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植村うえむら正久まさひさ

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うえむら まさひさ

植村うえむら 正久まさひさ
生誕せいたん 1858ねん1がつ15にち
安政あんせい4ねん12月1にち
日本の旗 日本にっぽん武蔵むさしこく江戸えどしば露月ろげつまち
死没しぼつ 1925ねん1がつ8にち(1925-01-08)(66さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう柏木かしわぎ
墓地ぼち 多磨たま霊園れいえん[1]
別名べつめい 道太郎みちたろう幼名ようみょう
出身しゅっしんこう バラじゅくブラウンじゅく東京とうきょう一致いっち神学校しんがっこう
職業しょくぎょう 牧師ぼくし伝道でんどうしゃ神学しんがくしゃ思想家しそうか
配偶はいぐうしゃ 植村うえむら
子供こども 澄江すみえたまきかおる夭折ようせつ)・恵子けいこ
テンプレートを表示ひょうじ
後列こうれつ中央ちゅうおうせい矢野やの晃雄てるお前列ぜんれつ高倉たかくら徳太郎とくたろう植村うえむら正久まさひさ金井かない為一ためいちろうみぎから2人ふたり)、斎藤さいとういさむ、1912ねんあるいは1913ねんなつ山上さんじょうりょういん

植村うえむら 正久まさひさ(うえむら まさひさ、1858ねん1がつ15にち安政あんせい4ねん12月1にち) - 1925ねん大正たいしょう14ねん1がつ8にち)は、日本にっぽん思想家しそうかキリスト教きりすときょう伝道でんどうしゃ牧師ぼくし神学しんがくしゃ説教せっきょうごうは「けんどう」あるいは「桔梗ききょうせい」など。日本にっぽんキリスト教きりすときょう教会きょうかい形成けいせいおおきな役割やくわりたした植村うえむら田村たむらただししん松村まつむら介石かいせき内村うちむら鑑三かんぞうともキリスト教きりすときょうかいよんむらばれた。日本基督教会にほんきりすときょうかい日本にっぽんプロテスタント指導しどうしゃであり、日本にっぽんのプロテスタントにもおおきな影響えいきょうあたえ、全日本ぜんにほんキリスト教会きょうかいのプロテスタント教皇きょうこうといわれた[2]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

多磨たま霊園れいえんにある植村うえむら正久まさひさ

初期しょき[編集へんしゅう]

徳川とくがわの1500せき旗本はたもといえまれた。幼名ようみょう道太郎みちたろう大政奉還たいせいほうかん没落ぼつらくし、立身出世りっしんしゅっせ目指めざして英学えいがくまなぶ。そこで、アメリカ・オランダ改革かいかく教会きょうかい二人ふたり宣教師せんきょうしサミュエル・ロビンス・ブラウンジェームス・バラ師事しじした。1873ねん5がつ4にち、16さいのときにバラより洗礼せんれいけ、日本にっぽん基督きりすと公会こうかいきょう会員かいいんとなる。

1871ねんおさむぶんかん入学にゅうがくし、ブラウンや押川おしかわ方義まさよし井深いぶか梶之助かじのすけらとう。

1874ねん明治めいじ7ねん)にS.R.ブラウン創設そうせつしたえい学校がっこう(ブラウンじゅく)に入学にゅうがくした。[3]

1877ねん明治めいじ10ねん)、井深いぶか梶之助かじのすけらととも東京とうきょう一致いっち神学校しんがっこういち期生きせいになる。卒業そつぎょうに、東京とうきょう下谷しもたに諌塀まち開拓かいたく伝道でんどうはじめる1887ねん一番町いちばんちょう教会堂きょうかいどう(富士見町ふじみちょう教会きょうかい)を設立せつりつ生活せいかつかせぐために翻訳ほんやく仕事しごとをしたり、明治めいじ学院がくいん神学しんがくおしえたりしながらまきかい伝道でんどうつとめる。1879ねんはる23さいとき横浜よこはまフェリス女学院じょがくいん研修けんしゅうちゅうであった山内やまうち(山内やまうち量平りょうへいいもうと)に奥野おくのあきらつなかいして結婚けっこんもうみ、即座そくざ本人ほんにん快諾かいだくたが、彼女かのじょ実家じっかキリスト教きりすときょう信仰しんこう理解りかいであった。

