中島なかじま今朝けさわれ

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中島なかじま 今朝けさわれ
なかしま けさご
生誕せいたん 1881ねん6月15にち
日本の旗 日本にっぽん 大分おおいたけん
死没しぼつ (1945-10-28) 1945ねん10月28にち(64さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 長野ながのけん
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1903 – 1939
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
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中島なかじま 今朝けさわれ(なかしま けさご, 1881ねん明治めいじ14ねん6月15にち - 1945ねん昭和しょうわ20ねん10月28にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじんだい16師団しだん師団しだんちょうだい4ぐん司令しれいかん階級かいきゅう陸軍りくぐん中将ちゅうじょう

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

誕生たんじょうから舞鶴まいづる要塞ようさい司令しれいかんまで[編集へんしゅう]

1881ねん明治めいじ14ねん)6がつ15にち大分おおいたけん宇佐うさぐん八幡やはたむらげん宇佐うさ下乙女しもおとめ医業いぎょういとな中島なかじましげる十郎じゅうろう三男さんなんとしてまれ、ながじて八幡やはた小学校しょうがっこうかよう。

1893ねん明治めいじ26ねん)、黒木くろきため中将ちゅうじょう宇佐うさおこなわれる陸軍りくぐん演習えんしゅう視察しさつするため、八幡やはたむらったところ大勢おおぜい村人むらびと歓迎かんげいあらわれた。そのなか今朝けさわれはいっていたのだが、そこで今朝けさわれ黒木くろきから「おまえ眼光がんこうには普通ふつう人間にんげんとちがうところがある。もし東京とうきょうって勉強べんきょうがしたかったら、この黒木くろきのところにたずねてくるがよい[1]」とわれる。今朝けさわれはそれをたよりにしてもなく上京じょうきょうし、東京とうきょうみなみ豊島としまぐん渋谷しぶやまち大字だいじ渋谷しぶや常盤ひたちまつげん渋谷しぶやひがし)の黒木くろきてい書生しょせいとなった。

旧制きゅうせい私立しりつ海軍かいぐん予備校よびこうはいったのち, 1896ねん明治めいじ29ねん)5がつ東京とうきょう陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこうだい1)に入学にゅうがくする。いで陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう卒業そつぎょうをへて1902ねん明治めいじ35ねん)5がつ31にち上等じょうとうへいとなって野砲やほうへいだい15連隊れんたい連隊れんたいちょうしば五郎ごろう中佐ちゅうさづけとして入隊にゅうたいし、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう士官しかん候補こうほせいとして入学にゅうがくする。

1903ねん明治めいじ36ねん)11月30にち陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(15)を卒業そつぎょうし、曹長そうちょう昇進しょうしんする. 1904ねん明治めいじ37ねん)3がつ6にち原隊げんたいである野砲やほうへいだい15連隊れんたい見習みならい士官しかんとしてだんれつづけとなる. 3月18にち砲兵ほうへい少尉しょうい昇進しょうしんする。4月24にち野砲やほうへいだい15連隊れんたいだい2ぐん司令しれいかんおく保鞏やすかた大将たいしょう麾下きか野戦やせん砲兵ほうへいだい1旅団りょだん旅団りょだんちょう内山うちやましょう二郎じろう少将しょうしょう)に所属しょぞくして広島ひろしまけん宇品うじな出港しゅっこうにち戦争せんそう従軍じゅうぐんする。

しかし, 8がつ31にちりょう会戦かいせんでのくび山保やまほたたかいで負傷ふしょうし、野戦やせん病院びょういんへ. 10月17にちにはあえなく帰国きこく宇品うじな帰着きちゃくする. 12月28にち今度こんど台湾たいわん守備しゅび野砲やほうへい連隊れんたいだい3大隊だいたいづけとして門司もじ出港しゅっこうして台湾たいわんわたる. 1905ねん明治めいじ38ねん)6がつ30にち砲兵ほうへい中尉ちゅうい昇進しょうしんし, 11月8にち帰国きこくする。

