたがえいちだいくんこういちきゅう子爵ししゃく

経歴けいれき

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薩摩さつまはん野崎のさき吉兵衛きちべえ三男さんなんとして薩摩さつままれ、のち川村かわむら新左衛門しんざえもんけいひさし養子ようしとなり川村かわむらぎ、川村かわむらみなもと十郎じゅうろう名乗なのる。薩英戦争せんそう戊辰戦争ぼしんせんそう従軍じゅうぐん明治めいじ2ねん1869ねん)4がつ薩摩さつまはん歩兵ほへいだい1大隊だいたいだい1小隊しょうたい小頭こがしら就任しゅうにん

明治めいじ4ねん1871ねん)4がつ上京じょうきょうどう7がつからおやへいづけ陸軍りくぐん軍曹ぐんそうとして明治めいじしん政府せいふつかえる。明治めいじ5ねん1872ねん)7がつ陸軍りくぐん少尉しょうい近衛このえ歩兵ほへいだい2大隊だいたいづけとなり、翌年よくねん陸軍りくぐん中尉ちゅういすすむ。このあいだ石本いしもとしんろくから仏語ふつごまな一方いっぽう陸軍りくぐん勧誘かんゆうする。1874ねん明治めいじ7ねん)4がつ陸軍りくぐん大尉たいい広島ひろしま鎮台ちんだい勤務きんむめいぜられる。1876ねん明治めいじ9ねん)4がつ歩兵ほへいだい11連隊れんたい大隊だいたいちょう心得こころえ拝命はいめいはぎらん出征しゅっせいする。翌年よくねん2がつから征討せいとうだい3旅団りょだん隷下れいかとして西南せいなん戦争せんそう出征しゅっせい戦中せんちゅうの4がつ陸軍りくぐん少佐しょうさすす歩兵ほへいだい11連隊れんたい大隊だいたいちょうとなる。1882ねん明治めいじ15ねん)2がつ陸軍りくぐん中佐ちゅうさ歩兵ほへいだい4連隊れんたいちょうのち熊本くまもと鎮台ちんだい参謀さんぼうちょうだい6師団しだん参謀さんぼうちょう参謀さんぼう本部ほんぶだい1局長きょくちょう経験けいけん階級かいきゅう陸軍りくぐん大佐たいさのぼる。

明治めいじ23ねん1890ねん)6がつ陸軍りくぐん少将しょうしょう歩兵ほへいだい8旅団りょだんちょうめいぜられ、どう27ねん1894ねん)8がつ近衛このえあゆみへいだい1旅団りょだんちょううつにちしん戦争せんそう出征しゅっせいする。こうにより明治めいじ28ねん1895ねん)12月、男爵だんしゃくさづけられ華族かぞくれっせられる。明治めいじ30ねん1897ねん)10がつ陸軍りくぐん中将ちゅうじょうだい1師団しだんちょう就任しゅうにん明治めいじ34ねん1901ねん)4がつ伏見ふしみみやさだあい親王しんのう後任こうにんとしてだい10師団しだんちょう就任しゅうにんする。明治めいじ37ねん1904ねん)5がつからにち戦争せんそう出征しゅっせいし、この戦役せんえきさい陸軍りくぐん大将たいしょうかもみどりこう軍司ぐんじれいかん就任しゅうにん奉天ほうてん会戦かいせん参加さんか戦後せんご軍事ぐんじ参議さんぎかんけん東京とうきょう衛戍えいじゅ総督そうとくとなり、勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょうこういちきゅう金鵄勲章きんしくんしょうたまわる。明治めいじ40ねん1907ねん)9がつ子爵ししゃくに陞爵する。大正たいしょう4ねん1915ねん)1がつには元帥げんすいれっせられる栄誉えいよたまわる。

大正たいしょう8ねん1919ねん)12月から帝国ていこく在郷ざいきょう軍人ぐんじんかい会長かいちょうつとめる。大正たいしょう15ねん(1926ねん)4がつ28にち会長かいちょう在任ざいにんちゅう薨去こうきょ薨去こうきょさいだいくん菊花きっかだい綬章じゅしょうおくられた。墓所はかしょ東京とうきょうみなと南青山みなみあおやま青山あおやま霊園れいえん