牧師ぼくし時代じだい[編集へんしゅう]

同年どうねん1879ねん明治めいじ12ねん12月24にちあさ植村うえむら正久まさひさが、ひる井深いぶか梶之助かじのすけが、よる田村たむらただししんが按手れい日本にっぽん基督きりすと一致いっち教会きょうかい牧師ぼくしとなった。

植村うえむら正久まさひさつまになる山内やまうち

結婚式けっこんしきは4ねん1882ねん明治めいじ15ねん)である。

1883ねん明治めいじ16ねん)5がつ東京とうきょうおこなわれただいさんかい全国ぜんこく基督教きりすときょう信徒しんとだい親睦しんぼくかい参加さんかする。

1884ねん10がつ15にち真理しんりいちまだら刊行かんこう

1887ねん3がつ6にち一番町いちばんちょう教会きょうかい(のちの富士見町ふじみちょう教会きょうかい設立せつりつ

1888ねん明治めいじ21ねん)3がつ10日とおか横浜よこはま出帆しゅっぱん洋行ようこうする。コロンビア大学ころんびあだいがくプリンストン大学ぷりんすとんだいがく奨学しょうがくきんことわり、ロンドンにヶ月かげつ滞在たいざいして、チャールズ・スポルジョン、ジョセフ・パーカー、ジェイムズ・マーティノウらを傾聴けいちょうする。1889ねん1がつ20日はつか帰国きこく

1889ねん明治めいじ22ねん)2がつ25にち東北学院とうほくがくいん理事りじきょく決議けつぎにより東北学院とうほくがくいん神学しんがく仙台せんだい神学校しんがっこう教授きょうじゅ選任せんにんせられた(花輪はなわ庄三郎しょうざぶろう東北学院とうほくがくいんななじゅうねん東北学院とうほくがくいん同窓会どうそうかい、1959ねん[ようページ番号ばんごう][4]

1889ねん明治めいじ32ねんだい10かい夏期かき学校がっこう講師こうしとして参加さんかする。また信州しんしゅう上田うえだ教会きょうかい独立どくりつのための伝道でんどう局長きょくちょうになり、『敬虔けいけんみち』とだいして説教せっきょうおこなう。各地かくち巡回じゅんかいして説教せっきょうおこなう。1890ねん3がつ14にち福音ふくいん週報しゅうほう創刊そうかん、1891ねん3がつ20日はつか福音ふくいん新報しんぽう』と改題かいだい

1891ねん明治めいじ24ねん)イギリス滞留たいりゅう救世きゅうせいぐん本営ほんえいおとずれ、ウィリアム・ブース大将たいしょう面会めんかいした[5]

1892ねん明治めいじ25ねん日本基督教会にほんきりすときょうかい数寄屋橋すきやばし教会きょうかい田村たむらただししん牧師ぼくしは、「仏教ぶっきょう影響えいきょう家庭かていキリスト教きりすときょう影響えいきょう家庭かてい比較ひかく」するため著書ちょしょ、『日本にっぽん花嫁はなよめ』を出版しゅっぱんした。1893ねん植村うえむら正久まさひさは「福音ふくいん新報しんぽう」で、このほん批判ひはんした。10月に日本基督教会にほんきりすときょうかいちゅうかいは、井深いぶか梶之助かじのすけ山本やまもとしげる熊野くまのつよしななうったえにより、「同胞どうほう讒誣ざい(どうほうざんぶざい)」で田村たむらただししん譴責けんせき1894ねんだい9かい日本基督教会にほんきりすときょうかい大会たいかい植村うえむらは、「此の問題もんだいに就ては最早もはや多言たげんするをようしない。先刻せんこく以来いらいかれ自己じこ弁護べんごする態度たいどればわかる。此のごとひと日本基督教会にほんきりすときょうかい教職きょうしょくとしてみとめむるべきかなにうか、またづから分明ぶんめいである。」とべた。大会たいかいは「日本にっぽん国民こくみん侮辱ぶじょくしたるもの」として、田村たむらただししん牧師ぼくしから免職めんしょくした。[6][7][8][9]