1906ねん明治めいじ39ねん)3がつ27にちふたた野砲やほうへいだい15連隊れんたいづけ. 1910ねん明治めいじ43ねん)12月12にち陸軍りくぐんだい学校がっこう入学にゅうがくする. 1913ねん大正たいしょう2ねん)8がつ31にち砲兵ほうへい大尉たいい昇進しょうしんする. 11月26にち陸軍りくぐんだい学校がっこう卒業そつぎょうだい25)し、野砲やほうへいだい15連隊れんたい中隊ちゅうたいちょうめいじられる。このとし井関いせきてるよと祝言しゅうげんをあげ、のちに1なん1じょをもうける. 1914ねん大正たいしょう3ねん)8がつ19にち陸軍りくぐん野戦やせん砲兵ほうへい射撃しゃげき学校がっこう教官きょうかんとなる。

1918ねん大正たいしょう7ねん)9がつ21にちには軍事ぐんじ研究けんきゅういんとしてフランス駐在ちゅうざいめいじられ、横浜よこはま出港しゅっこうする. 1919ねん大正たいしょう8ねん)10がつフランス陸軍りくぐんだい学校がっこう入学にゅうがく. 12月1にち砲兵ほうへい少佐しょうさ昇進しょうしんする. 12月22にちあらたに陸軍りくぐん兵器廠へいきしょうづけヨーロッパ出張しゅっちょうめいじられる. 1920ねん大正たいしょう9ねん)9がつ、フランス陸軍りくぐんだい学校がっこう40卒業そつぎょう。11月10にち平和へいわ条約じょうやく実施じっし委員いいんけんどく陸軍りくぐん監督かんとくめいじられ、ドイツ駐在ちゅうざいとなる. 1923ねん大正たいしょう12ねん)5がつ31にちパリ事故死じこしした砲兵ほうへい大佐たいさ北白川きたしらかわ宮成みやなりひさおう扈従こしょうして香取かとりまるにて帰国きこく神戸こうべ帰着きちゃく. 6月18にちつまてるよが死去しきょする。

8がつ6にち砲兵ほうへい中佐ちゅうさ昇進しょうしんする。陸軍りくぐん野戦やせん砲兵ほうへい学校がっこう教官きょうかんけん同校どうこう研究けんきゅう部員ぶいんとなる. 12月22にちけん陸軍りくぐん歩兵ほへい学校がっこう教官きょうかん1925ねん4がつ18にちまで)をめいじられる. 1924ねん大正たいしょう13ねん)2がつ8にちけん陸軍りくぐん騎兵きへい学校がっこう教官きょうかん(1925ねん4がつ18にちまで)をもめいじられる。このあいだ砲兵ほうへい操典そうてん各種かくしゅ操典そうてん典範てんぱんれい改正かいせいたずさわる。8月25にち中村なかむら悦子えつこ再婚さいこんし、のちに6なん2じょをもうける。

1925ねん大正たいしょう14ねん)12月24にちけん陸軍りくぐんだい学校がっこう兵学へいがく教官きょうかんめいじられる. 1927ねん昭和しょうわ2ねん)2がつ10日とおか砲兵ほうへい大佐たいさ昇進しょうしんする。だい7師団しだん師団しだんちょう渡辺わたなべじょう太郎たろう中将ちゅうじょう麾下きか野砲やほうへいだい7連隊れんたいちょうされる. 1929ねん昭和しょうわ4ねん)8がつ1にちふたた陸軍りくぐんだい学校がっこう兵学へいがく教官きょうかんとなる. 1931ねん昭和しょうわ6ねん)8がつ3にちけん飛行ひこうだい5連隊れんたいづけとなり機上きじょう訓練くんれんなどをおこなう. 1932ねん昭和しょうわ7ねん)4がつ11にち少将しょうしょう昇進しょうしんし、舞鶴まいづる要塞ようさい司令しれいかんにんじられる。

