戦争せんそう人間にんげん (映画えいが)

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戦争せんそう人間にんげん
だい一部いちぶ 運命うんめい序曲じょきょく
だい あいかなしみの山河さんが
だいさん 完結かんけつへん
監督かんとく 山本やまもと薩夫
脚本きゃくほん 山田やまだ信夫しのぶだい一部いちぶ
山田やまだ信夫しのぶ武田たけだあつしだいさん
原作げんさく 五味ごみがわじゅんひらた
ナレーター 鈴木すずき瑞穂みずほ
出演しゅつえんしゃ 滝沢たきざわおさむ
芦田あしだ伸介しんすけ
高橋たかはし悦史えつし
浅丘あさおかルリ子るりこ
吉永よしなが小百合さゆり
北大路きたおおじ欣也きんや
高橋たかはし英樹ひでき
江原えばら真二郎しんじろう
加藤かとうつよし
山本やまもとけい
石原いしはら裕次郎ゆうじろう
丹波たんば哲郎てつろう
音楽おんがく 佐藤さとうまさる
撮影さつえい ひめ佐久さく
編集へんしゅう 円治えんじ睦夫むつおだいいち
鈴木すずきあきらだいさん
製作せいさく会社かいしゃ 日活にっかつ
配給はいきゅう ダイニチうつはいだいいち
日活にっかつだいさん
公開こうかい 日本の旗 1970ねん8がつ14にちだい一部いちぶ
日本の旗 1971ねん6月12にちだい
日本の旗 1973ねん8がつ11にちだいさん
上映じょうえい時間じかん 197ふんだい一部いちぶ
179ふんだい
187ふんだいさん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
配給はいきゅう収入しゅうにゅう 5おく9000まんえんだい一部いちぶ
やく3おくえんだい
やく4おくえんだいさん[1]
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戦争せんそう人間にんげん』(せんそうとにんげん)は、1970ねん昭和しょうわ45ねん)から1973ねん昭和しょうわ48ねん)にかけて公開こうかいされた3さく日本にっぽん映画えいがである。日活にっかつ製作せいさく監督かんとく山本やまもと薩夫

五味ごみがわじゅんひらた同名どうめい大河たいが小説しょうせつ戦争せんそう人間にんげん』の映画えいが作品さくひんで、日本にっぽん映画えいがとしてはおなじく五味ごみがわ小説しょうせつ映画えいがした『人間にんげん條件じょうけん』の9あいだ31ふんぐ9あいだ23ふんながさをほこる、日活にっかつ製作せいさくによる戦争せんそう大河たいがちょう大作たいさくである。

作品さくひん解説かいせつ[編集へんしゅう]

物語ものがたりは、1928ねん昭和しょうわ3ねん)のちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん前夜ぜんやから1939ねん昭和しょうわ14ねん)のノモンハン事件じけんまでを背景はいけいに、様々さまざまそう人間にんげんざまからようまでをえがいている。そして、その太平洋戦争たいへいようせんそういた経緯けいいについて丁寧ていねい表現ひょうげんされている。

だいさんではソ連それん国内こくないモスフィルム協力きょうりょくしも撮影さつえいおこなわれた。ノモンハン事件じけんだい規模きぼ戦闘せんとうシーンはソ連それんぐん協力きょうりょく撮影さつえいされており[2]ソ連それんロケ・ソ連それんぐん全面ぜんめん協力きょうりょく戦闘せんとうシーンという日本にっぽん映画えいがとしては異例いれいだい規模きぼ映画えいがとなっている。(稼働かどう状態じょうたい戦車せんしゃ準備じゅんびする必要ひつようじょう史実しじつ考証こうしょうとはことなるがT-34-85の実車じっしゃ撮影さつえい使用しようされている)

当初とうしょ東京とうきょう裁判さいばんによる伍代ごだい破滅はめつまでえがいたよんさく予定よていしていたが、豪華ごうかキャスト・本格ほんかくてき戦闘せんとうシーン・海外かいがいロケと日本にっぽん映画えいが史上しじょうでも屈指くっし大作たいさくであったため、当時とうじ日活にっかつ経営けいえい悪化あっかもあり結果けっかてき予算よさんつづかず、だいさん完結かんけついられた[3]だい一部いちぶだけでも3おく5000まんえん製作せいさくがかかったが、だいヒットさくとなった[4]

受賞じゅしょう[編集へんしゅう]

  • だい一部いちぶ
  • だい
    • だい45かいキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン だい4
    • だい25かい日本にっぽん映画えいが技術ぎじゅつしょう横尾よこおよしみりょうふかみんひろし古山ふるやま恒夫つねお
  • だいさん
    • だい47かいキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン だい10

あらすじ[編集へんしゅう]