1896ねん明治めいじ29ねんだい8かい夏期かき学校がっこうで『日本にっぽんにおけるキリスト教きりすときょう』とだいして講演こうえんする。また、だい9かい福音ふくいん同盟どうめいかい講演こうえんする。1897ねん明治めいじ30ねん日本基督教会にほんきりすときょうかい大会たいかいで『基督教きりすときょう倫理りんり』とだいした講演こうえんをする。このとし日本にっぽん基督教きりすときょうかい創立そうりつ25周年しゅうねん記念きねんのための歴史れきし編纂へんさん参加さんかする。

1899ねん明治めいじ32ねん神戸こうべ高知こうち日本基督教会にほんきりすときょうかい教会きょうかい応援おうえんする。内務省ないむしょうれいだい41ごうとして宗教しゅうきょう取締とりしまりれい発布はっぷされると、植村うえむらは『福音ふくいん新報しんぽう』で批判ひはん展開てんかいする。

1900ねん明治めいじ33ねん新栄しんえい教会きょうかいひらかれた日本基督教会にほんきりすときょうかい大会たいかい説教せっきょうをし、広島ひろしま熊本くまもと高知こうち神戸こうべ大阪おおさか名古屋なごや各地かくち巡回じゅんかいして説教せっきょうする。

1901ねん明治めいじ34ねん明治めいじ学院がくいん神学しんがくで「系統けいとう神学しんがく」を担当たんとうする。植村うえむら系統けいとう神学しんがく教科書きょうかしょとして、アメリカにおける最初さいしょ自由じゆう主義しゅぎ神学しんがく(リベラル)の立場たちば神学しんがくしょとしてられる、W・N・クラークの『基督教きりすときょう神学しんがく概論がいろん』を使用しようした。このほん聖書せいしょ高等こうとう批評ひひょうみとめ、進化しんかろんれていた。

同年どうねん9月福音ふくいん新報しんぽう』に、「福音ふくいん同盟どうめいかい大挙たいきょ伝道でんどう」を発表はっぴょう。ここから「植村うえむら海老名えびなキリストろん論争ろんそう」がこり、植村うえむらは、ユニテリアン、ドイツ自由じゆう主義しゅぎ神学しんがく代弁だいべんする日本にっぽん組合くみあい基督教きりすときょうかい指導しどうしゃ海老名えびな弾正だんじょう牧師ぼくし(『新人しんじん』)と論争ろんそうした。[10](1902ねん7がつころまで) 日本基督教会にほんきりすときょうかいきょう役者やくしゃ大会たいかいで、植村うえむらが「教授きょうじゅハルナック神学しんがく」とだいする講演こうえんおこなう。

1902ねん明治めいじ35ねん一番町いちばんちょう教会きょうかい創立そうりつ15ねん記念きねんかい開催かいさいする。福音ふくいん同盟どうめいかい海老名えびな弾正だんじょうたいする主張しゅちょう賛成さんせい可決かけつされる。

だい14かい夏期かき学校がっこうにて『来世らいせてき信仰しんこう』『現今げんこんキリスト教きりすときょう思想しそう問題もんだい』とだいする説教せっきょうおこなう。その台湾たいわん北海道ほっかいどう巡回じゅんかいする。

東京とうきょう神学しんがくしゃ[編集へんしゅう]

1903ねん藤村ふじむらみさお自殺じさつたいして「きるともなん甲斐がいあらんや」を『福音ふくいん新報しんぽう』に発表はっぴょうする。だい15かい夏期かき学校がっこうで『ブラウニングの宗教しゅうきょう』とだいして講演こうえんおこなう。

1903ねん明治めいじ36ねん)に明治めいじ学院がくいん保守ほしゅみなみ長老ちょうろうミッション宣教師せんきょうしサミュエル・フルトンら)がクラークの『基督教きりすときょう神学しんがく概論がいろん』の使用しよう反対はんたいした。このためフルトンたもとかつことになり、植村うえむら明治めいじ学院がくいん辞職じしょくする。そして、甲府こうふ伝道でんどう開始かいしする[11][12]