陸軍りくぐん習志野ならしの学校がっこう校長こうちょうから憲兵けんぺい司令しれいかんまで[編集へんしゅう]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)8がつ1にち陸軍りくぐん習志野ならしの学校がっこう初代しょだい校長こうちょうめいじられる. 1934ねん昭和しょうわ9ねん)5がつ18にち群馬ぐんまけん群馬ぐんまぐん桃井ももいむらげん榛東しんとうむら)の相馬そうまげん陸軍りくぐん習志野ならしの学校がっこう幹事かんじである今村いまむらひとし大佐たいさ計画けいかく実施じっし日本にっぽんはつどくガスもちいた演習えんしゅうおこなった。だが不備ふびしょうじ、あやまってどくったもの続出ぞくしゅつして上等じょうとうへいくなった。これにより、真崎まさき三郎さぶろう教育きょういく総監そうかん今村いまむら退役たいえき処分しょぶんにするつもりであったが、今朝けさ真崎まさき教育きょういく総監そうかんほかはやしずくじゅうろう陸軍りくぐん大臣だいじん参謀さんぼう総長そうちょう閑院みやじん親王しんのう直訴じきそし、ていして今村いまむらまもったため、今村いまむら不問ふもんされた[2]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)2がつ26にち東京とうきょうすめらぎどう青年せいねん将校しょうこうらによってクーデターこされた(二・二六事件ににろくじけん)。一貫いっかんせいのない陸軍りくぐん中央ちゅうおううごきとはちがい、はやくから反乱はんらんぐん鎮圧ちんあつくちにしていた今朝けさわれであったが, 2がつ28にちになり、催涙さいるいだんくしゃみだん携行けいこうして東京とうきょう出撃しゅつげきするようにとの命令めいれいくだり、出発しゅっぱつする。

3月7にち中将ちゅうじょう昇進しょうしんする. 3月23にちには憲兵けんぺい司令しれいかんめいじられる。以後いごすめらぎどう放逐ほうちく粛軍しゅくぐん加担かたんする。憲兵けんぺい司令しれいかん就任しゅうにん、これには同郷どうきょうであり、陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう同期どうきであり、親友しんゆうである、しん陸軍りくぐん次官じかん梅津うめづ美治よしはるろう中将ちゅうじょうてがあった。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)1がつ広田ひろた弘毅こうき内閣ないかくそう辞職じしょくおこなった。それにより、次期じき首班しゅはん宇垣うがき一成いっせい大将たいしょうとなることもほぼ明白めいはくとなった。そして陸軍りくぐん宇垣うがき大将たいしょうにいよいよ大命たいめいくだされるとの情報じょうほうはいってきた。

石原いしはら莞爾かんじ参謀さんぼう本部ほんぶだいいち部長ぶちょう心得こころえ中心ちゅうしんとする統制とうせい中堅ちゅうけんそうは、軍部ぐんぶ主導しゅどうでの政治せいじおこなうことを目論もくろんでおり、かつてよん師団しだん廃止はいしするなどの軍縮ぐんしゅく宇垣うがき軍縮ぐんしゅく)を断行だんこうした宇垣うがきなどが首相しゅしょうになれば自分じぶんたちを圧迫あっぱくし、自分じぶんたちの政策せいさく実現じつげんできないとかんがえ、なんとしてもこの宇垣うがき組閣そかく阻止そししようとうごきだした。石原いしはら自身じしんぞくする統制とうせい参謀さんぼう本部ほんぶ中心ちゅうしん陸軍りくぐん首脳しゅのうげ、寺内てらうち寿一ひさいち陸軍りくぐん大臣だいじん説得せっとくし、宇垣うがきたいして自主じしゅてき大命たいめい拝辞はいじさせるように「説得せっとく」する命令めいれい寺内てらうち大臣だいじんから憲兵けんぺい司令しれいかんであった今朝けさわれさせた。