かもみどりこう軍司ぐんじれいかんとしての活躍かつやく

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にち戦争せんそうにおける元帥げんすいろく大将たいしょう
みぎはし川村かわむら景明かげあき

にち戦争せんそうちゅうあらたにかもみどりこうぐん編成へんせいされた。この軍団ぐんだん満州まんしゅうぐんとはべつ行動こうどうできる部隊ぶたいとして、だい3ぐん司令しれいかん乃木のぎ希典まれすけ)から、勇猛ゆうもうられただい11師団しだんき、参謀さんぼう本部ほんぶ直接ちょくせつ指揮しき関与かんよできる部隊ぶたいとして編成へんせいされた軍団ぐんだんである(これには長岡ながおか外史がいしのアイデアを採用さいようしたとわれる)。これにたいし、現地げんちぐん司令しれいかんであった大山おおやまいわお不満ふまんべたが、かもみどりこう軍司ぐんじれいかん就任しゅうにんした川村かわむらは、大山おおやま会談かいだんしたさいに「そう司令しれい満州まんしゅうぐん)の指揮しきしたがいます」と明言めいげんし、事実じじつじょう満州まんしゅうぐん指揮しき軍団ぐんだんとして作戦さくせん行動こうどうともにすることになる。しかしかもみどりこうぐんは、実戦じっせん経験けいけん豊富ほうふだい11師団しだん主軸しゅじくとはしていたが、実際じっさい主力しゅりょく老兵ろうへい(30さい以上いじょうへい)を中心ちゅうしんとした後備こうびやくだい1師団しだんへいであり、編成へんせい当時とうじから実戦じっせん使つかえるものかどうか疑問ぎもんこえおおかった。

川村かわむら士気しき戦闘せんとうりょくおとるとおもわれていたかもみどりこうぐんを、だい一線いっせん部隊ぶたいなみにすべく行動こうどうはじめる。あえて草鞋わらじいた姿すがたまえせん塹壕ざんごうかけ、かく兵士へいしさくにこえけてまわ兵士へいし鼓舞こぶした。兵士へいしたちも屈託くったくのない川村かわむら姿すがたしたしみをせるようになったとわれる。

川村かわむら工夫くふう努力どりょくによって、役立やくだたずとおもわれていたかもみどりこうぐんたたかい、とく奉天ほうてん会戦かいせんでは、ロシアぐん指揮しきするアレクセイ・クロパトキン日本にっぽんぐん主力しゅりょく部隊ぶたい誤認ごにんさせるほどの活躍かつやくせた[1]

逸話いつわ

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  • にち戦争せんそうちゅう野津のつぐん司令しれいかん指示しじたいしてくびたてらないことが度々たびたびあった。その都度つど上原うえはら勇作ゆうさく参謀さんぼうちょう説得せっとくにあたったが、仕舞しまいには「かんにして攻撃こうげきせんとほっせば、みずかこれ敢行かんこうするほかあるまい」と川村かわむらうので上原うえはら閉口へいこうするしかなかったという。
  • さんかたまり石山いしやま戦闘せんとうにおいてだい10師団しだん敵前てきぜん旋回せんかい運動うんどうおこなうという危険きけん戦術せんじゅつ実行じっこうした。おりしも川村かわむら乗馬じょうばしたうま副官ふっかん被弾ひだんするという緊迫きんぱくした情勢じょうせいであったにもかかわらず、野津のつ軍司ぐんじれいかん師団しだん視察しさつおとずれた。最前線さいぜんせん視察しさつ野津のつ持病じびょうともいうべきもので、かく師団しだんちょうみなこれをいやがっていた。川村かわむら野津のつ出迎でむかえたが、野津のつかたわらにいた上原うえはらかって「だれ司令しれいをここにれてきたか! ここはぐん司令しれいかんるべき場所ばしょではない!」と怒鳴どなりつけた。野津のつたいしては「司令しれいかんすみやかに帰還きかんされたい」とったのでにん黙々もくもくとしてだい4ぐん司令しれいもどった。のちにもさきにも野津のつめんかって諫言した師団しだんちょうはいなかったため、だい10師団しだん参謀さんぼうたちは川村かわむらうやまったという。上原うえはら戦後せんご、「川村かわむら元帥げんすいにはにち戦役せんえきちゅうかい叱責しっせきされた。」とべている。
叱責しっせき翌日よくじつ視察しさつめいじられたのは参謀さんぼう町田まちだけい中佐ちゅうさであった。ロシア堪能かんのう町田まちだ川村かわむらから捕虜ほりょにしたてき連隊れんたいちょう尋問じんもんめいじられる。はたしてそれは町田まちだ旧友きゅうゆうのクリンゲンベルヒ中佐ちゅうさであった。「自分じぶん無事ぶじつま電報でんぽうらせてほしい。つま写真しゃしんをなくし、結婚けっこん指輪ゆびわ日本にっぽんへいうばわれたのでさがしてほしい。」と町田まちだきついた。町田まちだは「打電だでんしたり、さがしたりすることはできないことである。貴下きか自身じしん戦場せんじょうにあることをわすれたのか。戦場せんじょう泥棒どろぼう仕業しわざであり、軍紀ぐんき生命せいめいとする日本にっぽんへいには泥棒どろぼうをなすがごとき不心得ふこころえしゃはいない。」と語気ごきつよめた。川村かわむら恐縮きょうしゅくしてだまったままのクリンゲンベルヒに同情どうじょうし、こしからブランデーのはいった水筒すいとうはずして「これをませてやってくれ。」と町田まちだ手渡てわたしている。