1904ねん明治めいじ37ねん)、甲府こうふ静岡しずおか豊橋とよはし岡崎おかざき名古屋なごや大垣おおがき京都きょうと福山ふくやま各地かくち伝道でんどうおこなう。さらに、東京とうきょう郊外こうがい各地かくち伝道でんどうおこなう。渡辺わたなべそうらの資金しきんてき協力きょうりょくにより、海外かいがいミッションから完全かんぜん独立どくりつした、東京とうきょう神学しんがくしゃ神学しんがく専門せんもん学校がっこう設立せつりつした。自給じきゅう独立どくりつあん大会たいかい提出ていしゅつするが否決ひけつされる。

1905ねん明治めいじ38ねんジョン・ノックス400ねん記念きねんかい神田かんだ青年せいねんかい開催かいさいし、『改革かいかくしゃおよ神学しんがくしゃたるノックス』とだいして講演こうえんおこなう。ふたたび、日本基督教会にほんきりすときょうかい大会たいかい提出ていしゅつした「独立どくりつ自給じきゅうあん」が可決かけつされる。

東京とうきょう神学しんがくしゃ主催しゅさい宗教しゅうきょう文学ぶんがく講演こうえんかいで『ロベルト・ブラウニングのこん来世らいせ』とだいする講演こうえんおこなう。だい17かい夏期かき学校がっこうで『勢力せいりょく宗教しゅうきょう』とだいして講演こうえんおこなう。

1906ねん明治めいじ39ねん)に一番町いちばんちょう教会きょうかい会堂かいどう富士見ふじみまち建築けんちくする。そして、富士見町ふじみちょう教会きょうかい改称かいしょうする。東京とうきょう神学しんがくしゃ宗教しゅうきょう文学ぶんがく講演こうえんかい神田かんだ青年せいねんかい開催かいさいし、ケーベル波多野はたの精一せいいちとも講演こうえんかいひらく。そこで、『ワーズワースちゅう自然しぜん』とだいする説教せっきょうおこなう。

1907ねん甲府こうふ静岡しずおか岡山おかやま伝道でんどうおこなう。万国ばんこく基督教きりすときょう青年せいねん大会たいかい東京とうきょう開催かいさいされ、『学生がくせい伝道でんどう高調こうちょうせらるべき理想りそうたる基督きりすとたる生涯しょうがい』とだいする講演こうえんおこなう。そして、千葉ちば高知こうち伝道でんどうおこなう。このとし東京とうきょう神学しんがくしゃだいいちかい卒業生そつぎょうせいす。

1908ねん東京とうきょう大挙たいきょ伝道でんどう尽力じんりょくする。仙台せんだい大阪おおさか甲府こうふ舞鶴まいづる伝道でんどうをする。さらに、京都きょうと津山つやま岡山おかやま千葉ちば伝道でんどう応援おうえんする。

全国ぜんこく協同きょうどう伝道でんどう[編集へんしゅう]

1909ねん明治めいじ42ねん基督教きりすときょう伝道でんどう開始かいし50ねん記念きねんかい開催かいさいし、記念きねん伝道でんどう委員いいんちょうとして伝道でんどう方針ほうしんかたる。カルビン生誕せいたん400ねん記念きねんかいひらく、また植村うえむら正久まさひさ牧師ぼくし在職ざいしょく30ねんしゅくかい富士見町ふじみちょう教会きょうかい開催かいさいする。

1910ねん明治めいじ43ねん日本にっぽん統治とうち韓国かんこくキリストしゃてて「朝鮮ちょうせんのキリストしゃ」という激励げきれいぶんを『福音ふくいん新報しんぽう』に発表はっぴょうするが、発売はつばい禁止きんし処分しょぶんになる。

日本基督教会にほんきりすときょうかい伝道でんどう開始かいし50ねん感謝かんしゃ伝道でんどうかいゆう楽座らくざひらいて講演こうえんする。その旅順りょじゅんきょうしろ(ソウル)、台湾たいわん伝道でんどうする。