24にちよる憲兵けんぺいによって宇垣うがきうごきをつかんでいた今朝けさわれは、宇垣うがき組閣そかく大命たいめいけようと皇居こうきょ参内さんだいする途中とちゅう宇垣うがきくるま多摩川たまがわ六郷ろくごうきょうめそのくるまんで、寺内てらうち大臣だいじんからの命令めいれいであるとい、今回こんかい大命たいめい拝辞はいじするようにと宇垣うがきを「説得せっとく」した。だが、宇垣うがきはこれを無視むしして参内さんだいし、大命たいめいけた。しかし石原いしはら工作こうさくは「宇垣うがき四天王してんのう」とばれた杉山すぎやまはじめ教育きょういく総監そうかん小磯こいそ国昭くにあき朝鮮ちょうせんぐん司令しれいかんにもおよび、結局けっきょくだれ一人ひとりとして宇垣うがき内閣ないかく陸軍りくぐん大臣だいじんけるものはいなかった。これによって宇垣うがき組閣そかく断念だんねんし、宇垣うがき内閣ないかく流産りゅうざんした[3]

またこのあいだ今朝けさわれ宇垣うがき組閣そかく参謀さんぼうであった松井まついいし大将たいしょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん船田ふなだなか直接ちょくせつ電話でんわをして宇垣うがきへの加担かたんをやめるようにっている[4]

だい16師団しだんちょうから死去しきょまで[編集へんしゅう]

8がつ2にちだい16師団しだんながけん中部ちゅうぶ防衛ぼうえい司令しれいかん(26にちまで)となる。ささえ事変じへん勃発ぼっぱつにより、9月7にちきたささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん寺内てらうち寿一ひさいち大将たいしょう麾下きかだい2ぐん司令しれいかん西尾にしお寿ひさしづくり中将ちゅうじょう隷属れいぞくとして大阪おおさか出港しゅっこうし、9月11にち中華民国ちゅうかみんこくだい上陸じょうりく以後いご華北かほく作戦さくせんおこなう。

11月になり、ちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん松井まついせき大将たいしょう麾下きか上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん松井まついせき大将たいしょう兼務けんむ)に隷属れいぞくする。上記じょうき宇垣うがき大将たいしょう組閣そかくいちけん遺恨いこんもあり、両者りょうしゃなか大変たいへんわるかった。以後いご南京なんきん攻略こうりゃくせん参加さんかする. 12月13にち南京なんきん占領せんりょう今朝けさわれ前線ぜんせんすこ負傷ふしょうする。

戦後せんご、ジャーナリストの木村きむら久邇くにのり中島なかじま評伝ひょうでんをまとめるために遺族いぞく取材しゅざいをしていたさい提供ていきょうけた日記にっきには、だい16師団しだんちょうとして南京なんきん攻略こうりゃくせん参加さんかしたときに、ほん攻略こうりゃくせんにおいて捕虜ほりょらない方針ほうしんであること、隷下れいか部隊ぶたいがそれぞれ捕虜ほりょせんまんえる単位たんい処理しょりしたものがあること、かれ自身じしんななはちせんにん捕虜ほりょをまとめて「片付かたづけくる」予定よていだが、それには「だいなるごうようちゅう見当みあたらず」代案だいあんかんがえていること、かたな使つかたのでたまたまいた捕虜ほりょ7にん日本にっぽんがたなためりに使つかったこととう記述きじゅつがある。