栄典えいてん授章じゅしょう授賞じゅしょう

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位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

親族しんぞく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 宝島社たからじましゃかん 『別冊べっさつ宝島たからじま激闘げきとうにち戦争せんそう 日本人にっぽんじんがもっともかがやいたたたかい』P83~87記述きじゅつより
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう子爵ししゃく川村かわむら景明かげあき特旨とくし叙位じょいけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A11113622900 
  3. ^ 官報かんぽうだい2388ごう叙任じょにん及辞れい」1891ねん6がつ17にち
  4. ^ 官報かんぽうだい4113ごう叙任じょにん及辞れい」1897ねん3がつ23にち
  5. ^ 官報かんぽうだい5644ごう叙任じょにん及辞れい」1902ねん5がつ1にち
  6. ^ 官報かんぽうだい6558ごう叙任じょにん及辞れい」1905ねん5がつ13にち
  7. ^ 官報かんぽうだい8073ごう叙任じょにん及辞れい」1910ねん5がつ23にち
  8. ^ 官報かんぽうだい1448ごう叙任じょにん及辞れい」1917ねん5がつ31にち
  9. ^ a b 官報かんぽうだい4102ごう叙任じょにん及辞れい」1926ねん4がつ29にち
  10. ^ 官報かんぽうだい3732ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん12月5にち
  11. ^ 官報かんぽうだい6271ごう叙任じょにん及辞れい」1904ねん5がつ28にち
  12. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1906ねん12月30にち
  13. ^ 官報かんぽうだい7272ごう授爵じゅしゃく敍任じょにん及辞れい」1907ねん9がつ23にち
  14. ^ 官報かんぽうだい730ごう叙任じょにん及辞れい」1915ねん1がつ11にち
  15. ^ 官報かんぽうだい1187ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ15にち
  16. ^ 官報かんぽうだい1310ごう付録ふろく辞令じれい」1916ねん12月13にち
  17. ^ 官報かんぽうだい2612ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん4がつ19にち
  18. ^ 官報かんぽうだい4077ごう大正たいしょう15ねん3がつ30にち

参考さんこう文献ぶんけん

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ぐんしょく
先代せんだい
おく保鞏やすかた
だい1師団しだんちょう
だい4だい:1897ねん10がつ27にち - 1901ねん4がつ2にち
次代じだい
伏見ふしみみやさだあい親王しんのう
先代せんだい
伏見ふしみみやさだあい親王しんのう
だい10師団しだんちょう
だい2だい:1901ねん4がつ2にち - 1905ねん1がつ15にち
次代じだい
安東あんどう貞美さだみ
先代せんだい
佐久間さくまひだりうまふとし
東京とうきょう衛戍えいじゅ総督そうとく
だい2だい:1906ねん4がつ11にち - 1913ねん8がつ22にち
次代じだい
中村なかむらさとし
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
陞爵
子爵ししゃく
川村かわむら景明かげあき初代しょだい
1907ねん - 1926ねん
次代じだい
川村かわむらけいさと
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
川村かわむら景明かげあき初代しょだい
1895ねん - 1907ねん
次代じだい
陞爵