1911ねん明治めいじ44ねん大逆だいぎゃく事件じけん刑死けいしした大石おおいし誠之助せいのすけ葬儀そうぎを、富士見町ふじみちょう教会きょうかいおこなう。京都きょうと名古屋なごや岡山おかやま京都きょうと甲府こうふ伝道でんどうおこなう。日本基督教会にほんきりすときょうかい大会たいかい植村うえむら正使せいしとして、欧米おうべい派遣はけんすることを決議けつぎする。横浜よこはまより欧米おうべいけて出航しゅっこううする。1912ねん明治めいじ45ねん)4がつ欧米おうべいより帰国きこくする。帰国きこく京都きょうと岡山おかやま神戸こうべ各地かくち伝道でんどう旅行りょこうする。そして、きょうじょう日本にっぽん基督教きりすときょうかいけんじどうしき出席しゅっせきする。

1913ねん大正たいしょう3ねん高知こうち広島ひろしま水戸みと台湾たいわん門司もじ伝道でんどうおこなう。1914ねんには上田うえだ釜山ぷさん静岡しずおか村上むらかみ伝道でんどうをする。1915ねん全国ぜんこく協同きょうどう伝道でんどうにおいて東部とうぶちょうとして、東北とうほく北海道ほっかいどう伝道でんどうをする。植村うえむらは「キリストしゃかか伝道でんどう」とんだ。また、なつにはちゅう渋谷しぶや教会きょうかい夏期かき講話こうわかいで『使徒しと信条しんじょう』の講話こうわ連続れんぞくしてった。横浜よこはまフェリス女学校じょがっこうおこなわれた女子じょし青年せいねん大会たいかい講演こうえんをする。その京都きょうと横浜よこはま大阪おおさか伝道でんどうおこなう。

1916ねん大正たいしょう5ねん)には小崎おざき弘道ひろみち井深いぶか梶之助かじのすけ海老名えびな弾正だんじょうとも発起人ほっきにんになり、築地つきじ精養軒せいようけんにおいて「両院りょういん議員ぎいん信徒しんと懇談こんだんかい」をおこなう。婦人ふじん矯風きょうふうかい主催しゅさい講演こうえんかい島田しまだ三郎さぶろうともおこなう。さらに、山梨やまなし柏崎かしわざき高田たかだ伝道でんどう旅行りょこうく。

1917ねん大正たいしょう6ねんちゅう渋谷しぶや教会きょうかい建設けんせつし、もりあきら牧師ぼくしにんしょくしきおこなう。横浜よこはまゆび教会きょうかいおこなわれた宗教しゅうきょう改革かいかく400ねん記念きねん集会しゅうかい説教せっきょうおこなう。鎌倉かまくら日本基督教会にほんきりすときょうかい伝道でんどうしょもうける。佐世保させぼ熊本くまもと大阪おおさか伝道でんどう旅行りょこうおこなう。1918ねん大正たいしょう7ねん)に日本基督教会にほんきりすときょうかい教職きょうしょくしゃかい連続れんぞく講演こうえんおこない、「基督きりすと人格じんかく」「死後しご生活せいかつについて」「基督教きりすときょうすくい」などをかたる。台湾たいわん中国ちゅうごく韓国かんこく伝道でんどうおこなう。さらに、首都しゅとけん神田かんだ大森おおもり市ヶ谷いちがや伝道でんどうおこなう。

1919ねん大正たいしょう8ねん)には伝道でんどうきょく創立そうりつ25周年しゅうねん記念きねんかい講演こうえん伝道でんどうきょくしん事業じぎょう」をおこなう。水戸みと山梨やまなし鹿児島かごしま福岡ふくおか伝道でんどうおこなう。

1920ねん大正たいしょう9ねん東京とうきょう神学しんがくしゃ講演こうえんかいで「基督教きりすときょう有神論ゆうしんろん」をかたる。神戸こうべ高知こうち富山とやま台湾たいわん中国ちゅうごく韓国かんこくなどを伝道でんどう旅行りょこうする。