松井まつい大将たいしょうめた本来ほんらいの17にち入城にゅうじょうしきには参加さんかしないつもりでいたところ参謀さんぼうからの進言しんげんがあったとして、15にち自分じぶんらだけの入城にゅうじょうしきおこない、これは一部いちぶメディアにもさきがけとしての開催かいさいとしてほうじられた。南京なんきんでの掠奪りゃくだつがエスカレートしていたが、師団しだんちょうであった中島なかじま自身じしん積極せっきょくてきかつ幕僚ばくりょうらを使つかって組織そしきてき実行じっこう[5]蒋介石しょうかいせき邸宅ていたくなどにあった美術びじゅつ品等ひんとう宝物ほうもつるい略奪りゃくだつはこした。松井まつい大将たいしょう南京なんきんからはこされる荷物にもつ中身なかみ注意ちゅういするよう上海しゃんはいから指示しじしたようではあるが、この指示しじがどの程度ていど実行じっこうされたか不明ふめいである。のち中島なかじまみずか日記にっきに、松井まつい注意ちゅういされたものの、しらばくれたといている。戦後せんご田中たなか隆吉りゅうきち国際こくさい検事けんじきょく尋問じんもん証言しょうげんしたところによれば、本人ほんにん満州まんしゅうだいぐん司令しれいかんであった1938ねんまつちかく、これらの財物ざいぶつ師団しだん偕行社かいこうしゃおくったことが発覚はっかく、スキャンダルとなり、本人ほんにん司令しれいかん解任かいにん(さらに、そのしばらくしての予備よびやく編入へんにゅう)の原因げんいんとなっている[6]本人ほんにん日記にっきには1がつ9にちから同月どうげつ19にちまでの記載きさいがなく、そのページをったあともないため、それらが宝物ほうもつるい掠奪りゃくだつ専念せんねんしていたではないかとするせつがある。その一方いっぽうで、自身じしん管轄かんかつ地域ちいき部隊ぶたい士官しかん兵士へいし掠奪りゃくだつおこなったことについては、自身じしん日記にっきに「将兵しょうへいらが自分じぶん管轄かんかつ地域ちいきものさがぶんには、せめて戦場せんじょう心理しんりあらわれとして背徳はいとくともおもわぬが、他人たにん管轄かんかつ地域ちいきで、しかも司令しれい標識ひょうしきかかげている建物たてもので、平気へいきぬすみをはたらくのは余程よほど下等かとうだ」といている[7][5]。また、自分じぶん宿舎しゅくしゃにした蒋介石しょうかいせきもと官舎かんしゃすで略奪りゃくだつなどでてていたので現地げんち一流いちりゅうホテルの家具かぐみ、それにたいする松井まつい大将たいしょう注意ちゅういには「くに人命じんめいるのに家具かぐ師団しだんかえなにかあらん」とっぱねたと日記にっきしるしている。

よく1938ねん昭和しょうわ13ねん)1がつ今朝けさわれとは同郷どうきょうなかかった陸軍りくぐんしょう人事じんじ局長きょくちょう阿南あなみ惟幾これちか少将しょうしょう南京なんきん視察しさつにやってきた。そこで阿南あなみ松井まつい司令しれいかんから今朝けさわれ統率とうそつ非難ひなんするはなしかされている。また、阿南あなみはこのとしの12月22にちおこなわれた陸軍りくぐんしょう局長きょくちょう会報かいほう出席しゅっせきし、「中島なかじま師団しだん婦人ふじん方面ほうめん殺人さつじん軍紀ぐんき行為こういは、国民こくみんてき道義どうぎしん廃退はいたい戦況せんきょう悲惨ひさんよりるものにして、言語げんごぜっするものあり」とメモにしるしている[8]

1938ねん昭和しょうわ13ねん)1がつふたただい2ぐん隷属れいぞくとなって華北かほく進出しんしゅつする。5月にはじょしゅう会戦かいせんおこなわれ、敗走はいそうつづける国民党こくみんとうぐんう。6月9にち国民党こくみんとうぐん日本にっぽんぐんからのがれるために黄河こうが堤防ていぼう爆破ばくはして決壊けっかいさせ、だい洪水こうずい発生はっせいさせた。これによりだい16師団しだんその部隊ぶたい進撃しんげきまる。