大正たいしょうから昭和しょうわ元号げんごうあらためられてあいだもなく、日本にっぽん陸軍りくぐん中国ちゅうごく北部ほくぶ満州まんしゅう進出しんしゅつ計画けいかくしていた。当時とうじ日本にっぽん昭和しょうわ恐慌きょうこうによる不景気ふけいき蔓延まんえんしている。満州まんしゅうには無数むすう資源しげんまっており、そこで産業さんぎょうおこせば日本にっぽん経済けいざい回復かいふくし、とく東北とうほく地方ちほう農家のうか出稼でかせ労働ろうどうむすめ身売みう問題もんだい解消かいしょうできると将校しょうこうたちとなえていた。そのために日本にっぽん支援しえんするちょうさく奉天ほうてん軍閥ぐんばつ援軍えんぐん要請ようせい刻一刻こくいっこくっていたがないどころか、息子むすこちょうまなぶりょういたる説得せっとくにより蒋介石しょうかいせきとの同盟どうめい移行いこう日本にっぽん対抗たいこうしようとしていた。

1928ねんさんいち事件じけんによりしめぎ耕平こうへいあに共産きょうさん主義しゅぎしゃしめぎ拓郎たくろう警察けいさつによって検挙けんきょされる。その数日すうじつ中堅ちゅうけん財閥ざいばつだい邸宅ていたくにてアメリカから帰国きこくした長男ちょうなん伍代ごだい英介えいすけ歓送かんそうかいおこなわれ、財閥ざいばつ工場こうじょうわざちょう憔夫耕平こうへいれて当主とうしゅよしかい満州まんしゅう担当たんとうおとうとたかしかい次男じなん俊介しゅんすけ長女ちょうじょ由紀子ゆきこ次女じじょ順子じゅんこまえわせる。パーティーでは日本にっぽん中国ちゅうごく進出しんしゅつめぐ話題わだいちきりでよしかいよんだい財閥ざいばつえるため満州まんしゅう進出しんしゅつ軍需ぐんじゅ産業さんぎょうへの参入さんにゅう示唆しさ英介えいすけにそのプロジェクトに参画さんかくしてもらうようく。一方いっぽうしんやさしい俊介しゅんすけ満州まんしゅう進出しんしゅつ疑問ぎもんいだくもののよしかいから、そんな心持こころもちでは伍代ごだい人間にんげんとはえないとさとされ耕平こうへいあそびにかせてにん親友しんゆうとなる。由紀子ゆきことの不倫ふりん願望がんぼういだかれ誘惑ゆうわくするが紳士しんしつらぬかれ失望しつぼう失恋しつれんおくれてやってきた憲兵けんぺい柘植つげすすむ太郎たろう接近せっきんし、あらたなこいえる。

とう満州まんしゅうではたかしかい満州まんしゅうだいばれており、流通りゅうつうぎょう一方いっぽう阿片あへん密売みつばいなどきたな仕事しごとがけており、仕事しごととあれば危険きけんでもおもむ商社しょうしゃマンの高畠たかはたただしてん伍代ごだいさけかねのためなら暗殺あんさつはじめとしたよご仕事しごとなんでもこなすしぎこま次郎じろうささえていた。

スタッフ[編集へんしゅう]


キャスト[編集へんしゅう]

だい一部いちぶ[編集へんしゅう]

だい[編集へんしゅう]

だいさん[編集へんしゅう]

テレビ放送ほうそう[編集へんしゅう]

1980ねん1がつ3にち木曜もくよう)から同年どうねん1がつ5にち土曜どよう)まで東京とうきょう12チャンネル(げんテレビ東京てれびとうきょう)で、『連続れんぞく3日間にちかん特別とくべつロードショー』と銘打めいうってのテレビ放送ほうそうおこなわれた[6]ぜん3かい放送ほうそう時間じかんは3日間にちかんともに19:00 - 22:48 (日本にっぽん標準時ひょうじゅんじ)。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン85かいぜん 1924-2011』、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、2012ねん5がつ23にち
  2. ^ やはりきゅう満州まんしゅう舞台ぶたいで、ソ連それんぐん登場とうじょうする『人間にんげん條件じょうけん』では海外かいがいロケが不可能ふかのうだったため、ソ連それんぐん戦車せんしゃなどは陸上りくじょう自衛隊じえいたい保有ほゆうする装備そうび借用しゃくようして撮影さつえいされた。ほんさくどう時期じき製作せいさくされた東映とうえい配給はいきゅうの『樺太からふと1945ねんなつ 氷雪ひょうせつもん』でも国内こくない陸上りくじょう自衛隊じえいたい協力きょうりょくによって撮影さつえいおこなっている。
  3. ^ DVD-BOXの解説かいせつしょによる
  4. ^ 朝日新聞あさひしんぶん土曜どよう増刊ぞうかん be on Saturday「映画えいが旅人たびびと2014ねん8がつ30にち
  5. ^ 本編ほんぺんでは登場とうじょうシーンはカットされている。
  6. ^ 下野げや新聞しんぶん縮刷しゅくさつばん下野新聞社しもつけしんぶんしゃ、1980ねん1がつ1にち[よう検証けんしょう] - 1がつ5にちづけのラジオ・テレビらん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]