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地区ちく特設とくせつ警備けいびたい

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地区ちく特設とくせつ警備けいびたい(ちくとくせつけいびたい、きゅう字体じたい地區ちく特設とくせつ警備けいびたい󠄁)とは、日本にっぽん陸軍りくぐん太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっき本土ほんど決戦けっせんそなえて編成へんせいした臨時りんじ部隊ぶたい連隊れんたい兵事へいじ組織そしき基礎きそとし、緊急きんきゅう防衛ぼうえい召集しょうしゅうによって一時いちじてきあつめた兵員へいいん充当じゅうとうする。軍民ぐんみん一体いったいとなった地域ちいき防衛ぼうえいのため、国民こくみん戦闘せんとう組織そしき中核ちゅうかく予定よていされた。樺太からふとたたかにおいて実戦じっせん参加さんかしている。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

太平洋戦争たいへいようせんそう終盤しゅうばんになると、日本にっぽんぐん本土ほんど決戦けっせん想定そうていした準備じゅんびすすめた。日本にっぽん本土ほんど防衛ぼうえいのための制度せいどとしては、地域ちいき所在しょざい予備よびやく人員じんいん一時いちじてき動員どういんする防衛ぼうえい召集しょうしゅう規定きていされており、防衛ぼうえい召集しょうしゅう利用りようした部隊ぶたいとして1943ねん昭和しょうわ18ねん)5がつから沿岸えんがん警備けいびなどを任務にんむとする特設とくせつ警備けいびたい編成へんせいされていた[1]。また、義勇ぎゆうへいとして在郷ざいきょう軍人ぐんじんかい自主じしゅてき組織そしきした形式けいしき防衛ぼうえいたいも、サイパンのたたか日本にっぽん敗北はいぼくした1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつ以降いこう全国ぜんこく結成けっせいされていた[2]。ただ、本土ほんど決戦けっせんぐん十分じゅうぶん戦力せんりょく発揮はっきできる態勢たいせい整備せいびには、これらの組織そしきだけでは不十分ふじゅうぶんかんがえられた。

そこで、1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ23にち小磯こいそ内閣ないかくは、本土ほんど決戦けっせんけた国民こくみん戦闘せんとう組織そしきのち国民こくみん義勇ぎゆう戦闘せんとうたいとして具体ぐたい)の創設そうせつ閣議かくぎ決定けっていした[3][4]。そして、これに関連かんれんしてよく24にち発令はつれいされたのが、軍令ぐんれいりくかぶとだい48ごうによる地区ちく特設とくせつ警備けいびたい編成へんせいである。4がつ以降いこう全国ぜんこくで918たい目安めやすとしてすみやかに編成へんせいするものとされた[5]同時どうじに、地域ちいき防衛ぼうえいのため地区ちく特設とくせつ警備けいびたいなどの指揮しき地区ちく司令しれいも、連隊れんたい司令しれい兵事へいじ司令しれい兼任けんにんするかたち編成へんせいされた(軍令ぐんれいりくかぶとだい47ごう)。これらの措置そちともない、在郷ざいきょう軍人ぐんじんかい防衛ぼうえいたい発展はってんてき解消かいしょうされることになった[6]

地区ちく特設とくせつ警備けいびたいは、地域ちいきごとに軍民ぐんみん一体いったいとなった戦闘せんとう態勢たいせい実現じつげんし、ぐん主力しゅりょく決戦けっせん集中しゅうちゅうできる環境かんきょう整備せいびすることが編成へんせい意図いとであった。地域ちいき国民こくみん戦闘せんとう組織そしき密接みっせつして国民こくみん戦闘せんとう中核ちゅうかくとなる一方いっぽう国民こくみん戦闘せんとう組織そしき正規せいきぐんむす役割やくわり期待きたいされた。既存きそん特設とくせつ警備けいびたいとの区別くべつ明確めいかくするため、名称めいしょうにも「地区ちく」がかんせられた[7]