6月24にちだい2ぐん司令しれいかんひがし久邇くにみや稔彦としひこおう中将ちゅうじょうとその上官じょうかんであるきたささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん寺内てらうち寿一ひさいち大将たいしょうつうじて、今朝けさわれ大本営だいほんえい和平わへいうったえる意見いけん具申ぐしん建白けんぱくしょ提出ていしゅつする。と同時どうじ因縁いんねん相手あいてである宇垣うがき一成いっせい外務がいむ大臣だいじんにも従軍じゅうぐんそう村上むらかみどくつうじて建白けんぱくしょ提出ていしゅつする。その意見いけんしょ要旨ようしは、「ほこおさめて一路いちろただちにすめらぎどう国家こっか建設けんせつすすむべきだ」と主張しゅちょうし、その理由りゆうとして、

いち中国ちゅうごくぐんはわがぐん決戦けっせんするをほっしていない。

、これを追撃ついげきすることは、領土りょうどよくおもてわれと批判ひはんされかねない。

さん黄河こうがしんりゅうができたのをに、それを自然しぜん休戦きゅうせんラインにすべきだ。

よんナポレオンロシア侵攻しんこう失敗しっぱい教訓きょうくんとすべきだ。

というものである。 しかし、大本営だいほんえいてのものは寺内てらうち大将たいしょうかもしくは大本営だいほんえい参謀さんぼうにぎりつぶし、宇垣うがき外相がいしょうてのものは宇垣うがき外務がいむ大臣だいじん辞任じにんしたのでわたされることはなかった[9]

7がつ上旬じょうじゅんにはささえ事変じへんへの疑問ぎもん和平わへいつづった「意見いけん具申ぐしんのこ」をしたためたが、結局けっきょく提出ていしゅつわる[10]

7がつ15にち だい4ぐん司令しれいかんにんじられ満州まんしゅう北部ほくぶ防衛ぼうえいたる。ちなみに参謀さんぼうちょう牟田むたくちれん少将しょうしょうである。

1938ねんれごろ、南京なんきん攻略こうりゃく直後ちょくご略奪りゃくだつしていた蒋介石しょうかいせきてい美術びじゅつひんるい日本にっぽんちこもうとして発覚はっかく陸軍りくぐんおおきな問題もんだいとなる。よく1がつ兵務へいむ課長かちょう憲兵けんぺい元締もとじめ)となった田中たなか隆吉りゅうきちは、かれによれば南京なんきんでの残虐ざんぎゃく事件じけんについて中島なかじまふくめた責任せきにんしゃ軍法ぐんぽう会議かいぎにかけることを主張しゅちょうしたものの、反対はんたいつよく、容認ようにんされなかったという[6]1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつ1にち参謀さんぼう本部ほんぶづけたいささえせんでの功績こうせきから天皇てんのうから恩賜おんしひん陪席ばいせきさかえたまわる。9月28にち待命たいめい。9月30にち、ついに予備よびやく編入へんにゅうされる。

以降いこう1ねんすうげつあいだ北京ぺきん事務所じむしょひらいて中国ちゅうごく実情じつじょう調しらべる。 1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつ22にち, 1941ねん昭和しょうわ16ねん)5がつ14にち、7がつ5にちさんつう事変じへん処理しょり方案ほうあんをしたためて政府せいふぐん批判ひはんする[11]

