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大山おおやまつなどう

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大山おおやま つなどう
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 文政ぶんせい3ねん9月18にち1820ねん10月24にち
改名かいめい 幼名ようみょう彦太郎ひこたろういみな広道ひろみちつなしげるつなどう
別名べつめい 通称つうしょうきゅう左衛門さえもん宗之むねゆきすすむごう:栖山
墓所はかしょ 曹洞宗そうとうしゅう松原山まつばらやま南林寺なんりんじ墓地ぼち鹿児島かごしま南林寺なんりんじまち松原まつばらまち近辺きんぺん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 薩摩さつまはん
氏族しぞく 大山おおやま
父母ちちはは ちち大山おおやまつなさかえ
つなかた於幾おきだいつなあつし
テンプレートを表示ひょうじ

大山おおやま つなどう(おおやま つなみち)は、江戸えど時代じだい後期こうき薩摩さつまはん鹿児島かごしまじょう下士かし佐々木ささきはじめ大山おおやま分家ぶんけ当主とうしゅ家格かかくはじ小姓こしょうあずかのち、いちだい小番こつがい代々だいだい小番こつがい島津しまつひとしせん時代じだいから島津しまつひとしきょう初期しょき側用人そばようにんつとめる。側用人そばようにん時代じだいひゃく引郷、串木野くしきのきょう地頭じとう兼任けんにん大山おおやまいわお曾孫そうそん

経歴けいれき

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大山おおやまつなさかえとして誕生たんじょうする。隠居いんきょしていた島津しまつつぎゆたか御側おそば小姓こしょうになる。たかられき5ねん(1755ねん)の島津しまつ重豪しげひで藩主はんしゅ就任しゅうにんに、江戸えど幕府ばくふ薩摩さつまはんくにづけとして京極きょうごく兵部ひょうぶだかおもらを派遣はけんすることをめ、たかられき6ねん派遣はけんされたくに目付めつけ提出ていしゅつした薩摩さつまはん分限ぶげんちょうでもがわ小姓こしょうであったことが確認かくにんできる。その御徒おかち目付めつけになり、さらに島津しまつ重豪しげひで小納戸こなんど頭取とうどりになり、家格かかくいちだい小番こつがい昇格しょうかく安永やすなが2ねん1773ねん)から安永やすなが4ねん1775ねん)まで徳之島とくのしま代官だいかん当時とうじ通称つうしょうきゅう左衛門さえもんであった。

ひゃく引郷(現在げんざい鹿児島かごしまけん鹿屋かのや輝北きほくまち地頭じとうしょくになり、代々だいだい小番こつがいにこのとき昇格しょうかくしたとおもわれる。のちに串木野くしきのきょう現在げんざい鹿児島かごしまけんいちき串木野くしきの地頭じとうしょく就任しゅうにんなお、当時とうじ地頭じとうはん重役じゅうやく兼任けんにんするもので任地にんち出向でむくことほとんどなく、城下じょうか生活せいかつした。なお、串木野くしきのきょう地頭じとう時代じだい本職ほんしょく御側おそば用人ようにん側用人そばようにん在職ざいしょくちゅう文化ぶんか5ねんきんおもえろくくずこったが、つなどう関係かんけいしていなかったようだ。なお「文化ぶんか朋党ほうとう実録じつろく」では「大山おおやま宗之むねゆきすすむ」ので3かい登場とうじょうし、みやつこかん家老がろう鎌田かまたのりぜん樺山かばやまひさげん藩主はんしゅひとしせんしたがって来館らいかんしている。

年譜ねんぷ

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  • 寛延かんえい元年がんねん(1748ねん)6がつ1にち藩主はんしゅ島津しまつそうしんはつ目見まみ
  • たかられき6ねん10がつ、このつきあらためた薩摩さつまはん分限ぶげんちょうに「がわ小姓こしょう 大山おおやまきゅう左衛門さえもん」のがある。当時とうじ部屋へやまいでろく当時とうじちち大山おおやまつなさかえどう史料しりょうには大山おおやま文左衛門ぶんざえもん登場とうじょう)が健在けんざいでまだ家督かとくいでいなかった。
  • たかられき10ねん(1760ねん)9がつ20日はつか島津しまつつぎゆたか死去しきょ
  • 安永やすなが2ねん1773ねん)から安永やすなが4ねん1775ねん)まで徳之島とくのしま代官だいかん当時とうじ通称つうしょうきゅう左衛門さえもん
  • 寛政かんせい7ねん(1795ねん)、ひゃく引郷地頭じとうしょくく。このときには、通称つうしょう宗之むねゆきすすむしょうしていた。
  • 寛政かんせい8ねん1796ねん)、琉球りゅうきゅう王国おうこくなおゆたかおう謝恩しゃおん使二階堂にかいどうこうさとし引率いんそつするが、これに側役そばやくとして同行どうこう。なお、このときの同行どうこうしゃには用人ようにん梅田うめだもりかおりや、使番つかいばん伊東いとうせん大夫たいふがいた。
  • とおる元年がんねん(1801ねん)からは串木野くしきのきょう現在げんざい鹿児島かごしまけんいちき串木野くしきの地頭じとうしょく就任しゅうにん
  • 文化ぶんか12ねん(1815ねん串木野くしきのきょう地頭じとう辞任じにん。その多年たねん勲功くんこうにより、恩賞おんしょうたまわるという。
  • 1820ねん文政ぶんせい3ねん)9がつ18にち死去しきょ

家族かぞく親族しんぞく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 原口はらぐち虎雄とらお監修かんしゅう『薩州嶋津しまづ分限ぶげんちょう』(あおしおしゃ鹿児島かごしま県立けんりつ図書館としょかんくら
  • 尾野おのみのるしん元帥げんすい公爵こうしゃく 大山おおやまいわお』(鹿児島かごしま県立けんりつ図書館としょかんぞう
  • 輝北きほくまち郷土きょうど』(鹿児島かごしま県立けんりつ図書館としょかんぞう
  • 串木野くしきの郷土きょうど』(鹿児島かごしま県立けんりつ図書館としょかんぞう
  • しょさと地頭じとう系図けいず
  • 『薩藩政はんせい要録ようろく