編制へんせい装備そうび[編集へんしゅう]

地区ちく特設とくせつ警備けいびたい編制へんせいは、本部ほんぶ数個すうこ中隊ちゅうたいまたは小隊しょうたいからり、佐官さかんまたは尉官いかん隊長たいちょうとするやく300にん構成こうせいすることが基本きほんとされた[5]常置じょうちされる人員じんいん少数しょうすうで、本部ほんぶ隊長たいちょう尉官いかん1にん下士官かしかん4にんぶんたむろする中隊ちゅうたい小隊しょうたいがある場合ばあいにはかく隊長たいちょう下士官かしかん若干じゃっかんかれる程度ていどかぎられた。のこりの人員じんいん基本きほんてき防衛ぼうえい召集しょうしゅうした地域ちいき所在しょざい予備よびやく国民こくみん兵役へいえき人員じんいんでまかない、例外れいがいてきゆうげきせん要員よういんには訓練くんれんみのざいたいしゃてることになっていた。在郷ざいきょう軍人ぐんじんかいとの一体化いったいか促進そくしんのため、常置じょうち人員じんいん一部いちぶには在郷ざいきょう軍人ぐんじんかい幹部かんぶてた[5]

装備そうびは、きゅうきゅうしき小銃しょうじゅうさんじゅうねんしき銃剣じゅうけん下士官かしかんへい人数にんずうぶん帯刀たいとう本分ほんぶんしゃのぞく)や、シャベル十字じゅうじくわなど若干じゃっかんさだめられたが、当分とうぶんあいだ下士官かしかん以下いか軍刀ぐんとう小銃しょうじゅう銃剣じゅうけん常置じょうち人員じんいんぶんのみとされた。弾薬だんやく小銃しょうじゅう1ちょうにつき30はつだけであった[8]

実戦じっせん[編集へんしゅう]

8がつソ連それんぐんとのあいだきた樺太からふとたたかいでは、豊原とよはら司令しれい豊原とよはら連隊れんたい管内かんないで、豊原とよはら地区ちく司令しれい豊原とよはら地区ちくだい1-だい9特設とくせつ警備けいびたい実戦じっせん参加さんかした[9]樺太からふとでは3がつ24にち地区ちく司令しれい編成へんせい、3月25-26にちに7688にん防衛ぼうえい召集しょうしゅうして一応いちおう教育きょういく実施じっしみで、ソ連それんたいにち参戦さんせんの8がつ9にち在郷ざいきょう軍人ぐんじん中等ちゅうとう学校がっこう生徒せいとなど3628にん防衛ぼうえい召集しょうしゅうして地区ちく特設とくせつ警備けいびたい充当じゅうとうした[10]地区ちく司令しれいかんやなぎいさむ少将しょうしょうにちちゅう戦争せんそうでの経験けいけんから、ゆうげきせん投入とうにゅうすることも計画けいかくされ、配属はいぞくされた陸軍りくぐん中野なかの学校がっこう卒業そつぎょうしゃにより一部いちぶ要員よういんたいしては特別とくべつ教育きょういくほどこされている[10]陣地じんち構築こうちく物資ぶっし輸送ゆそう民間みんかんじん避難ひなん誘導ゆうどうなどにあたったほか、めぐみ須取まち豊原とよはら地区ちくだい8特設とくせつ警備けいびたい上陸じょうりくしてきたソ連それんぐんはげしい戦闘せんとうおこなっている[11]

なお、地区ちく特設とくせつ警備けいびたい制度せいど創設そうせつが3月26にち沖縄諸島おきなわしょとうへのアメリカぐん上陸じょうりく直前ちょくぜんであったため、沖縄おきなわせんでは地区ちく特設とくせつ警備けいびたい編成へんせい実戦じっせん参加さんかかった。地区ちく司令しれい編成へんせいも4がつ24にち当分とうぶんあいだ延期えんきとされた[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]