1921ねん大正たいしょう10ねん)に新潟にいがた青島ちんたお上海しゃんはい大連たいれん紀州きしゅう伝道でんどうする。三崎みさき会館かいかん黙示録もくしろく講演こうえん「アジアのななつの教会きょうかいあたえたるしょ」をおこなう。1922ねん大正たいしょう11ねん日本にっぽん基督教きりすときょうかい代表だいひょうして、欧米おうべいしょ教会きょうかい歴訪れきほうする。横浜よこはま海岸かいがん教会きょうかいひらかれた大会たいかいで「日本基督教会にほんきりすときょうかい将来しょうらい」というだい講演こうえんおこなう。新潟にいがた佐渡さわたり松本まつもと伝道でんどうをする。

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1922ねん、66さいとき植村うえむら正久まさひさ

1922ねん大正たいしょう11ねん)3がつ日本にっぽん基督きりすと公会こうかい設立せつりつ50ねん記念きねん大会たいかい会長かいちょう就任しゅうにんする。神戸こうべかみこう教会きょうかい記念きねん礼拝れいはい植村うえむら説教せっきょうする。その説教せっきょうは『福音ふくいん新報しんぽう』に掲載けいさいされる。

東京とうきょう神学しんがくしゃ後継こうけいしゃ高倉たかくら徳太郎とくたろう

さらに1922ねん4がつべいえい関係かんけいしょ教会きょうかい特使とくしとして派遣はけんされ、米国べいこくカナダスコットランド訪問ほうもん交流こうりゅうふかめた。1923ねん大正たいしょう12ねん帰国きこく鳥取とっとり静岡しずおか浜松はままつ山梨やまなし北海道ほっかいどう京都きょうとなど全国ぜんこく伝道でんどう旅行りょこうをしているさい関東大震災かんとうだいしんさいほうせっする。富士見町ふじみちょう教会きょうかい東京とうきょう神学しんがくしゃ焼失しょうしつ甚大じんだい被害ひがいこうむる。

1924ねん大正たいしょう13ねん)に千葉ちば開催かいさいされた東京とうきょう教職きょうしょくしゃかい講演こうえん伝道でんどう精神せいしん」をおこなう。東京とうきょう神学しんがくしゃ校舎こうしゃ再建さいけんする。上田うえだ松本まつもと水戸みと九州きゅうしゅうしょ教会きょうかい伝道でんどうする。また友人ゆうじん好意こういにより柏木かしわぎ家屋かおく寄贈きぞうされて転居てんきょする。1925ねん大正たいしょう14ねん)1がつ8にち脳出血のうしゅっけつ急死きゅうしする。[13]その訃報ふほう翌日よくじつ新聞しんぶんでもひろ報道ほうどうされた。

1がつ12にち富士見町ふじみちょう教会きょうかいみなみ廉平れんぺい司式ししき葬儀そうぎおこなわれた。多磨たま墓地ぼち埋葬まいそうされる。みなみ富士見町ふじみちょう教会きょうかい後継こうけいしゃとなり、高倉たかくら徳太郎とくたろう東京とうきょう神学しんがくしゃ後任こうにん就任しゅうにんする。

神学しんがく[編集へんしゅう]

植村うえむら正久まさひさ神学しんがく特徴とくちょうは、キリスト中心ちゅうしんであり、かみであるキリストを告白こくはくし、その恩寵おんちょう終始しゅうしすることであったといわれる[14]。これは「キリストとその事業じぎょう」、「海老名えびな弾正だんじょう告白こくはく紹介しょうかいす」、「福音ふくいん主義しゅぎ信仰しんこう」でかなり明確めいかくにされている。