12月8にち太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつする。 同月どうげつまつ皇国こうこく職域しょくいき勤労きんろう奉公ほうこうたい総裁そうさい就任しゅうにんする。 1942ねん昭和しょうわ17ねん)4がつ母校ぼこうである大分おおいたけん宇佐うさぐん八幡やはた小学校しょうがっこう講演こうえんおこなった。大分おおいたけん内務ないむ部長ぶちょう大分おおいたけん警察けいさつ特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ課長かちょうもいるなかで今朝けさわれは、「このぶんでは、日本にっぽんはきっとける」と発言はつげんして会場かいじょう騒然そうぜんとなり、警察けいさつでも問題もんだいとなった。しかし、今朝けさ陸軍りくぐん中将ちゅうじょうということでやむなく不問ふもんされた[12]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ28にち長野ながのけん佐久さくぐん御代田みよたまち療養りょうようしょ肝硬変かんこうへん尿毒症にょうどくしょうにより死去しきょ。64さいぼつ。そのとき状況じょうきょうは「臨終りんじゅうむかえたと同時どうじアメリカぐんMP戦犯せんぱん容疑ようぎ調しらべにおとずれ、部屋へやのドアをノックした[12]。」という。

木村きむらひさなんじてんいた今朝けさわれ伝記でんきでは、ほかにもしゅによりアルコール中毒ちゅうどくとなり割腹かっぷく自殺じさつしたというせつがあるものの、これは虚説きょせつとし、長男ちょうなん中島なかじま知行ともゆきの、今朝けさわれ化学かがく兵器へいき研究けんきゅう教育きょういく機関きかんつとめていて、そこでしばしばどくガスをったことが病状びょうじょう原因げんいんとする言葉ことば紹介しょうかいしている[13]習志野ならしの学校がっこうでのどくガス事故じこはなし誤解ごかいされてつたわったのか、今朝けさわれ自身じしん習志野ならしのなんらかの事故じこってその後遺症こういしょうでもあったのか、不明ふめいである。