植村うえむら正久まさひさは「キリストきょう思想しそうあらそい」(『著作ちょさくしゅう』4)でキリスト教きりすときょう根本こんぽん主義しゅぎ(ファンダメンタリズム)を批判ひはんした。根本こんぽん主義しゅぎわけ植村うえむらによるものであり、『宣言せんげんしくは信条しんじょう』のなかでファンダメンタリズムの訳語やくごとして根本ねもと主義しゅぎかたり使つかった。植村うえむらはこの『宣言せんげんしくは信条しんじょう』で、「キリストのはいかなる意味いみにおいて、いかなる仕方しかたでその効力こうりょくげんわすものであるか。これらの問題もんだいり、詳細しょうさいなる説明せつめいこころみんとすれば、あるいは政治せいじてき贖罪しょくざいせつよう。あるいは道徳どうとくてき感化かんかせつとなえられるであろう。あるいはいわゆる根本こんぽん主義しゅぎしゃのごときせつ主張しゅちょうするものもころう。・・・・いち教会きょうかい意見いけんとして宣言せんげんしょはっするにたり、あるひとつの贖罪しょくざいせつをその項目こうもくうることは穏当おんとうではない。きょうやこれを信条しんじょうなかうることはおおいなる間違まちがいである。」とべ、キリストきょう根本こんぽん主義しゅぎ基本きほん信条しんじょう反対はんたいし、聖書せいしょ教理きょうりである「代償だいしょうてき贖罪しょくざい」を教会きょうかい信条しんじょうなかふくめることは、間違まちがいであるとした。

また言語げんご霊感れいかん聖書せいしょあやませいも「文字もじ崇拝すうはい」とんで拒否きょひした。植村うえむらは「神学しんがくじょう波瀾はらん」で「聖書せいしょは・・いかなる意味いみにおいて、かみ啓示けいじなりとうや。聖書せいしょには徹頭徹尾てっとうてつびごうまつ誤謬ごびゅうしとするは教法きょうほう改革かいかくこりたる一種いっしゅの妄説にぎざるなり。近時きんじ神学しんがくじょう波瀾はらんはこの妄をはいして、聖書せいしょかみ顕示けんじ記載きさいするものなり。かみげん聖書せいしょなかり(全然ぜんぜんこれをかみげんとするにあらず)とするの方向ほうこうりてすすくもののごとし。いちてんいちかくにてもあやましとは、一派いっぱ論者ろんしゃがもって聖書せいしょ賛美さんびせんとほっするのげんなり。やからはこのせつをもってはなは聖書せいしょ不忠ふちゅうなるものなりとわんとほっす。」とべた。また植村うえむら聖書せいしょなか科学かがく歴史れきしめんからあやまりがあるとかんがえていた。

信条しんじょう制定せいていかんする意見いけん」で「アウクスブルクドルトもしくはウェストミンスターの会議かいぎていめい必要ひつようとするものにあらざるなり。いま日本にっぽん開国かいこく以来いらい僅々30ねんなりといえども、じつだい19世紀せいきすえにあたれる文明ぶんめいをもってみずかにんぜんとほっするものなり。」「日本国にっぽんこくキリスト教徒きりすときょうとは、その信条しんじょうるべく自由じゆう寛大かんだいにして十分じゅうぶん進歩しんぽ余地よちあたえ、協和きょうわ根基こんきかたうせざるべからず」とべて、教派きょうは簡易かんい信条しんじょう主義しゅぎとなえた。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

子孫しそん[編集へんしゅう]

長女ちょうじょ澄江すみえ佐波さわわたる結婚けっこん子供こども佐波さわ正一しょういち(経営けいえいしゃ)、佐波さわかおる(編集へんしゅうしゃ)、中村なかむら妙子たえこ(翻訳ほんやく)、がいる。三女さんじょ植村うえむらたまき日本にっぽん二人ふたり女性じょせい教職きょうしょく家庭かていないでは封建ほうけんてきだったといわれる[20]

後継こうけいしゃ弟子でし[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 植村うえむら正久まさひさ著作ちょさくしゅうだい1かん-時代じだい思潮しちょう新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ
  • 植村うえむら正久まさひさ著作ちょさくしゅうだい2かん-時事じじ評論ひょうろん新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ
  • 植村うえむら正久まさひさ著作ちょさくしゅうだい3かん-文学ぶんがく新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ
  • 植村うえむら正久まさひさ著作ちょさくしゅうだい4かん-神学しんがく思想しそう新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ
  • 植村うえむら正久まさひさ著作ちょさくしゅうだい5かん-信仰しんこう生活せいかつ新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ

参考さんこう文献ぶんけん伝記でんきとう[編集へんしゅう]