東京とうきょう豊島としま椎名しいなまち自宅じたくでの葬儀そうぎには、梅津うめづ美治よしはるろうけた。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • たけったような性格せいかくであり、人情にんじょうであり、大変たいへん子煩悩こぼんのうであった。
  • 何事なにごともフランスりゅうたっとび、かみオールバック左手ひだりてにはかね指輪ゆびわけていた。
  • 陸軍りくぐんだい学校がっこうとフランス陸軍りくぐんだい学校がっこう両方りょうほう卒業そつぎょう徽章きしょう佩用はいようしていた。
  • 精神せいしんろんはばかしていくなかで、あくまでもフランスしき大砲たいほうへい運用うんようろん主張しゅちょうする。
  • 上官じょうかんたいしてまった物怖ものおじせずに意見いけんった。
  • 趣味しゅみ狩猟しゅりょうなかでも鳥撃とりうち、そして書画しょが骨董こっとうひん収集しゅうしゅう
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん)に同志社大学どうししゃだいがく法学部ほうがくぶ内紛ないふんこったさいには「同志社どうししゃ一挙一動いっきょいちどうひろキリスト教きりすときょう全般ぜんぱん指標しひょうとして重視じゅうしせられつつある実情じつじょう」をかんがみ、湯浅ゆあさ八郎はちろう総長そうちょう友人ゆうじんとしての資格しかく調停ちょうていおこない、事態じたい鎮静ちんせいさせた[14]
  • 今朝けさわれはそもそも統制とうせいでもすめらぎどうでもなかったが、青年せいねん将校しょうこう下克上げこくじょうてき態度たいどには我慢がまんがならなかった。陸軍りくぐん習志野ならしの学校がっこう校長こうちょうとき上官じょうかんである教育きょういく総監そうかんすめらぎどうである真崎まさき三郎さぶろうである。その真崎まさき青年せいねん将校しょうこう下克上げこくじょうてき態度たいど容認ようにんしていた。そのため今朝けさわれ真崎まさきすめらぎどうとは次第しだい距離きょりくようになっていき、結果けっかてき統制とうせいちかづいてくこととなった。
  • ささえ事変じへんのとき、師団しだんちょうであるにもかかわらず士官しかんようかわ長靴ながぐつかずに下士官かしかんへいようゲートルいていたのでゲートル将軍しょうぐんばれていた。
  • 今朝けさわれ退役たいえき梅津うめづ美治よしはるろう会合かいごうったが、そのときに、「中国ちゅうごく日本人にっぽんじん主導しゅどうけんをもって統治とうちするというかんがえはあやまりだ。中国ちゅうごく中国ちゅうごく民衆みんしゅう自身じしんおさめなければならない。日本にっぽん中国ちゅうごくすのはあやまりである」というはなしをしている[15]
  • 大阪おおさか池田いけだちょうかつげられそうになったがことわった。
  • 東條とうじょう英機ひでき首相しゅしょう和平わへいうったえる手紙てがみしている。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p13
  2. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p126
  3. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p185~P189
  4. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p184
  5. ^ a b にちちゅう歴史れきし共同きょうどう研究けんきゅうさかえ維木「だい だいしょう 日本にっぽん中国ちゅうごくたいする全面ぜんめんてき侵略しんりゃく戦争せんそう中国ちゅうごく全面ぜんめんてき抗日こうにち戦争せんそう」 p7
  6. ^ a b 粟屋あわや健太郎けんたろう へん東京とうきょう裁判さいばん資料しりょう 田中たなか隆吉りゅうきち尋問じんもん調書ちょうしょ大月書店おおつきしょてん、1994ねん11月18にち、150-151,151ぺーじ 
  7. ^ 南京なんきん戦史せんし資料しりょう編纂へんさん委員いいんかいへん南京なんきん戦史せんし資料集しりょうしゅう』Ⅰ「中島なかじま今朝けさわれ日記にっき」、偕行社かいこうしゃ, p226
  8. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p252
  9. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p230
  10. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p232, p233
  11. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p254~p256
  12. ^ a b 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p267
  13. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p267
  14. ^ 同志社どうししゃしゃ史料しりょう編集へんしゅうしょ同志社どうししゃひゃくねん通史つうしへん学校がっこう法人ほうじん同志社どうししゃ、1116-1120ぺーじ
  15. ^ 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ』p251
  16. ^ 官報かんぽうだい6267ごう叙任じょにん及辞れい」1904ねん5がつ24にち
  17. ^ 官報かんぽうだい6648ごう叙任じょにん及辞れい」1905ねん8がつ26にち
  18. ^ 官報かんぽうだい8185ごう叙任じょにん及辞れい」1910ねん10がつ1にち
  19. ^ 官報かんぽうだい976ごう叙任じょにん及辞れい」1915ねん11月1にち
  20. ^ 官報かんぽうだい2500ごう叙任じょにん及辞れい」1920ねん12月1にち
  21. ^ 官報かんぽうだい1234ごう叙任じょにん及辞れい」1931ねん2がつ12にち
  22. ^ 官報かんぽうだい2751ごう叙任じょにん及辞れい」1936ねん3がつ6にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 木村きむら久邇くにのり個性こせい将軍しょうぐん 中島なかじま今朝けさわれ 反骨はんこつきた帝国ていこく陸軍りくぐん異端いたん』(光人みつひとしゃ、1987ねんISBN 4-7698-0367-2
  • 南京なんきん戦史せんし編集へんしゅう委員いいんかい へん南京なんきん戦史せんし資料集しりょうしゅう』(偕行社かいこうしゃ、1993ねん増補ぞうほ改訂かいていばん
だい16師団しだんちょう中島なかじま今朝けさわれ日記にっきあり
  • 村瀬むらせまもる村瀬むらせまもる写真しゃしんしゅう わたし従軍じゅうぐん中国ちゅうごく戦線せんせん 新版しんぱん いち兵士へいしうつした戦場せんじょう記録きろく』(日本にっぽん機関きかん出版しゅっぱんセンター、2005ねんISBN 4-88900-836-5
1987年刊ねんかん新版しんぱん日本にっぽんへいによる南京なんきんせん直後ちょくご写真しゃしんあり。