  • 田村たむらただししんたる植村うえむら正久まさひさ内村うちむら鑑三かんぞう』(向山むかいやまどう書房しょぼう、1932ねん
  • 斎藤さいとういさむへん植村うえむら正久まさひさ文集ぶんしゅう』(岩波書店いわなみしょてん、1939ねん
  • 佐波さわわたるへん植村うえむら正久まさひさ時代じだい』5かん 別巻べっかん3かん ぜん8さつきょうぶんかん、1966-1967ねんISBN 4764221098
  • あお芳勝よしかつひさ植村うえむら正久まさひさでん』(大空おおぞらしゃ、1992ねんISBN 487236404X
  • 神田かんだ一郎いちろう植村うえむら正久まさひさ近代きんだい日本にっぽんをつくったたましいまきかいしゃ』(教会きょうかい新報しんぽうしゃ ゆたかな人生じんせい文庫ぶんこ 少年しょうねん少女しょうじょ信仰しんこう偉人いじんでん、1983ねん
  • あお芳勝よしかつひさちょ渡辺わたなべ省三しょうぞうやくけんどう植村うえむら正久まさひさ物語ものがたり日本人にっぽんじんしんにキリストをいのちがけでつたえた伝道でんどうしゃ』(キリストきょう図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん
  • 武田たけだ清子きよこ植村うえむら正久まさひさ:その思想しそうてき考察こうさつ』(きょうぶんかん、2001ねん
  • 木下きのした裕也ゆうや植村うえむら正久まさひさ神学しんがく理解りかい ―『真理しんりいちまだら』から「系統けいとう神学しんがく」へ』(いちむぎ出版しゅっぱんしゃ、2013ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 歴史れきしねむ多磨たま霊園れいえん
  2. ^ 小塩こしおつとむ高倉たかくら徳太郎とくたろうでん新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ
  3. ^ 植村うえむら正久まさひさ文集ぶんしゅう』209ページ、えい学校がっこう東京とうきょう移転いてんし、東京とうきょう一致いっち神学校しんがっこうになる。
  4. ^ http://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/187/jiho_187_04.pdf
  5. ^ 室田むろた保夫やすお山室やまむろ軍平ぐんぺい無名むめい英雄えいゆう無名むめい豪傑ごうけつタルヲつとむメン哉』 ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2020ねん、55-56ぺーじ
  6. ^ 『キリストしゃであることと日本人にっぽんじんであること』p.175
  7. ^ にちかん教会きょうかい成長せいちょう比較ひかく』p.111
  8. ^ 日本にっぽんプロテスタント教会きょうかい』p.142
  9. ^ 井深いぶかかじ乃助とその時代じだい』2かん p.366-390に議事ぎじろく
  10. ^ 中村なかむらさとし日本にっぽんキリスト教きりすときょう宣教せんきょう』いのちのことばしゃ
  11. ^ 中村なかむらさとし日本にっぽんにおける福音ふくいん歴史れきしいのちのことばしゃ p.37
  12. ^ 植村うえむら正久まさひさ文集ぶんしゅう』p.210
  13. ^ 小野おの静雄しずお日本にっぽんプロテスタント教会きょうかいうえ)』p270-272
  14. ^ 宇田うだすすむ福音ふくいん主義しゅぎキリスト教きりすときょう福音ふくいん』p.158 いのちのことばしゃ
  15. ^ 本井もとい康博やすひろ新島にいじまじょう明治めいじのキリストしゃたち』 きょうぶんかん、2016ねん、306ぺーじ
  16. ^ 季刊きかん『at(あっと)』15ごう特集とくしゅう 賀川かがわ豊彦とよひこ その現代げんだいてき可能かのうせいもとめて」太田出版おおたしゅっぱん
  17. ^ 植村うえむら正久まさひさとその時代じだい
  18. ^ 中田なかた重治しげはるでん
  19. ^ 高野たかの勝夫かつお『キリストきょう逸話いつわ例話れいわしゅう』P.152
  20. ^ 現代げんだいのアレオパゴス』古屋こや安雄やすお

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
初代しょだい
富士見町ふじみちょう教会きょうかい牧師ぼくし
初代しょだい:1887ねん - 1925ねん
次代じだい
みなみ廉平れんぺい